台湾公害現地研修 −沖縄大学公開講座−

      2002.8.8(木)〜13(火) 神 信裕(鹿児島)
 

8月8日(木)天気:快晴
1 一路台湾へ
 家を午前0時30分、女房に出水駅へと送ってもらう。1時03分にドリームツバメで博多駅へ向かう。列車内の冷房が利きすぎて寒くて仮眠ができない。車掌におとしてくれるように頼むが、これが精一杯とのこと。おかげで喉に痰が絡みだし偏頭痛までしてきた。JRも無駄なエネルギーを使って病人作りとは腹立たしい。
 午前6時前に博多駅に着く。ここで地下鉄に乗り換え福岡空港へと向かう。国内線ターミナルに着き国際線ターミナル行きのバスを待つ。待合いベンチに青い目の外国人と大学生とおぼしき日本人のペアを見る。日本人が飲みかけのペットボトルを放置しようとすると青い目の外国人が注意する。するとそんなの良いんだからと言って怒って何処かへ行ってしまった。困った彼は友人の残した空のペットボトルとライター・たばこを持って何処へ消えていった。現在の日本人の若者のマナーの悪さには、同じ日本人の私でも辟易する。 国際線ターミナルには7時過ぎに着き集合の9時まで一人で時間を過ごす。8時半過ぎにぼつぼつと集まってくるが、竹本さんがなかなか見えない。構内放送で呼び出して貰ってやっと会える。広島から車で来たが、高速道路から降りる場所を間違って遅れたという。これで福岡発は全員そろって空路一路台湾へ出発する。

2 台湾研修団
 中正国際空港に着くが迎えが見あたらない。仕方がないから色々と工夫して簡単なポスターを作る。1時間程して現地旅行社の劉さんと遭いやっと一息つく。迎えのバスに乗るが、東京方面は第二ターミナルとのこと。第二ターミナルに回り、更に最初の第一ターミナルに帰り後便着の合流してやっと22名の全員がそろう。福岡グループが到着してから約2時間が経つ。
 途中、ターミナルの外に出ると猛烈な暑さとむっとする熱気が襲う。まるでサウナのドアを開けたときの感じがする。でも、南国鹿児島で部活動をするときの風の来ない体育館よりはましだろう。
 
3 台湾大学環境研究所
 バスの中で実質的に台湾研修の案内をしてくれる宮城大洋(たいよう)さんの紹介がある。現在、国立台湾大學工學院環境行程研究所の環境規劃與管理組一年生に所属している。
宇井先生とは琉球大学時代に環境学講座で知り合ったとのこと。また、宮城さんの台湾大學の同級生も研修に同行して貰うことになった。
 台湾大学に着き環境行程研究所に入りお茶で接待を受け懇談に入る。現在台湾大學の大学院はペーパーテストではなく他の方法で留学生を受け入れている、宮城さんはその第一期生とのこと。もっと日本からもどんどん来て欲しいとのことでした。環境工学過程は元々土木工学から派生し、現在は修士・博士課程だけであるが将来は学部も作りたいとのことである。宇井先生によるとここは東大より進んでいるのではないかということである。
 ここの教授と宇井先生とは以前からの付き合いで、宇井先生に今回の研修を記念して台湾大學マーク入りの透明アクリルの置物の贈呈があった。
 ここの建物は環境に配慮した建築物とのこと。玄関を入るとヒカゲヘゴ(亜熱帯性木製シダ)などの樹木と池を配置した中庭がある。鉄筋コンクリート性の建物の外壁には蔦が這い建物の温度上昇を防げている。できるだけエネルギーを使わずにという工夫であろう。

4 木柵焚火爐(焼却炉)
 台北市から暫く行った郊外にある焼却炉を見に行く。小高い丘陵の合間を流れる小さな川を挟んで直ぐ近くに動物園があり、焼却炉の煙突に首の長いキリンの絵が描いてあり、環境に優しいイメージを作り出している。ISO−14001の指定を受けているとのこと。
 処理能力は1500t/日で24時間稼働。燃焼温度は850〜1050℃。廃熱で蒸気タービン発電を行い、静電集塵機で細かい灰を落とし、湿式洗煙塔で処理後、廃棄再熱利用空気加熱器として熱回収して煙突に出している。具体的には全構内の廃水の基準値はCOD:100ppm以下、懸浮固體物(ss):30ppm以下、重金属汞:0.005ppm以下。廃気処理基準は煙塵50mg/Nm3以下、HCl(塩酸):60ppm以下で高さ150mの煙突で大気中へ排出している。宇井先生によるとこの数値そのものは国際的なものであり、今はアメリカや日本などよりもヨーロッパの基準になりつつあるとのこと。
 宮城さんによると、台北市ではゴミ処理は有料化されている。また分別が義務づけられ、分別により30%の減が出来たという。工場内の空調は全て減圧処理され外にそのまま漏れないようになっている。水銀はキレート処理されダイオキシンも0.1ng/kg以下であるという。 
 炉内の燃焼について覗き窓から直接観察ができた。上部の炎の色はかなり明るい白色に近いオレンジ色であり、炉底部の方も空気が良く送られて明るいオレンジ色である。宇井先生によると良く燃えているとのこと。燃焼の目標は十分達成できているのではないか。
ただ、炎の温度だけではなく炉内の輻射熱を考えないとダメで、輻射熱で2倍ほどの温度になることがあるらしい。また、ゴミの含水率が大事で、少なすぎると温度が上がりすぎて困るという。その時にはボイラーで熱を吸収すると良いらしい。これらの分野は机の上の計算よりも現場での実践がものをいうらしい。
 しかし、当局は最新の設備と細心の注意を払ってゴミ処理をしていると言っているが、説明の中ではダイオキシン対策についてはコメントは無かった。また焼却灰は埋め立てに使っているという。焼却灰についての埋め立て方法、埋め立て地の二次廃水処理については何も考慮されていない感じであった。これらについての取り組みは東京の場合が進んでおり、今後参考になるのではないか。
 最後に気になることは、処理場見学に際しておみやげがあり後日開封してみると台湾円で1200圓程(日本円4000円ほど)のブランド物の財布であった。これはどういう意味なのか、猜疑心を生じかねない。

