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会報「JWの夫たち」バックナンバー


No.10(98.9発行)

■ 素人が聖書を読む・3 
マタイ福音書24:7〜14「福音とは世の終わりか隣人愛か」/森村里志

●はじめに
 妻が家族の反対を押し切り、強引にバプテスマを受け証人になって2年になろうとしているが、私もこのエホバの証人の教義を平和な家庭に持ち込み込まれ、気がついてみると突如崖から突き落とされてしまったJWの夫の一人である。多くのJWの夫たちがキリスト教に無知であったように、私も全くと言っていいほど知識は無かった。
 「常識」という枠で対話を進めても全く会話が成立せず、やむを得なく強行策を取るならば更に妻の信仰は深まり絶望感に陥ることは誰もが経験している通りである。なにを手がかりに会話を進めたらよいか、またこのような偏った家庭の軌道を修正するためにはどうしたらよいのか…・この問題解決の鍵は聖書であるとのことは多くのJWの夫たちが経験より語っている。では聖書をどのように読んでいったらよいのか?
 書店には多くの聖書入門書が並んでいるが、JW問題に関わった方で聖書に馴染んでいない人を対象に高山氏が「素人が読む聖書」と題したシリーズで聖書通読活動に取り組んでくれたことはとても感謝したい。
 同じ心理状態で聖書に接しているため、疑問点、聖句の解釈、論議点など共通する情報が多いからだ。このような経緯で今回私にも原稿依頼があり、当然ながら1年余りの聖書研究経歴しかないがその素人さが大切なのだという氏のお言葉より筆を握らせていただいた。

●JWの夫たちにとって聖書研究の目的とは
 JWの夫にとって聖書研究目的は何であるかと問うならばそれは自分自身の聖書アレルギーに対するリハビリであると私は答えたい。特に妻に対して論破するとの目的、姿勢では残念ながら聖書通読は継続しないであろう。そのかわり、自分自身の疑問点をよりたくさん洗い出していただきたい。その疑問点に妻が乗るか否かは夫の愛情にかかっているのかもしれないが……・。しかし、仮にその疑問に対して乗らなくても失望せず本来の目的に戻ってほしいと思う。
 冒頭のマタイの聖句はエホバの証人にとって世の終わりをふれ告げるいわば伝道の原動力となっている聖句である。これは妻と4っの福音書を通読しながら私が抱いていた大きな疑問点であった。福音=世の終わりを告げることという解釈なのだ。聖書が世界のベストセラーだというのにそんな馬鹿なことがあるのか?キリスト教とは愛の宗教なのではないのか?無知でありながらも世界史の中から微かに身につけた知識より憤慨しながら疑ったものだったが、さらに次の聖句に出会うとイエスが世の波乱を推進しているかのようで更に聖書に対するアレルギーが高まっていくのである。 マタイ10−34〜36
 私が来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすためにきたのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。 ルカ12−51〜53
 あなたがたは、地に平和を与えるために私が来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。今から、一家五人は、三人が二人に二人が三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。

