あれから5年 ファルージャ 2004年4月
2009年4月4日
ジェレミー・スケイヒル『ブラックウォーター』第9/10章一部抜粋
『ブラックウォーター』は作品社より2009年中に刊行予定です

5年前の今日、米軍はファルージャを包囲し、総攻撃を加えました。病院を占領し、救急車に向かって発砲し、白旗を掲げて出てきた民間人を射殺し、遺体を取りに外に出た家族に発砲する。4月の攻撃で数百人が殺されました。その多くは女性や子ども、老人でした。

あからさまな戦争犯罪とテロ行為。現場の様子については、当時ファルージャにいた数少ない西洋の独立ジャーナリストや人道活動家の証言があり、それは『ファルージャ2004年4月』(現代企画室)にまとめられています。また、優れたジャーナリスト土井敏邦さんがファルージャ包囲後すぐに現地に入り取材した同タイトルのドキュメンタリー映像『ファルージャ2004年4月』が、現地の様子を記録しています。

あれから、5年。

当時、ファルージャで米軍が犯していた戦争犯罪を適切に伝えたとは言い難い、したがってイラクの人々の状況になど関心を持っていなかった大手メディアが、イラクからの米軍撤退については突然イラク人への愛に目覚めたのか、「米軍撤退後の治安が心配される」などと言い出している現在、米軍のイラク侵略と占領はどのようなものか、それを象徴的に表すファルージャの状況を振り返ることにします。

5年前、米軍がファルージャ全面攻撃を開始した本日は、ジェレミー・スケイヒル『ブラックウォーター』から該当章の一部を抜粋・編集して紹介します。4月末には私の友人たちが、小規模な土井敏邦さんの映像上映会を計画中です。確定次第、それもご紹介したいと思います。


米軍による最初のファルージャ包囲攻撃が始まったのは2004年4月4日のことだった。攻撃は「慎重な決断作戦」と名付けられた。その夜、海兵隊員1000人以上とイラク人大隊2隊が、人口およそ35万人の都市ファルージャを包囲した。米軍は、市中につながる主要通路に戦車、重機関銃、そして装甲高機動多目的装輪車を配備した。彼らは蛇腹型鉄条網で道路を封鎖して人びとを実質上市内に閉じ込め、海兵隊は被拘禁者のための「キャンプ」を設置した。米軍は地元ラジオ局を乗っ取りてプロパガンダ放送を流し、米軍に協力してレジスタンス戦士の身元や居場所を教えるよう呼びかけ始めた。

イラク警察は、武器の禁止および午後7時から午前6時までの強制的な外出禁止令を知らせるビラをファルージャのモスクに配布し、3月末、ブラックウォーターの傭兵を襲撃した疑いがある男たちの写真を載せた「指名手配」ポスターを配った。街の郊外では、狙撃手がモスクの屋上で位置に付き、海兵隊はイスラム教墓地の近くに塹壕を堀った。「街は包囲された。我々は市内にいる悪党どもを探している」。第一海兵遠征軍ジェイムズ・ヴァンザント中将は記者団にこう語った。

米軍司令官は代理のイラク人たちを街へ送り、ファルージャの人びとに、米軍が家に入って来たときには抵抗せず、捜査中は全員をひとつの部屋に集めるよう指示させた。押し入ってきた兵士に話があるときは、まず手を挙げなければならない。米国の猛襲が始まる前に街を逃れたファルージャ住民は数千人にのぼった。

翌朝、米軍はファルージャに最初の侵攻を行なった。まず特殊部隊を送り入れ、次いで戦車を従えた三つの大隊からなる2500人の海兵隊が猛攻撃を開始した。レジスタンス兵士の抵抗が続く中、海兵隊は上空掩護を呼んだ。4月7日、AH−1Wコブラ攻撃用ヘリコプターが、アブドル=アジズ・アル=サマライ・モスクの境内を攻撃した。モスクの尖塔にヘルファイア・ミサイルが撃ち込まれた、F−16が500ポンド爆弾をモスク境内に投下した*12。この行為は、宗教施設への攻撃を禁ずるジュネーブ協定に違反する。目撃者の証言によれば、約四〇人のイラク人が、このモスクへの攻撃により殺された。

米軍はファルージャ最大の医療施設を占拠したため、負傷した人びとは治療のためにその病院を使うことができなくなった。「米軍は攻撃の初期段階で発電所を爆撃した」。従軍記者以外でファルージャに入った数少ない記者のひとり、ラフール・マハジャンはこう回想する。「それからの数週間、ファルージャは街全体が停電し、発電機で電気が供給されたのは、モスクや診療所などの重要な場所だけだった」。市内では食糧が底をつきはじめ、地元の医師によると4月6日に住宅地になされた空爆で子ども16人と女性8人が殺されたという。