 台北の天成大飯店(コスモスホテル)到着後、夕食。豪華な中華料理でみんな満足であるが、飲み物のビールは一人一人の現金払い。各自手酌の乾杯であった。ルームは熊本の中村さんとの相部屋で、私はシャワーの後バスルームで下着の洗濯。部屋の中に干して置くが翌朝まだ乾いておらず、生井さんと二人で移動中のバスの中で干さざるを得なかった。 
 8月9日(金)天気:快晴
1 台南へ(往台南出發)
 5時半起床、6時半早餐(朝食)。7時ホテル出発。予定の8時出発では行動に無理があるとのこと。途中台北から台南までの風景を高速道路の車中より見学する。
 台湾の高速道路は良く整備されており、特に台北から南の高雄までの高速道路はかなり良く、我々の乗ったバスは料金所では一旦停止はせずに徐行で通過していた。何か料金支払いシステムが出来ていたのか。
 大原旅行者の劉さんは色々なことを知っているし良くしゃべる。私が興味を持ったのは台湾民族の移入歴史のことである。日本における縄文・弥生時代はよく判らない。基本的には中国の明時代から移入が始まり、多くは清の時代に福建省や広東省から移入した。それに劉さんがハッカ人とよぶ人達も。これに先住民族と終戦後大陸から蒋介石が軍隊として連れてきた外省人と呼ぶ人達からなる。以前は身分証明書にこの中国系の祖先や学歴を記入していたが、今はそれらを全て書かないようになった。
 台湾は同時代の日本の植民地であった韓国と比べて親日感情が高い。これは劉さんはこんな事を言う。中国共産党は我々台湾に対し、武器によって悪さ(二二八事件)をした。
これに対し、日本人は50年間の統治時代に良いことをした。だから日本人は良い。要するに、過去の中国共産党との比較から出ているにすぎない。日本統治以前、原住民は作物の豊作を祈って人の首切りをして供える習慣があった。それを日本兵は山の方へ追いやってくれたので我々は安心して住めるようになったと言われる。でももっと話を聞くと日本兵は平野部で活動をし山間部での活動は台湾人の日本兵であった。

2 田園風景
 台湾の地形は北部の飛行場から台北市の間は沖縄の中山や北山に似ている。緩やかな丘陵型の山と植生がそれを感じさせる。劉さんによると中部の西海岸には石油が出るとのこと。ただ、今は採算がとれずに利用はしていないが。
 新竹市をすぎた頃から高速道路の両側に田圃が広がり始めた。これから台南市までは基本的に水稲とサトウキビの利用が目立つ。途中タケノコ取り用の竹林、あと竜眼が所々に出てくる。灌漑と区画整備がなされ整然と広がっている所が多い。面白いのは台湾南部は熱帯に属するため、区画整備が及んでいないと思われる所では、いわゆる田圃の畦に背の高い椰子が植えられており、ひょっとすると水牛でも現れるのではないかと期待したが、残念ながらトラクターが見えるだけであった。
 台北から台南までは台湾西部の平野部を南下するのだが、中部になると山岳地帯は遠く東に霞んで見え西の海岸部は朦朧として定かでない。この大陸的な田園風景の中をバスは猛烈なスピードで走っているのである。この8月の最中クーラーの利いたバスから見る風景は何とものんびりとした桃源郷に見えてくる。
 途中浸食の激しい小高い山が見えた。劉さんによると中国のある場所に似ているのだそうである。車中からははっきり見えないが山麓には小さな扇状地が形成され、近くの大きな川に流れ込んでいる。橋を渡るとき河原を観察すると丸く角の取れた白い数pから数十p程の石が覆っている。どうも花崗岩に見えるのだが。そして浸食の激しい山はやや白っぽい灰色で花崗岩の風化した真砂かもしれない。
 その頃から高速道路は幅十m〜二・三十m程の川を横切るようになった。水の色が回りの風景に全くそぐわない、真っ黒な色と化している。宇井先生の説明によると上流の畜産農家の無処理排水が流れ込んでいるとのこと。そして川の堤防は巨大なL字型側溝で固めてある。まるで緑の田園の中を幅数十mのU字型側溝が設置してあるようだ。もちろん堤防ではないから、堤を歩くことは出来ない。厚さ数十p、高さ2m程のコンクリートの塀が川と田園部を隔てているのみである、これをカプセル堤防と呼ぶとのこと。
 台中を過ぎると鰻の養殖場と思しき池があちこちに見えてくる。台湾でも鰻の幼魚(しらす)は取れるが、日本の鰻とは種類が異なり大鰻の部類らしい。それで幼魚は日本から輸入し成魚まで育てて日本に逆輸入するという。