●教養としての聖書学
 聖書の全体を把握するためには普遍史の研究が役に立った。「普遍史」とは聖書の記述に基いて書かれた世界史のことであるが同時に古代からの聖書解釈を追いかけることができるためとても興味深い。
 普遍史の歴史は、キリスト教が成立した古代ローマ時代に始まる。ここで成立した「古代的普遍史」は、そのままでは、中世世界に適用するには難点があった。そこで「古代的普遍史」の基本構造は受け継ぎながらも、さらに理論的に拡張されて「中世的普遍史」が形成される。だがそれもまたルネサンス、宗教改革、大航海時代や科学革命のなかで次第に危機を深める。そして啓蒙主義の世紀である18世紀に、ついに歴史的生命を失う。このように普遍史から世界史への歴史学の発展は聖書が正確な解釈へ到達し得た結果であり、その事実を学ぶことにより証人の主張する「絶対の真理」からは少なくとも解放されるのではないだろうか?
 そう言った意味で「聖書VS世界史:岡崎勝世」(講談社現代新書)はとても参考になった。また本書でアリウス派(キリストは神ではなく神の被造物にすぎないと三位一体説を否定する立場)であったニュートンの話が紹介されている。ニュートンといえば物理学、数学で有名であるが聖書の預言に関する詳細な研究を行っていたことはご存じない方も多いのではないだろうか?彼の著作「ダニエル書と聖ヨハネの黙示録の預言についての研究」(1690年頃、ホースレイ版全集第五巻所収)では啓示の書を重要視するエホバの証人の教義と共通するものを感じる。彼の計算によればその人類史の終末は紀元2015年と計算されるという。経済学者ケインズはケンブリッジ時代のニュートンを「最後の魔術師」と呼び、「片足は中世におき片足は近代科学への途を踏んでいる」と特徴付けた。同感だ。このような過去の預言を真剣に分析し続けると次第にばからしくなっていく。
 そもそもヨハネの黙示録とは1世紀末にドミティアヌス帝の弾圧下で書かれた黙示文学で、ローマの滅亡と終末とをだぶらせながら再来のキリストへの熱烈な希求を表明しているものである。マタイの24:11「 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。」に対してはどう解釈しているのか?どう責任をとるのだろうか?福音=世の終わりを告げることなどと、どうして言えるのだろうか。

●平和のための福音書
 聖書は旧約聖書(ヘブライ語)と新約聖書(ギリシャ語)で構成されている。ユダヤ教はこの旧約聖書のみを聖典として、新約聖書を取り込まない。それは後者にユダヤ人を非難する記述が数多くあるからなのだろうか。イエスは、彼の最初の弟子たちと同じようにユダヤ人であった。イエスにおける啓示が最初に受け入れられ、表現されたときの言葉と思想の表現形式は、ユダヤ人の生活と礼拝から生まれたものである。それでもイエスを受け入れない下記のラビの言葉は興味深い。
 「かつて、カーディフ出身の親切なユダヤ教のラビが、なぜほとんどのユダヤ人が、約束された救世主としてイエスを受け入れないのかを、説明してくれたことがある。彼がいうには、ヘブライ人の預言者によれば、本当の救世主は平和の王国をもたらすはずだというのだ(例:イザヤ書11:6〜8)。わたしは、復活したイエスの最初の言葉は「あなたたちに平和があるように」ではなかったか、また、キリスト教徒は20世紀ちかくのあいだ、イエスの平和の国は自分たちの心のなかにあるとずっと信じてきたのではないかと反論した。しかし、すくなくとも歴史的レベルでは、このラビの言葉は正しいと認めざるをえない。なぜなら、新約聖書を見ても明らかだが、イエスの信奉者たちは当初からほかの世界中の人々とはおろか、仲間同士のあいだですら、平和ではなかったからである。」「真実のイエス:イアン・ウィルソン著、小田卓爾訳」(紀伊国屋書店)
 ではエホバの証人の教義においてはどうなのだろうか。彼らは旧約聖書からの神の名前を新約聖書まで復元(改竄)することにより三位一体説を否定させ、十字架さえも否定し、1世紀時代の真の信仰を目指しているのだという。実際、私は彼らの教義は新約聖書において原点といえるイエスの言葉を研究することによりユダヤ教徒とキリスト教徒間の平和を目指す宗教だと認識していた時があった。しかし期待はずれもいいところであったと言わざるを得ない。それには当然両者の比較研究が絶対に必要なのであるがこれを全く行わない。いや信仰を妨げるものとして禁止させているのだ。
 これでは1世紀時代からの悲惨な宗教対立に逆戻りするだけで決して平和など望めないであろう。それだけではない。絶対の真理を主張し、従来のキリスト教の文献さえも比較研究を禁止しているのである。
 そもそも福音書とユダヤ教の比較研究の課題として翻訳の問題があるとの指摘がある。聖書原典に戻るのであれば当然原語教育制度を整備しなければならないはずである。なぜならばある言語を他の言語に翻訳するとき、原語の語句と全く同じ語句が翻訳する言語にないことが時々あるからである。また文章にしても、分解して別の方法で再び組み立て直さなければならず、このことは特にヘブライ語を翻訳する場合に深刻な問題となるという。さらにある宗教から他の宗教へ転移した用語の難しさもあり、これは「罪」「悔い改め」「赦し」などの言葉もその意味するところはしばしば非常に異なっている。
 私はものみの塔が発行する唯一の原語聖書:ギリシャ語逐語訳聖書を研究するためにギリシャ語入門書を書店に探した際、ヘブライ語入門書、ヘブライ語逐語訳が随分並んでるのが目に入り不思議に思った。どうしてキリスト教徒がこれほど旧約聖書の原語研究できるシステムが整備できているのだろうかと……  「福音書とラビ著作のテキストの比較研究は、友情への招きである。それは、「神の契約」を共有する仲間として、それぞれの伝統に対する理解を深める道である。共に学ぶことは、平和の橋を建設することになる。」「福音書とユダヤ教:マイケル・ヒルトン/ゴーディアン・マーシャル共著」(ミルトス出版)  上記はユダヤ教徒とキリスト教徒との共著による福音書比較研究書の一文であるが私は本書でいかに平和に聖書を読むべきかを学んだ気がする。そしてこれはエホバの証人の方、特に教えを述べ伝えておられる長老以上の責任ある方には是非学んでいただきたいと願っている。

