ノーム・チョムスキー

マニファクチャリング・コンセント
Manufacturing Consent  Conclusion (2)
エドワード・S・ハーマンとノーム・チョムスキーの共著(1988年Pantheon Books)の結論部分

本書の全体を通じて強調してきたように、アメリカのメディアは、全体主義国家のプロパガンダ・システムのようには作用しない。むしろ、そこでは活発な討論や批判があり、反対意見が許容され、奨励さえされる──ただし、エリート層のコンセンサスを構成する一定の前提や原則のシステムのなかに、忠実にとどまっている限りの話である。そのシステムはきわめて強力であり、ほとんど意識されることなく個人の内面に取り込まれている。カンボディアに焦点を合わせ、東ティモールを無視するようにと、誰かがメディアに指示したわけではない。メディアは自然とクメールルージュに引き寄せられ、それについて思う存分論じたが[8]、同時にまた、東ティモールにおけるインドネシアの残虐行為や、この侵略と虐殺に対するアメリカの責任については、自然と情報を流すことを差し控えたのだ。その過程でメディアは、カンボディアやディモールに対する政府の政策が何に基づき、何が問題になっているのかを、一般の人々が理するのを可能にする事実や分析を提供せず、そのことによって、一般の人々が、政策決定に影響力を持つことがないように保証した。

このことは、メディアの実際の「社会的な目的」が、支配権力にとって重要な問題に関しては、どんなものかを典型的に示している──「民衆が政治のプロセスをしっかり制御できるようにする」どころか、そうなる危険をことごとく取り除くことが目的なのだ。これらの事例においては(数知れぬほかの事例と同じように)、民衆を上から管理し、動員する手段として、メディアによるきわめて選択的なメッセージの提供と回避が働いていた。メディア・アナリストのW・ランス・ベネットは次のように指摘している。

「民衆は、上から与えられる強力で説得力のあるメッセージにさらされているが、彼らはそのようなメッセージに対する反応を、メディアを通じて有効に伝えることができない……指導者たちは不当におおきな政治権力を握っており、民衆が政治システムを制御する力を殺ぐために、メディアを使って支持や迎合を引き出し、また意図的に彼らを混乱させている[9]。

しかし、ここで特に重要な点として注意を喚起したいのは、メディアは「利用される」までもなく、みずからの判断で自発的に奉仕しているのが普通だということである。それがどんな理由から、どのように行なわれるかは、すでに論じたとおりだ。いまひとりのメディア・アナリスト、ベン・バグディキアンの主張によれば、民間マスメディアの慣習的な偏見は、「たんに企業システムを保護しているだけではない。それは民衆から、現実世界を理解する機会を奪い去る」。この結論は、わたしたちが検証してきた証拠によって、じゅうぶんに裏づけられている。

プロパガンダモデルは、自由市場による誘導という、とくに異論を招くこともない前提に、とりあえず依拠している。つきつめていえば、民間メディアは製品(読者や視聴者)を他の企業(広告主)に販売している大企業だ。全国メディアは通常、エリート層の意見に焦点をあて、それに奉仕する。エリート層は、広告という目的に最適な「プロファイル」を提供してくれるだけでなく、民間と公共の両方の領域において、意思決定の役割をはたすからである。読者や視聴者としてのエリート層のニーズを満たすためには、全国メディアは、そこそこに現実的な世界の姿を描いてみせなければならない。だがその一方で、メディアの「社会的な目的」からは、彼らの解釈する世界には、売り手と買い手、またこの人たちが牛耳る政府や民間組織の、利害や関心が反映されていることも要求される。

メディア業界の人たちが、どのようにしてシステムの要求に順応し、また受け入れられていくのかを理解するためにも、プロパガンダモデルは有益だ。会社組織としての要請や、さまざまなフィルター作用などのおかげで、特権層のニーズや利害に適合していくことが、成功するために欠かせない条件になっている。他の主要機関と同じように、メディアの世界でも、要求される価値観や考え方を表明してみせなければ、「無責任」だとか「観念的」、さもなければ「異常者」とみなされ、落伍させられる傾向がある。小数の例外はあるだろうが、このパターンは広く行き渡っており、ふつうに予期されるものだ。

順応する(たぶん本心から)人たちは、ほとんど管理者の統制を受けることなく、自由に自分の意見を表明することができる。そのため彼らは、順応を強いる圧力などまったく感じないと、嘘偽りなく断言することができるのだ。たしかにメディアは自由である──メディアの「社会的な目的」が要求する原則に、順応する人々にとっては。

