エルサルバドル 一九八〇年〜一九九四年
人権、ただしワシントン式

ウィリアム・ブルム著
キリング・ホープ 第54章の一部



エルサルバドルは、一九六〇年代まで、中米で最も裕福であると言われましたが、一四家族と言われる大富豪が全土地の六〇%を所有し、経済・政治・社会を支配する状況が続き、貧富の差は極端でした。一九七〇年代には、農民組合や共同組合、労働組合などの草の根の組織が発達しますが、それに対して米国の支援を受けた「死の部隊」が虐殺と過酷な弾圧を加えてきました。こうした中、米国大統領カーターに、エルサルバドル独裁政権への軍事援助を行わないよう要請したオスカル・ロメロ大司教が一九八〇年暗殺され、これを機に、すでに活動していた反政府ゲリラの武装闘争が拡大し、内戦に突入。

一九八〇年代には、「司祭を殺して愛国者になれ」というスローガンのもと、民衆組織に参加した多くの人々とともに、カトリック教会関係者が標的とされました。一九八〇年代の政府軍と反政府ゲリラの内戦で、人口五〇〇万人のエルサルバドルで、死者七万人、国内外の難民は一〇万人に達しました。一九九二年一月、両者は和平に合意。一九九四年には議会・大統領選挙が行われ、「死の部隊」と関連を持っていたARENA(民族主義共和同盟)が政権党となりました。それ以来、ARENAから大統領が出ていますが、元ゲリラの対立政党FMLNもかなりの議席を占めています。現在でも、経済改革・農地改革は進まず、貧しい人々は貧しいままで、人権侵害も極めて悪い状況にあります。

この記事は、拙訳『アメリカの国家犯罪全書』(作品社)の原著者ウィリアム・ブルムの大著『キリング・ホープ』の第54章、エルサルバドルへの介入を扱った章の一部抜粋です。スナップショットしか示していませんが。。。

合州国はエルサルバドル政府を支援している、とロナルド・レーガン大統領は発表した。それというのも、米国は、「テロリスト及び外部の介入が、米州に侵入してくるのを阻止しようとしているからである。そして、侵入者たちは、エルサルバドルだけを標的としているのではなく、中米全体そして恐らくは南米全体を標的としていると思われ、さらに、そのうちには北米も狙っていると私は確信している」[1]。


人間の顔

一九八二年一月二八日、レーガン大統領は、議会に対し、エルサルバドル政府は「国際的に認められた人権を遵守しようと猛烈かつ相当の努力をしており」、「治安部隊によるエルサルバドル市民の無差別拷問と殺害とを終わらせるべく、軍の全ての分子に対して強い統制をとっている」と確言した。これは、米国政府が武器と米軍兵士の提供を続けるならば従わなくてはならないと議会が政府に課した言葉に対応するものであった。

その二日前、米国と世界のメディアは、一九八一年一二月に、政府軍がエル・モソテ村での人々に対する虐殺に関与したニュースを報道していた。七〇〇人から一〇〇〇人の人々が殺された。そのほとんどは、老人と女性、子供であった。一九九三年、この虐殺に関する長い詳細な報告が現れたとき、犠牲者に直接向き合って軍が行なった虐殺としては、二〇世紀でも最も忌まわしい残忍な虐殺であったことが、ますます明らかになった。人々は山刀で斬り殺された。多くの人々が頭を切断された。子供たちは空中に投げ飛ばされ、落ちてきたところを銃剣で串刺しにされ、非常に若い少女たちが殺される前に酷く強姦された・・・。気乗りしない兵士に対して、ある軍士官は、「今奴ら〔子供たち〕を殺さなければ、大人になってゲリラになるだけだ」と吼えた。反共の絶頂だった。

事件当時もその後も、米国国務省は、メディアの大きなの共謀のもとで、この虐殺を否定し隠蔽してきた[37]。議会委員会における国務省の弁明は、委員会の委員を大きく失望させた。その当時は、まだ議員たちは、全貌を知らなかったにもかかわらずである[38]。

レーガン大統領が確約した二日後、世界は、エルサルバドル軍が深夜に約二〇名の人々をベッドから引きずり出し、拷問して殺し、その際、十代の少女数名を強姦したというニュースを目にすることとなった[39]。

