「新世界秩序」の中での第三世界

ノーム・チョムスキー
カトリック国際関係協会会議「変化への交渉:正義を伴う平和のための闘い」
(1991年1月18/19日)に提出された基調ペーパー


益岡が湾岸戦争時、英国で勉強会に使ったもの。そのときに訳出してあったものです。パパ・ブッシュが喧伝した「新世界秩序」についてです。より詳しくは『アメリカが本当に望んでいること』(現代企画室,1300円)をお読みいただけると幸いです。チョムスキーは多くの場所でほとんど同じことを執拗に繰り返しており、辟易することもありますが、考えてみれば、朝日新聞や日本の外務省なども、例えば東チモールの1999年以来の動きについて、「インドネシアからの独立」とか「インドネシアからの分離独立」といった妄言を執拗に繰り返しています。繰り返すなら、状況を隠すための妄言ではなく、状況把握に有用な視点のほうがよいと考え、ここに紹介します。なお2005年12月、今日、考えたことさんのご指摘で何点か誤植や誤りを修正致しました。


歴史は非常に入り組んでおり、人間社会はとても多様なので、ざっと調べただけで歴史や社会を把握することはできない。とはいえ、多くの細かい変異や例外を取り落とす恐れはあるが、全体的傾向を把握することは可能である。「新世界秩序」の中での第三世界の位置づけは、これまでの第三世界の位置づけと変わらないだろうというのは、確信度の高い予測の一つである。

一般に第三世界といった場合、伝統的な西洋の支配領域をさす。ボルシェビキ革命により、ロシアは西洋の支配領域から除外された。この事実が、(米国の政策立案者が言うところの)「腐れの広がり」に対する恐れとともに、冷戦の中心にあった。冷戦は、赤軍によりナチスから解放された地域がソ連専制の支配下に入り、西洋の支配から除外されるとともに、ますます険悪なかたちを取りだした。

米国は、第二次世界大戦以来、歴史上類例のない世界的な覇者となった。ここで、国内のエリートが、米国とその企業の利益のためになる世界秩序の構築をはかったのは驚くことではない。この「グランド・エリア」内では、米国のコントロールのもとで、産業力が、「自然な指導者」(日本とドイツ)を中心に再構築された。ヘンリー・キッシンジャーが25年後に述べたように、日本とドイツは、米国が運営する「秩序の大枠」の中で「地域的利益」を追求する役割を与えられたのである。世界は米国の企業利益に非常に有利な自由国際主義原則に基づいて組織されるべきであることが正しく認識された。従来の第三世界は産業権力の需要に仕えることになったのである。

米国の対外政策の基本に関するある重要な研究では、共産主義の主要な脅威とは、「西洋世界の産業経済を補足する意思と能力とを減ずるように」共産主義経済が移行することであると述べている(Yandell Elliot ed. The Political Economy of American Foreign Policy. 1955.)。ソ連とその帝国主義体制に対する敵意の背景にはこの教理が存在したし、また、これが、独自の道を歩もうとする第三世界の試みを「共産主義」とか「急進国家主義」と呼んで妨害した動機である。

上級政策立案文書では、米国の利益に対する主な脅威は、「大衆の低生活水準をすみやかに改善し」、経済を多様化しようとする、人々の要求に応える「国家主義体制」から来ることが強調されている。こうした傾向は米国の利益と対立するため、「我々の資源を保護し」、「私企業の投資に有利な環境を」奨励し、「他国の資本に対しては適度な見返りを得る」必要があるのである。この基本的な政策目標は、自然な帰結を導く。その一つは、米国の援助とひどい人権侵害との驚くべき正の相関である。別に米国が拷問を好んでいるわけではない。けれども、「大衆」が米国の利益よりも自分たち自身の利益を追求することを阻止するためには、拷問のような手段が必要とされるのである。この教理によって、1980年代の中米で恐るべきレベルに達した、民主主義と社会改革に対する米国の敵意の理由を説明することができる(ここでいう民主主義はレトリックではなく事実としての民主主義のことである)。

ソ連に対する米国の公式政策は、ソ連の力を押し返し、モスクワの支配領域をグランド・エリアに再編入することにある(ポール・ニーチェにより書かれた政策立案機密文書NSC68)。今日、ついに達成されたこうした計画のもとでは、モスクワの支配領域にあったセクターのいくつかは産業西洋国家に編入され、その他の多くのセクターは第三世界的なサービスを担うことになっていた。