「我々は市内に完全に身を落ち着け、部隊は制圧を進めている」と海兵隊司令官ブレナン・バーン中佐は言った。抵抗する者は「粉砕する。奴等を排撃する」。バーンの小隊は、競ってもっとも侮蔑的な言葉を思いつき、通訳者に拡声器でそれを叫ばせた。激怒したイラク人がAKを乱射しながらモスクから突進してくると、海兵隊員が彼らを撃ち殺した。侮辱して発射する戦術は徐々に広まった。

主にアラブ系テレビ放送の記者たちを通してファルージャから悲惨な人道的危機を映し出した映像が流出すると、イラク全土で抗議行動が広まった。米軍は暴力によりこれらを弾圧した。バグダッドを始めとする各地のモスクは、ファルージャへの人道的輸送団を結成し、血液の備蓄を始めた。市内にある地元病院の関係者たちは、4月8日までに280人以上の一般市民が殺され400人以上が負傷したと、恐ろしい人的被害の状況を伝えた。「さまざまな場所で死者や負傷者が瓦礫の下に埋もれていることもわかっているが、戦闘のため、彼らを救出することができない」とタヘル・アル=イサウィ医師は述べている。

米軍は一般市民を殺していることを否定し、レジスタンス戦士が一般市民に紛れ込もうとしていると非難した。「ゲリラと一般人を区別するのは難しい」とラリー・カイフェシュ少佐は言った。「実状を把握するのは難しい。自分の直感でやるしかない」。これはビン・ラーディンが西洋諸国の市民を標的にするときに用いる論理と同質のものだった。

包囲攻撃が始まって一週間近くすると、街には死体が積み上げられ、証言者によればファルージャ中に死臭がただよっていたという。講和全権団とともにファルージャへ入ることができたバグダッドの医師は、「あんな光景をファルージャで目にするとは思ってもみなかった」と語った。「罪のない人びとに対してアメリカ人がしたことは、地球上のいかなる法律をもってしても正当化できるものではない」。

一方、米国出身の独立系ジャーナリストで人道支援車列とともに市内に入ったダール・ジャマイルは、小さな診療所にある間に合わせの救急処置室で目にした光景を記述している。彼は、包囲された街からの特報に、「私がいる間にも、この不衛生な診療所には次から次へと女性や子どもが運び込まれてきた。米軍に狙撃された人々だ。何台もの車が診療所正面のカーブに猛スピードで乗りつけては、家族が泣き叫んで患者たちを運び込んでいく。ある女性と幼い子どもは首を撃ち抜かれていた」と書いている。「幼い子どもの方は生気を失った目で中空を見つめ、医師たちがその子どもの命を救おうと急いで処置を施している間も、絶え間なく嘔吐していた。30分が過ぎ、女性も子どもも、どちらも助からないようだった」。ジャマイルは、次々と犠牲者が診療所へ運び込まれるのを目撃し、「そのほとんど全員が女性と子どもだった」と言っている。

一方で、マハジャンは次のように伝えている:「500、1000、2000ポンド爆弾を落とす大砲や戦闘機、そして一分もしないうちに街区を完全に破壊することができる殺人的なAC−130スペクター武装ヘリコプターに加え、海兵隊は、街中に狙撃兵も配備していた。何週間もの間、ファルージャは、狙撃手の銃弾が飛ぶ無人地帯によって隔離され、時に相互に孤立した地帯へと分断された。狙撃手は、たいてい動くもの全てに対して、無差別に発砲した。私が診療所にいた数時間のうちにやって来た20人のうち、「軍適齢男性」は5人だけだった。私が見たのは老いた女性や男性、銃弾を頭に10発受けた子どもだった。瀕死の状態だったが、医師たちによると、バグダッドだったら助かったかもしれないという。すべての救急車に銃痕が見られた。私が調べた2台には、はっきり狙い澄ました狙撃であることを示す明らかな証拠があった。負傷者を集めるために外に出た私の友人たちも撃たれた」。

ジャマイルは、「住民たちはサッカーグラウンドを二つ、墓場に変えた」と伝えている。

アルジャジーラへの戦争

米国の「主流」メディアはイラク人が耐え被っていた膨大な人的被害を軽んじていた。戦闘が激化し、ファルージャ郊外へ飛び火していく中、ニューヨーク・タイムズ紙特派員ジェフリー・ジェトルマンは、人道的破局にまったく言及せずに、この激しい戦闘は抵抗勢力の激しさを示すだけでなく、「反乱分子たちの間に死への強烈な意欲があることも表している」と書いている。ファルージャで殺されたイラク人の「90から95パーセント」は戦闘員だったという米軍の主張を掲げる米国の「高級紙」による従軍報道は、米軍の公式プロパガンダとほとんど見分けがつかなかった。ジェントルマンの記事には、「奴等にとってこれはスーパーボウルだ」という海兵隊報道官T・V・ジョンソン少佐の言葉が引用されている。「アメリカ人を殺したければファルージャに行けばよい、というわけさ」。

