9月11日の米同時多発テロ事件以来、テロリスト組織撲滅のための「新しい戦争」を宣言するアメリカにひきずられ、世界はふたたび大規模な破壊と殺戮の時代へと動き出しているかのようです。アメリカの報復戦争には異をとなえても、「テロリスト」を徹底的に断罪するところまでは同調するという態度が一般的なようですが、そもそも何が「テロ」であり、何が「自由の防衛」なのか、それを決めているのはアメリカであるという現実をよく考えてみるべきでしょう。アメリカ外交のダブルスタンダードを容赦なく告発してきたチョムスキーにとって、世界最強のテロリスト国家はほかならぬ合衆国です。このような立場から、現在の状況についても辛らつなコメントを寄せています。





Noam Chomsky
同時多発テロ事件とアメリカの反応について--9・22 インタヴュー
WTC/Pentagon Attack
Composite Interview #3 --- 22 September 2001

1.議論のための仮定として、ここでは一応、ビンラディンがこの事件の背後にいたと想定してみましょう。 そうであったとすれば、彼にはどのような理由があったと考えられますか? 今回の事件が、どこかの貧しく力を奪われた民衆を利するというわけではないし、ましてやパレスチナ人のためにはなりません。だとすれば、いったい彼の目的はなんだったのでしょう--もし、この作戦を計画したとすればの話ですが。

その点については、慎重にみなければないません。 ビンラディンに何度も詳細なインタビューを行ってきたロバート・フィスクによれば、イラクの市民社会を荒廃させ、パレスチナ人への非道な迫害に荷担している合衆国に対する怒りは、ビンラディンのみならず、この地域の人々にあまねく浸透しているものです。金持ちから貧乏人まで政治的立場等の階層の違いを超えてすべての人々に共通するこの怒りを、彼が共有していない方がおかしいといえましょう。

事情に通じている人々の間では、アフガニスタンのどこかの洞穴に潜むビンラディンに、あのような見事なまでに高度な作戦を計画する能力があったかどうかを疑問視する声もよく聞かれます。 しかし彼のネットワークが関与している可能性は高く、また彼は大きな感化力を持っているとも言われています。 彼のネットワークは権限分散型で非階層的な組織構造を持ち、相互の接触はきわめて限られていると考えられています。従って、おおっぴらに今回の事件を容認しているにもかかわらず、彼が作戦について自分は関知していないと主張しても、それは十分に真実でありえるのです。

そうしたこととは別に、ビンラディンは、話を聴きたがるフィスクのような西洋人に対して自分の望みを明言してはばからないだけではなく、(こちらの方が重大ですが)アラブの聴衆に対しても明瞭な意思を伝えています。アラビア語で吹き込まれた彼の言葉はカセットに載って流布しており、その内容は西側のインタヴュアーに応えたものと似たようなものであることが確認されています。 仮に彼が公言する図式をそのまま採用すれば、第一の標的とされるのは、サウジアラビアのように、アラブ圏にありながら真に「イスラム的」とはいえない腐敗した抑圧的体制です。 ビンラディンと彼のネットワークは、「背教徒」から身を守ろうとするムスリムに対しては、いずこであろうが支援を惜しみません──チェチェン、ボスニア、カシミール、中国西部、東南アジア、北アフリカなど、世界のどこなりと。 彼らは、イスラム教徒のものであるアフガニスタンからロシア人(彼らにとってはヨーロッパ人)を追い出すために聖戦を遂行し、勝利をおさめたのです。そして今では、一段と大きな熱意を傾けて、サウジアラビア(もっとも重要な聖地の所在地として彼らにとっては何倍も重要な土地である)からアメリカ人を一掃しようとしているのです。 「ごろつきと拷問吏たちによる腐敗と暴虐にまみれた統治を覆せ」という彼の呼びかけは幅広い層からの共感を得ており、合衆国のしわざとみなされる残虐行為に対する憤りも、同じように幅広い反響を呼んでいます。