中にはまったく堕落して、権力の「使い走り」をつとめるだけの人々もいるだろうが、それが普通なわけではない[11]。個人的な体験から言えることは、ジャーナリストの多くは、このシステムの働きをきわめてよく認識しており、ときおり生じる綻びを利用して、エリート層のコンセンサスから多少はずれた情報や分析を、流し込もうとする。その際には、一般的に要求される標準にも適合するように、慎重に気を遣いながら。とはいえ、ここまでの洞察は、もちろん普通ではない。一般的には、自由が広く浸透していると信じられている。たしかに、要求どおりの価値観やものの考え方を身につけた人々にとっては、それは真実である。

この問題は、けっこう重要だ。グアテマラ人の記者が、一九八〇年代に起こった残虐行為について報告しない理由は、すぐに理解できる──独立系のジャーナリストが権力の規範から逸脱すれば、どんなツケが回ってくるかを、五十体ほどの死体がドラマティックに物語っているからだ。しかし、アメリカの記者がこのトピックを避け、さらにはグアテマラをニカラグアの手本として描くことまでする(一一五頁参照)理由を説明するとなると、それ以上のものが必要だ。同じことは、他の数え切れない類似ケースにも当てはまる。その一部は本書でくわしく分析した。プロパガンダモデルは、この広く浸透した現象を理解するための、基礎を提供する。

しかしながら単純なモデルでは、全国規模のマスメディアの働きといった複雑なものを、逐一、詳細にわたって説明することはできない。プロパガンダモデルは、このプロセスの本質的な特徴をとらえることはできると信じるが、多くのニュアンスや副次的な影響などは、分析されぬままだ。ほかにも認識すべき要素は存在する。そのなかには、プロパガンダモデルがメディアの「社会的な目的」と表現したものとは、相容れないものもある。逆にそれを裏づけるものもある。

矛盾する例として、ジャーナリストの人間性や職業意識の高さが、メディアというイデオロギー機構の中では容認されない方向に、彼らを導くことがめずらしくないことが挙げられる。明白な真実を圧殺し、善良な意図(挫折したかもしれないが)、説明のつかぬ誤り、善良な意図、傷つけられた無垢な心、などといった愛国的な必須教義を、圧倒的な反証の存在をものともせずに唱えつづけることの心理的な負担は、おそらくばかにならないのだ。そこから生じる緊張は、たまに限定的に表出することもあるが、たいていの場合は、意識的あるいは無意識に抑圧される。それを助長するのが、事実はどうあれ私利私欲を追求するという態度を、是とするものの考え方である。

一方、裏づけとなる要素としては、第一に、初歩的な愛国心、わたしたち自身やわたしたちの公的機関や指導者を肯定的に見たいという、抗しがたい願望がある。わたしたちは自分のことを、個人生活においては基本的に善良な人間だと考えている。それゆえ、自分たちの公的機関も、同じように善良な意図によって機能しているにちがいないと考える。この主張は、誤った推論であることは明々白々であるにもかかわらず、しばしば説得力をもつ。

愛国的な前提を強化するのが、「われら国民」が統治するという信念である。これは、幼いころから植えつけられる思想注入システムの根本原理であるが、ほとんど実体のないものであることは、社会・政治システムを分析すれば、たちどころに明らかになる。順応することの真の利点は、それがもたらす報酬や恩典だけではない。カダフィ、あるいはサンディニスタ、あるいはPLO、あるいはソ連のような相手を非難することを選べば、信頼できる根拠の提示など要求されない。また、わたしたちの社会やその行動について、型どおりの教義を──たとえば、アメリカ政府は、民主主義と人権という、伝統的で気高いわたしたちの信念に、一心に奉仕しているというような──くりかえすときにも、同じことが言える。

けれどもアメリカの諸機関が国内ではたす機能や、その国際的な活動について、批判的に分析しようとすれば、はるかに高度な水準が要求される。実際、自然科学において、かろうじて満たせるような基準が、課されることが多い。信頼できる根拠を用意し、厳密な議論を構築し、膨大な資料を提出するには多大な努力が必要だ。だがそういう苦労はみな、教義上のコンセンサスを無言の前提としている限りは、よけいなものだ。あたりまえの話だが、そんな苦労をわざわざ買って出ようという者は、ほとんどいない。順応によって得られる報酬や、正直に異議を唱えることによる損失という損得勘定は、また別にしての話である。