以上の一般的了解は、戦後初期の計画において特定地域に適用されたし、基本的には現在も有効である。ジョージ・ケナンのもとの国務省政策立案スタッフによると、東南アジアは「日本と西欧に対する資源供給と市場提供という主要な役割を果たす」ことになっていた。また、ケナンの説明によると、アフリカはヨーロッパ再建のために「開発(搾取)」されることになっていた。このアフリカ開発(搾取)は、ヨーロッパの精神的高揚のためにも絶対に必要であった。国務省によって「戦略上の途方もない資源であり、世界史上最大の物的恩恵の一つである」といわれた中東の莫大なエネルギー資源は、米国の支配下に置かれることとなっていた。イギリスとフランスの利益は周縁化されなくてはならなかったし、独立した国家主義は、「ここにある我々の小さな領域」(戦争省長官ヘンリー・スティムソン)といわれるラテン・アメリカにおいてと同様、妨害することになっていた。イスラエルとシャー(イラン)との戦略同盟は、1950年代後半から、こうした枠組みの中で姿を現したものである。

「腐れの広がり」を恐れた米国は、いかに小さな米国にとって取るに足らぬ世界の片隅でも、「急進国家主義」の試みを許さなかった。NSC68の言葉でいうと、「自由組織のどこかでの敗北は全体の敗北である」。「自由組織」という言葉は、世界で唯一の正当な権力である米国と、与えられた役割を果たすその地域雇用者(ビジネス、専制政治家、軍人)をさす。「腐れ」は「急進国家主義」であり、デモンストレーション効果を持ち、その地域を「汚染する」独自の発達のことである。これが、国内の人々を操作する必要性から毒々しいかたちで喧伝されたドミノ理論の理性的な説明である。

冷戦期を通して−−実際には1917年以来−−、第三世界への干渉は、ソ連の脅威に対する防衛として描き出されてきた。しかしながら、冷戦をイデオロギー上の産物としてでなく実際の歴史として考えると、それはソ連にかこつけた第三世界に対する戦争であることがわかる。そして、ソ連が米国の攻撃対象を援護した場合、その冒険主義と険悪な世界計画が強い批判の対象となったのであった。第二の超大国の行為も似通ったものであった。ソ連の冷戦に対する立場は、東ベルリン、ブタペスト、プラハにおけるソ連軍の戦車に現れているが、それは常に自己防衛を口実としていた。冷戦は、二つの超大国が、必要に応じて暴力と恐怖とを用い、そして、巨大な悪魔の恐怖に訴えることにより、自国の人々と頑迷な同盟国を支配するための枠組みとして機能したのである。レトリックではなく事実のレベルでは、冷戦は終わっていない。冷戦は、一方のプレーヤーが試合を降りたことにより半分終わっただけで、新しい状況に適応しながら、以前と同様に続くのである。

これまでに、冷戦体制は重要な変化を経過してきた。1970年代までに、米国の経済的覇権は衰え、経済力が米国と日本、そしてドイツを中心としたECに分配されることにより、経済世界は「三極」化してきた。この傾向はベトナム戦争により加速した。ベトナム戦争は米国にとても高くついた一方、そのライバル/同盟国は、インドシナ破壊の手助けをしたことで裕福になったからである。今後何年かの間に深刻なつけが回ってくるであろうレーガン経済の失敗が、経済力における米国の相対的衰退をさらに促した。

ソ連では、キューバのミサイル危機で弱さが露呈した後の軍事力増強は、1970年代半ばに横這いとなりはじめ、覇権大国である米国と比べて常に劣っていたモスクワの影響力と強制力は1950年代後半のピーク以降、下降し続けていた。さらに、経済が停滞し、「脱産業化社会」への現代化に失敗して内部の圧力が強まり、国民の多くが全体主義的制約に従うことを嫌がりはじめた。

こうした傾向は、1970年代後半にはある程度明らかになっていたが、米国の世界支配力を維持し、先端産業への助成を行うための理由づけとして、別の図式が必要であった。次々と前進し、西洋史民社会に恐ろしい挑戦を突きつける恐怖のソ連のイメージがそれである。この図式は当初から信頼性を全く欠いていたが、次の10年で完全に維持不能なものとなった。

一方、独立国家主義に対する原理的敵対は維持されていた。基本的な立場は、「ここにある我々の小さな領域」たる中米にとても明確に示されている。1970年代には、世界のこのもっとも悲惨なコーナーで、キリスト教に基づく地域社会、農民組合、自助グループ、組合など、真の民主主義及び待望されていた社会改革への希望をもたらす多くの「大衆組織」が発達した。そうした運動のイニシアチブは、かなりの程度、貧民に対する優先オプションを新たに採用した教会の一派が取っていた。いつもと同様、そうした「急進国家主義」的発達は、米国政府から、ヨーロッパ同盟国の支持を伴った激しい反応を引き起こした。その結果、20万人に及ぶ死者が出、何十万人もの人々が拷問にかけられ、「失踪」し、そして、破壊された家や社会、土地から追放された。この、自由世界の大勝利により、よりよい将来に対する希望は、ほとんど、恐らくは永遠に、消え失せた。

