イラク派兵と日本

2004年5月4日


二〇〇四年一月九日、石破防衛庁長官は、陸上自衛隊の先遣隊にイラクへの派遣命令を出した。一六日、先遣隊約三〇人がイラクに向けて日本を発ち、一九日、イラク入りした。その後、一月末から三月に、陸上自衛隊本隊五五〇人がサマワに派遣駐留され、航空自衛隊・海上自衛隊もイラク及びその周辺に派遣されている。派遣される兵士は、最大で一〇五〇人となる計画である。

「防衛庁」の情報によると、陸上自衛隊は、「医療、給水、公共施設の復旧・整備を行う」ことになっており、航空自衛隊は、「クウェートを拠点として、イラク国内で人道復興関連物資などの輸送を」、海上自衛隊は、「ペルシャ湾を含むインド洋において輸送艦などの艦艇により、人道復興関連物資などの輸送を」行うことになっている。

イラクにおける自衛隊の活動は、米英主導の占領軍の一環をなす。


派遣の経緯

小泉首相と日本政府は、イラク侵略が始まる前から、侵略の際には米国を支持すると公式非公式に言ってきた。たとえば、二〇〇二年一二月九日の時点で、米国のアーミテージ国務副長官に対し、米国が武力行使に踏み切った場合、日本はそれを支持すると非公式に伝えている。

二〇〇三年二月一八日には、原口国連大使が、査察の効果を疑問視し、イラク攻撃を容認する米英主導の新たな国連決議を求める演説を行ない、さらに二月二二日には小泉首相が、パウエル米国務長官との会談で、イラク攻撃を前提とした「復興支援体制」作りで合意している。三月一〇日、小泉首相と川口外相は、安保理諸国に電話で、「国際社会の分断はイラクを利する」と述べ、米国を支持するよう要請。三月一七日には、小泉首相が、イラク攻撃を容認する新たな国連決議が無くても、過去の国連決議で攻撃可能と、国会による審議も閣議も通さずに、米英によるイラク侵略への支持を表明。

イラク侵略が開始される直前の二〇〇三年三月一八日、小泉首相は次のように述べている:

日本としては、今まで国際協調の下に平和的解決を目指し、独自の外交努力を続けてまいりました。私は先程のブッシュ大統領の演説を聞きまして、大変苦渋に満ちた決断だったのではないかと。今までブッシュ大統領も国際協調を得ることができるように様々な努力を行ってきたと思います。そういう中でのやむを得ない決断だったと思い、私(総理)は、米国の方針を支持します。

武力行使につながる決議が無かったではないかという議論もありますが、私(総理)は、今までの一連の国連決議、昨年一一月の一四四一を初め、六七八、六八七、こういう決議において、武力行使の根拠と成り得ると理解しております[注:これが全くのデタラメであることについては、こちらを参照]。

三月二〇日、イラク侵略が始まるとすぐに、小泉首相は記者会見で、「米国のイラク攻撃を理解し、支持する」との発言を繰り返す。二六日には、原口国連大使が、国連安保理の公開協議で、米国への全面支持を表明した。四月九日、米英が国連を排除してイラクを長期占領し、暫定政権を連合軍の援助のもとで作ると発表した際、小泉首相は「いいことですね」と述べ、川口首相は、最大一億ドルの「人道支援」方針を発表している。

七月二六日にはイラク特別措置法が成立、一二月九日、イラク特措法に基づいて、自衛隊派遣の「基本計画」を閣議決定。そして、冒頭で述べたように、二〇〇四年の自衛隊派遣に至る。


派遣正当化の強弁

米国の侵略正当化プロパガンダは、大量破壊兵器、「テロ組織」との関係、イラクを「解放」し「民主主義」を持ち込むことを中心としていた。日本政府が侵略を正当化するために用いた強弁は、基本的にそれと同じであるが、「解放」「民主主義」にかわって「人道復興支援」が強調され、サマワが「非戦闘地域である」という強弁が加わる。

大量破壊兵器及び「テロ組織」との関係については、外務省のウェブページから入手できる『イラクの大量破壊兵器 疑惑は解明されたのか?』という七ページからなるきれいなpdf文書に日本政府の基本的な立場がよく現れている(二〇〇三年二月付、二〇〇四年四月二一日時点で入手可能であることを確認)。