その月の上旬に、ニューヨーク・タイムズ紙は、脱走したエルサルバドル軍兵士とのインタビューを記事にしていた。この兵士は、十代の捕虜を使って残酷な拷問方法が実践された授業について述べた。恐らくはグリーン・ベレーと思われる八名の米軍顧問がその場にいたと彼は語った。それを見ることによって「もっと男らしく感じることができる」と、あるエルサルバドル士官は新兵たちに語り、さらに、「誰に対しても同情すべきではなく」、「わが国の敵を憎むことだけが必要だ」と付け加えた[40]。

国家警備隊の元隊員だった別のエルサルバドル人は、後に、次のように証言している。「私は一二人からなる部隊に属していた。熱心に拷問を行ない、ゲリラだという人々を捜していた。私は、パナマで九カ月間、米国の・・・・・・〔聞き取れず〕から対ゲリラ戦の訓練を受けた。その中には拷問の授業も含まれていた」[41]。

国家警備隊の士官は、米国でも訓練を受けた。一九八六年八月、CBSテレビは、右派「死の部隊」と関係する警備隊の上級士官三名が、フェニックス[米アリゾナ州の州都]にある警察学校で訓練を受けたと報じた[42]。

一九八四年、アムネスティ・インターナショナルは、次のような情報を入手したと発表した。

エルサルバドルの正規治安部隊と軍の部隊が、エルサルバドル社会のあらゆる部門の文民非戦闘員に対して、拷問や「失踪」、殺害を行なっているという報告を、継続的に、しばしば毎日、受け取っている。〔・・・・・・〕多数の患者が病床及び手術室から連れ去られ、拷問を受け殺されたと言う。〔・・・・・・〕逮捕と尋問を生き延びた人々から、殴打や性的虐待、化学薬品を用いて酩酊させること、処刑のふり、硫酸で体を焼くことといった類の拷問が報告されている[43]。

こうした報告や、多数の同様の報告の中で[44]、エルサルバドル政府に軍事援助を継続することに対する議会の躊躇を押し切るために、レーガン政権は、何らかの創造性を発揮しなくてはならなかったことが理解できる。そのため、一九八四年三月には、政府は、追加の軍事援助を、飢餓状態にあるアフリカの人々に対する米国の食料供給提供法案にくっつけて提出した[45](その数日後、ニカラグアのコントラ支援要求を、厳冬に苦しむ米国の一部地域の貧困層に対する緊急燃料費用を提供する法案にくっつけて提出した)[46]。

「死の部隊」による処刑や軍の虐殺、多数の失踪者・・・その数は、ゆうに数万人に上った。さらに「死の部隊」は、米国内にも腕を伸ばしていたかも知れない。一九八七年、ロサンゼルスに住み、難民と共に働いたり米国の対エルサルバドル軍事援助に強く反対していた多数の米国人とエルサルバドル人が、殺害脅迫を受け取った。自らの教会を「サンクチュアリ」運動に供していたカトリック教会の司祭ルイス・オリヴァレス師は、「EM」と書かれた匿名の手紙を受け取った。「EM」と言う文字は、エルサルバドルで、標的とされた人々の家のドアや建物にしばしば書かれていたもので、「Escuadron Muerto」(死の部隊)の頭文字である[47]。

一九八七年七月、脅迫電話や脅迫状を受け取っていたエルサルバドル人女性ヤニラ・コレアが、エルサルバドル人民連帯委員会(CISPES)のロサンジェルス事務所前で誘拐された。彼女によるとエルサルバドル訛りで話す二人の男が、ナイフを突きつけて彼女を無理矢理バンに乗せ、タバコの火で彼女の指を焼き、棒で性的に虐待し、強姦した。その一カ月前、彼女は、三歳の息子と一緒にいた際、危うく拉致を逃れていた。他の活動家は、車を潰されたり壊されたりした[48]。

レーガン政権下の数年にわたって、FBIは全米で、CISPESを捜査していた。この期間に、CISPESの事務所のいくつかには誰かが押し入り、貴重品ではなくファイルだけが盗まれた。後に明らかになったFBIの電信には、「現在、CISPESに対する攻撃計画を作ることが必須である」とある[49]。


