語る立場の略奪

益岡 賢
2003年4月12日


エジプトの人々よ、私があなた達の信仰を破壊するために来たと、あなた達に告げる者があるだろう。それを信じてはいけない。私が来たのは、あなた達の権利を回復するためなのだ (1798年、ナポレオン・ボナパルト)

ヨーロッパは、地球上のあらゆるところで、人間に出会うたびにそれを虐殺しながら、しかも人間について語ることをやめようとしない (フランツ・ファノン)

米国がベトナムで行なっているのは、一つの人民が別の人民に提供する博愛主義の最も重要な一例である (一九六六年二月のある日、『米国ニュース&ワールド・レポート』編集者デビッド・ローレンス)

うちの息子と結婚した後も、仕事は続けていいんですよ (「息子の嫁」に対して、「理解ある」未来の義母)


米英によるイラク侵略が開始される前後から、これまでに、私は、3つの文章を書き、HPで公開してきた。

 「何が破壊されるのか
 「来るべき嘘とプロパガンダに備えるために
 「壊れることを巡るメモ

米国は、バグダッド「陥落」を宣言し、「歓迎する市民」の姿がメディアに映し出された。これについては、当然予想されることとして、「来るべき嘘とプロパガンダに備えるために」で取り上げ、(1) サダム・フセインの追放と、それを喜ぶ人々の存在は、米英による侵略と虐殺・破壊とをいささかも正当化するものではないこと、(2) 殺されてしまったイラクの民間人・兵士たちは米兵をそもそも「歓迎」すらできないこと(しないでしょうが)、(3) 殺害されなかった人々も、メディア的に抹殺されること、それゆえ「歓迎」は米英の犯罪性をいささかも減ずるものではないことを、論じた。

反対派を全員殺してしまえば、賛成派だけになる。人間性の崩壊に支えられて成り立つ、こうした主張は、しかし、論理的な真理ではある。それゆえ、わずかな数の「歓迎」を演出するために、武力に訴える反対派が物理的に殺害され、表現に訴える膨大な数の反対派がメディア的に殺害される。500万の人口の中の数千人。それも、武力支配者が奨励し「見守る」中での、そして「軍属」記者の情報を「翼賛」メディアが伝えるところの・・・(ちなみに、「フセイン像引き倒し」も、やらせだった疑いがますます強くなっている)。

語る立場の略奪。少なくとも500年間、侵略者が繰り返してきた行為であり、分かり切ったことなのかも知れない。けれども、進行中の事態の中で、それに抵抗していくためには、多少の整理が有効だろう。


基本的配置:リベラルな理解と共感

最も巧妙なケース、そして基本的なレベルから、話を始めよう。

2002年7月17日、ニューヨーク・タイムズ紙は、「インドネシアの改革されざる軍」という見出しの記事を掲載した。米国政府が、2001年9月11日の米国に対する攻撃を利用して、1999年9月、東チモールでインドネシア軍が虐殺を破壊を行っている中、米国議会を通した市民団体の圧力でようやく停止されたインドネシア軍への大規模な支援を、再開しようという動きを巡る記事である。

この記事は、結論的に、「インドネシア軍は改革されていないので、援助を再開すべきではない」という、それ自体、同意できる内容になっている。けれども、この記事には、いくつか奇妙なところがある。まず、東チモールやアチェ・西パプアでインドネシア軍が行っている人権侵害への批判はあるものの、インドネシア軍の武器の9割が米国製で、インドネシア軍が大規模な米国からの支援を受け取ってきたこと、アチェやマルクに進出している米国企業がインドネシア軍を傭兵として雇用していることなどへの言及はない。

そして、同記事は、そのうえで、インドネシア軍は米国の「パートナーとしてふさわしくなく」、「インドネシアにおいて、米国が支援する必要があるのは、人権問題や地域開発に取り組んでいる市民団体である」と述べている。我々米国の、憂慮するリベラル市民の声を代弁する、善意にあふれた、すばらしい提案。

