コロンビア:
農民にとってコカ栽培は唯一の手段

---コロンビア議員ペドロ・ホセ・アレナスへのインタビュー(I)---

ラウラ・デル・カスティジョ
2003年9月5日
ナルコニュース原文

1997年10月、ペドロ・アレナスという26歳のコロンビア人が米国にやってきた。その当時、彼は、コロンビア南部アマゾン地域のグアビアレ州議会議員の任期を終えようとするところであった。彼は、グアビアレ青年運動を代表していた。彼が米国を訪れたのは、コロンビアの天然資源のかなりが発見された(そして恐らくはそれゆえにあらゆる意味でコロンビア政府から遺棄された地方となった)彼の暮らす地域が、武力紛争にますます大きく巻き込まれていることを示し、また、麻薬商売ビジネスが引き起こす問題を説明し、さらに「麻薬に対する戦争」として知られる「麻薬との戦い」がいかに非効率で誤った戦略であるかを説明するためであった。

アレナスの訪米---コロンビア人権ネットワークが組織した秋のスピーキングツアーの一部であった---には、一つの明確な説得力のある目標があった。それは、グアビアレだけでなくコロンビアのアマゾン地帯全体にスプレーされている毒性の高い除草剤で不法作物を撲滅しようとする作戦が引き起こした、人々や経済、環境などに対する恐ろしい結果を、国際社会に向けて、批判することであった。こうした農薬散布は、米国政府が過去30年間押しつけてきた反麻薬政策に従って、当時の大統領アンドレス・パストラナ政権がスポンサーとなっていたものである。

ツアー中様々な場所で、大学生やコミュニティ・グループ、メディアだけでなく、米国政府の議員や行政府の職員たちが、アレナスの批判を聞いた。彼の話は無益ではなかった。彼の訪米後、コロンビア人権委員会、ラテンアメリカ・ワーキンググループ、ワシントン・オフィス・オン・ラテンアメリカが結成した使節団が、1998年、州都サン・ホセ・デル・グアビアレを訪れることが決まり、2日にわたって人々の苦情を記録した。

アレナスの政治的活動の軌跡---彼はコロンビア・メタ州のプエルト・ジエラスに生まれた---がかたちをとるようになったのは、1992年、「グアビアレのための青年運動」を結成してからである。これは、彼が率いて地域の問題、とくに若い人々に直接影響を与える問題、に限って扱う組織であった。

この運動を創設した直後、彼はサン・フアン・デル・グアビアレの市議会選挙に当選した。それ以来、彼は、対麻薬政策と空中からの毒薬散布による不法作物の強制撲滅に対する強硬な反対者として献身してきた。この立場は、彼が州議会議員(1994年から1997年)のときにさらに強化された。彼はまた、1994年から1996年までの大規模なコカ農家の行進に連帯を表明した。

現在32歳のペドロ・ホセ・アレナス・ガルシアは、コロンビア国立大学で政治学を勉強していると同意に、州代表として、コロンビア・コミュナル・ムーブメントの支持を得て、コロンビア議会の議員となっている。

数日前、アレナス議員は「ナルコ・ニュース」をボゴタの事務所に迎え、コロンビアの麻薬政策、議会、プラン・コロンビア、コロンビアにおけるコカ栽培者の運動についてオープンに語った。「ナルコ・ニュース」の記事の第一部であるこのインタビューは、コカ栽培者を巡るものである。


ナルコ・ニュース: 1994年から1996年に行われたコカ栽培者の行進について、あなたはどのようなご意見ですか?

ペドロ・アレナス: 1994年末、当時のエルネスト・サムペル大統領の政府は、2年以内にコカ栽培を根絶すると発表して、農薬散布プログラムを開始しました---むろんコロンビア政府がそれ以前は農薬散布を行なっていなかったというのではありませんが。グアビアレ地域で農薬散布が開始されたのはそのとき、1994年9月のことです。私たち(グアビアレ青年運動)は様々な警告を発表しました。農薬散布は解決にはならないこと、環境・社会・経済に対して重層的な問題を引き起こすこと、さらに、それは不公平で正しくなく、また影響を受ける地域を見る必要があり、環境担当官僚の勧告を考慮すべきであると述べました。10月、私たちは、いささか狂ったような発表を行いました。政府が農薬散布に固執するなら、農家たちは自らを動員することになるだろうというものです。これは預言的な発表でした。というのも、12月に、グアビアレ南部のミラフロレスの町でコカ栽培者の大規模な行進が始まり、それから、カラマルとエル・レトルノの町を含む北部に行進は広まったからです。

こうしたデモは、ついに、州都のサン・ホセ・デル・グアビアレに到達しました。行進参加者たちは空港を占拠し滑走路を風さしました。これにより、グアビアレでは15から20日くらい、農薬散布が中断され、政府は農家と交渉せざるを得ませんでした。3ヘクタール以下の農家に対しては薬剤散布を行わないことが合意されました。米国政府と当時の内務相オラシオ・セルパは合意を拒絶し裏切りました。この合意を遵守していたならば、コロンビアでの小規模コカ農業は合法化されていたかも知れません。政府のこうした態度により、人々は多くのデモを行いました。1996年、農薬散布は新たに始まり、多くの人々に悪影響を与え、そのため1996年にまたコカ栽培者の行進が起きました。

ナルコ・ニュース: あなたはデモ行進をどのように支援したのでしょうか?