しかし彼の犯罪が、この地域のもっとも貧しく虐げられた人々にとってきわめて有害な影響を及ぼしているのは、まちがいない事実です。 たとえば、今回の攻撃はパレスチナ人に破壊的な打撃を与える結果になりました。 しかし、外からは明らかな矛盾と映ることも、内側からは違ったように見えることもあるでしょう。 本当に力のある圧政者に対し勇敢に戦う彼の姿は、それが結果として貧しい大多数の人々をいかに苦しめることになろうとも、英雄として映るのでしょう。 合衆国が彼の暗殺に成功すれば、彼は殉教者としていっそう強力となり、その声はカセットなどのメディアにのって人々の間にあまねく浸透し、いつまでも聞かれ続けることになるでしょう。 結局のところ、彼は、合衆国にとっても、住民の大多数にとっても、実存する一勢力であると同様に、象徴としての存在でもあるのです。

彼の言葉を文字どおりに受け取ることは、十分に根拠のあることと思われます。 そしてCIAは、彼の犯罪を十分に予想しているはずです。 これらの急進的イスラム勢力は、もとはといえば合衆国、エジプト、フランス、パキスタン等が組織し、武器を与え、訓練を施したものです。だが、ロシア人に対する「聖戦」の担い手として彼らを育て上げることに最も熱心だったエジプトのサダト大統領が1981年に暗殺されると、彼らはそれを契機に一斉に矛先を反転させました。以来ずっと、彼らは生みの親に牙をむき続けているのです。

2. 引き続き、ビンラディンがこれらの行動を計画したという仮定のもとで話を進めますが、同じようなテロ行為がまた起こるのではないかという一般の懸念に真実味があるとすれば、危険を排除ないし低減するためにはどのようなアプローチが適切とお考えですか? 含羞国などが、国内的に、あるいは国際的に取るべき手段はどのようなものでしょう? またそのような措置にどんな結果が期待されるのでしょう?

状況は事例によって異なるでしょうが、いくつか例をあげて類推してみましょう。IRAがロンドンで爆破事件を起こしていたとき、英国はどのように対処すべきだったのでしょう。 一つの方法として、空軍を派遣して彼らの財源を叩くことが考えられます。ボストンのような場所です。それが可能かどうかは別にして、本当にそんなことをしたら犯罪的な愚行でしょう。いま一つの道は、ことの背景にある利害対立と不満を現実的に考慮し、その改善に努め、その一方で犯行の当事者たちを法律に従って処罰するという方法です。 こちらの方がはるかに懸命な方策だと、誰しもが思うでしょう。

別の例として、オクラホマシティーの連邦ビル爆破事件を考えてみましょう。 事件直後に中東を爆撃せよという声があがりました。もしそこに中東の関与をほのめかすような手がかりが、わずかなりとも出ていたならば、これは現実のことになっていたかもしれません。 この爆破事件には武装右翼グループ(militia)が関与していることが判明しましたが、だからといってモンタナとアイダホを壊滅させろという声はあがりませんでした。 そうする代わりに、加害者が捜索され、発見され、法廷に引き出されて判決を下されました。そして、このような犯罪の背後にある怨恨を理解し、その問題への取り組みがなされたという点では、懸命な処置が取られたといえましょう。 路上の強盗事件であれ大規模な残虐行為であれ、ほぼすべての犯罪には理由があり、その一部は深刻で放置できないというのが一般の認識です。少なくとも、正義を重んじ、将来にわたって惨劇が繰り返される可能性を減少させたいと願うのであれば、これこそが私たちのとるべき道でしょう。個別の事情への配慮は必要ですが、この考え方は広く一般に適用できる原則です。 特に今回の事件については、この原則があてはまります。

「この事件にかぎっては(他の事件ならかまわないが)、犯罪行為の背後にある原因をあえて追求すべきではない。それを詮索することは、これを仕掛けたわれわれの敵を容赦することにつながるからである」という、ヒステリックな声があがっています。 その明らかな馬鹿らしさは別としても、このような姿勢は、甚大な被害が繰り返される可能性を増大させるという点で、最も基本的なところで大きく道にはずれたものです。 道にはずれた行為に対しては、そのような卑劣な態度の背後にどのような事情があるのかが問われなければなりません。 多くの場合、その答えは不快なものです。

3.それに反して、合衆国政府が取ろうとしている措置は、どういうものでしょう? それが筋書きどおりに運ぶとすると、どのような結果をもたらすのでしょうか?