3 奇美博物館
 昼食後奇美博物館を訪れる。この博物館はある会社の社長個人の蒐集物であるが、社会の役に立てばということで一般公開をしている。市の中心部から暫くバスで走った郊外の所にあった。大きな前庭を持つ8階建ての大きい建物である。1階の一部と5〜8階までが博物館になっており、あとは会社の営業・事務として使われていた。内容は個人的に蒐集したヨーロッパ中世以降の楽器や刀剣類、アジアの動物の剥製、恐竜・卵の化石、油絵などで大変な質と量である。中世ヨーロッパの蒐集物はかって台湾がオランダに支配されていた時分のものであろう。分類がちょっと雑な感じがあるが劉さんが言うように台湾の文化遺産にはある程度貢献しているのだろう。
 入場料は一切無料でしかも各階の所々に学芸担当者みたいな人が立っている。後で聞くと彼らは全て会社の職員で、社会還元ということらしい。バスに乗って博物館を出るときUターンするために工場の中に入っていった。工場の入り口の博物館、かなり違和感がある。何のことはない、核燃料廃棄物処理工場のアトムワールド、これと同じである。プラスチック化学工場だったけど社会イメージを良くする道具と言えばそうだろう。

4 新家畜試験所
 現在の台湾の一番の問題は河川水の畜産屎尿汚染である。この台湾省畜産試験所では豚の屎尿を嫌気発酵処理してその処理水を河川に流している。最終処理水をシリンダーに取って透かして見たが透明度は30p前後か。宇井先生によるとたぶんCODの20ppmはクリヤーしてはいるだろうとのこと。また汚泥から繊維質のプランター、家庭菜園用の肥料なども生産していた。
 ここの目玉商品はメタンガス発酵による発電装置であろう。大きな屎尿発酵タンクで嫌気発酵によりメタンガスが発生する。それを水で洗って二酸化炭素を除去し内燃機関で発電機を回転させている。出力は30kw程度か。
 全体の見学が終わったあと試験所の風景を眺めていると、緩やかな丘陵と広大な牧草地、なにか北海道の牧場にいる気分になってくる。でもこの温度と湿気は紛れもなく熱帯の台湾である。
 ホテルに向かうバスの中での宇井先生のまとめによると、12年ほど前に来たときより悪くなっているという。研究者は研究のあまり余分な行程をつけ複雑になって現実には一般農家に使えないという。大事なのは一般農家に使える技術を開発することだ。また台湾全体の下水道にも触れ、大型の下水処理場よりも小型の家庭用の合併処理漕の方が良いと言われる。それは処理水を家庭で再利用できるからである。実際私の家では高性能の合併処理装置をつけており、処理水を洗車や庭の散水に利用している。ただ価格が高いのが玉に傷であるが。
 台南大飯店に着き晩餐後、直ぐに寝てしまう。   

 8月10日(土)天気:快晴
1 烏山頭水庫(ダム)
 8時頃にホテルを出発して烏山頭ダムへ向かう。台南市街地の北東30kmの山間部の始まろうという地域にそれはあった。今から70年前の1925年(昭和5年)に完成したこのダムは、堰提の高さは56m、長さ1273m、頂部幅9m、底部幅303mのロックフィル式ダムで、当時は東洋一であったらしい。このダムにより雨期の河川の治水と共に、西部の南北110km・東西71kmほ嘉南平野の灌漑が出来るようになった。
 熱帯モンスーン地帯において湖の底に堆積する土砂は大量な物であるから有効貯水率が年々と減少するはずであるが、資料には砂防対策が取られているとある、一体どんな方法なのであろうか。
 気になるのはこのダム見学は我々の目的とはどんな関係があるのだろう。現代においてダム建設といえばそれに関わって様々な環境問題がある。それがここではその話が全くない。あるのはこのダムを造った人が日本統治時代の八田與一という日本人であるというこだけである。ちょっと時間がもったいない。ただ灌漑の方法が全区一律でなく3期にずらして行うということは興味があったが。

2 バードウオッチング
このダムの建設者の八田氏の銅像があるという場所に行く。ここでは今でも毎年八田氏の偉業に感謝して慰霊を弔う行事があるとのこと。ダム湖を見渡せる小高い丘にその銅像はあった。メンバーのみんなは宇井先生を囲んで銅像と一緒に写真を撮っている。
 志賀さんは双眼鏡と望遠カメラを手に林の中を彷徨いている。暫くしてキツツキがいると呼んでくれた。全長20p程のキツツキが雄と雌でちょっと離れた木にとまっている。写真を撮ろうとするが木の梢の陰でなかなか撮れない。その他、2・3の珍しい鳥に出会うが角度が悪く一つも撮れない。志賀さんはここで日本では非常に珍しい鳥を2種類も見ることが出来たといっている。