●神の愛と隣人愛
 「先生、律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」 これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」(マタイ22:36−39)
 福音書にてイエスが「隣人への愛」と「神への愛」を並べて扱っていることについては、多くの人が指摘してきた。ではこの隣人という言葉は何を意味するのか?ユダヤ人の共同体の中で生活しているラビたちにとっては「あなたの隣人を愛しなさい」という命令は、「あなたの同房のユダヤ人を愛しなさい」という意味であった。そしてエホバの証人にとっては「あなたの同房のエホバの証人を愛しなさい」という意味だと言う。
 イエスはどのように言っているのだろうか?ルカによるイエスの譬話:善きサマリア人の聖句を思い起こしてほしい。またイエスの時代のサマリア人を理解するには「イエスとその時代:荒井献」(岩波新書)が大変参考になったので以下引用する。
 「サマリア人は旧約聖書の中でもモーセ五書だけを彼らの経典とみなし、エルサレム神殿を拒否して、彼ら独自の神殿をゲリシムに奉じ、「メシア」でも「人の子」でもなく、「預言者」の来臨を待望したのである。そのために、ユダヤ教徒とサマリア人との間には争いが絶えず、ガリラヤ人がサマリアを通ることさえほとんど不可能なほどであった。ローマ帝国の側から見れば、サマリアもユダヤとともに「ユダヤ洲」の一部であったにもかかわらずである。このようにサマリア人はユダヤ人にとっては近親憎悪の対象、不倶戴天の敵であったのである。しかもこのサマリア人は、紀元後6年から9年の間に、こともあろうにエルサレムの神殿の境内に人骨をばらまき、聖域を穢しているのである。そのようなサマリア人が死にかかっていた旅人を助け、彼に対し十分以上の尽くし方をしたなどと言われたとき、聴衆は唖然としたはずである。」
 本書ではイエスの善きサマリア人の譬話は「同胞」としての「隣人」をいわば客観的対象として愛するというのではなく、「同胞」関係を越えた「隣人」に、自ら主体的になることだと強調している。ではそのような隣人愛を我々はどのように考えれば実践できるのであろうか?もう一度マタイ22:36−39を振り返って考えてみよう。「聖書は何を語っているか:ピーター・ミルワード」(講談社現代新書)では次のように説明している。
 「第一は人間存在の究極の目的、つまり、すべてのものに増して神を愛することを指示する。第二はこの目的を実行する方法、つまり、自分と同じように隣り人を愛することを指示する。言い換えれば、私たちが直接に神に捧げられないものを、私たちの感謝のしるしとして、隣り人に与えることができるのである。そうすれば、神の愛に答えて、私たちが隣り人に与える贈り物はすべて、神が私たちの贈り物として、受けて下さるのである。」
 私はこれを読んでマザーテレサの言葉の意味が初めて分かったような気がした。カルカッタ市街の死にかけた浮浪者に対してマザーが愛の手を差し延ばす際に「どうして私のような者を救ってくださるのですか?」と問われた時、「あなたを愛しているからですわ」と答えられる真理はここにあったのかと心が洗われる思いだった。これこそ真の福音ではないだろうか。  「マザー・テレサ語る:ルシンダ・ヴァーディ編」(早川書房)より愛あるマザーの言葉に耳を傾けてみたい。
 「愛とはただ一つ、神の愛しかありません。神を十分に深く愛していれば、隣人を同じように愛せるでしょう。私たちは神の愛に包まれて育つのです。そして神の愛に包まれて育てば神が与えてくれたすべての贈り物を認められるようになり、神が創られたすべてのものを尊敬できるようになり、ごく自然に、それらすべてに心を砕きたいと思うようになります。神は人間の喜びにために世界を創造したのです。-----私たちはただ、神の素晴らしさが世界を満たしていること、神が私たちを気遣ってくれていること、神が私たちの求めているものに気づいていることを、知ってさえいればいいのです。
 神がいかにあなたを愛しているかを知ったとき、あなたははじめて、愛をまわりに放ちながら生きられるようになるのです。愛は家庭からはじまると、私たちは常々言っています。家庭が最初で、それからあなたの町へと広がっていくものなのです。遠くにいる人々を愛するのはたやすいことですが、一つ屋根の下に同居していたり、ごく近くに暮らしていたりする人を愛することは、たやすいことだとはいえません。愛は個人からはじまるものだと思うのです。だれかを愛するようになるためには、あなたはその人と接し、近づかなければなりません。だれもが愛を必要としています。だれもがその存在を必要とされており、神にとって重要な存在であることを知るべきです。イエスはこう言っています。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しなさい」また「わたしの兄弟であるもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」ですから、私は貧しい人の中にいるイエスを愛するのです。イエスは言いました。「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、裸のときに着せてくれたからだ」 」