服従をうながす動機はほかにもある。ジャーナリストや解説者は、あまり必死に働かされることを望まなければ、長いあいだ仕事を続けられるし、標準的な情報源から得た情報(正式であれリークであれ)を発表することによって、名望を得ることさえできる[12]。だがそのようなチャンスは、国家プロパガンダによる説明を、そのまま事実として伝達することを潔しとしない者たちには、与えられない公算が大きい。

メディアの技術的な構造も、慣習的な考えに追従することを、実質的に強制している。コマーシャルとコマーシャルのあいだ、あるいは七百字という制限のなかでは何も表現できないし、事実を積み重ねて議論を展開させる機会もなしに、周知の教義に挑戦しようと企てれば、馬鹿げて見えるのは避けがたい。この点で、アメリカのメディアは、他の多くの先進民主主義国のものと異なっている。それが招いた結果は、表明される意見や分析の幅が、狭い範囲にとどまっていることに顕著にあらわれている。

また、批判する者は、組織的な中傷にさらされることも覚悟しなければならない。それに対する救済手段はほとんどないことから、これもまた無視できない阻害要因である。

このような要因が数多く存在しており、それらはみな、プロパガンダモデルが解明する基本的な構造上の特質に関連しているのだが、それら自身も詳細な分析に値する。こうしたものの結果できあがっているのは、特権と権力が必要とするものへの順応をうながす、強力なシステムである。

要約すると、アメリカのマスメディアは、体制擁護のプロパガンダの機能をはたす効果的で強力なイデオロギー機構であり、それを支えているのは、市場要因、前提への順応、自己検閲などであって、あからさまな強制はほとんどない。全国ネットのテレビ放送が台頭し、マスメディアの寡占化が進み、公共ラジオやテレビ放送に対する右翼の圧力が増大し、広報やニュース管理の適用拡大と高度化につれて、このプロパガンダ・システムは、ここ数十年のうちに、よりいっそう効率的なものになった。

とはいえ、このシステムも全能というわけではない。政府とエリートが牛耳るメディアも、ヴェトナム症候群や、アメリカが外国政府の不安定化と転覆に直接関与していることへの民衆の敵意を、克服することにはまだ成功していない。たしかにレーガン大統領時代の偽情報とプロパガンダの洪水(ほぼエリート層のコンセンサスを反映したもの)は、その主要目的の達成に成功した──アメリカの保護するテロ国家(「駆け出し民主主義国」)への支持をあおり、その一方でサンディニスタを悪者にしたてあげ、国会からもマスメディアからも、いっさいの議論をしめ出し、許されるのはただ、ニカラグアを「中米モード」に引き戻し、彼らの「攻撃性」(あらゆる側面から暴虐で破壊的な攻撃をしかけてくるアメリカに対し、自衛をはかることを指す)を「押さえ込む」ためには、どのような手段を講じるべきかという、戦術的な論争だけになった。

それでもニカラグア攻撃には、たとえ代理戦争であっても国民の支持が得られず、そうこうするうちにアメリカの負担が増大し、その一方でニカラグアには、代理戦争や経済封鎖などの圧力措置によって、貧困と苦しみの「中米モード」が復活した。アメリカと結託したソモサ政権が転覆された直後の数年間に大成功を収めた改革は頓挫し、開発の見通しも費えてしまった。アメリカのエリート層の意見も方向転換し(実際きわめて劇的に)、もっとコスト効果の高い手段によって、共通目標を達成すべきだという方向へ傾いていった[13]。きわめて精巧に計画された広範な国家プロパガンダが、部分的に失敗したこと、またこれと併行して、民衆レベルの活発な反対運動が、メディアの利用を大きく制限されたにもかかわらず、勃興したことなどが決め手となって、アメリカがあからさまにニカラグアを侵略することは、実行不可能になった。その結果、アメリカは地下活動に追いやられ、自国民には知られたくない、非合法な秘密活動に精を出すことになるのだが、その際も、メディアはおおいにそれと共謀したのである[14]。