3 羊角と蓮
水田を利用して蓮と羊角の栽培が盛んである。蓮は今ピンクの華がぽつぽつと咲き始めている。これは烏山頭地域だけでなく台中から台南まであちこちで栽培されていた。
 道路の脇で簡単な台と日よけで「羊角」と書いた看板で露天を出しているものがある。
羊角って何だろうと誰かが劉さんに質問すると、あれは泥の中で栽培して出来る実で羊の角みたいな形になるから羊角と書く、殻は堅く食べると栗みたいな味がするという。帰りにガイドさんが一袋買ってみんなに分けてくれた。既に湯がいてあり殻を割りやすくちょっと割ってあるので簡単に取り出して食べられる、本当に栗の味がした。日本でいう菱である。ただ形が本当に羊の角みたいな形をしており大きい物は4・5cm程度である。これは烏山頭付近に栽培が集中していた。

4 黒面箆鷺(クロツラヘラサギ) 
 台南市から北西へ約30km程いった西海岸に七股瀉湖はある。標高数m程度の低地をバスで目的地に向かう。道路の両側にエビの養殖池が広がってくる。この辺は台湾有数のエビの養殖地らしい。テニスコート数面から十数面は取れそうな規模の池が海岸に近づくにつれどんどんと多くなる。エビの養殖となると海水の池なのか。近くには海水から塩を作る塩田があると聞くからそうなのかもしれない。
 途中、【黒面箆鷺解説教育中心】と書いた看板の所に行き着く。世界に数百羽しかいないクロツラヘラサギの生息地がこの一角にあるのである。ただし今日はお休みで解説はなく、代わりにクロツラヘラサギのビデオを借りた。生息地はここから南の方に行った内海の干潟である。毎年9・10月になると飛来して越冬するとのこと。昨年は600羽来たらしい。志賀さんによると世界に数百羽しかおらず、レッドデータブックに乗っている鳥だとのこと。春から夏に韓国の島で巣営し南の方で越冬する。途中福岡・鹿児島で休息するらしい。

5 七股瀉湖(チーグー干潟)
 バスは西をめざし台湾唯一の内海干潟であるチーグー干潟へと行く。この干潟はここを埋め立てて臨海工業地域にしようと計画が上がったが、そこで牡蠣養殖をしている漁民の方が反対し、また近くに先ほどのクロツラヘラサギの生息地があるので計画にストップがかけられた。養殖池や田圃などの低地から小さな砂丘堤防みたいな所でバスを降りるとそこは内海であった。沖合にある3つの島に囲まれた、東西最大5km、南北10km程の細長い内海である。
 ここで牡蠣養殖を営む漁民がここを訪れる観光客を島まで自分たちの船で渡してくれる。我々一同は早速船に乗るが、塩化ビニルのパイプで骨格を作り浮力のために発泡スチロールで船体を作ってあり、ちょっと大きな筏という感じである。船長がヤマハの船外機のエンジンをかけスローで波のない内海を走らせていく。干潟といっても見たところ水深は2・3m以上はありそうで、牡蠣養殖のための筏が所狭しと敷き詰められていて屋根の付いたエンジン付き筏がその間をゆっくりと目的の島へ向かっている。港の近くは海底まで見通せそうに澄んでいたが途中から濁ってきた。これはここ数日の大雨のせいだという。
 目的の島について、島の反対側へと林の中を移動する。この島は砂丘で覆われているが3m下には岩盤があり以前は人が住んでいたらしい。島を覆っている木はモクマオウでこれは塩害に強く成長が早いので良く防砂林に使われる、ここでは8年前に植えたとのこと。そのモクマオウに白鷺が巣営しており船長さんが案内していた。
 林を抜けると真夏の太陽にギラギラと光る大洋が広がる、台湾海峡である。遠く中国大陸からの海風が強く吹き、帽子をしっかり被らないと吹き飛ばされそうである。突然、船長さんが砂の上の穴を指さし掘り出した、蟹の穴らしい。腕をまくって肘まで砂の中に入れて掘っていると、やがて一匹の蟹を捕りだした。甲羅幅4・5cmの蟹で逃げ足が速いらしい。みんな急いで写真を撮っていたが、当の蟹は大勢の人間の視線に射すくめられてじっとしていた。 
 先日の大雨で大量の流木などが流れ着き、大量のゴミが打ち上げられている。また海流のせいか生活ゴミもそれに劣らず多い。竹本さんはここでもプラスチックペレットを採集している。風が強いせいか草木が無いところでは風食が進み、草木のあるところがラクダの瘤みたいに1・2m程盛り上がって残っている。船長さんによるとここ数年で島が350m程小さくなったという。
 ピンスーワンという植物があり、この草の実が放射状に柔らかい棘を出し球状になっている。この実は風が強いと砂地をころころと転がるという。実際にやってみると上手く転がった。またこの植物は塩に強く、理由は植物内の塩分を葉の付け根から対外に吹き出すからという。しかし実際に吹き出している泡を舐めてみたが特に塩辛さは感じなかった。
 島からの帰りの船中で筏から取った養殖の牡蠣を食べさせてくれた。船長の奥さんみたいな人が殻を割って取り出して手に乗せてくれるのだが、日本で食べる広島牡蠣とは種類が異なるようである。殻の大きさが小振りである、味の方はまあまあかな、竹本さんの評はこんなもんでしょと。
 帰りのバスの中で宮城さんがみんなから予め受けて置いた質問を船長さんに聞いて答えってくれた。潮の干満差は約1mである。牡蠣は筏に吊して1〜2ヶ月で収穫できる。冬期にはボラが良く捕れカラスミを作り良い収入になる。干潟底生生物は約70種でハマグリも沢山捕れる。政府の計画はここの内海を全て埋め立て1600haの工業敷地にしょうとするものである。ここには1万6千人の住民が住んでおり、住民とNGOが中心になって反対している。住民は農民が30%、漁民が60%、残りがその他である。ここは先祖から受け継いだ、その場所で今も仕事をしている。税金は払っていない。収入は良いときは10万圓、悪いときでも4〜5万圓にはなる。