ペドロ・アレナス: 私たちはいつも小規模農民と連帯してきました。実際、1994年にも1996年にも、コカ栽培者が作成した不平申し立てリストには、私たち自身の提案と共通する言葉が沢山ありました。例えば、1996年、「特別公共秩序地域」創設により強制される条件を受け入れることが農民にとって極めて深刻な問題であるということが私たちにはわかっていました。これは、政府の統制の届かない地域に住んだりそこで働いたりしているという単純な事実により、農民たちが、コロンビア政府の敵であるとして包囲されてしまうものでした。

1994年の行進のとき、私たちは、人々が虐待されないよう警戒していました。1996年、私たちの役割は、もっと中心的なものでした。というのも、そのときまでに私は州議会議員になっていたからです。私は州都サン・ホセに対してだけでなく、州全体に対しても責務を負っていました。96年の行進は、私が公選弁護人とのツアーを組織し、人権委員会を市レベルで組織し、この問題について演説した後に起きました。私たちは、農薬散布を監視する委員会を組織さえしたのです。コミュナル行動委員会は散布が行われたときは私たちに通達することになっていました。その翌日、委員会がTVカメラとともに、コカ作物だけでなく食料作物と動物に対しても加えられたダメージを記録することができるよう、委員が出掛けるのでした。散布による社会的な混乱と健康問題を記録することができました。

1996年の行進の際、中央政府との会談を仲介しなくてはなりませんでした。何度もボゴタを訪れ、高官と接触し、行進の指導者たちが軍の検問所を通過して政府委員会と会談できるよう保証を得なくてはなりませんでした。また、下院と上院の議員の一部が地域を訪れ、農夫たちの危機的に深刻な状況を目にしました。

結局、すべての仲介を行い、苦情を全国・国際レベルに持ち出しました。というのも、要求されていたことはとても正当だったからです:問題は単に農薬散布を停止することだけでなく、グアビアレ(そしてアマゾン地域一般に)には特別な開発計画が必要であることを示すものでした。それには、コロンビア政府が長期的な政策を樹立し、それによって農夫達が弾圧の標的とならないようにするような真の政策実施が含まれていました。というのも、この国で不法作物栽培が拡大している理由は、社会問題に起因するからです。

ナルコ・ニュース: 1994年と96年のコカ栽培者の行進の際、警察は侵害や虐待を行なったのでしょうか?

ペドロ・アレナス: 沢山ありました。とりわけ96年には。メディアはその一部を報道しました。それを映像に収めたテレビ局の記者の中にも虐待を受けた者が出ました。これらすべては、グアビアレだけではなくカケタやプツマヨ、ノルテ・デ・サンタンデルなどでも起きました。それらの地域にも行進は広まっていたのです。3、4カ月に動員された200万人以上の農民についての話なのです。

いくつかの地域では、政府は農民と交渉し、別の地域では交渉しませんでした。たとえば、プツマヨでは、農民たちは合意に達しましたが、それに対しては他の農民組織から疑問の声が挙がりました。というのも、合意は農薬散布の問題にも、地域での警察の手による不当な扱いについても触れていなかったからです。グアビアレでは、農民使節団がまさにその点が中心的な問題であると考えていたために、合意に達しませんでした。政府はいくつかの社会プログラムを約束し、農民たちに合意に署名させたがっていましたが、同時に何らかのかたちで農薬散布を受け入れさせ違っていました。当然、農民たちは合意しませんでした。実際のところ、行進が終わったのは消耗してしまったからです。つまり、経済的な困難、食料の欠如、健康問題によってでした。これは全て、軍が行進を妨害し、人々を町の広場や州都に入れなかったためです。そのため、人々は実質的に立ったままあるいは川岸で、攻撃を受け続けながら寝ざるを得ませんでした。こうした要員から、動員は消耗し、一方で農薬散布は継続されたのです。

ナルコ・ニュース: コロンビアでの現在のコカ栽培者の運動についてはどう思いますか?大規模な行進は消えてしまったようですが、何故でしょうか?

ペドロ・アレナス: これまで用いてきた戦略で具体的な目標を達成するという考えに対して人々は信頼をかなり失ってしまったのです。農民の家族にとって、農地や家、土地、動物を蜂起して3カ月続く行進に行くのは容易ではありません。最終的に要求が達成されないならば。例えば、このケースでの目標は政府に農薬散布を止めさせることでしたが、そうはなりませんでした。ですから、人々は幻滅したのです。

そして言うまでもないことですが、こうした地域では警察の問題がひどく悪く、地域で政府の統制をもたらす大規模な警察の作戦がありました。そのときFARCゲリラがそれに対応して、ある意味で、農民の運動を防衛するために介入しました。それからパストラナとFARCは和平交渉に入りました。交渉の要点の一つは、この問題でした。それ以外に、この問題について発言した30人の外交官の臨席のもとで国際公聴会が開かれました。