ところで、2002年10月9日には、主要なインドネシアの人権NGOが、共同で、米国によるインドネシア軍支援再開の動きを巡って、米国議会に手紙を書いている。その手紙は、「標準的な『テロリズム』の定義をインドネシアの事件に適用するならば、 真のテロリストは、インドネシア軍です」と述べた上で、米国の援助について、次のように明言している。

私たちは、米国政府に対して、インドネシアの民主派勢力を積極的に支援するよう求めはしません。私たちは、そうではなく、米国政府に対して、TNIへの支援をしないことを・・・求めます。

論点は明確である。インドネシア最大のテロリストであるインドネシア軍。それを支援し続けてきた米国。米国の支援により50万人から100万人の人々を殺害し、インドネシア軍・スハルトの独裁支配が誕生した1965年に、それを「アジアにおける一筋の光」と呼んだニューヨーク・タイムズ紙。

弾圧に抗して民主化を求め人権の擁護を求めてきたインドネシアのNGOは、米国政府は、自分たちのパートナーとしてはふさわしくないと述べているのである。そして、スハルトによる人権侵害を全面的に支援し、虐殺を「アジアにおける一筋の光」と呼んだニューヨーク・タイムズ紙に、自分たちを支援すべきかどうか語る権利など、そもそも存在しない、と。米国に、自分たちの問題に関与する権利はないと。

インドネシア軍は米国の「パートナーとしてふさわしくない」? 一見まっとうな(そして語ることの配置を脇に置いておくならば実際にまっとうな)「インドネシア軍は改革されていないので、援助を再開すべきではない」という議論を通して、この記事は、米国が、そして米国こそが、相手を判断し評価し選ぶ権利を、そして語る権利を有するということを一方的に不当に宣言し、他者の存在に対する略奪を自然なものに見せかける隠蔽に、最も本質的な一役を買っている。

米国の戦艦がイランの旅客機を撃墜死、290名の命を奪ったときに、ジョージ・ブッシュ一世は「私はアメリカ合衆国について決して謝罪しない。事実はどうでもよい」と述べている。驚くべき傲慢。けれども、このとき、少なくともジョージ・ブッシュ一世が行為を問われているという点では、リベラルなニューヨーク・タイムズの狡猾さよりも、配置的にはマシだったのだと、あえて言うことも可能であろう。


内容的派生態

この基本的配置から/の中で、細微なすり込みによる知性の崩壊から、あからさまな省略や嘘に至る、様々な形式的・内容的倒錯が生み出される。いくつかを、思いつくままに挙げてみよう。

たとえば、「イラク、大量破壊兵器発見されず」。むろん、存在しないか、わずかしか存在しないということは、当初から分かり切っていたことである。けれども、今回の米英によるイラク侵攻で、はっきりと、米英こそが大量破壊兵器を大規模に保有しているばかりか、使う意志もあり実際に使っていることを、今一度示した、という点は、主流メディアでは、あまり(ほとんど、と言ってもよいだろう)論点となっていない[ちなみに、1999年1月のインタビューで、クリントン米大統領は、「ときどき、細菌戦争の恐怖のために、夜眠れないことがある」と述べている。奇妙なことに、彼が恐れていたのは、細菌兵器開発を大規模に行い、米国内で細菌戦の実験を行い、国外で使用さえしてきた、ペンタゴンやCIAではない]。

同様に、日本でも騒ぎ出した「復興援助」「人道援助」。破壊に荷担しそれを押し進めてきた国が、「復興援助」や「人道援助」を語ることの恐るべき傲慢と倒錯という問題は一つある。それを巡る議論さえ、多くはない。さらに、そもそも、平然と自分の勝手な都合で他国を侵略し、「早く降服すれば犠牲者も少なくてすむのに」(小泉首相、4月7日)と語るような人物たちは、人道的治療を要するのではないか、という問題提起も、主流メディアには、見られない。