「イラクの大量破壊兵器については、これまでどのような問題があったのか?」で始まるこの文書は、まず、「イラクは、実際に大量破壊兵器を使用した実績があります〔・・・・・・〕湾岸戦争時にも、多国籍軍に対して化学兵器を使用する準備をしました」、「イラクは一九九〇年八月、国際法に違反してクウェートに侵攻」と説明されている(ちなみに、探した範囲では、「米国は、実際に大量破壊兵器を使用した実績があります〔・・・・・・〕第二次世界大戦時に、米国は広島と長崎に原爆を投下しました」、「米国は二〇〇三年三月二〇日、国際法に違反してイラクに侵攻」と説明されている外務省の資料はホームページには見つからない)。次いで、イラクが査察を妨害したことを、都合のよい経緯と決議の断片だけを抜粋し、エルバラダイIAEA代表によるやブリクス国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)前委員長の発言については、技術的な問題点だけをことさらに強調し、両者ともに、査察が機能していると述べていること、ブリクス前委員長は米英両国が大量破壊兵器の脅威を「でっちあげた」と批判したことなどについては、まったく言及していない。

さらに、一ページを費やして、二〇〇三年二月五日の国連安保理におけるパウエル国務長官の「証拠」を掲載している(そこにテロ組織との関係についても言及がある)。既に公式の様々な国際組織や諸政府筋の情報によって完全に反駁され、米国でさえ取り下げているこうした情報を、二〇〇四年の四月に至るまで、公開し続けていることは注目に値する。

外務省が公開しているこのような情報は、二〇〇三年六月一一日、党首討論で「フセイン大統領が見つかっていないから、イラクにフセイン大統領は存在しなかったといえますか。大量破壊兵器も私はいずれ見つかると思います」という発言と呼応している。

日本政府はまた、自衛隊が、イラクで人道復興支援に当たると強弁し、多くのメディアがそれを繰り返している。しかしながら、相手のある行為は、当然、相手もその行為について同じ認識を共有しなくては意味がない。大多数のイラクの人々は、CPAのもとにある自衛隊が不法占領者の一部であると見なしており、実際に武装米英を航空自衛隊が輸送している状況で、自衛隊が人道復興支援にあたっているという主張は論理的に通用しない。

NGOに任せれば年間一億円の予算で約一〇万人分の給水が可能であるのにであるのに対し、自衛隊は年間三〇〇億円以上の予算で、給水は約一万五〇〇〇人分を行なっているに過ぎない。本当に人道復興支援が目的であり(さらに自衛隊が派遣される場所は非戦闘地帯であるというならば、とりわけ)、NGOに任せてしかるべきであろう。

また、川口外相は、イラクの人道支援という観点からは避けて通れない劣化ウランの被害について、世界保健機構(WHO)が調べた結果、劣化ウランは健康に害を及ぼすものではないというのが結論であると発言している。しかしながら、劣化ウランの有害性は広く知られており、さらに、WHOがWHO内の核医学専門家による「劣化ウラン弾は人体に極めて有害」という報告書の公表を禁じたことについても、その報告書の著者が暴露している。

イラク特措法の規定でも、自衛隊の派遣は「非戦闘地域」に限られる。公明党の神崎代表は、二〇〇三年一二月二二日、サマワを三時間訪問し、オランダ軍の護衛のもとで散髪し、自分は防弾チョッキなしで安全だったと宣言した。いわば、大人のピンポンダッシュである。政府はこれを根拠に、サマワは非戦闘地域と決めつけ派兵を促進している。

小泉首相は「自衛隊は非戦闘地域において人道支援に従事するのであり、憲法九条違反にはあたらない」と主張する一方、占領軍に対する攻撃の激化をめぐって、「どこが危険かなど私にわかるわけがない」と開き直っている。


背景:日米同盟と有事法制

イラクへの自衛隊派遣は、二〇〇三年六月六日の有事法制関連三法成立の流れのもとで見ると、その歴史的位置づけがわかりやすい。そこで、少し、その流れを振り返ってみよう。

