Chomsky

イスラエル・パレスチナ問題についてのチョムスキーの論説をまとめたMiddle East Illusions(2003) の翻訳がようやく完成し、「中東 虚構の和平」(講談社)というタイトルで出版されました。
1969年から2002年まで、30年以上にわたる期間がカバーされており、その間の変化(状況も、チョムスキーの見方も)を知ることができます。とくに興味ぶかいのは初期のころの論文でバイナショナリズムを唱えていることです。オスロ・プロセスの失敗から、二国家分立案に代わって再び一国家解決案への関心がたかまっているようですが、その際にかつてPLOが主張した「民主的な一つの国家」とバイナショナリズムが混同されているかなという印象を持つ体験が最近いくつかありました。そういうことからも、本書の第二部は参考文献としておすすめです。

中東 虚構の和平
Middle East Illusions
イスラエル・パレスチナ問題とチョムスキー――訳者まえがき

 一九七〇年前後に、チョムスキーは中東に一瞬のまぼろしを見た。かつてパレスチナと呼ばれていた土地に、ユダヤ人とアラブ人がたがいのネイションとしての自治を認めた上で共存し(バイナショナリズム)、ヒエラルキーのない共同的社会を築いていくという従来からの夢が実現しうるという可能性だ。それが現実的なものと感じられるようになったのは一九六七年の第三次中東戦争の結果である。チョムスキーは、イスラエルがこの軍事的勝利を恒久的な和平に換金できるとするならば、社会主義バイナショナリズムの推進によって域との一体化をはかることがもっとも見込みのある道であると考えた。しかし現実には、イスラエルは安全よりも領土拡張を優先する選択をおこない、アメリカの中東支配の駒となって同国への依存を強めたため、チョムスキーが夢想したような方向に進む機会は失われた。

そのような見方が妥当かどうかは別として、この時期に熱く論じられた理想はチョムスキーの思想の原点に根ざした興味深いものである。中東問題の根幹にあって膿を出しつづけるイスラエル・パレスチナ問題は、チョムスキーにとっては自らが育った環境に深くかかわりのある特別な思いを抱かせるものなのだ。

ノーム・チョムスキーは一九二八年、ユダヤ系移民の子としてフィラデルフィアに生まれた。父親は帝政ロシアの徴兵を逃れて一九一三年に渡米した中世ヘブライ語の研究者であり、シナゴーグ神学校の校長をつとめていた。母親もヘブライ語の教師という家庭環境の中で、子供たちはパレスチナへの入植と結びついたヘブライ文化復興運動の影響にどっぷりつかって育った。もの心つくようになって、チョムスキーは自分の考えが左派シオニストの少数派に近い(当時そこで主流だったボルシェビズムを嫌ったため参加はしていない)ことを悟る。以来ずっと、その基本的な立場に変化はないようだが、彼が抱くようなシオニズムは現在ではむしろ「反シオニスト」とみなされる。「シオニスト」の意味するところが、だいぶ変わったのだ。

「一九四二年十二月までは、シオニズム運動はユダヤ国家というものを正式に約束していたわけではありませんでした。一九四八年五月に国家が建設されるまでは、シオニズム運動の内部にもユダヤ国家に対する反対が存在していました。後にはプロパガンダのために、『シオニズム』いう概念は非常に狭いものに限定されていきました。一九七〇年代には、イスラエルは領土拡張とアメリカへの依存を、安全と地域への一体化よりも優先することを選択し、シオニズムの概念は、事実上、イスラエル政府の政策を支持することと同義なものへと狭められました」とチョムスキーは述べている[注 1]。この現代の用法からすれば、「ユダヤ国家」を容赦なく批判するチョムスキーは「反シオニスト」であり、「病的なユダヤ人の自己嫌悪症」だとして猛烈に攻撃される。これに関しては、一九七六年以降にイスラエル支持に鞍替えしたような北米の知識人層の日和見主義という問題が大きいようだ[注 2]。本書の最終章はそのようなアメリカ国内の言論界の状況を批判したものであり、じっさい、この問題こそチョムスキーがもっとも重視し、一貫して鋭く批判してきたものはないかと思う。