1975年、米国上院の「チャーチ委員会」は、米国・CIAが行ってきた暗殺に関する調査報告書の中で、「委員会は、検討してきた〔暗殺〕行為が、実際のアメリカの性格を表わしているとは信じない。それらは、アメリカ合衆国および世界の人々に、よりよい、より開化した、より公正な生活への希望を与えてきたアメリカの理想を反映していない。われわれは、暗殺計画を、逸脱行為と見なす」と述べている。すでに、10以上のCIA暗殺計画を把握しており、そして、トルーマンからクリントンに至る10名の大統領すべての政権で暗殺が行われていたというのにも関わらず。

似た例は、繰り返される。何度も、何度も。たとえば、つい最近、神浦氏は、「[フセイン]こそはアメリカが育て、猛獣に仕立て上げた過去を忘れてはいけないと思う。・・・朝鮮戦争後の韓国・軍事政権、ベトナム戦争、カンボジア内戦、パナマ侵攻、南米の軍事政権。強い軍事力に守られた各国の政権は、いつも反民主的な政治で民衆を抑圧し弾圧した」と正しく指摘しながらも、「メディア砲撃について, どうしてアメリカ軍がそんなことを意図的にやるとは思えません」と全く無根拠に述べている[メディア攻撃が語る立場の略奪の手段としてある段階で論理的に要請されることについては下記を参照]。

こうした語りの配置を内面かするところに、2003年3月23日付、毎日新聞「余録」のような、奇妙な倒錯が生じる。最終段落で、「余録」の筆者は、次のように述べる。

就任当時のブッシュさんは「慎みある外交」を唱えていたのだが、同時多発テロですべてが変わった。元の世界にはもう戻れない。それだけにテロの責任は重い。

すでにこれについては、一度論じたので、詳細は省くが、事実関係だけに基づけば、少なくともこれと同じ(非)論理に依拠して、全く同様に、次のようにも、言えるはずである。

こうしたテロリスト(上手くない言葉ですが、議論のため使います)たちは、もともと「慎みある態度」を唱えていたのだが、米国の・・・・(ここには多くの侵害や侵略を入れることができる)ですべてが変わった。元の世界にはもう戻れない。それだけに米国の責任は重い。

しかし、事実として、こうした発言は、ほとんど見られないし、あったとすると、「テロを擁護するもの」と非難されるだろう。

それゆえ、国連の元イラク人道担当官デニス・ハリデー氏が、自ら運営を担当した「食料のための石油」プログラムが、米英による経済封鎖によるイラクの人々に対する「社会全体に対するジェノサイド攻撃」に荷担することであると認識し、抗議の辞任をしたとき、『ニュースナイト』で、ジェレミー・パックマンなる人物が、「君はサダム・フセインを擁護する人間なのかね?」とハリデーに訊ねるという倒錯が生じる。問うべきは、「あなたたちメディアは、静かなジェノサイドを擁護するのか」というものであるにも関わらず(ちなみに、マドレーヌ・オルブライトは「その代価[イラクの子供たち50万人の死]は払うに値した」と答えている)。

人間性と知性を、意図的にか無意識にか略奪された人々の発言は、さらに進む。「今、米国の信頼を失うと、どうなるか国民はわかっていない」(小泉首相)。「アメリカは馬鹿ではない。日本は反対の立場を取るとどうなるかわからない」。敢えて荒っぽく言うならば、「我々には米国の保護が必要である」というのは、「男性が女性に対して、女は男に守ってもらう必要があると信じさせて以来の、最も巧妙なペテンである。すべての男が一夜にしていなくなったからといって、怖がって道を歩けない女性がどれだけいるというのだろうか」(ウィリアム・ブルム『アメリカの国家犯罪全書』作品社)。

このように奥深く刷り込まれた倒錯を出発点に、そしてそれが意識されないまでに刷り込まれているために、「イデオロギーがないことがイデオロギーだ」と自称するメディアの全般的発言の配置と比べると、あからさまな嘘や省略は、 − むろん、両親や兄弟を殺してしまったあとで、殺害した当の本人が残された子供を抱きかかえて支援の手をさしのべるというおぞましい出来事の中で、「子供を抱きかかえて支援する米兵」とのみ報道するような、絶望的なまでの犯罪性があるとはいえ − とりあえずの「事実」・「真理」という基準点を参照して検討できるため、少なくとも、扱いやすいかも知れない。