一九八〇年代、ワシントンの政府筋は、時折、エルサルバドル政府に対して人権状況を改善するよう警告したり、議会に人権状況は改善されていると述べたり、世界に向けて米国の影響がなければ状態は遙かに悪かっただろうと述べたりしていた。その間のほとんどを通して、米国は、残虐行為に関与している軍と準軍組織の各部門全てを強化し続けていた。一九八四年、ニューヨーク・タイムズ紙とのインタビューで、エルサルバドル治安警察の最高位まで勤めた元エルサルバドル軍士官ロベルト・エウラリオ・サンティバニェスは---当時まで信じていなかったかも知れない人々に対し---「死の部隊」のネットワークは、主なエルサルバドル軍士官が考案したもので、今もこれらの士官たちの命令下にあると語った。彼はまた、士官たちの一人で、これはエルサルバドル治安部隊の中で最も規律がなく最も残忍であると永年にわたり思われてきた財務警察の長官であるニコラス・カランサ大佐が、五、六年にわたって、CIAから年間九万ドル以上を受け取ってきたとも述べた。レーガン政権自身も、財務警察の一部が「死の部隊」の活動に関わっているとしていたにもかかわらず、米国は財務警察に訓練と装備の提供を続けた[50]。

一九八九年二月にサンサルバドルを訪問した米国副大統領ダン・クエール[一九四七年−]は、軍の司令官たちに対し、「死の部隊」による殺害や、その他の軍による人権侵害は終わらせなくてはならないと語った。その一〇日後、米国に訓練されたアトラカタル大隊---この大隊には米軍訓練官一名が常備随伴していたと考えられている---が、ゲリラの野戦病院を襲撃し、患者五人と医者、看護婦それぞれ一人を含む、少なくとも一〇名を殺した。また、女性犠牲者の少なくとも二人を、射殺する前に強姦した。エルサルバドル軍に近い筋は、後に、クエールの警告は真面目には受け取られず、米国議会と米国人向けのレトリックと受け取られた、と述べている[51]。

一九八九年一〇月、元エルサルバドル軍コマンドのセサル・ヴィエルマン・ホヤ・マルチネスは、CBSイーブニング・ニュースとのインタビューで、彼と彼の部隊---軍の第一旅団諜報部門---の他の軍人が秘密「死の部隊」として行動していたこと、二名の部隊付き米軍顧問は暗殺に気付いていたけれども詳細を耳にすることは拒んだこと、米軍顧問から彼の部隊に提供された資金が、「死の部隊」の作戦に使われた二台の一般車と、作戦の秘密基地及び武器庫として使われた隠れ家を維持するために役立ったことを語った。その後、米国メディアとのインタビューの中で、ホヤ・マルチネスは、顧問がマウリシオ・トーレス及びラウル・アントニオ・ラソという名前を使っていたこと、一九八九年四月から七月までに彼の部隊はエルサルバドルの反対派七四名を暗殺したこと、彼自身八人の拷問殺害に関与したことを語った。反対派組織(労働組合ホールと失踪者の母からなる組織と)に対する一一月の致命的な爆撃について言うと、ホヤ・マルチネスの部隊は、米国顧問から爆発物の訓練を受けていた。ワシントンのエルサルバドル大使館は、政府の「死の部隊」の活動に対する関与を否定しながらも、「ホヤ・マルチネスが第一旅団の諜報部隊の隊員であったこと」を確認した[52]。

一九九〇年七月、「エルサルバドルに関する議会議長タスクフォース」の委員長ジョセフ・モークレー下院議員(マサチューセッツ州選出・民主党)は、次のように発表した。「昨年八月からホヤ・マルチネスが米国にいて、あらゆるインタビューを受け、逮捕されながら、政府の誰一人として彼に質問をしようとすらしないという事実は、いささか奇妙である。答えを知りたくないというのでない限り」[53]。

同じ月の一二日、ホヤ・マルチネスは、六年前に国外退去処分になってから、米国に不法入国した罪で逮捕されていた。長い法的闘争の後、一九九二年一〇月に、彼はエルサルバドルへの送還を命ぜられた。米国における彼の支援者たちは、エルサルバドルでの彼の身の安全に対して憂慮を表明したが、これに対して、国務省は、恐らくはまじめくさって、ホヤ・マルチネスは「殺人と拷問を認めたのであり、彼が裁判を受けることを阻止するのは、犠牲者にとって冷酷である」と答えた[54]。