自衛隊の起源である警察予備隊は、朝鮮戦争が勃発した直後の一九五〇年七月八日、マッカーサー連合軍総司令官が創設を指示し、同年八月一〇日の警察予備隊令公布・施行により創設された。一九五二年一〇月一五日、保安隊に改組された上で、一九五四年七月一日、防衛庁と自衛隊が発足している。これに先立ち、同年六月九日には、自衛隊法が公布されていた。

米国との関係では、一九五一年九月八日、サンフランシスコ講和会議で対日平和条約と日米安保条約が調印され、翌五二年四月二八日に両条約が発効する。一九六〇年一月一九日にはいわゆる日米新安保条約が調印され、国内の大きな反対運動の中、五月一九日に政府・自民党が条約を単独で強硬採決、六月一九日に自然承認となった。同条約は、米軍に日本の防衛義務を負わせると同時に、「極東の安全」のために米軍の基地が日本に置かれることを認めたものである。

一九六五年には、その二年前に自衛隊内部で秘密裡に行われていた「三矢研究」が国会で暴かれ、大問題となる。「三矢研究」は、第二次朝鮮戦争を想定して、核兵器の使用、自衛隊と在日米軍の共同行動、そして、非常事態措置法令、を検討項目としていた。特筆すべきは、非常事態措置法令をめぐる検討の内容である。ここでは、国家総動員対策の確立、人的・物的動員、官民による国内防衛態勢の確立など、第二次世界大戦前の国家総動員法を模範とする内容であった。

三矢研究が暴露されると大きな批判の声が起こり、佐藤栄作首相(当時)も「由々しい問題」として関係者が処分され、いったんはお蔵入りとなる。ちなみに、当時の防衛庁長官小泉純一郎首相の父、小泉純也氏である(個を主体とする近代社会で、家族背景を持ち出すことにより何か示唆したようなふりをするのは原則に反する。しかしながら、小泉純一郎首相自身が、父の影響を公開の場で幾度も語っているので、あえて言及しておこう)。

一九七八年には、次の大きな展開がある。金丸防衛庁長官が在日米軍に対する「思いやり予算」を計上。七月、栗栖弘臣統幕議長が、奇襲攻撃に対して自衛隊は「超法規的に行動するしかない」と述べ、解任される。しかしながら、この発言は有事体制研究を公式に進めるきっかけとなった。七月二七日、福田赳夫首相(当時)は有事法制の研究を進めることを表明し、八月七日、防衛庁が公に有事法制研究を始めた。同年一一月末には、日米防衛協力方針(ガイドライン)が制定され、日本が攻撃を受けた際の日米間の軍事共同作戦のあり方が具体化されることになる。

一九九〇年代には、自衛隊の海外展開が少しずつ、進められる。湾岸戦争の際、一九九一年四月二六日には、海上自衛隊の掃海艇がペルシャ湾に派遣され、翌九二年六月一五日には、国連平和維持活動の枠組みに自衛隊が参加し海外に赴くPKO協力法が成立する。同年九月一七日には、すぐさま自衛隊PKO派遣部隊がカンボジアへ向かった。

一九九六年、橋本首相とクリントン米大統領(ともに当時)が、日米安保を日本・極東アジアから地球規模へと拡大する「日米安全保障宣言」を発表、翌九七年九月二三日に、日米防衛協力指針(新ガイドライン)が発表された。旧ガイドラインと比べると、「有事」における日米共同体制がいっそう緊密になったこと、また、「周辺事態」の際、自衛隊は米軍の作戦に対して後方支援を行うことになっている。この「周辺事態」は、「地理的なものではなく事態の性質に着目したもの」と、極めて曖昧な規定である。

「新ガイドライン」を受けて、一九九九年五月二四日には周辺事態法が成立。二〇〇一年の一〇月二九日には、米軍によるアフガニスタン侵略と爆撃を支援するテロ対策特別措置法が成立する。一二月七日にはPKO法が改正され、平和維持活動の枠組みの中での平和維持軍(PKF)本隊活動への自衛隊の参加が認められる。