6 塩の山
直ぐ近くの塩田に行く。ここでは塩田で作った塩を高さ20m程にも盛って置いてあり、その塩の山に登らせてくれる。工場の隣には駐車場があり出店がいっぱい並んでおり立派な観光地である。我々もその塩のピラミッドに登ってみる。ちゃんと登りやすいようにスコップで階段を刻んであった。ちょっと汚れていない塩のかけらを取って噛んでみた。結構硬く、舐めると塩辛い。大きさは数ミリから1cm程度の岩塩そのものであった。でもせっかく作った塩をこんなに沢山の人に踏ませて良いのだろうか。

7 聖統鹿耳門聖母廟
 チーグー干潟からの帰りに東南アジア最大といわれる媽祖廟に寄る。五王殿、媽祖殿、
仏祖殿の3殿は何れも壮大で装飾が見事であった。安産の神様であり海の神様でもあるという。

8 ミスビンロウ(ミス檳榔)
 初めは我が目を疑った。何と街の中心部ではないといっても幹線道路である。白昼にうら若き女性が下着姿で我が身を曝しているとは。2m四方程のガラス張り小屋で、妖しく光るピンクのイルミネーションでその存在を示しながら。多いときには50mおきに道路端で檳榔(ビンロウ)売りをしている。
 劉さんによるとビンロウは椰子科の小さな実でそれを噛むと元気が出るという。トラックの運転手がビンロウを買い噛みながら運転するという。昔からこのビンロウを噛む習慣は現地の人にあったみたいで現代もそれが続いている。このビンロウの噛み方は、噛んで出てくる唾は飲み込まず吐き捨てる。飲んでしまうと胃をやられるらしい。噛んでいるうちに唾がだんだんと赤くなって吐き捨てられた唾で道路が赤く染まるという。その昔、オランダ人が台湾を植民地化したとき当時の台湾人が赤い唾を吐きながら人力車を引いて働いているのを見て、この国の人は血を吐きながら仕事をするといって驚いたという。
 どうもこのビンロウは覚醒作用があるらしく、公衆衛生上は好ましくないにも関わらず現代にもその習慣は受け継がれている。先のミスビンロウはこの習慣に目を付けた商売であって、どうも目的はその先にあるらしい。昼間に合法的にビンロウを売りながら夜の先売りをしているのである。昼間に契約をしておいて夜は私的に恋愛となれば当局も手が出せない、現代の台湾の最も悩みの一つである。もっとも裏の世界であるから下手すると命にも関わることがあるらしい。 
 ビンロウに付いては環境でも問題があるらしい。それは、ビンロウは約10個で100圓であるから、大きな木を山に植えておけばどんどん売れてお金の成る木らしい。それで原住民がこぞって山の木を切りビンロウを植えだした。ところがビンロウの木は根の張りが弱く雨に弱い。しかも台湾の地質的に崩れやすい急斜面に植えるから、大雨の度に山崩れを起こし自分の住居はおろかその平野部の田畑までもを埋め尽くしてしまうらしい。ビンロウは風俗的にも自然環境的にも大きな問題点を持っている。

9 ビンロウ体験
 ここで劉さんの提案で土産話にでもなるからどなたか買われるのなら車を止めましょうかとなった。そこでAさんが手を挙げると早速バスを止めてくれた。目の前にバスが止まったミスビンロウ、直ぐにビンロウを持ってバスに乗り込んで来た。私の目の前で商売である。もっともこれはビンロウだけを買うのであるが、良く日焼けした褐色の肌にブラジャーとTバックのパンツにちょっとした腰箕を付けているだけである。Aさんが買っ後、並んで写真を撮り車中大喝采であった。
 夕食後のシャワーを浴びた後ビンロウ体験をする。Bさんは盛んに何かぺっぺっと唾を吐いている。私は1個では多すぎるというので半分に割り試してみた。彼の唾は既に赤くなって本当に血が混じっているようである。お酒の手伝いもあってか、心臓がどきどきする、こりゃもう大変だ、といっている。私もどんどん噛んで唾を吐き出すがいっこうに赤くならない。誰かが、この石灰つけるの忘れた、という。どうもビンロウと石灰と唾液で何か覚醒作用のある物質が生成されるようだ。それでも頭がボーッとしてきた。初めてたばこを吸ったときの感じである。それとどうも習慣性があるらしい。
 ビンロウについては帰りの飛行機を待っている時にも出会った。待機室で待っていると隣に座っている色の浅黒い青年がポケットからビンロウを取り出したかと思うと口に入れ噛みながら香港行きの飛行機に乗り込んで行った。飛行機の中でどうやってあの赤い唾を吐き出すのだろう、これは余計なお節介か。