第三世界の現状は、資本主義の恐るべき破滅を劇的に描き出している。一例として−−まったく最悪の例ではないのだが−−、豊富な資源と潜在力を持ちながら、長くヨーロッパの影響下にあり、その後、ケネディ政権以降米国の干渉を受けたブラジルを考えてみよう。ブラジルでは、少数のエリートがヨーロッパ並の生活を送っている一方、大多数の人々は、東欧の悲惨な生活すら、まさに夢のまた夢であるような状態に置かれているのである。世界銀行等の報告書は、ブラジルの状況を、基本的にはるかに貧しいアフリカ諸国と比べている。

これが、ケネディの外交官であったリンカーン・ゴードンが「20世紀半ばにおけるもっとも決定的な自由の勝利」と呼んだ出来事の第25周年記念日に以前として続いている状況である。彼の言葉は、ブラジルの将軍が議会制民主主義を破壊してネオナチ恐怖国家を作り上げた事件をさしている。このクーデターの目的について、米国の重要なラテンアメリカ人権問題専門家ラース・シュルツは次のように説明している。すなわち、「大衆階級、大多数の政治参加を除外することにより、社会経済上の特権構造に対して予測される危機を永遠に破壊することである」と。ケネディ政権、ジョンソン政権時代のリベラルたちは、軍事クーデターを、選挙で選ばれた政府から「余分な左翼を取り除くための戦略」として支持した。内部文書は、ブラジルにおける民主主義の破壊を「自由世界の偉大な勝利」と述べ、「私企業の投資に対するとてもよい環境を造り出す」にちがいないと補足している。ラテンアメリカの最強国に対するこの大勝利は、大陸全体にドミノ効果をもたらし、軍隊と政治指導者、そして米国の顧問によって作られた国家安全保障ドクトリンのもとで、抑圧という伝染病をかつてないほどに広めたのである。

大規模な虐殺すら、第三世界が、資源と安価な労働と投資機会という「主要な役割を果たす」保証となるならば、合法と見なされたのみか、名誉なことと考えられた。1965年のインドネシアでの恐らく50万人にのぼる土地無し農民大虐殺は、教化された西洋のコメンテーターたちに熱狂的に歓迎された。この大虐殺により、インドネシアにおける、大衆の支持を得た唯一の政党を破壊し、その結果、インドネシアは西洋の自由な搾取のもとに置かれている。インドネシアを支配する将軍は、さらに、他のさまざまな業績に加えて、チモールに侵攻し、熱狂的な西洋世界の支持のもとでチモールのおそらく4分の1の人々を一掃するという、世界最悪の人権記録を作り上げた。このようにして、インドネシアの将軍たちは、自分たちの「心は善であり」(エコノミスト誌)、真に「穏健派」(メディア一般)であることを示したのである。西洋文化の野蛮さは、教化された人々にはなかなか理解できないものである。

1980年代になって、ソ連は、世界の出来事からかなり手を引いた。その結果、米国はこれまでより自由に軍事力を行使できるようになった。この点は、ここ数年の政治分析で指摘されてきたし、米国が最初の「冷戦後干渉」としてパナマを侵略したとき、レーガン政権下のラテンアメリカ専門家であるエリオット・アブラムズによっても繰り返された。ここでの「冷戦後」とは、このときには既にロシアの脅威論の最も先鋭的主張者ですら、この口実を用いることはできなかったという意味である。

「新世界秩序」の同様の特徴は現在の湾岸危機にも現れている。米国は、恐らく破滅的な結果になるだろうにも関わらず、すぐに軍事対立に向かって行動を起こし、交渉によるイラクの撤退という外交的選択肢を全面的に拒否し、同時に、他国が「外交的解決の道」を選ぶことに反対を表明した。ロシアの抑止力がなくなったため、米国は、もはや武力による威嚇が超大国の対立につながる恐れから自己抑制する必要がなくなった。パナマ侵略と同様、ソ連の脅威は正当化には使えなかった。それゆえ、口実として高尚な原理が持ち出された。我々は侵略に対して強い立場で応じ、そしてサダム・フセインは虐殺の罪により罰せられなくてはならないというのである。

シニシズムは明らかである。1990年8月1日までサダム・フセインは同盟者であり、良き商売相手であった。彼の残虐行為は簡単に見落とされてきた。彼と同様に芳しくない記録の持ち主で、今も米国の親友であるものは多い。都合のよいときにのみ提唱される高尚なる原則についていうと、米国とその同盟者は好き勝手にそれを侵してきた。この事実は、過去20年間、侵略行為、国際法の遵守、中東、中米、軍縮その他の問題に対する国連安全保障理事会決議案への拒否権行使と総会決議案への反対(しばしばこれらは単独であるいは実質的に単独でなされた)の回数で、米国が断然トップであることに反映されている。

