16)ソウェト2

 昼食を終えた私たちは、市場と公園が同居しているような場所に移動しました。鉄道に沿った場所で、大きな商店から露店までたくさんのお店が立ち並んでいます。ひとびとは買い物をするでもなく、通り過ぎるのでもなく、街角にたたずんだり立ち話をしたりしています。露店を張っているレゲエ屋(日本でもよく見かけるし、南アのあちこちでも見かけた商売で、ジャマイカ三色旗のグッズやCDを売っています。かならずボブ・マーリーの写真が掲げられている)からいかにもアフリカのレゲエというリズムが流れています。広場の方に行くとそこは露店ばかり。野菜売り、豚や牛の臓物ばかりを積み上げている店、生きたニワトリを籠に入れて並べた店、スパイス類や豆ばかりの専門店など。どうみても最下層で暮らすひとびとを相手にした商売なのですが、私の悪い癖でこのような市場に来ると宝の山に迷い込んだみたいな気がしてワクワクしてしまいます。八百屋がやはり興味深く、アフリカン・スピナッチ(ほーれん草)の大きさには驚きました。みさと屋スタッフのスリランカ人パトミニさんがカレーを作る時に入れる豆によく似たものがあったのでおみやげにしようと思って買いました。うわぁ、そんなに安くていいの、というような値段です。この市場はフリーダムパークといいます。
 しかしワクワクしていたのはここまでです。とんでもないことを思い出したのです。あまりに興味をひかれるひとびとの暮らしの匂いに引き寄せられるように車を降りてきてしまったので、自分のデイパックを持って来ていないことに気がついたのです。荷物はしっかりと身につけることと、走行中でも車のドアはしっかりロックして、窓も絶対に開けたままにしないというのが鉄則なのです。ここに来るまではどこでもそのようにしていたのですが、なぜかここではぬけてしまいました。とても明るいオバサンたちが店を並べている楽しい広場ですが、暗い影の部分もあちこちに感じとれます。比較的大きな店が並んでいる一角に移動しました。そのうちでも最も大きな店を覗いたのですがそこは肉屋で、中国系の人たちが働いていました。その店の入り口の両側に立っていた黒人の少年ふたりが銃を持っているのがわかるのに、一瞬時間がかかりました。足元に立てかけるようにしているのですが、まちがいなく本物の銃です。私兵のような用心棒なのでしょう。ヴィクターは私たちの緊張を感じたのか、『No problem』『Don‘t worry』と小声で繰り返します。写真を取りまくっていた私の同行者たちもだれもカメラを出そうとしません。私はさらに荷物が心配になりました。いや、荷物よりJVCの車が盗難のために壊されるのが心配なのです。商店街をひと回りして戻りましたが、車も荷物も無事でした。ちょっと苦い思いを残してフリーダムパークを
離れました。
 パワーパークに移動。ここは昨日訪ねたプレトリアのスラムと同じように赤い荒野に延々とプレハブの家や廃材で立てた小さな小屋がびっしりと立ち並んでいる場所です。火力発電所の周辺の空き地にできた居住区なのでこの名がついたのです。線路際の路地奥に車を止めました。すると出てくるは出てくるはゾロゾロと子どもたちが私たちの車を取り囲みます。ヴィクターはまたもアフリカン言語の機関銃と化します。一瞬にして、ヴィクターがここのスーパースターであることがわかりました。ここの子どもたちを集めて寺子屋のようなことをやっていて、ヴィクター自身も写真を教えているのです。
何十人も出てきた子どもたちひとりひとりとかなり込み入った会話をしています。3才くらいの子から私たちの来訪にはずかしがっている少女まで。ほんとに守備範囲が広い。この街が見渡せる丘まで移動しました。子どもたちもみんなゾロゾロついてきます。家々の周辺には動物がたくさんいて、犬と豚とニワトリと羊が放し飼い状態で戯れています。私たちが近づいても逃げようともしません。どの家にも老人と子どもたち。赤ちゃんとお母さん。洗濯物。見渡す限りのスラム街。この光景は旅から帰って3ヶ月がたついまでも目に焼きついています。

ソウェトの子供たち

 ヘクター・ピーターソンという少年がここソウェトにいました。20年前の1976年、アパルトヘイトに反対する歴史的な黒人暴動が起きた時、その死がきっかけとなった少年です。彼をはじめ多くの子どもたちが虐殺された現場にANCが彼らの大きな似顔絵のパネルを掲げて写真展をしていました。ヴィクターはその時高校生で、この暴動を経験しています。76年といえば私は大学3年。ヘクター・ピーターソンとこの日にパワーパークで会った無邪気な子どもたちの間に横たわる時間を考えずにはいられませんでした。私もそれなりにではありますがかかわってきた歴史です。ひとびとの暮らしの息吹に圧倒されて終わったこの日の帰途は、そんなこの国の時間の流れと自分が歩いてきた時間について考えてしまいました。そして、やっぱりここの大統領はマンデラなんだ、何も解決してないけど、大統領はマンデラなんだ。ゆっくりではあるけど、確かな足取りで前に進んでいるのはまちがいないんだ。なんてことを思い、そして、やっぱり私たちの暮らしている日本て何なんだ、と思ったのでした。

 3ヶ月半にわたって書いたこの旅行記はここで終わらせていただきます。かなり多くの方からまとめてくれ、写真もちゃんと見せろ、というご要望をいただいています。できるだけ簡素にまとめてみたいと思います。ご希望の方はお声をおかけください。はずかしいので、みなさまに配布したりはいたしません。この紙面は本来の商品紹介や生産者の紹介に力を入れていきます。長々と失礼いたしました。

ソウェト暴動の記念碑

ANCの写真展より。死んだヘクター・ピーターソン

殺された子供たちの絵

街角で見つけたポスター

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