チョムスキーの思想のいまひとつの柱はリバータリアン社会主義だが、これも幼い頃の環境が大きく影響しているようだ。彼の幼年時代は合衆国の大恐慌時代にあたり、ユダヤ系移民社会は不況の直撃を受けていた。チョムスキーの両親は中産階級だったが、親戚たちは労働者階級に属していた。ニューヨークに彼らを訪ねた幼いチョムスキーは、失業と貧困の中にありながら高い知識水準と欧州直輸入の社会主義の伝統を育むユダヤ系移民たちのコミュニティから大いに刺激を受け、また一九三六年に起こったスペイン内乱からも終生におよぶ大きな衝撃を受けた。アナルコサンディカリズムへの傾倒は、やがてキブツ運動の理想と重ね合わせられる。実際、大学生活に幻滅していた頃に一時イスラエルに渡ってキブツで働くという体験もしており、本気で移住を考えていた時期もあるようだ。チョムスキーは今もしばしば「観念的な」理想と限定したうえでリバータリアン社会主義を語るが、彼が初期のイスラエルに投影していたのはこうした理想社会の実現の可能性だったようだ[本書192―3参照]。

本書の位置づけ
本書はMiddle East Illusions, Rowman & Littlefield, 2003の全訳である。日本での出版に際して章立ての構成を変更しているが、基本的には最新の論考をまとめた部分と、その三〇年前に書かれた初期の論考という二部構成になっている。

第一部は中東紛争をめぐる最近の論考を集めたもので、湾岸戦争を契機に始まり九〇年代を特徴づけたオスロ体制の崩壊と、「テロとの戦争」の始まりが中心テーマとなっている。なかでも重要なのは第一章で、オスロ和平プロセスがアメリカの外交政策上どのように位置づけられているかを、二十世紀の歴史全体を通して詳細に論じている。まとまった形の論考としてはきわめて有益だ。その後に続く短めの論考は、二〇〇〇年九月、占領地のインティファーダ(民衆蜂起)が再び起こって以来、まったく解決の見えない状況の中でイスラエルによる破壊行為がエスカレートしていく現状についてのコメントである。この一部はウェッブ上や映像パッケージでも類似のバージョンが公開されており、日本語に翻訳されたものも読むことができる[注 3]。九・一一以降、チョムスキーのコメントに対する関心が日本でも急速に高まったことを反映している。

第二部の五本の論文は一九七四年に単行本として出版されたもので、イスラエル・パレスチナ問題を扱ったチョムスキーの著作としてはもっとも古い。シオニズム運動と深くかかわって育った著者が、イスラエル・パレスチナ問題についての基本的な立場を初めて詳細に論じたものであり、内容はじつに興味深い。

これらが書かれた六〇年代末から七〇年代初めにかけては、ベトナム反戦運動をきっかけにチョムスキーが積極的に政治的な発言を始めた頃である。現在の感覚でこれを読むと、むしろイスラエルに同情的なように訳者には思えるのだが、当時はイスラエルに対して敵対的だとしてずいぶん攻撃され、無視されたりしたようだ。思えばこの頃は、まだエドワード・サイードの『オリエンタリズム』や『パレスチナ問題』なども出ておらず、パレスチナ人など存在しないという主張が幅をきかせていたのである。そういう時期に書かれたものであるということを念頭に置いて読むべきだろう。

また当時は、第三次中東戦争の圧勝と占領支配の開始によってイスラエルが変質していった時期でもあり、それまでイスラエルに対して著者が抱いていた理想社会の建設という夢が次第に崩れていく様子が伝わってくる。リバータリアン的な社会構造を前提としたバイナショナリズムこそがアラブ人とユダヤ人の共生を可能にする最善の道だというチョムスキーの主張は、現在バイナショナリズムが注目され始めたこともあってたいへんに興味深い。しかし、三〇年後の論調をみれば、本人はもはやそのような可能性を信じていない。その苦々しい思いが「中東のまぼろし」という原書のタイトルになったのだろう。