さらにつけ加えると、プロパガンダ・システムを中央集権化して強化する、重要な構造変化が進展している一方で、メディアへのアクセスを広げる可能性を秘めた逆の動きも出てきている。ケーブルテレビや衛星通信の勃興は、当初は商業的な利権が優先していたものの、寡占化された全国ネットの既存メディアの力を低下させており、ローカル・グループによる利用が拡大する可能性を秘めている。アメリカではすでに、およそ三〇〇〇のパブリックアクセス・チャネルが稼動しており、そこでは住民が制作する番組が、週あたり二万時間も放送されている。ローカル向けに番組を提供する何百もの事業者と並んで、衛星放送を通じて、全国向けにアクセス・チャンネル番組を製作し、配信するものさえある(たとえば、ディープディッシュTVなど)。とはいえ、いずれも資金確保には四苦八苦している。[15]。

非営利のローカル・ラジオ局やテレビ局も、同じようにメディアに直接アクセスする機会を提供しているが、そうしたものはアメリカでは、これまでじゅうぶんに利用されてこなかった。フランスでは、多くの地域団体が自前のラジオ放送局を所有している。目立ったケースを挙げれば、アッパー・プロヴァンスのロンゴ・マイ という進歩的な協同組合が所有しているRadio Zinzineという二十四時間放送のラジオ局は、それまで孤立していた農民たちに情報を伝えて活性化させることに大きく貢献し、コミュニティの重要機構となっている。アメリカでも、パシフィカ・レディオ〔アメリカの代表的コミュニティラジオ〕のようなラジオ局が、一定の見識に立った世界観や内容を深く掘り下げた報道、大手メディアからはふつう除外されるような範疇の議論や討論を提供している。これらがカバーする地域では、非営利ラジオ局の潜在的な価値を感知することができるだろう。

公共ラジオや公共テレビは、レーガン時代に深刻な打撃をこうむったものの、代表的なオルターナティブ・メディアであり、プロパガンダ・システムに対抗したいと思う者にとっては、これを蘇生させ改善することが、重大な関心事になるはずだ[16]。公共チャンネルが着々と商業化されていく現在の風潮には、積極的に反対しなければならない。長い目で見れば、民主的な政治秩序のためには、メディアの制御とメディアへのアクセスがともに大幅に拡大することが不可欠である。いかにそれを実現するかについて真剣な議論がなされ、抜本的なメディア改革を政治計画に組み込むことが、革新派の政治課題のなかでも。高い優先順位を与えられるべきだろう[17]。

地域や職場でグループを組織し自己啓発すること、それらをネットワーク化し、積極的な行動につなげていくことが、わたしたちの社会生活を民主化し、少しでも有意義な社会変革をもたらすための、基本的な要素であることに変わりはない。このような方面の展開が成功するかぎりにおいてのみ、自由で独立したメディアの実現を期待することができるだう。


 原注

I. Lewis, "Freedom of the Press-Anthony Lewis Distinguishes Between Britain and America," London Review of Books, November 26, 1987. ルイスが提示しているのは、彼が解釈するJames Madison Justice Brennan の見解(『ニューヨーク・タイムズ』対サリヴァンのケースでは、ルイスは「近現代における[報道機関側の]最大の勝利」と説明している)と、それらに対する賛意の表明である。.

2. N. Blackstock, ed., COINTELPRO (New York: Vintage, 1976); Frank J. Donner, The Age of Surveillance: The Aims and Methods of America's Political Intelligence System (New York: Knopf, 1980); Robert J. Goldstein, Political Repression in America (Cambridge: Schenkman, 1978); Morton H. Halperin et al., The Lawless State (New York: Penguin, 1976); Christy Macy and Susan Kaplan, eds., Documents (New York: Penguin, 1980).などを参照。

3. コスト分散の例として、納税者が負担することになるCIAの秘密工作や従属政権に援助する数百万ドルの予算、軍拡競争や帝国維持のための間接費、必要もない兵器を水増し価格で供給する軍産複合体の壮大なぼったくり、選挙運動資金を提供する見返りの税制等の優遇措置(たとえば、一九八一年のレーガン当選後の大幅減税や、一九七一年に製乳業ロビーが共和党に大型献金を行った直後、ニクソン大統領が飲用乳価格引き上げを認めたことなど)が挙げられよう。

4. 実際、タワー委員会や議会調査によって詳述された疑獄事件や不法措置は、こうした体制側の「摘発」がなされるずいぶん前から知られていたのだが、押さえ込まれていた。Noam Chomsky, The Culture of Terrorism (Boston: South End Press, 1988)

5. 序文も参照されたい。メディアを含むエリート間の合意が、イランコントラ事件の聴聞期間中も、その先も、ずっと持続していたことについては、次を参照のこと。Chomsky, The Culture of Terrorism (Boston: South End Press, 1988).

