私はイスラエルという国家の存在が
難民キャンプの子どもたちを殺すことに依存しているというのは

納得することができない。
イスラエルの軍務拒否者の声(3)
曹長*(Staff Sergeant) Shamai Leibowitz
我々は、人々の基本的な権利をたびたび否定してきている。

我々はあえてロボット兵士にはなるまい。
兵役を拒否すれば、嘲笑と社会的な追放から投獄まであらゆる範囲に渡る
不利な結果を我々は受け入れなければならないかもしれない。


命令が我々のもっとも基本的な道徳的、法的、宗教的規範を犯しているかもしれないということを認識していなければならない。
軍務拒否署名者からのメッセージ3人目の紹介です。
この方はユダヤ教の教えから、
占領とパレスチナ人攻撃が不当であることを訴えています。

宗教的・文化的背景がことなり理解しにくい部分もありますがあえて紹介します。


占領地での兵役拒否:ユダヤ教からの教え

敵対的な住民を支配する

 占領地での300万人ものパレスチナのアラブ人たちに対する支配は、我々を必然的にいくつもの道徳違反を犯すような立場に追い込んでしまった。支配を続ければ、それはパレスチナ人たちの多くの基本的な権利を否定し続けることを必要とするだけでない。もしその支配が道徳的に疑問の余地のないだとしても、非難に値するような追加的な措置を我々がとることをも必要となるだろう。我々は支配を強化する思い切った行動を意図的にとらなかったのは確かだとはいえ、好むと好まざるとに関わらず、これが我々のこのような立場の結果なのである。支配を維持するために、無慈悲にもしばしば罪のない人々にまで及ぶような集団的な無差別の処罰を我々は与え続けなければならないだろう。

 我々が行ってきた措置の中には、数百万の人々を都市や町、村などに封鎖するということがある。我々は、生計を立てる、勉強する、自由に移動する、生活必需品を購入する、投票する、医療を受けるために移動する、病人やけが人の医療施設へ運ぶ、等々というような基本的な権利をたびたび否定している。しかしもっとも深刻なのは罪のない一般市民が死ぬことである。これは世界のあらゆる場所の、またはこれまでのあらゆるの歴史の、すべての武力紛争で起こることだが、今起こっていることは、一般市民の意図せざる付随的な死ということ以上のことである。支配を受け入れない数百万の人々を支配することは、そのような若者や女性や年寄りの死を必要とするのである。

 どんな軍隊でもそうだが、IDF(the Israel Defense Force イスラエル国防軍)が犯す過ちには避けることができるものもあれば、避けられないものもある。しかし、それは確かに血に飢えているというわけではないし、毎日死体を割り当てられているというのでもない。IDEを人道的な軍隊と呼ぶことは形容矛盾ではない。それにも関わらず、死亡するパレスチナの一般市民の大多数は、イスラエル軍の自衛的な行動によって殺されているのではない。殺された一般市民は、動乱を沈める目的でとられた避けられない行動の被害者である、とIDFは主張している。この点に関して、IDFは正しい。なぜなら、民衆の暴動を鎮めるためにはしばしば思い切った手段(例えば、人々を傷つけたり、殺害すること)が必要であり、加えて夜間外出禁止令を強制したり、〔封鎖のために〕障害物を設置したり、市民権を取消したり、非人間的扱いを容認したりしなければならないからである。(しかし問題は)物議を醸す領域に居座り続けるという政府の決定が、全部ではないにしても大抵のパレスチナ人を敵と見なし、敵と関係を持っているものはだれでも正当な攻撃目標だというような考え方に到達せざるを得ないということである。

集団的な無差別の処罰

 集団的な無差別の処罰(処罰がその集団の一部を構成する無実の人々を処罰することを必然的に含むような)の実行に関連した問題は、ユダヤ教の古典においてたくさんの例を見ることができる。

アブラハムの拒否

 集団的な処罰に参加したり、それを容認することを拒否した、我々の祖先であるアブラハムを集団的な処罰に対する最初の"良心的拒否者"と考えることもできるだろう。彼は、ソドムとゴモラに集団的な処罰を与えるという神の意志を思いとどまらせようとして、あえて自分自身が罰せられる危険さえ犯した。彼の神との論争は創世記に記述されている。
 「あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」(創世記 18章24-25節)

 ここで、アブラハムが勇気を持って神に異議を申し立て、町全体を破壊するという神の決定について神に訴えている(appealの意味が不明)。アブラハムの差し迫った集団的な処罰に対する異議の申し立ては、神を説得し再考させることに成功した。そのことが示しているのは、そこに無実の人を含めるような集団的な無差別の処罰は受け入れられない、罪を犯した者のみが自分が行った罪に対して罰せられるべきである、ということである。
 アブラハムは、とても高い道徳的規範を自らに課していた。彼は、自分が行った戦争の間に、罪のない人々を殺していたかもしれないということを恐れていた(創世記14章に記載)。タンフーマの旧約聖書評釈(midrash Tanhuma)によると、
 「アブラハムは、自分自身を容赦なしに非難し、『たぶん、私が殺した人々の中には、正しい人たちもいた』と言った。」(Tanhuma 3:14 on Gen. 15:1 )

ナブルスでの大虐殺

 無実ものを害しないというこの原則は、旧約聖書の他の箇所に見られた。われわれの祖先であるヤコブは、自分の息子であるシメオンとレビの二人が復讐としてシュケム(Shechem、今日のナブルス)で大虐殺を行ったとき、彼らを厳しく非難した。彼らのこの行動は、だんだん堕落したものになっていくのだが、二人の姉〔妹〕であるダイアナがレイプされたことに対する復讐であった。それに対する兄弟のもっともらしい弁明にもかかわらず、ヤコブは聖書の中でももっとも痛烈な言葉で彼の息子たちを非難し、彼の息子たちを咎めた。