これら一連の動きを統合するかのように、二〇〇二年四月一六日、日本政府は有事法制三法案を閣議決定し、翌日、国会に提出する。九月一七日の「平壌宣言」後明らかになった北朝鮮による日本人拉致事件を奇貨として、二〇〇三年六月六日、有事法制三法が成立する。七月二六日にイラク特措法を成立させていることは、前述した通りである。

有事法制の三法とは、武力攻撃事態対処法、自衛隊法改正(ママ)、安全保障会議設置法改正(ママ)である。

武力攻撃事態対処法は、武力攻撃を「我が国に対する外部からの武力攻撃」と規定し、武力攻撃事態を「武力攻撃(武力攻撃のおそれのある場合を含む)が発生した事態または事態が緊迫し、武力攻撃が予測されるに至った事態をいう」としている。「武力攻撃が予測されるに至った事態」という極めて主観的・曖昧な文言により、ジョージ・W・ブッシュが国際法を犯して提唱する「予防戦争」に近い概念が示唆されていることが見て取れよう。

また、自衛隊法改正では、自衛隊出勤の際の国家総動員法的な規定(物資の保管や収用命令)に従わなかった場合の罰則が盛り込まれた。「国民」が、「有事」の軍事活動に強制的に協力させられる体制が完備したことになる。

こうして、戦後様々なかたちで画策されてきた、日米同盟のもとでの国外への自衛隊派遣と国内での「国家総動員法」的な体制が、有事三法により完成する。イラク派遣は、こうした流れの中で、最初の大きな実践なのである。


日本国内の動き

イラク侵略が始まる前から、世界中で、大規模な反戦運動が開始された。二〇〇三年一月一八日には世界三〇カ国でイラク攻撃反対の連帯集会やデモが行われ、数百万人規模の人々が参加。東京でも七〇〇〇人が参加した。二月一五日にも世界六〇〇以上の都市で一〇〇〇万人規模の抗議行動、東京で約五〇〇〇人、全国各地で抗議行動が行われた。米英によるイラク侵略直後の三月二一日には、東京での抗議行動には約五万人が参加している。その後も、米英によるイラク侵略と日本の自衛隊派遣に反対する行動は続き、二〇〇四年の三月二〇日には東京で約六万人、全国で様々な抗議集会やデモが行われた。

自衛隊派遣をめぐっては、二〇〇四年一月二八日、箕輪登元郵政相が、違憲・違法であり、国民の平和的生存刑を侵害するとして、札幌地裁に訴訟を起こした他、各地で違憲訴訟が起きている。世論調査によって様々に異なるが、米英のイラク侵略、それに荷担した日本の自衛隊派遣に反対する声は、大きい。

一方、二〇〇四年一月に自衛隊の派遣が決まると、派遣部隊の駐屯地旭川などから、自衛隊員の無事を願う「黄色いハンカチ」運動が始まった。派遣を既成事実として受け入れた上で「自衛隊員の無事を願う」という心情に基づくこの運動は、たとえて言えば、校長先生が小学校の生徒にむりやり高速道路を横断するよう命じているのを見た他の人々が、それを止めもせず、横で無事を祈るようなものであった。

また、反戦・平和を求める活動に対する嫌がらせや抑圧も強化されている。

二〇〇三年四月一七日、東京都杉並区の区立公園にあるトイレの外壁に「戦争反対」「反戦」「スペクタクル社会」と書き付けた青年が逮捕され、「建造物破損」罪で起訴された。様々な落書きが書かれている中で、これだけがねらい打ちのように起訴されたものであり、二〇〇四年二月一二日には、懲役一年二カ月、執行猶予三年の判決を受けた。

二〇〇四年二月二七日には、「立川自衛隊監視テント村」の三人が、同年一月二七日に自衛隊官舎の郵便受けに「自衛官・ご家族の皆さんへ 自衛隊のイラク派兵反対!いっしょに考え、反対の声をあげよう!」と題するビラを撒いたことで逮捕され、その後、起訴された。住居侵入の罪である。これも、マンション販売案内や宅配レストラン等、様々なビラが郵便ポストに入れられる中、反戦を訴えたものだけを標的にしたものである。ちなみに、国際人権団体のアムネスティ・インターナショナルは、三月一八日、これは日本も締約国となっている国際人権基準に反するとし、三名を「表現の自由を侵害されて拘禁された」「良心の囚人」と認定し、即時釈放を日本政府に求めた。