こうして、農民の運動は「ゲリラ化」され、そのため、運動の指導者たちが脅迫されるといった問題が起きました。指導者たちの多くが殺されました。例えばカケタでは、農民のために交渉の役割を担った17人のうち15人が殺されたのです。行進の後、農民たちは身を守るすべがありませんでした。プツマヨでは、当時の行進の指導者たちの多くがゲリラに参加したことを知っています。これは、コカ農家運動の全行動をゲリラ活動の中に置いてしまうという意味で少し無責任でしたし、それによって新たな指導者たちがバナーを掲げることがより難しくなりました。というのも、そうすれば、新たな武装活動と見なされてしまうからです。同じ理由で、他の指導者たちはコロンビア中部に家族とともに避難し、社会闘争から完全に分断されてしまいました。そして、他に運動のダイナミズムにダメージを与えたもう一つのことは薬剤散布です。指導者たちそして農家一般に経済的な問題をもたらしたためです。

ナルコ・ニュース: 他のラテンアメリカ諸国---たとえばエボ・モラレスといった人物のいるボリビア---では、コカ栽培者運動はとても強固で組織的に政治に関与していることは明らかです。あなたがこれまで説明してきた要員とは別にして、コロンビアのコカ栽培者運動が同様の力を手にしていない理由は何かありますか?

ペドロ・アレナス: どこでも性格は異なるものです。例えば、ボリビアはアンデスの人々の運動で、真の問題であるコカの問題をかかえている先住民の間には文化的な一貫性があります。こうした人々については、自らそれを示すことができるのですが、人々は伝統的な活動の中でコカを使ってきたのです。ここで起きていることは大きく違います。問題は作物だけではなく、「我々が千年も続けてきた作物をどう守るか」の問題ではなく、武装集団---軍、準軍組織、ゲリラ---との対立の問題でもあり、異なるカルテルや麻薬商売組織の存在でもあります。

そして、ここで話しているのは一つの麻薬取引系統だけではなく沢山の系統なのです。コロンビアは精製されたあとの麻薬を国際市場に送り出す拠点となっています。この背後にある金の利害はコロンビアにあり、土地所有者による麻薬商売から来る金の問題です。実際、麻薬商人の多くは金持ちになり、プランテーションや土地を買い続けているのです。ですから、コロンビアで事態に影響を与える要因ははるかに複雑です。

ナルコ・ニュース: けれども、コロンビアでも、先住民コミュニティがあって自らの土地でコカを栽培し、「神聖なる土地」について話し、文化的伝統としてコカ作物の尊重を要求していると思いますが。

ペドロ・アレナス: 問題は、コロンビアの先住民は組織として弱いのです。人口としても決定要因となる多数ではありません。コロンビアでは先住民は10%にも満たないのです。アマゾン地域を含め---先住民の植民地化は今日より強固です---、例えばグアビアレの先住民は、7%にも届きません。カウカの先住民はこれら全ての点で強い立場にいます。そこの人々は行進し動員します。けれども、全国的な観点では、先住民だけが行動してもあまり多くを実現することはできません。最近達成した一つの成功があります。法廷は、先住民居住区での農薬散布の前に、政府はまず伝統的な権威と相談し、承認を得たときにのみ農薬散布をすることができるとの判決を下しました。承認が得られないならば、別の根絶方法を採らなくてはならないというのです。これは先住民にとって大勝利ですが、農民はこれを享受できません。

ですから、コロンビアでは、大きな問題は社会的なものです。土地、わずかな土地で農地を作ろうとしている人が沢山ジャングルにいること、生きるために必要な収入を得る機会を見つけることなど。コカ栽培は、多くの人々にとって、そもそも資源を手にするための唯一の選択肢なのです。そしてわずかな蓄えを得て、後に農園を運営するための・・・・・・

シリーズの第一部です(が、第二部をいつお送りできるかは未定です)。コロンビアでは、大土地所有者が大規模な農園を経営しそこを私兵が防衛する一方、地下資源が発見された地域では、そこに暮らす農民たちが組織的に準軍組織により残虐な暴力で追放され、グローバル化と称して多国籍企業が進出します(もともと農民たちがどんどん奥地へ追いやられていった経緯があります)。

追放された人々は、生存のためにコカ栽培に頼る以外ないことも多く、一方で代替作物やコーヒーなどは、成功したものも、「コカ撲滅」のための「薬剤空中散布」で大きな打撃を受けるという悪循環があります。国内避難民は約200万人。関連記事としては、空から降る死コカ撲滅はペルーでの対立をもたらすか?などをご覧下さい。

9月10日、メキシコのカンクンで開催されたWTOの会議で韓国の自営農民の指導者が抗議自殺を行いました。イラク侵略が私営化の隠れ蓑という側面を持つように、経済の多国籍資本による「グローバル化」は、ますます強く、あからさまな武力行使と結びついています。コロンビアにおける暴力と経済問題との複合的な関連は、その典型的な事態の一つです。
益岡賢 2003年9月15日

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