8月11日(日) 天気 晴れのち曇り、午後は雷雨
1 孔子廟
 ホテルを出て孔子を奉ってあるところへ行く。ここは学問の神様であるとのこと。資料によると明末の1661年に中国大陸からた見識ある人が人材を育成するために孔子廟を建てたとのこと。中国では偉い人が死ぬとその戒名の最後に神という字が付く。孔子・孟子・荀子のたぐいでは神になる。それよりちょっと下の格では公がつく、日本でいえば大楠公か。台湾では高校・大学の受験前に受験生はここに必ずお参りをするとのこと。何だ九州の太宰府じゃないか。
 門前の広場で少林寺拳法の稽古をしている。早速上野さんが飛び込んで一緒に剣舞いの稽古をしている、後の話によると血がうずくらしい。最後は記念写真撮影となった。指導者の方は日本統治時代に6年生まで国民学校を出て達者な日本語であった。奥さんも2年まで出たという。奥さんのお姉さんは現在東京に住んでいるとか。その後、弟子による演舞があったが時間の関係で最後まで見られなかった。
 孔子廟を出てから更にもう一つ史跡巡りをするが、名称を覚えていない。どうも昨日の午後から観光巡りになってしまった。

2 安平古堡
 むかし台湾がオランダに支配されていた頃にオランダの城があって、今は独立公園になっている。ジャカルタのバタビアから運んだ赤い煉瓦で築いた。基盤と外壁の一部が当時を面影を残す。

3 高雄市臨海工業地帯
 高雄市街地に入りお土産品店に寄る。ここは高雄市有数の免税店であるらしく、入り口に今の日本の浩宮皇太子夫妻・福岡ダイエーの王監督の写真が飾られてある。ありきたりのものは面白くないので、蓮の実の砂糖漬けと竹の細い筒で出来た女物のカーデガン・シルクの縮みのシャツを買う。カーデガンとシャツは素材として大変面白い。
 ここで高雄出身で宮城さんの大学の友人にご一緒して貰う。高雄国際空港前から高雄国際貿易港に行く。高雄は台湾の大阪と呼ばれ人口150万人の台湾第二の大都市である。世界十大貿易港の一つに数えられ、造船・製鉄・石油化学など大工場が集中する台湾随一の工業都市でもある。
 海岸道路沿いに税関・製鉄所・肥料工場が並んでいる。その中にちょっとした小さな港が垣間見えた。小型の漁船とおぼしきものから中型の貨物船らしきものまで停泊しているが、そこの海面がどす黒く光っている。重油であろうか、ベターツと重く凪いだように太陽の光を反射している。でもバスはあっという間に通り過ぎてしまった。あれは降りて観察する価値はあったと思われるが。
 製鉄所に見学の交渉に行くが事前にアポがないと駄目という。宮城さんの友人によるとここは割と環境に対し良い工場だという。宇井先生が具体的に言って欲しいというと、廃熱を発電して自分の工場だけでなく周りにも供給しているからという。宇井先生はそんなことじゃなくもっと自分で調べた排気や排水、廃棄物の処理について数字としてのデータを挙げて欲しいし、付近の住民の直接の言葉が欲しかったのだろう。
 
4 首切り反対スト国営工場
 台湾では珍しく工場の入り口に張り紙をしてある所にバスは横付けする。人員の合理化に反対してストに突入し現在も工場が止まったままであるとのこと。労働者は他のアルバイトをしながら今もがんばって闘っているらしい。メンバーはバスを降りて各々に写真を撮りだす。工場の中から出てこようとして車が止まって、再度何処かに行ってしまった。 突然道路を通っている大型のトラックが突然けたたましい警笛を鳴らす。スピードを落として通り過ぎる間中鳴らしていった。完全な威嚇行為である。かの労働者もこのような攻撃に毎日晒されているのだろうか。

5 石油化学工場
 今にも降り出しそうな雲行きの中を工場地帯へと急ぐ。発達した雷雲から海中へ真っ直ぐに落雷するショウまでくりひろげられる。大規模な石油化学工場地帯に着く。バスは丈の高い堤防で海岸から切り離された工場地帯をゆっくりと回る。工場の中程に工場地帯を横切る道路があるのでそこに入り込み、工場を縦断する川にでる。橋の上から工場全体を見るが今日は日曜日なのか静かである。川の水が極端に汚いとか空気が異様に臭いとか特に感じない。そうしている内に雨が降ってきた。バスは近くのガソリンスタンドにトイレ休憩に入る。すごい土砂降りである。
 宮城さんが配った日本語の資料(台湾の公害現場を訪ねて:団長、上田和宏:京都大、1994年7月記録、)によると、ここの精油工場では87年工場開始以来重油の脱硫を行っておりそれらから大量の排ガスが付近の民家に流れ出ている。ひどいときは煙のせいでほんの5〜6m先の道路の反対側が見えない状況で、臭くて目に刺激があって涙が出てくる。レモン汁を目に入れたような感じらしい。この大気汚染公害に対し住民の行う自力救済活動は大変難しい。抗議座り込み行動で逮捕されら人もいる。
 このほかにプラスチック工場からはKCN(シアン化カリ)やアンモニア、SO2 などの有毒ガスも漏れており、工場内労働者や住民に多数の被害者が出ているとのこと。