前述した有事体制の流れに照らせば、国内の反戦活動に対するこうした弾圧の動きは、イラクへの自衛隊派遣に連動して、改正自衛隊法に盛り込まれた「国家総動員」体制への始動と見なすことができる。


「人質」事件

米軍によるファルージャ攻撃が続く二〇〇四年四月八日、三人の日本人人道援助活動家とジャーナリストがイラクの武装勢力に拘束された。一五日、三人は解放される。一四日には別の日本人二名が拘束されるが、やはり解放されている(一七日)。これらの人々がイラク侵略に反対し、イラク人を助けるために活動していることが拘束したグループにも伝わり、民間外交的な努力が功を奏したこともあって解放されたものである。

一方、日本政府は「情報収集」に努めるとして拘束された人々の解放のために推定約二〇億円を費やしたという。しかしながら、解放の仲介にあたったイラク・イスラム法学者協会は、日本政府からの接触はなかったと述べている。また、イラクの宗教指導者たちが「イラクのために行動していた日本人の解放」をアルジャジーラで促したのが四月一〇日、解放を求める川口外相のビデオが衛星放送で流され始めたのは一一日である。これらから、日本政府が、拘束された人々の解放には実質上何も貢献していなかったことが示唆される。

一八日、解放された三人を引き取りに来た在バグダッドの日本大使館当局者が、ファルージャへの経済支援に言及したことに対して、クバイシ師は「われわれと討議すべき問題ではない。われわれは人道的問題を経済問題との引き換えにする気はない。ファルージャへの援助物資搬入を認めるよう米国側に要請してほしい」と、日本政府の立場に不快感を表明している。

この件をめぐっては、日本政府そして少なからぬ大手メディアが、拘束された人々への批判を開始した。的はずれの「情報収集」を行う以外実質上何もしていなかった小泉首相は、最初に拘束された三人が解放された際、「昼夜24時間態勢でいかに多くの人が取り組んだか。退避勧告を無視して出掛けた方に良く考えていただきたい」と述べ、解放後もイラクに残りたいと言ったことについては「「これだけ多くの政府の人たちが寝食を忘れて努力しているのに、なおかつそういうことを言うのか。自覚というものを持ってもらいたい」と語っている。

奇妙な発言である。拘束された人々がイラクの人道援助や平和に尽力し、イラク人の大きな信頼を得ていたことは、様々なメディアでも報じられており、イラクの人々の対応からも明らかである。政府が本当に「人道復興支援」を目的に自衛隊まで派遣しているのであれば、イラクの人々から大きく歓迎されていたこれらの人々の人道復興支援は、大いに賞賛されてしかるべきである。それにもかかわらず、日本政府が三人を強く批判していることは、日本政府の関心が人道復興支援にはないことをあからさまに示している。

さらに、的はずれの「情報収集」を行う以外何もしていなかったことで責任を問われるべき政府・外務省は、拘束された人々の「自己責任」を叫び、チャーター機の費用を拘束された人々に請求した。少なからぬメディアも、政府に同調している。ライシャワー東アジア研究所、ケント・カルダー所長も述べるように、「救出にかかった費用を個人が負担しなくてはならないという考えは、ばかげている。人質になった人に憲法で保障された渡航の自由があることも、旅行中に何かあったら保護しなければならないことも、小泉総理は、当然、わかっているはずである。自国民保護のために全力を尽すことは、政府の責務だ。万一、誘拐されでもしたら、彼らが安全に解放されることを保障しなければならない。たまたま支払わなければならなくなった費用は、いかなる費用でも政府が進んで支払うべきものである。それは政府の義務である」。

自衛隊派遣に反対し、イラクで人道活動や報道活動をしていて拘束された人々に対する、あたりまえの政府の義務を進んで放棄していること。さらに、自民党の柏村議員が「人質は反日分子」と発言していることに典型的に示されているように、また、前述した国内の反戦活動に対する弾圧の動きとともに、「国家」に従わない人々を黙らせ排除していく政策が、ここにも姿を現している。