一方、独自の取材活動をしていたアラブ人記者たちは、米軍に包囲された市内から逐一状況を伝えていた。彼らの報道は一般市民の受けた凄惨な被害をありありと伝え、米軍司令官が主張する精密照準爆撃が偽りであったことを証明した。アルジャジーラとアルアラビーヤは、路上の死体や破壊された街のインフラなどの映像を放送した。実際、マーク・キミット准将がアルジャジーラとの電話インタビューで米国は停戦を保っていると強調していた時に、アルジャジーラはファルージャ市内の住宅地に米軍戦闘機が加えていた空襲の様子を同時中継で放送した。

アルジャジーラのベテラン・ジャーナリスト、アハメド・マンスールとカメラマンのライス・ムシュタクは、4月3日にファルージャ入りしており、街で一般市民が受けた徹底的な破壊を写した映像を伝える主な情報源だった。彼らは米軍の攻撃で女性や子どもが殺害された現場を何度も撮影した。アル・ジョラン地区の一家全員が米軍の空爆で殺されたとされる事件について、ムシュタクは「飛行機が近隣一帯とともにこの家を爆撃し、死体が病院に運ばれた」と述べる。「私は病院へ行った。目にしたのはおびただしい数の子どもと女性の死体ばかりだった。農民たちには大抵、大勢の子どもがいるため、特に子どもが多かった。信じ難い、想像を絶する光景だった。私は泣きながら写真を撮った。無理に自分に言い聞かせて写真を撮った」。

アルジャジーラで最も有名な記者の一人、マンスールは、次のように述べている。「私は、全世界に真実を伝えたかった。包囲された人びとに何が起きているのかを世界中の人びとに知ってほしかった。街を去ることなど考えなかった。私は街に残り、住民と運命を共にしようと決めた。もし彼らが死ねば、私は彼らとともに死ぬ。彼らが逃げれば、私も同行する。何が起こるか、米兵に捕まったら何をされるかなどは考えないことにし、家族のことも考えないようにした。これらの人々のことだけを考えよう、と」。

包囲攻撃の真っ只中、マンスールはファルージャから中継で報道した。「昨夜、私たちは二度、戦車に標的にされましたが、逃げ切りました。米軍は私達をファルージャから追い出したいのです。しかし、私たちはここに留まります」。米国人の従軍特派員を厳格に統制していたにもかかわらず、この世界規模のプロパガンダ戦争で米国政府は敗北しつつあった。そこで米国政府高官は情報を伝える人々への攻撃を開始した。

4月9日、米国政府は停戦の条件として、アルジャジーラに対しファルージャから立ち去ることを要求したが、アルジャジーラはこれを拒否した。翌日、マンスールは、「米軍の戦闘機が我々の新しい居場所の周辺を攻撃し、我々が前の晩を過ごした家を爆撃したため、家主のフセイン・サミール氏が死亡した。深刻な危険があったため、我々は数日間放送を止めなければならなかった。我々が放送しようとする度に、戦闘機に見付かり攻撃されるからだ」と書いている。

4月12日、ファルージャで一般市民が受けた大惨事を伝えるアルジャジーラの映像について質問されたキミットは、「チャンネルを切替えろ。正統で権威のある誠実な放送局にチャンネルを切替えろ」と人びとに要求した。「アメリカ人が女性や子どもを故意に殺しているところを放送している局はまともな情報源ではない。それはプロパガンダだ。嘘だ」。

4月15日、ドナルド・ラムズフェルド国防長官はこの見解に同調して、アルジャジーラの報道を「邪悪で不正確な許されないもの」と非難した。ある記者がラムズフェルドに、米国は「民間人犠牲者」の数を把握しているかと質問したのに対し、ラムズフェルドは「もちろんしていない」と答えた。「我々は市内にはいない。だが、我が軍が何をするかは御存じのはずだ。我が軍は数百人の市民を殺して回ったりはしない・・・・・・あの放送局は恥ずべきことをしている」。

英国のデイリー・ミラー紙に掲載された、「極秘」の印が押された英国政府の記録によれば、ブッシュ大統領は英国のトニー・ブレア首相にアルジャジーラを爆撃したいとの意向を伝えたとされている。ある情報筋は、「彼はカタールをはじめ各地のアルジャジーラ局を爆撃したいと明言した」とミラー紙に伝えている。「ブッシュが何をしたかったのかは疑いようがない」。