●終わりに
 カトリックとの呼称は普遍という意味なのだそうだ。つまり普遍史とはカトリック史に相当することになる。そのキリスト教の本家ともいうべきカトリック教会の頂点に立つローマ法王の関心は異宗教間の対話であり、同じ旧約聖書に端を発した一神教であるユダヤ教、イスラム教との接近和解に向かっている。
 キリスト教仲間であるギリシャ正教やロシア正教、プロテスタントとの歩み寄りはいうまでもない。西暦2000年にこれらの宗派の代表者ととともにシナイ山に上って新しい時代を祝おうというのが法王の願いであり、今、キリスト教国では2000年に向けた確かな動きが始まっている。一方、西暦がどんどんと数を増し、9が並ぶようにになり「世紀末」と言われ、人が恐怖によって世界と結びつけるかのような、そんな終末論的な世界観はもうたくさんである。隣人の破滅や世界の破滅のイメージを育んではいけない。
 とはいえ、そのような信仰の異なる人との対話は非常に難しい。自分たちの信仰が相手の信仰より優れていることを証明しようとするような、単純な動機から討論に望臨むときは必ず問題を起こす。対話には時間がかかる。あまりに性急に、あまり多くを期待してはならない。JWの夫たちは愛をもって平和を意識し聖書を学んでいこう。そしてお互いに学ぶ姿勢の中で理解を深めていきたい。偏見のない姿勢で取り組んでいこう。そしてこの聖書通読推進活動がいつの日か平和的解決方法になり得るよう今後も支えていきたい。


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