6 澄清湖
人口150万人の高雄市の上水道源である澄清湖に行く。市の中心より7kmの郊外にある名の通り湖水が透き通り美しかった面積103haの人造湖である。湖畔には中国式の東屋が築かれ高級マンションのビルも建っている南部有数の観光地である。高雄市はこの湖水を上水道源として使用しているが、この水道水が近年臭くて飲めないらしい。豚の屎尿の匂いがするのである。高雄市民は水道水はお風呂と洗濯にしか使用せず、飲料水としては地域で配布される別の水を使うという。
 湖面を巡る風景は観光パンフレットに出てくるように明美なものであるが、湖水がその名の通りではないのはまだ先程の雨が上がりきっていないせいではない。それでも数人の子どもたちが釣り糸を気長に垂らしていた。

7 浄水場
澄清湖を出て直ぐ隣の浄水場に行くが、事前にアポを取っていないので見学を拒否される。バスの中から見ていると野良犬が中からふらりと出てきた、犬なら良いが人間はダメなのか。
 宇井先生によると、急速沈殿方式を使わずに緩速沈殿方式を使えば良いとのこと。今は急速沈殿方式が世界の標準であるが、これがある種のアメーバに対応できない。この菌が胞子状になると塩素でも死なないので人間に飲まれて感染する。ところが緩速沈殿方式であると、砂地を濾過するときその胞子が引っかかり、それを別のバクテリアが食べてくれるから安心して飲める。しかしこの事を主張している学者は日本には2・3人しかいない。
それとこれは時間が10倍掛かるから。
 確か朝日新聞に出ていたのを読んだ記憶がある。緩速をイギリス方式といい、急速をアメリカ方式という。初めはピートモスを濾過剤に使ったイギリス方式がスタンダードであったが、合衆国で当時急増する人口に対応できなくてアメリカ方式が生まれたとのこと。
 その後、近くの小さい湿地公園を見に行く。見たところ面積1haにも満たない三角形の小さい湿地である。一応、木で作った歩道と簡単な説明板が2・3あったが、あまり手を加えずに郊外にある市民の憩いの場という感じである。雨が降りしきる中二人の青年が釣り竿を垂れている。と、竿を持ち上げた。体長10cm程の鯛にに似た色の小魚を釣り上げた。暫くしてもう1人も釣り上げる。今度は違う種類の魚であるが、2種類とも見たことがない。が、ここは熱帯なんだ、日本にはいない種の魚なんだ、と納得がいく。

8月12日(月) 天気:晴れ
1 バスの中で総括
 今日で最終日になり高雄から台北の中正国際空港へと向かうが、今日もホテルを7時過ぎには出発する。今回はまことに朝が早い日程であった。
 宇井先生からの提案でバスが高速道路に入ったら各々の総括と討論をしようとなった。時間は全部で3時間あるから一人7・8分はあるはずである、それぐらいは喋って欲しいと。それで一番前の人から前に出て話を始めた。

2 黄春明先生と食事
 1日目に予定されていた黄先生の講演がやっと実現することになった。しかし、みんなの飛行機の時間との関係でかなり短い時間である。昼食を取る会場で黄先生が見えると直ぐに記念撮影を行い、その後食事をしながらお話を聞くということになった。
 黄先生の話の中心は、現在先生がある地域で取り組んでいることについてであった。それは先住民族が土地生産性の高い平野部から大きな石がごろごろとしている中山間部へ追いやられて現在生活しており都会部との比較の中で貧しさを嘆いている。しかし、そこで逞しく生きてきた生活の軌跡をプラス評価することにより、彼らの生活者としての誇りを創り出していき、また現在の自然環境が素晴らしいのでエコツアーを創りあげることにより経済的にも自立することが出来る、という取り組みのことであった。残念ながら時間の関係で途中でうち切らざるを得なかった。

3 再び台北市へ
 メンバーの大部分が日本へ帰ってしまい私と竹本さん家族と鈴木さんだけになってしまった。宇井先生は黄先生と先程の話の続きを黄先生のお宅でされるそうである。とりあえず宮城さんに台北市までご一緒して貰うことにした。台北市までの直通バスで切符を買いバスに乗り込む、110圓であった。台北市に着いて初日の宿泊ホテルであった天成大飯店に着く。劉さんにお願いしてあったので簡単にチェックインする事が出来た。
 夕方に三越前の広場で集合することにして約3時間ほどの時間を過ごすことにする。男性群3人は市内の名所を見ることにした。ホテルが市の中心部にあるので各種の記念公園が直ぐ近くにある。国立台湾博物館、二二八和平公園、総督府、中正記念堂。途中に外交部(日本の外務省)もあってどうもここは日本の霞ヶ関じゃないかなということであった。 近くに本屋街があるというのでそこにより時間を潰すことにした。道路を挟んで本屋やコンピュータのグッズ屋がずらっと並んでいる。そこで時間を潰して三越前の広場に行く。
 