発表されたのは、合衆国政府の武力行使に同調しないものすべてに対する事実上の宣戦布告です。 「われわれの十字軍に参加せよ、さもなくば死と破壊が待っている」という「きびしい選択」を世界の国々が突きつけられているのです( RW Apple、ニューヨーク・タイムズ、9月14日)。 9月20日のブッシュ演説はこの姿勢を強く再確認するものです。 文字通りに受け取れば、これは世界の大半に対する事実上の宣戦布告です。 もちろん、文字通りに受け取るべきではありません。 政府の立案者はそこまでひどく自らの利害を損ないたいとは思っていない。

彼らが実際にどんな計画を立てているのか、我々にはわかりません。 しかし、諸外国首脳や地域専門家や自らの情報機関などから寄せられる次のような警告には、彼らも真剣に耳をかたむけることでしょう──「罪のない一般市民の多く(タリバンではなく、その犠牲者たち)が殺される大がかりな軍事攻撃が、ビン・ラディン崇拝者たちに対する返答となる。 だが、たとえビンラディン本人を殺しても(いや、殺せばなおさらのことに)、罪のない人々の虐殺は、この地域に渦巻く怒りと不満に油を注ぐばかりで、結果的にはさらに多くの人々をビン・ラディンの非道な運動に加わらせることになるだろう」。

フランス外相の言葉を借りれば、合衆国は、ビンラディンが仕掛けた「邪悪な罠」にひっかかるのです。 彼は意識してこの言葉を使ったのかもしれません。 むろん彼は(少なくとも彼の情報機関は)ビン・ラディンたちがロシア人を「アフガンの罠(Afghan trap)」に引き釣り込むため利用されたということを承知しているからです。カーター大統領の国家安全保障担当補佐官スピグニュー・ブレジンスキーは、本人が誇らしげにフランスの新聞にもらしたように、ロシア人が実際に侵入する何カ月も前からムジャヒディン反政府ゲリラへの米国の支援体制をつくりあげ、罠を仕掛けて待っていたのです。中東やアフリカの大部分、さらにはその外側の世界(ニューヨーク市のように)にまで死と破壊を撒き散らすことになるこの怪物を創り出した自分の才覚についてブレジンスキーはホラを吹いたのかもしれないが、少なくともそこに若干の真実はあるでしょう。

合衆国政府の出方はわかりませんが、ある程度は国内のムード次第というところもあるはずですから、そこに影響を与えるべく努力することは可能でしょう。政府の行動がどのような結果をひき起こすかについても、確信を持って言えることは、彼らが言えること以上には、何もありません。 ただ、ありそうなシナリオはいくつか描かれており、理性や法律や条約義務が尊重されるのでない限り、見通しはきわめて厳しいと思われます。

4.アラブ国家の市民は、テロリストやテロ支援国家を地上から駆逐する責任を果たすべきだったと主張する人々が多数いますが、 これについては、どのように応えますか?

テロリストを高い地位に選出し、褒め称え、報酬を与えるのはもう止めて、逆に彼らを排除せよ、と一般市民に訴えるのは、まことに道理にかなったことです。 けれども、からといって私は、わたしたちが「我々の選出した高官やその補佐官、御用学者、従属政権などを一掃」すべきであったとか、わたしたちの政府や他の西洋諸国の政府を破壊すべきであったなどと提唱するつもりはありません。たとえ彼らが自らテロ犯罪に手を染めており、また世界中のテロリストに対する支援を行っているという理由があってもです。彼らが支援したテロリストたちの多くは、サダム・フセインを待つまでもなく、言うことを聞かなくなったために現在ではいわゆる「テロリスト」の部類に入れられています。 しかしながら、わたしたちが援助している残忍で非情な政権のもとで暮らす市民に対し、彼らよりずっと恵まれた環境のもとにいるわたしたちが果たしてもいないような責任を押し付け、その怠慢を非難するというのはそれこそ不公平と言うものでしょう。

5.歴史を通じて、ある国が攻撃された場合には、その国も同質の攻撃を返すものだという主張も多いようです。 これには、どうお答えになりますか?