バイナショナリズム
第二部の議論の基礎になっているバイナショナリズムの考え方は、シオニズム運動の中に少数派ながらずっと存在してきた。その担い手として、ハショメル・ハツァイール(左派シオニスト青年運動)やマパム(統一労働者党)、ユダ・マグネスらの「イフード」グループなどが知られている。

だが本書でチョムスキーが強調するのは、バイナショナリズムは後に言われるようになったほどマイナーな運動だったわけではなく、一九二一年から三九年にかけて、ワイツマンやベングリオンらシオニスト指導部の中でもバイナショナリズムの傾向が強かったということだ(本書189〜192、234〜6ページ参照)。この方向を決定的に変えてしまったのは、その後の第二次大戦勃発、ナチズムの台頭とユダヤ人迫害といった事件である。こうしたものによって一掃されてしまうことがなければ、バイナショナリズムは十分に実現の可能性のあるものだったし、一九六七年の戦争の後にはふたたびその実現の可能性が出てきた、というのが本書におけるチョムスキーの主張である。だが、その後の情勢の展開によってこの可能性は失われたと判断したらしく、以降の著作では論じていない。

このことは、最近になってパレスチナ出身のエドワード・サイードやイスラエル国籍のアラブ系知識人のあいだからバイナショナリズムが提唱され始めたことと、どうつながるのだろうか。PNC議員としてパレスチナ解放運動に積極的にかかわってきたサイードは、従来は二国家分離独立の考えを推進してきた。しかし、九〇年代のオスロ体制のもとで分断されたパレスチナ国家はバンツースタンでしかないということが明らかになると、独立国家を要求するという従来の主張を取り下げてバイナショナリズムを提唱しはじめた。その反響は大きく、知識人のあいだではバイナショナリズムについての議論が珍しいものではなくなったし、イスラエル人の平和運動家ミシェル・ワルシャウスキーの著作などもいちはやく邦訳されている[注 4]。

だが、チョムスキーに言わせれば、実現の可能性がまったくない現在、そういう議論をすることは意味がないし、むしろ現実化する「リスク」がないからこそ「ニューヨーク・タイムズ」や「ニューヨーク・レヴュー・オヴ・ブックス」のような一流新聞や雑誌でファッショナブルなトピックとして取上げられるようになっているのだと手厳しい。逆に言えば、七〇年代初めにチョムスキーがそれを提唱したころには、実現の可能性があったからこそヒステリックな攻撃で封殺しなければならなかったということである。

ここには一抹のアイロニーがある。サイードとチョムスキーは七〇年代末から非常に親密な関係を築いてきた。ときに意見の異なる場面はあるにしても、アメリカの論壇の全体から見れば、基本的には両者の考え方はきわめて近いところに位置している。それでも、本書第二部が出版された翌年の一九七五年にサイードが書いた書評には、バイナショナリズムに対して冷淡な態度がうかがわれる[注 5](当時の目標がそもそも「パレスチナ人など存在しない」という風潮に抗議することだったことからすれば無理もない話だろう)。そして現在ではチョムスキーがバイナショナリズムの可能性をにべもなく否定しており、むしろ戦術的には有害でさえあると述べているのである[注 6]。

とはいえ、重要なのはこの問題についての考え方の違いよりも、むしろ知識階級が見せるこの問題の受け入れ方の違いに注目することだろうとチョムスキーはコメントしている。少しでも実現の可能性があったときには、ヒステリックな非難が浴びせられて議論自体が拒絶されてしまったのに、完全な空論になってしまった現在では容認されているという事実こそが、アメリカの言論界のゆゆしき問題を示している。これについては先に触れた第二部第五章の議論が今も有効なようだ。