6. Laurence R. Simon and James C. Stephens, Jr., El Salvador Land Reform 1980-1981, Impact Audit (Boston: Oxfam America, February 1981), p. 51 にロバート・ホワイト大使や土地改革顧問ロイ・プロスターマンの「ポルポト左派」についての言葉が引用されている。Raymond Bonner, Weakness and Deceit (New York: Times Books, 1984)p. 88, にホワイト大使の引用、p. 207には暗殺されたロメロ大司教の後継者リベラ・イ・ダマス大司教の引用がある。Jeane Kirkpatrick, "U.S. Security and Latin America," Commentary (January 1981).

7. Washington Post, May 21, 1987. バクリーが「ジェノサイド」として言及しているのは、先住民「ミスキート・インディアン」に関するもので、数十人がサンディニスタによって虐殺された。この事件は、サンディニスタがアメリカの傭兵部隊の攻撃を受けている中で起こったことであり、同時期にはアメリカが支援するグアテマラ軍が数万人のインディオを虐殺していたのだが、こちらの方は、バクリーの解釈では「ジェノサイド」ではないらしい。

8. ただし、すでに指摘したように、つくり話やうわさの類であっても、役に立つならば遠慮なく流布された。でっちあげをずいぶん前から認めているものであってさえ、おかまいなしだ。

9. W. Lance Bennett, News: The Politics of Illusion, 2d ed. (New York: Long- man, 1988), pp. 178-79.

10. Ben Bagdikian, The Media Monopoly (Boston: Beacon Press, 1980), p. x.

11.CIAによって、コントラのマスコミ向けのスポークスマンに選ばれたエドガル・チャモロは、『ニューヨーク・タイムズ』のスティーヴン・キンザーについて、次のように語っている。「使い走りの子供のように、レーガン政権の優先課題に合わせて、いくらでも都合のよいニュースを持ってくる。昨日はキリスト教会、今日は先住民ミスキート、明日は民間セクターという具合だ。この二週間でキンザーの記事を少なくとも八本読んだが、どれもこれも、まさしくホワイトハウスの望みどおりのことを述べている。キンザーはいつでもサンディニスタに疑念をはさみ、彼らの意図はなんなのか、ほんとうに民主的なのか、などと問いかける。彼の記事を分析すれば、ホワイトハウスの言っていることに対応しているだけだとわかるだろう」。(Interview, Extra![the newsletter of FAIR, Fairness & Accuracy in Reporting], October-November 1987). FAIRは左派のメディア監視団体で、右派のAIMに対応するものだ。したがって、AIMと違うところは、FAIRは資金不足であり、いつも議論から排除されていることだ。その投書欄には、内容の正しさは内々に認めながらも公表は拒否された記事が、載ることも多い。同じ号に、顕著な例のいくつかが載っている。

12. 古典的な説明として、次のものを参照されたい。Warren Breed, "Social Control in the Newsrooms: A Functional Analysis," Social Forces (May 1955), pp. 326-35; Gaye Tuchman, "Objectivity as Strategic Ritual," American Journal of Sociology (January 1972), pp. 660-70Jim Sibbison, "Environmental Reporters: Prisoners of Gullibility," Washington Monthly (March 1984), pp. 27-35には、有益な応用が載っている。

13. こうした傾向については、次の書籍で議論されている。Chomsky, in Z magazine (March 1988)

14. これらについての証拠は、上述の具体的な事例を参照されたい。より一般的な説明は、次を参照されたい。Chomsky, Culture of Terrorism

15. 一九八四年のケーブル・フランチャイズ・アンド・テレコミュニケーション法によって、地方公共団体が公共アクセス・チャンネルを要求することが可能になった。しかしケーブル放送事業者は、そうしたチャンネルが実際にあまり利用されていないときには、他の目的に転用することが許されている。したがって、利用度の低さが公共アクセスを排除する根拠となる可能性がある。

16. Eric Barnouw, The Sponsor (New York: Oxford University Press, 1978), pp. 62-65. には、ヴェトナム戦争中のテレビ報道が、商業放送と公共放送で異なっていたことが記されている。

17.James Curran, Jake Ecclestone, Giles Oakley, and Alan Richardson, eds., Bending Reality: The State of the Media (London: Pluto Press, 1986).英国向けに考案されたプログラムが載っている。

 


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