ホヤ・マルチネスが米国で公の場に姿を現してから数週間後、エルサルバドルにおける衝撃的な残虐行為に満ちた戦争の中でも、最も衝撃的な残虐行為の一つが起きた。サンサルバドルの中米大学に勤める六人のイエズス会士が、キャンパス内のレジデンスで、家政婦とその幼い娘とともに、残忍に殺されたのである。殺人者たちが見つけ損ねた証人ルシア・バレラ・デ・セルナは、制服を着て武装した五人の男が殺害を行なった、と証言した。ローマ・カトリック教団がしばしば人権侵害を批判していたエルサルバドル軍が、すぐさま当然疑われた。この犯罪に対しては、米国内---上述の特別タスクフォースがこれにより設置された---でも国際的にも、驚くほどの大騒ぎがとなったため、二カ月後に、九人の士官と下士官が逮捕された。逮捕された軍人たちはアトラカトル大隊の小隊員で、そのうちの七人は、殺害のわずか二日前に、米軍特殊部隊(グリーン・ベレー)がエルサルバドルで行なった戦闘訓練演習に参加したばかりだった。

逮捕された者たちのうち極一部---比較的低い地位の士官二名---に対する判決が言い渡されるまでに、二年近くかかった。命令を出した上官たちには手が付けられなかった。それでも、軍の「死の部隊」に何千人もの人々が殺されながら、それまでただ一人の軍士官も、殺人その他の人権侵害で、裁判にかけられたことのなかったエルサルバドルでは、大きなことだった。エルサルバドル軍が軍士官の裁判を我慢したのは、米国議会が、殺人者たちの起訴を、軍事援助継続の条件としたからである。

この二年の間、そして有罪判決の後、ブッシュ政権の官僚たちは、調査を妨害しようとし、隠蔽を支援しようとしていたようである。そのために、以下のような方略が採られた。

a)セルナを酷く脅迫し、嘘つきと決めつけた。 b)この問題に関する機密文書のエルサルバドル法廷への提出を、国家安全保障を理由に拒否し、同じ理由で、情報公開法により資料請求を行なった記者たちから相当の文書の提供を差し控えた。 c)長い間、調査官による米軍少佐エリック・バックランド---彼は、エルサルバドルに駐留しており、殺害の直後に、エルサルバドル軍のカルロス・アヴィレス大佐から、軍が行なったことを聞いていた---への質問を拒否した。それから、バックランドへの質問に関して一連の制約を課し、彼の証言の多くを隠蔽した。 d)バックランドに対して、神経衰弱になるほどの、ものすごい尋問を行なった。 e)エルサルバドル軍最高司令部に対して、すぐさま、アヴィレスがバックランドに話した旨を伝えた(それによりアヴィレスには大きな災いが降りかかった)。

一九九一年、イエズス会の中米大学副学長チャールズ・ベイーヌ神父は、「米国は、ずっと、[エルサルバドル軍]司令部を守る手助けをしてきた。調査がさらに進めば、彼らの砂上の楼閣が全て崩れ去ることを恐れたのである」と述べた。国連調査団は、その一年後も、米国が、この事件に関する決定的情報の提出をぐずつかせていると苦情を言っていた[55]。


ゲリラの軍事的・政治的作戦における残忍さのレベルは、政府の残忍さと鋭い対象をなしていた。一九八三年、『ニューズウィーク』誌は、ゲリラは、「町を制圧したとき、市民を手厚く取り扱い、食料に対してお金を支払い、破壊を最小限に止めた。そして、捕虜にした政府軍兵士のほとんどを釈放し始めた。それは、他の兵士に対して、死ぬまで戦うよりも降服した方が良いという説得に役立った」と書いている[56]。けれども、次第に、ゲリラは、民間人に対してより過酷な扱いをするようになった。とりわけ、情報を提供するなど政府に協力していると疑われた人々や、ゲリラへの協力を拒否する人々に対して。農民の中には、罰として、自分の村と畑を繰り返し立ち退くよう強制された者もいる。村長が数人殺され、若い男たちは、ゲリラに強制的に参加させられた。