4 龍山寺夜市
 夕食を夜市で食べようということになり鈴木さんが仕入れてきた情報で龍山寺夜市に行くことになった。士林夜市などあったがこちらの方が蛇料理などがあって面白いということでこちらに決まった。ホテルの直ぐ近くの地下鉄入り口から台北火車站(駅)に入った。台北駅は地下にあってMRTと呼ばれている。初めての地下鉄であるが漢字文化・圓であり全然違和感がない。発音はなかなか難しいけど漢字表記するとほとんど通じる。韓国に2回ほど行ったがこちらの方はハングル語が読めないからそうはいかなかった。その点、台湾は漢字文化であり60歳以上の人は日本語が喋れ親日感も強いから安心である。
 龍山寺駅におりやや薄暗くなった街を夜市を探して歩く。それらしきところに行き着きブラブラとすることになった。裏通りが電灯で明るく輝き人々が溢れかえっている。歩道を歩くと通常の店から歩道までテーブルを張り出し食事をしている。道路の真ん中で簡単な台を出し現地でしか味わえない食べ物を売っている。
 女性軍が雑貨屋で時間をとっている内に男性群はもっと先の方まで探訪することにした。蛇の料理もあった、けど北海道の海の幸があったのには鈴木さんもびっくり。足裏マッサージもあったが時間が無いので止めた。大人の道具店が結構沢山ある、何処に行っても同じだなあ。
 また女性軍と合流して食べ物を探すことにした。まずするめ、スイカのジュース、餅の揚げたような物、腐れ豆腐、これはほんとに臭かった。ご飯類が見あたらないから結局三越の地下街で探すことにした。それぞれ好きなメニューを注文し竹本夫人からの缶ビールを飲みながら食事であった。
 ホテル帰着後シャワーを浴びまた缶ビールを飲んで寝る。

8月13日(火) 天気:晴れ
1 故宮博物館
 8時に鈴木さんと2人で地下鉄を利用して故宮博物館に行く。まず士林(シーリン)まで地下鉄で行きタクシーに乗り換える。電車が25圓、タクシーが125圓であった。
後で竹本さん一家と会うがバスで来たとのこと。小さなバスでギューギューに押し込めれれて、途中は地元のおばさんたちの中国語の嵐だったらしい。でも料金は格安で15圓だったとのこと。
 ここで11時半まで館内を見学するが、もう流し見るぐらいしか出来ない。本当は1日じっくり時間をかけた方が良いのだが。中国商(殷)や秦の時代からの青銅器や甲骨文字、陶磁器、書などの国の重要文化財級の物がずらりと並ぶ。
 故宮は世界四大博物館・美術館にあたる。他の3つはパリのルーブル、ニューヨークのメトロポリタン、ロシア・旧レニングラードのエルミタージュ、またはロンドンの大英博物館である。ここで生徒引率で残念ながら来れなかった堀口さんへの土産を買う。故宮ならではの麒麟と龍のブローチである。

2 日本へ
12時にホテルへ帰り着き、荷物を取って中正国際空港に行く。前日に宮城さんに同行して貰ったのですんなりと着くことが出来た。ここで鈴木さんとも別れて本当に一人になった。荷物預けのカウンターで待っていると宇井先生の姿が目に入った。宇井先生は気が付かれない様子である。受付が終わってからで良いかと思っていたらそれっきりで見えなくなってしまった。出発までは暫く時間があったのであのときに話せたら良かったのにと残念である。
 福岡国際空港に着きJR博多駅に着いて電車を探したら、鹿児島までの特急はもう無いとのこと。幸いなことに水俣までの特急があった。水俣で終電車に乗り換え、出水に着いたのは14日の午前0時を少し回っていた。

3 旅行感想
 1980年頃から急速に工業化され経済的には一応成功しコンピュータ電子部門では日本を脅かすまでに成長してきたけれども、当然ながら環境への負担も増大してきている。しかし、環境問題意識・反公害運動についてはまだ意識が薄く国の法律も整備されておらず後発生の利益を正当に与っていない。そうした中で被害者は自力救済で立ち上がっており、まさに日本の高度経済成長時代を再現している。もっと台湾国民は科学の表面的な華やかさに目を奪われずに科学の負の部分に気づき、真の民主主義及び本当の豊かさに目覚めて欲しい。

4 私の課題
 現在私が住んでいる出水で農業グループとの付き合いがある。その中に乳牛を60頭ほど飼っている鈴木さんという人がいるのだが、数年前から屎尿処理について何とかしようとされている。ドイツでは牛の屎尿発酵で発生したメタンガスで発電をおこなっているが、発電方法はジェネレータの駆動として内燃機関ではなく外燃機関のスターリングエンジンを使っている。スターリングエンジンは振動が少ないので騒音が無くエンジンの耐用年数も長い。このシステムについて数年前にドイツからの交流学習会で学んだので、鹿児島大学の橋爪先生と共同で作り上げようとしているのだが、未だめどが立っていない。この取り組みについて私がもっと関わって推進した方が良いと宇井先生から指摘を受けた。
 また、出水の水俣病についても患者さんとの付き合いが少しあるのだが、95年の政府との和解についてあれは非常に評価をしていたのだが、宇井先生によるとあれはダメだと言われる。「和解勧告を出すにあたって水俣病の第一人者である私と原田先生に全く相談がない。少なくともその道の第一人者には伺いを立てるべきだろう。だから和解の内容は不十分なもので納得しがたいものである。あれは政府の役人の作った作文がそのまま使われている。」ということであった。この事についても認識の甘さを突きつけられることになった。