国家が攻撃されたときには、可能であれば、国家は防御を図ります。 いま提案された教義に従えば、ニカラグアや南ベトナムをはじめとする多くの国々は、合衆国を内部から破壊するために自爆テロ要員を送り込むべきだったということになります。また、パレスチナ人はテルアビブで自爆攻撃を行ったことを賞賛されるべきだということになり、同じことがとめどなく続くことになるでしょう。 この教義が、ヨーロッパに何百年にもわたる野蛮な戦いの末に、事実上の自己抹殺をもたらしたからこそ、第二次世界大戦後、世界の国々が集まってこれとは異なった盟約をつくり上げたのです。国家が武力攻撃を受けたとき、安全保障理事会が国際平和と安全を守るための行動を起こすまでのあいだ自己防衛を行うという場合を除いては、武力の行使は禁じられるという原則が、少なくとも公式には、確立されたのです。 特に、報復攻撃は禁じられています。 もっとも合衆国は武力攻撃を受けているわけではないので、以上のような配慮はそもそも無関係です──少なくとも、国際法の基本的な原則は、わたしたちが嫌う国々にだけではなく、わたしたち自身にも適用されるのだということに、わたしたちが同意するのならばの話ですが。

国際法のことはさておくとして、このような教義がどのような結果に導くかということは、何世紀にもわたる過去の経験が正確に告げています。 大量殺傷兵器が存在する現在の世界では、その結果として控えているのは人類の絶滅です。つまるところ、この危険を見抜いたからこそ、ヨーロッパ人たちは半世紀前に、それまで自分たちが何世紀にもわたって存分に楽しんでいた相互虐殺というゲームにも、そろそろ終止符を打ったほうがよろしかろうという結論を下したのです。

6.合衆国に対する怒りの表現が中東に限らず世界の各所から発せられていることに対し、多くの人々が恐怖ゆえの怒りをむき出しにしています。 ワールド・トレードセンターの崩壊を祝う民衆の映像が、(この国の)人々の復讐心をかきたてています。 これに対しては、どのようにお答えになりますか?

1965年、インドネシアでは合衆国の支援を受けた陸軍が支配権を握り、土地をもたない貧農を中心に何十万と言う人々の虐殺が行われました。CIAはこの大虐殺を、ヒトラー、スターリン、毛沢東の犯罪にも引けをとらぬものと報告しました。 しかし、この事件は西側諸国に野放しの陶酔感を引き起こし、全国のメディアをはじめ、どこもかしこも手のつけられない熱狂であふれかえりました。インドネシアの小作農は、いかなる意味でもわれわれに危害を及ぼしていたわけではなかったのに。 ニカラグアが最終的に合衆国の攻撃に屈したとき、マスコミの主流は合衆国が採用した次のような手法の成功をほめそやしました。「経済を破壊し、長期にわたる破壊的な代理戦争を遂行して、疲弊しきった住民たちがみずからの手で望ましくない政府を転覆させるまでこれを続行する」この作戦では、わたしたちの支払う代償は「最少」にとどまり、犠牲者には「崩れた橋と破壊された発電所と荒廃した農場」が残されました。従って、合衆国側の候補者に「ニカラグアの人々の貧困」に終止符を打つという「勝利の決め手」となる選挙公約を与えることになったのです。「ニューヨーク・タイムズ」の宣言によれば、この結果を前にわたしたちは「喜びで結ばれ」ました。このような話はいくらでも続けられます。

ニューヨークで起こった犯罪行為を祝った人は、世界の中でもほんのわずかでした。圧倒的多数はこの事件を悲しみ、これまで長い長い間アメリカ政府に踏みにじられ辛酸をなめてきた人々でさえも遺憾の意を示しました。 とはいえ合衆国に対する怒りの感情が存在するのは間違いありません。 しかしながら、いまさっき述べたような二つの事例や、西側に見られた数多くの類似の事例ほどグロテスクなものには、いまだお目にかかっていません。先週の反応には復讐が必要だと信じているやからは、その反発が少しでも道義に基づいているというなら、まず自分たちの体制や自分自身に対する大量破壊運動に身を捧げるべきでしょう。

7.こういう一般大衆の反応を超えたところで、現在の米国の政策を実際に動機づけているのはなんだとお考えですか? ブッシュの提唱する「テロに対する戦争」は何を目的としているのでしょう?