けれども、エルサルバドル政府がゲリラに関して広めた多くの偽情報があることを考えると、ゲリラ側の残酷さに関する報道には注意を要する。以下の例は示唆的である(ほかの例については、注を参照のこと)。

一九八八年二月、ニューヨーク・タイムズは次のように報じた。

村人たちは、ゲリラが農民二人を公開処刑したと語った。〔・・・・・・〕この二人が新しい有権者登録票を申請して入手したからである。村人たちによると、ゲリラは、二人を処刑した後、選挙に参加するなという他の人々に対する警告として〔その二人の〕登録票を口に突っ込んだという[57]。

この話は、ゲリラの「脅迫とテロ作戦」を強調するために、国務省のブックレットにも掲載された。そのブックレットは米国議会や新聞の編集者などといったオピニオン・メーカーたちに郵送された。けれども、後に、この話は、エルサルバドル軍のプロパガンダ専門家が捏造し、サンサルバドルの新聞エル・ムンドに掲載させたものであることがわかった。その記事を、ニューヨーク・タイムズ紙の記者が、エル・ムンド紙のように軍の発表によるものと述べる代わりに、自分が直接事件を知っており、村人とインタビューしたかのように見せかけて、記事にしたのである。ニューヨーク・タイムズ紙は、後に、この記事を撤回した[58]。


外部のアジテーター

一九八二年上旬、アレクサンダー・ヘイグ国務長官[一九二四年生まれ、一九七四年〜七九年NATO軍最高司令官、一九八一年〜八二年米国国務超過]は、エルサルバドルのゲリラが、エルサルバドル人でない外部の者たちにコントロールされているという、「圧倒的で反駁しようのない」証拠を米国は有していると断言した。けれども、ヘイグは、情報源を危険に晒すと述べ、証拠について詳細を提出することを拒否した。その二日後、彼の告発を証明するよう求められた、この善良なる将軍は、エルサルバドルでの作戦司令統制にニカラグアとキューバが関与しているという「議論の余地なき」証拠を持っていると言い張った。奇妙なことに、その前日、ニカラグア軍人一人がエルサルバドルで逮捕されたというのである。しかしながら、サンサルバドルのメキシコ大使館によれば、この人物は、航空券が高くて買えなかったために、学校に戻るためにニカラグアからメキシコまで陸路で行こうとしていた学生であることがわかった[60]。

一九八一年一月、米国外交官は、ニカラグアから来たとされる、一〇〇人の「重武装した十分な訓練を受けたゲリラ」を乗せた五隻の舟が、がエルサルバドルに上陸したと発表した。舟がニカラグアから来たことは、「エルサルバドルには自生していない木の材木から舟が作られていた」ことからわかったと言う[63]。けれども、その後、一〇〇名の侵略者については、誰一人として、その生死に関わらず、消息はない。

レーガン政権は一〇〇という数を好んだようである。一九八一年の秋、ニカラグア経由でエルサルバドルに送られた国務省の上級政策立案者が、エルサルバドルにいるキューバの戦闘部隊について述べた数も、一〇〇人であった。彼は、「これらの者たちは秘密裡にエルサルバドルに来て、作戦責任を与えられた」と断言した[64]。その後、このキューバ人たちがどこで何をしていたかについては、同様に謎のままである。

けれども、これら全ては、基本的に問題外であった。革命を、石鹸何箱といったように輸出することは出来ない。

エルサルバドルで革命的状況が訪れたのは、世界がこれまで目にした中で最も利己的な寡占家族が存在し、それに腐敗した治安部隊が結びついたからである。〔・・・・・・〕キューバが存在していようがなかろうが、エルサルバドルには、いずれにせよ、革命的状況が訪れていただろう」[73]。




1. New York Times, 7 March 1981, p. 10.

37. 詳細は、Mark Danner, "The Truth of El Mozote," The New Yorker, 6 December 1993 に、また、増補版が、The Massacre at El Mozote (Vintage Books, 1994) にある。Los Angeles Times, 3 January 1993, p. 1; New York Times, 27 January 1982, p. 1; The Guardian (London) 29 January 1982, McClintock, pp. 308-9 も参照。

38. U.S. Intelligence Performance on Central America: Achievements and Selected Instances of Concern, Staff Report, House Subcommittee on Oversight and Evaluation, Permanent Select Committee on Intelligence, 22 September 1982, pp. 18-19.