アフマド・マンスールは、次のように語っている。「戦闘は双方の側から伝えられなければならない。我々は市民の中にいて、そこから報道した。向こう側には、イラクを占領してこの攻撃を仕掛けている米軍関係者に付いて回る従軍記者がいて、報道したいことを報道した。我々は、真実が失われないように均衡とバランスをとろうとしていた」。

集団的懲罰

週末の4月9日、米国当局が「停戦」と呼ぶものが発効したときには、約30の海兵隊員が死亡していた。しかし、一番大きな代償を払ったのはイラクの人々だった。ファルージャでは、米軍による包囲が一週間続いた後、約600人が死亡した。その中には「数百人もの女性と子ども」が含まれていた。

4月13日、ブッシュ大統領は米国の全国放送でゴールデンタイムに演説を行ない、「他国から来たテロリストがイラクに潜入し、組織的な攻撃を誘発した」と、ホワイトハウスのイースト・ルームから発表した。「我々が目にしてきた暴力は、残忍な急進派の権力争いによるものだ・・・・・・民衆の蜂起ではない」。

しかし、地球の裏側では、イラクの他の地域に逃れた数千人のファルージャ市民が、どんなプロパガンダをもってしても敵うことのない、恐怖と民間人の死の話を運んだ。米国の宣伝とは別に、イラクの人々は、ファルージャの破壊と数百人の死を正当化する公式の理由が、ブラックウォーターの米国人傭兵四人----イラク人の人々にとってこれら傭兵をこそが不法にイラクに来た「外国人戦士」だった----の殺害にあることをイラク人は理解していた。

地元モスクの聖職者は、ある記者に、「米国人傭兵を殺した人物が誰なのか、我々は知っている。しかしブレマーは、我々と話合いもせず、復讐に走った」と語った。米国が任命したイラク統治評議会のメンバーでさえ、怒りを表した。アドナン・パチャチ、イラク運営評議会長は、「ファルージャ住民全員を罰するのは間違っている。我々は、米国人によるこうした作戦は許しがたい不法なものだと考える」 と述べた。

米国の評判が悪化の一途をたどり破滅的状況に陥った中、キミットは、「言わせてもらえば、ファルージャの人々に集団的懲罰を加えているのは、モスクや病院や学校に潜み、女性や子どもを盾にその陰に隠れて、海兵隊から身を隠そうとしているテロリストの卑怯者たちであって、ファルージャ市に潜入したこれら卑怯者からファルージャを解放しようとしている海兵隊ではない」と述べた。

しかしながら、世界の大部分は、ファルージャ市民に「集団的懲罰」----イスラエルの対パレスチナ政策のイメージを思い起こさせるアラビア語の文句----を加えているのは米国であると考えていた。事実、イラク国連特別代表ラクダル・ブラヒミはまさに次のように語っている。「集団的懲罰は許されない。ファルージャ市への包囲攻撃は決して許されるものではない」。彼は、「都市を包囲し、爆撃し、人びとを病院に行けなくするとき、それを何と名付けるだろう?」と問うている。

ファルージャに対する、この最初の包囲攻撃で、最終的には恐らく約800人のイラク人が死亡した。家を逃れた住人は数万人にのぼり、街は破壊された。それでも米国はファルージャを粉砕できなかった。

4月のファルージャ包囲攻撃に続き、数カ月後の2004年11月、米軍はファルージャにさらに大規模な攻撃を加えた。それによりさらに数百人のイラク人が死亡し、数万人が家を追われ、イラク全土が一層の怒りに包まれた。米軍は総計700回近く空爆を行ない、ファルージャに3万9000軒あった建物のうち1万8000軒を破壊した。

米国政府や米軍の関係者が約束したようにブラックウォーター傭兵襲撃事件の「犯人」たちが見付かることはなかった。そのため、米軍がファルージャで行なった大虐殺の復讐的要素はさらに強調されることとなった。海兵隊は悪名高い橋の名を「ブラックウォーター・ブリッジ」に変えた。橋桁のひとつに何者かが黒いマーカーで次のように英語で書いている:「2004年、ここで殺害されたブラックウォーターのアメリカ人のために。常に忠誠を。P・S くたばれ」。

ジャーナリストのダール・ジャマイルはしばらくのちに次のように書いている。「2004年4月、米軍がファルージャに侵攻し、住民が逃げ回ったり身を隠したり虐殺されていたとき、アメリカでは、イラクでバラバラにされた米国人に対する一般の関心は非常に高まった。報道によるものだった。しかし、4月だけで遺体損壊に言及した記事は何千となくあったにもかかわらず、3月31日以降に起きた遺体損傷についての言及を見つけることはできない。・・・・・・米国人にとって、遺体損壊は、ブラックウォーター社に雇われた傭兵をはじめとするアメリカ人のプロの殺し屋の身にだけ起きることであって、頭がなくなったイラクの赤ん坊に起きることではないらしい」。

益岡賢 2009年4月4日

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