実際には、サダム・フセインが、ヒトラーやフン族のアッチラの新たなる化身と化したのは、彼が、米国とその従属国が湾岸のエネルギー資源を管理するという教理を拒否して「急進国家主義者」になったときである。この時点で、彼の恐るべき記録は宣伝道具として使われはじめた。米国の利益が侵害されたときに、良き友人が突如として悪鬼とされるというパターンは伝統的なものである。著名なムッソリーニ、トルヒーヨ、ノリエガをはじめ、例には事欠かない。

「新世界秩序」においては、経済的には三極であるが、軍事大国は一つだけである。世界の出来事に出演する俳優は、誰もが、対立を、米国が支配する闘技場に持ち込むことになるだろう。形成されつつある世界秩序内での米国の相対的優位は軍事力に依存している。外交や国際法、そして国連は、敵に対するときに都合良く利用できるならばよいが、一般にはうるさい邪魔者であった。現在の米国の強さと弱点とを考えると、問題をすぐに軍事領域に持ち込もうとするのは当然である。

初期の経済基盤が大きく浸食された現在、米国は、料金を他国に支払わせる必要がある。議会での証言で、国務省副長官ローレンス・イーグルバーガーは、「新世界秩序」は、「外交実践におけるある種の新しい発明」にもとづくであろうと述べている(1990年9月19日)。すなわち、米国の干渉費用を、なだめたり脅したりして同盟国に払わせるというものである。保守派日刊紙経済欄の編集者は、この点をもっと率直に述べている。すなわち、「世界経済体制に対する我々のコントロール」を維持するためには、「資金と経済的譲歩を得るための手段として」、「安全保障市場での実質的独占」つまり軍事力の独占を確保しなくてはならない。特に、日本とドイツは我々の経済的要求に服従し、「世界経済体制に対する我々のコントロール」を保証する軍事投機に資金を供出しなくてはならない。我々を「傭兵」と呼ぶものがいるかも知れないが、自分の道を進みさえすれば、何を気にすることがあろう(シカゴ・トリビューン紙、9月9日:ウィリアム・ネイカーク)。

米国労働省と大学のビジネススクールの研究では、レーガン政権の富裕層向け政策で加速されたインフラストラクチャの広範な崩壊の一部である教育制度の沈下によって、技術労働者と管理者の不足が予測されている。予想される結果は、多国籍企業が、研究や商品開発、デザイン、マーケティングその他をどこかに移行することである。増大しつつある下層階級にとって、傭兵となる機会はまだ残されている。このような、決して非現実的なものではない予測が本当に実現されたときの国内政治事情を描き出すのに大した想像力は必要でない。

第三世界−−今や東欧の大部分を含むのだが−−の将来は厳しい。他国が日本圏の「経済の奇跡」のあとをたどれるかどうかは疑わしいし、「四匹の虎」がその地位を保てるかどうかも明らかではない。第三世界の搾取を進めるべく自由市場原理を押しつけるために、あらゆる努力が投入されてきた。けれども、ビジネス界は、「自由市場原理」という幻想が「我々」のためのものではないことをよく理解している。むしろ、経済政策は、国と産業資本コングロマリットにより支配されなくてはならないのである。ライバル諸国以上に資本主義神話に近づいている米国においてでさえ、競争力を保っている経済部門は、納税者に支えられ、国が保証する市場を提供された、資本集約農業や(ペンタゴン制度を通した)ハイテク産業、薬品産業その他わずかである。自由市場のレトリックは、貧しい人々に対する福祉とサービスの削減に役立つ。一方、富裕層への福祉は、レーガン時代同様維持してさらに発展させる必要がある。第三世界でも、また、増大しつつある「内部第三世界」でも、慈悲や有用な援助を期待することはできない。

こうした方向への発展が、理想や崇高なる目的に関する印象的な言葉を伴ってなされることは明らかである。こうした妄想をはぐくむのが知識人の役割であり、知識人たちはせっせとその義務を果たしている。事実がたまに漏れてしまうと、我々の常変わらぬ善意にもかかわらず我々を迷わせてしまった単純さと無知について人々は聞かされるのである。

かくして物語は続く。恐らくは、そう遠くない将来に、人間が、世界をゴキブリとネズミに明け渡すまで。もしくは、支配大国内で、大規模な社会的・文化的変化が起きるまで。そうした変化により、私企業の資源統制と投資により終わりを告げた民主主義革命の再生がもたらされ、そして、本稿でとても簡単に検討した諸点を含む社会的政治的生活のすべての側面に広範な影響が与えられることが決定的に重要である。

マサチュセッチュ州ケンブリッジ、1990年9月23日

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