 「シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。彼らは怒りのままに人を殺し/思うがままに雄牛の足の筋を切った。呪われよ、彼らの怒りは激しく/憤りは甚だしいゆえに」。(創世記 49章5節)

 ヤコブは息子たちがやったことに対して怒りに打ち震え、息もつかずに非難した。同じような言葉が、テロリストの攻撃に対する復讐としてパレスチナの町に対する空爆を、正当化しようと言う我々の企てにもぶつけられるかもしれない。もし呪われたくないのなら、たとえ占領地で服務することを完全に拒否しなければならなくなっても、我々はこれらの行動に参加することを辞退しなければならない。

 我々には他に選択肢が無い、IDFがそういう暴力的な手段を使って国の安全を守るのは避けられないと言う議論がある。私はイスラエルという国家の存在が難民キャンプの子どもたちを殺すことに依存しているというのは納得することができない。他の国の、敵対的な民衆の支配は我々の安全性を高めたりはしない。それはむしろ我々を弱くする。それは夜間外出禁止令や封鎖で数百万人の人々を縛り、彼らの基本的人権の否定し、彼らに対する物理的な危害の加える必要性を長引かせる。


中略


個人の責任−宗教規範

 罪に対する個人の責任という発想は、ユダヤ教の律法(Torahトーラー)の死にたいする戒めにも要約されている。

 「父は子のゆえに死に定められず、子は父のゆえに死に定められない。人は、それぞれ自分の罪のゆえに死に定められる。」(申命記 24章16節)

 この道徳的宗教的規範はユダヤ教の聖典(Tanakh)の他の箇所にも出てくる。例えば、預言者エゼキエルは次のように警告している。

 「罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。」(エゼキエル書 18章20節)

 これは全てのユダヤ人に当てはまることである(し、"涙目の左翼自由主義者"[teary-eyed left-wing liberals]にも除外されることではない)。占領地で、我々がテロリストの家族の家を破壊し、村々への食糧や医療品の供給を阻止し、罪のない市民を傷つけているとき、我々はこの規範を破っているのである――「悪人の悪もその人だけのものである」の宗教規範で禁止されている行為である。

 今日の私たちと同様に、世界中の軍人たちはこのジレンマに頭を悩ましてきた。意図的に軍と市民の境界を曖昧にする敵、まさにその曖昧さを自軍に有利になるように使う敵、それとどうやって戦えるのだろうか?市民に影響を与える全ての軍事行動を排除するのは、特に悪質なゲリラやテロリストの攻撃を考えると、単純すぎるだろう。この難問はいつも私たちを悩ましてきた。例えば、「準国家ユダヤ特別臨時夜間部隊」(the pre-State Jewish Special Night Squads)(アラブ人たちと闘うためにイギリスのオルデ・ウインゲート少将によって訓練された部隊)の隊員の一人は次のように述べている。「処罰と戦闘における規範の問題は、ウインゲートをとても悩ましたことである。彼は一方で無実の人々を傷つけてはならないと命令するが、もう一方でそうすればジレンマに直面することを彼は知っていたのである。村の住民から支援を受けている一団との戦闘において、この規範を守ることはできるのだろうか?」

 イスラエル領土のグリーンラインにまたがる場所に住んでいる人々を、人道的に公正に、占領し、支配することができると主張する入植者たちと、意見が一致できることを私は望んでいる。この土地は彼らにとってそうであるのと同じくらい、私にとって大切なものである。しかし、「野蛮でない占領」などというもの(animal)は無いのである。敵対的な、権利を剥奪された、300万人の人々を支配すれば、望むと望まざるに関わらず、我々の側が冷酷になることが必要である。それはユダヤ教の律法の戒律に破ることを我々に要求するだろう。それゆえに、占領に直接に関わる行動に参加することを拒否することは、火急の宗教的義務でなのある。

国家に対する盲目的な服従

 盲目的な服従は獣性に通じる。なぜなら、動物は道徳や規範無しに生きるからである。なユダヤの律法と矛盾しないならば、国の法律に従うという原則(※a halakhic principle of dina demalkhuta dina)があるとはいえ、国家に対する服従は、究極的なユダヤ人の価値ではない。予言者たちは、権力を弱い民衆に不利益になるように使うユダヤ人の過去の体制に対して怒った。彼らはそのような悪い体制に対して不服従を叫ぶことをためらわなかった(例えば、「列王記上 21章」、アハブ王とイザベルが出てくるナボトのブドウ畑の逸話を見よ)。今市民権を制限する法律が奨励されている。しかし、服従するという価値(per se as a value)は、神聖不可侵なものではない。

※たぶん、有名なユダヤ教の律法の原則の一つ。

 占領地での服務命令は不道徳で不法であるという疑問が濃厚である。我々はIDFに服務し続けなければならないが、それは防衛的な軍としてのそれに対してであって、人道に対する犯を犯す占領軍としてのそれに対してではない。

 我々はあえてロボット兵士にはなるまい。兵役を拒否すれば、嘲笑と社会的な追放から投獄まであらゆる範囲に渡る不利な結果を我々は受け入れなければならないかもしれない。兵士として、我々は命令に従わなければならないばかりでなく、命令が我々のもっとも基本的な道徳的、法的、宗教的規範を犯しているかもしれないということを認識していなければならない。

By Shamai Leibowitz 曹長(Staff Sergeant)

読者の方からご指摘があり修正しました。Staff Sergeantとは軍曹より上の階級で「曹長」と訳すのが妥当なようです。ご指摘ありがとうございました。(3.18)

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