「テロに対する新しい戦争」は「新しく」もなければ「テロに対する戦争」でもありません。 20年前、レーガン政権が誕生したとき、「国際テロ」が外交政策の主要課題であると宣言し、この「癌」、われわれの文明を破壊するこの「疫病」を一掃する戦いにとりかからなければならないと主張されたことを思い出すべきです。レーガン政権はこれへの取り組みとして国際テロ撲滅キャンペーンを組織し、その並外れた規模と破壊力のために国際司法裁判所が合衆国を断罪するという事態にまで発展しました。その一方で、数知れぬ国々に援助を与え、たとえばアフリカ南部では、西洋の後押しを受けた南アフリカの奪略行為によってレーガン時代だけで150万人が殺され6億ドルの被害が出ました。

国際テロに対する過剰反応がピークに達した1980年代半ばには、合衆国とその同盟国が先頭にたって、自分たちが根絶を要求していたはずの癌細胞をそこらじゅうに撒き散らしていたのです。 わたしたちは、そうしたければ心地の良い幻想の世界に住み続けることができます。 あるいは、最近の歴史、本質的に変わらぬ制度的構造、公表計画などを検証し、それらに照らして上の質問に答えようとすることもできるのです。 わたしには、これまで長い間続いてきた政策の動機や目標に何らかの突然の変化があったと想定する理由が思いつきません。ただ状況の変化に応じた戦術的な調整がなされただけです。

もうひとつ忘れてならないのは、知識人の崇高な使命のひとつが、数年ごとにわたしたちは「転換期を迎えた」と宣言し、過去のことはもう過ぎ去ったことであり、輝かしい未来に向かって前進していく過程で忘却されてもよいのだと主張することであるという事実です。 これは、たいへんに都合の良い立場です。もっともまったく誉められたものではなく、思慮があるともいえませんが。

8.より詳細に選択肢を検討することができるような状況になってからの話ですが、「一般市民に対するテロ攻撃を解決する方法は、さらに多くのテロ攻撃を一般市民に加えることであり、狂信行為を解決する手段は監視と民的自由の制限である」というような考えが、アメリカ人の大多数に受け入れられるとお考えになりますか?

そうでないことを願っていますが、巧妙に運用されたプロパガンダ・システムが人々を不合理で残忍で自滅的な行動に追いやる力を過小評価するべきではないと思います。 わたしたちが冷静な目でふりかえることができるほど十分に離れた例として、第一次世界大戦を考えてみましょう。 両陣営がともに崇高な目的のための気高い戦争に従事していたなどということはありえません。 けれども、どちらの陣営でも、兵士たちは意気揚揚と相互の殺戮のために出征していきました。

それに声援を送って脇を固めたのは知識階級と動員協力者たちであり、彼らは右から左までドイツ帝国のあらゆる政治階層に及んでいました。そこには当時世界最強だった左派勢力も含まれていたのです。 例外はあまりにも数少なかったので、その名をリストアップすることさえできるほどです。その中でも傑出した人々には、この戦争の企ての「気高さ」に疑問を呈したかどで投獄された者もいます。ローザ・ルクセンブルグ、バートランド・ラッセル、ユージーン・デブスなどです。 ウィルソンのプロパガンダ機関とリベラル派知識人の熱狂的な支持のおかげで、それまで平和主義だった国は、数カ月のうちにヒステリックな反ドイツ感情の嵐にとりつかれ、野蛮な犯罪行為(多くは英国情報省のでっち上げ)を犯しているものたちに喜んで復讐してやろうという体制に変わっていました。

といっても、これは決して避けられない運命ではありません。近年の大衆運動による教化努力の成果を過小評価するべきではありません。 進軍命令が出たからといって、必ずしもわたしたちは破滅に向かって決然と行進する必要はないのです。


HomeEdward SaidLyricsOthers