報道

四月前半、米軍によるファルージャ攻撃と日本人人質事件が起きたこの時期の報道を改めて見ると、人質事件を報ずる記事に対して、ファルージャの出来事を報ずる記事がずいぶん少ないことに気付かされる。ファルージャを攻撃している米軍海兵隊のかなりが、沖縄から派遣された部隊である---したがって日本の「思いやり予算」をはじめとする支援が、間接的にファルージャ攻撃を支えていることになる---ことについても、琉球新報などを除いて、報じられていない[4月末、毎日新聞の3回連続のファルージャ特集は比較的まとまったよい内容のものだった]。

被占領者の抵抗は、国際法的に認められている。被占領者による占領軍への武力行使は、テロではなくレジスタンスである。それにもかかわらず、日本のメディアは、イラクの抵抗組織による爆弾攻撃を民間人に対する攻撃なのか占領軍に対する攻撃なのかを区別せず、一貫して「爆弾テロ」、「自爆テロ」と呼ぶ。

一方、小泉首相は「自分たちの目的達成のために全く関係ない市民、国民を殺戮して平然としている」のがテロリストだと国会で語っている。ファルージャで米軍が行なっていることは、まさにこれではないだろうか。小泉首相やブッシュ大統領は、ファルージャで進められている民間人の虐殺に、平然としているのではないだろうか。

二〇〇四年四月二二日午後、小泉首相は、官邸における内閣記者会のインタビューで、概略、次のように語ったという:

サマワの自衛隊は住民から非常に歓迎されている。復興、人道支援によく汗を流してくれるとの評価だ。「イラクから米軍は撤退せよ」というのは武装グループ以外には(言って)ない。イラク国民は米軍撤退を求めてない。治安回復にはイラク人自身が立ち上がるしかない。反米、親米の対立を乗り越えないといけない。イラクを復興させるのは、イラク人自身だとより強く訴えていきたい[すげー発言。ファルージャで米軍がテロ攻撃を行なっているのに対して、治安回復のために立ち上がったイラク人を支援して欲しいものです。武装米兵の輸送をするかわりに]。

現実から完全に遮断された幻想、カフカイスクな迷宮。第二次世界大戦の際、日本軍が戦闘で次々と敗北していった中、勝利に次ぐ勝利と叫び、幻に浸っていた日本を思い起こさずにはいられない。


ファルージャ侵攻を始め、イラクでは占領米軍による人権侵害や虐殺が多く報告されています。とくに、アルグライブでの捕虜への非人道的扱い・拷問については、主流メディアを含めて、広く報道されるようになりました。米軍の担当司令官は、軍諜報筋の圧力のもとに兵士がやった行為などと述べて、責任逃れをしていますが、圧力のもとであれ、こうしたことを行うためには、控えめに言っても、集団としての体質が拷問に親和的であるという基盤の存在が必要であるように思えます。もともと米国は、スクール・オブ・ジ・アメリカズでラテンアメリカ諸国の軍に拷問技術をはじめとする多くの弾圧技術を教えてきた長い伝統がありますから、自軍にも同様の教育を施していてもとりたてて不思議はないでしょう。

nofrillsさんのページにいくつか最近の記事が上がっています。TUP反戦翻訳団、継続して、ファルージャやアルグライブ、イラク一般の情報を、タイムリーに日本語で提供しています。ぜひ、ご覧下さい。また、バグダードバーニングも是非。これらが、日本政府が復興支援と強弁して参加している侵略占領行為の一端です。

1991年11月12日、インドネシア軍(米軍と密接な協力関係にあった)がディリ(東ティモール)の平和的なデモに対して加えたサンタクルス虐殺事件の映像が持ち出され、メディアで広く報じられるようになったときのことを考えると、今の流れの中では、在日本米国大使館等に、ファルージャの出来事、アルグライブでの拷問などについて、丁寧かつ断固とした手紙を書くことは、有用だと思います。

〒107-8420
東京都港区赤坂1丁目10-5
在日米国大使館
http://japan.usembassy.gov/tj-main.html
身近の領事館に電話をして抗議の声を伝えるのも有効でしょう。

益岡賢 2004年5月5日 

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