そうは言っても、あからさまな嘘や省略には、それが読者に受容される基盤として、読み手の目線の同一化を必要とする。誰が語るかを抜きにすれば、内容的には同意できる発言を介した、「リベラル」な立場からの語る配置のすり込みは、これを支えるものであり、そして、「リベラル」な発言が何か良いことを言っているという感覚を与えるために、内容的にあからさまな嘘や省略が求められることになる。


物理的・政治的略奪

とはいえ、普通の人々は、そうした戦略を簡単に受け入れる程、無知でもないし非論理的でもないし、非人間的でもない。なくなってきている。米国タイム誌が欧州全域の25万人を対象に行った世論調査では、「2003年に世界平和に対する最大の脅威である国はどこか」という質問に対する、イラク、北朝鮮、米国の三択で、イラクを選んだのは8%、北朝鮮は9%、米国を選んだのは83%に上っていた。ディズニーランドやマックワールド、スタバやナイキ、GAPは、ますます急速に通用しなくなっている。

こうした状況では、対抗的な言説の場とそのための諸機構が作られることになる。それは、粉砕しなくてはならない。政治的に、そして必要であれば、物理的に。力による物理的・政治的略奪は、語る立場の略奪に基づくプロパガンダ・メカニズムの必然的な帰結であると同時に、おそらく、歴史的に見れば、その原初的形態でもあろう。

それゆえ、たとえば、国連総会の決議を眺めていると、「新世界情報通信秩序を促進するユネスコのイニシアチブへの支援」という決議(1982年12月10日・決議37/94B)が賛成131・反対1となっていることがわかる。反対は、米国である(その後もこうした決議と米国の反対投票は繰り返される)。実際、米英がユネスコを脱退した大きな理由の一つは、これにある。米国内では「USA愛国法」(趣旨はちょっと違うが)が出来、憲法修正第一を反故にしようという動きが強まっている。日本国内では「個人情報保護法」が押し進められる。

物理的にも、略奪は進められる。グアテマラの新聞「ラ・エポカ」は破壊され、コロンビアでは独立ジャーナリストが次々に殺害される。NATOによるユーゴ空爆の際、中国大使館が「誤爆」されたのは、実は、セルビアの通信を中国大使館が担っていたからであると言う。トルコでも、ジャーナリストたちが、クルド人について報道したことにより、投獄され拷問を受ける。いずれも、米国に隷属する国家での出来事である。物理的な弾圧は、旧ソ連や中国などだけの問題では、全くない。

今回のイラク攻撃では、アルジャジーラの事務所が破壊され、ジャーナリストが一人死亡した。また、軍属でないジャーナリストを巡って、次のような状況がある(ジョン・ピルジャーより)

「同盟国」により殺された、ITN[英国の独立TVネットワーク]の勇敢なテリー・ロイドは、このことを示している。今や、脅迫は、さらに巧妙である。たとえば、英国の防衛相ジオフ・フーンが述べているように。「ジャーナリストたちを[埋め込む:軍属にする]理由の一つは」、「[テリー・ロイドが]軍組織の一部ではなかったためにITNのスタッフ[ロイド]に起きたような事件をまさに回避するためなのだ。軍組織に所属していない状況で、すべてのジャーナリストの世話をするわけにはいかない・・・それゆえ、ジャーナリストを我々の軍隊の保護下に置くことは、ジャーナリズムにとっても好ましい。そして、ニュースを見る人々にとっても好ましい」。

これらは、はっきりと意図的なものであり、語る立場の略奪のために、論理的に要請されるものである(さらに、政策的な意図に基づくものに還元はできないだろうが、アルジャジーラ正義のための行進のウェブサイトなどは、常に攻撃を受けている)。


略奪に抗して

このような略奪、略奪の上に構築された倒錯した配置、そしてその上に積み重ねられる嘘・省略・「善意」の中で、バグダッドで米軍を「歓迎」している人がいるという事実をもとに、「反戦運動が誤りだったことが証明された」と述べる人々がいる。