イスラエルとアメリカによる和平の拒絶
民族共生の夢を「まぼろし」に変えてしまった決定的な変化は、その間に起こった合衆国とイスラエルの強固な結託による中東支配と占領の永続化である。これについては、チョムスキーが中東を論じたもう一冊の大著、The Fateful Triangle: The United States, Israel, and the Palestinians, 1st edition 1983, 2nd edition 1999, South End Pressで扱われている。こちらは、一九七八年のキャンプ・デイヴィッド合意から八二年のイスラエルによるレバノン侵攻にかけての出来事が中心となっており、中東和平を妨げてきたものは主にイスラエルとアメリカの拒絶主義《リジェクショニズム》[注 7]であって、一般に言われるようにイスラエルの存在権を認めようとしないアラブ側の拒絶主義によるものではない(アラブ側はPLOも含めイスラエルの存在という現実に折り合いをつけようと努力してきた)という主張を、膨大な資料の裏づけによって展開している。議論の前提や概念の定義が整理されている点でも、きわめて有用な基本文献であり、改訂版では九六年までに書かれた三本の論文も追加されている。

本書の第一部に収録された論考は、それ以降に書かれたものであり、基本的に同じ立場の延長上にある。このThe Fateful Triangleがまだ翻訳されていないこともあって、中東問題やアメリカの国内状況について一定の知識を前提とする本書は、日本の一般読者にはわかりにくいところもあるようだ。目次のあとに領土の変遷を示す地図を、また巻末に中東問題についての歴史的な概略を載せたので参考にしていただきたい。


 「パレスチナの正義?」からの引用
チョムスキーの生い立ちや家庭環境については、James Peck ed., The Cohmsky Reader, Pantheon, 1987 に、インタビュー形式で自らの経歴を詳しく語ったものが掲載されている。またインターネットでは、次のものが充実している──Robert Barsky, Noam Chomsky ―A Life of Dissent, electric edition 

 これについては、ノーマン・フィンケルシュタインが次のような観察を述べている。アメリカの政策が決定的にイスラエル支持に固まったのは一九六七年の戦争以降のことであり、ユダヤ系のアメリカ知識人たちの熱心なイスラエル擁護はその動きに便乗して始まったものである。それ以前にはアメリカ国内でイスラエルを擁護することは必ずしも得策とはいえなかったので、ユダヤ系の知識人の中でシオニストを公言する者は少なかった。実際、著名な学者ではハンナ・アーレントとノーム・チョムスキーの二人ぐらいのものであったが、二人とも後には逆にイスラエルに対する批判を強め、六七年以降の「俄かシオニスト」たちから裏切り者扱いされることになる。──Zionism's Historical Context, An En Camino Interview with Norman Finkelstein, by Dan Freeman-Maloy, January 24, 2004

 日本語版Zネット 寺島研究室「別館」 など

 ミシェル・ワルシャウスキー『イスラエル=パレスチナ 民族共生国家への挑戦』加藤洋介訳 つげ書房新社 二〇〇一年

Edward W. Said, Chomsky and the Question of Palestine, 1975, in The Politics of Dispossession, The Struggle for Palestinian Self-Determination: 1969-1994, Pantheon, 1994

 前掲のZネットコメンタリー、「パレスチナの正義?」

 リジェクショニズムという言葉については、「アメリカにおいてそれが標準的に意味するところは、イスラエルという国家が存在する権利を否定する立場、あるいはユダヤ人が旧パレスチナの中で民族自決権利を持つことを否定する立場のことである。……ユダヤ人には生まれつきアラブ人にはない権利が与えられているという人種偏見的な仮定を採用するのでないかぎり、この『拒絶主義』という言葉は上記のような標準的な用法のほかにも適用されてしかるべきであり、パレスチナのアラブ人の民族自決権を否定するような立場にもあてはまる」とチョムスキーは述べている(The Fateful Triangle, p39)。

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Posted on Aug 31, 04