39. Los Angeles Times, 1 February 1982, p. 4. 二週間後にさらに酷い事件があったことについては、Washington Post, 14 February 1982, p. C1. この記事は、人々に対するエルサルバドル軍の無差別残虐行為を直接の目撃にもとづき生々しく伝えている。ワシントンの政府職員たちは、この事件についても、議会委員会で信頼できないものと見せるよう労をとったが、成功しなかった(U.S. Intelligence Performance ... op. cit. を参照)。

40. New York Times, 11 January 1982, p. 2.

41. 「マヌエル」とだけ知られるこの国家警備隊員は、英テームズ・テレビジョン社のレックス・ブルームシュタインがアムネスティ・インターナショナルの協力を得て一九八六年に作成したテレビ・ドキュメンタリー「拷問」の中でインタビューを受けている。著者所有のビデオから。

42. The Guardian (London), 7 August 1986.

43. Amnesty International, Torture in the Eighties (London, 1983) pp. 155-6.

44. 例えば、以下を参照。McClintock, pp. 306-12; New York Times, 13 January 1986, p. 3, 1 February 1987, p. 11; Tina Rosenberg, Children of Cain: Violence and the Violent in Latin America (William Morrow and Company, New York, 1991) passim.

45. The Guardian (London), 9 March 1984.

46. 同, 11 March 1984. 同様の人道的スタイルとして、一九八一年、レーガン政権は、欧州経済共同体がエルサルバドルにおける戦争の犠牲者たちに対して、シリアルと粉ミルクを配る計画の中止を説得した。ワシントンは、こうした食料がゲリラにわたることを恐れたのである (New York Times, 18 February 1981, p. 3)。

47. San Francisco Chronicle, 18 July 1987, p. 9.

48. Los Angeles Times, 11 July 1987, p. 1.

49. Los Angeles Reader, 10 June 1988, 国内の反対派に対するFBIのスパイ行為に対する特集記事。Los Angeles Times, 28 January 1988.

50 New York Times, 3 March 1984, p. 1; 22 March 1984, p. 1; 25 February 1986, p. 17; Newsweek, 2 April 1984 はこの職員をサンティバニェスであると述べている。The Guardian (London) 22 March 1985, 29 March 1985.

51. Los Angeles Times, 2 February 1989.

52. Washington Post, 27 October 1989, p. A1; 19 November 1989, p. F2 (Colman McCarthyのコラム); Los Angeles Times, 27 October 1989; LA Weekly (Los Angeles), 19-25 January 1990, 27 July-2 August 1990.

53. LA Weekly (Los Angeles), 27 July-2 August 1990, p. 14.

54. Washington Post, 22 October 1992, p. A5.

55. Los Angeles Times, 1 May 1990, p. 1; 25 August 1990, p. 3; 26 April, 1991 (ホセ・マリア・トヘイラ神父による論説記事); 10 September 1991, p. H6; 15 August 1992, p. 12; LA Weekly (Los Angeles), 22-28 December 1989; 2-8 February 1990; New York Times, 19 January 1990, p. 3; 30 September 1991. 二名の士官は、一九九二年一月二五日に三〇年の禁固刑判決を受けた。

56. Newsweek, 14 March 1983, p. 24, international edition.

57. New York Times, 29 February 1988, James LeMoyne による記事。

58. Extra! (Newsletter of FAIR [Fairness & Accuarcy in Reporting], New York), July-August 1988, pp. 1, 12 は、エルサルバドル政府が出した偽情報の例を他にもいくつか挙げている。September-October 1988, p. 2; New York Times, 15 September 1988 (撤回); LA Weekly (Los Angeles), 27 May - 2 June 1988, Marc Cooperのコラム。 エルサルバドル政府関係者によるさらなる情報操作の例としては、New York Times, 29 March 1987, p. 3; 8 January 1988, p. 3; 20 February 1988, p. 3; 18 February 1990, p. 14.

59. New York Times, 17 march 1982, p. 1.

60. 同, 3, 5, and 6 March 1982, p. 1.

63. New York Times, 19 January 1981, p. 11.

64. San Francisco Examiner, 20 December 1981.

73. U.S. News and World Report, 26 January 1981, p. 37, ホワイトとのインタビュー。

益岡賢 2003年6月9日

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