「それでも反戦運動は正当だったのだ」などと説明する必要はない。そのように対応するのは上手くないことだろう。国際法に違反し多くの民間人犠牲者と多くのイラク兵士犠牲者を生みだし、米英の兵士犠牲者も生みだし、環境を破壊し未来にわたって犠牲者を生み続ける劣化ウランとクラスター爆弾を使用した、侵略と破壊と虐殺の行為に反対することが、説明を要することであるといった状況があってはならないし、そうした状況を作り出すことに少しでも荷担してはならない。それは、マズイことを言う人々をより多く殺せばますます事態は扱いやすくなるという倒錯を強化することにつながりかねないから。

非常にナイーブではあるが、今の段階で、提出されるべき正当な質問は、少なくともその最初のものは、次のようなものであるべきだろう。

無数の罪のない男女と子供たちの頭上に致命的な爆弾の雨を降らせ、家や学校、病院、生活、そして未来を破壊することを、あなたは支持するのでしょうか。

イラク侵略を行い、これに荷担した政府とメディアに対して、こうした質問を執拗に突きつけていく必要がある。ブッシュ大統領やラムズフェルド国防長官、パウエル国務長官、ブレア首相、小泉首相が、それを支持していることはわかり切っているとしても。そして、様々な事実関係を巡る議論や政策に関する議論、技術的な議論を、この単純な質問が規定する枠組みの中で行うようにすることが、とりあえずは、重要だと思う。それによって、誰が質問を提出すべきであり、誰が語られ評価される対象であるかを、一旦、組み替えること。

メディアがイラクについて報道するのではない。メディアは米英の侵略について語らなくてはならないと指摘することを通して、メディアの報道について、私たちが語ろう。小泉首相が人道援助について語るのではない。殺害と破壊を支援している小泉首相が人道援助について語る権利はないと指摘することで、小泉首相が人道援助について語るという事実について、私たちが語ろう。少なくとも、コロンビアでと異なり、私たちは、まだ、誘拐されたり拷問を受けたり殺されたりすることはないのだから。とはいえ、売り言葉に買い言葉でもなく、揚げ足取りでもなく、立場を略奪されもせずに質問を提示し、説明を組み込んでいくこと。これは、とても難しい。

さらに、そのような発言も、当事者不在のままに、自分勝手に進められているものではないか、イラクの人々が爆弾を歓迎したらどうするのか、という(揚げ足取りでない真面目な)批判は、理論的には、ありうるし起こってこざるを得ない。

これについては、立ち戻って、ニューヨーク・タイムズ紙の「インドネシアにおいて、米国が支援する必要があるのは、人権問題や地域開発に取り組んでいる市民団体である」という言葉を考えることが参考になる。ニューヨーク・タイムズ紙の発言であるという点を抜きにして、ナイーブに考えると、この発言が正当性を持っているように見えるのは、単に、他者性を略奪した自己満足の結果だけではないように思う。ということは、このような発言が正当であるような関係の構成が、あり得るということを示唆している(のかも知れない)。上手く言えないけれど、敢えて表現しようとするならば、それは、語る側が真理や正義を占有するのではなく、相手との誠実な関係を確立することに賭け、そのための場を、語る行為の一つ一つとともに作り出そうとする批判的意志を持って発言すること。そのときに、先の批判に答えることができようし、恐らく、少しだけ、「語る倫理」と呼ぶに値するものに、近づくことができるだろう。


私は、いつも、日本語の文末に悩まされます。この度も、それにとても悩まされました。「偉そう」な表現が鼻についたら、申し訳有りません。そうしたところの少なくとも幾つかは、もう少し控えめな表現にしたいと思ったのですが、そうすると、論理性が感情性に置き換わってしまうような感じがして、止めたところがあります。すみません。川崎哲氏のの「イラQウェブ」に、「おかしいぞ?と思ったら政府やマスコミに電話しよう」というコーナーがあり、連絡先が整理されています。イラク報道や政策だけでなく、有事法制をはじめとする様々なことについて、適用できると思います。

 益岡賢 2003年4月12日

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