ケネディ再考(20世紀の悪党たち)

益岡 賢 (1999年11月)


目次:
  1. はじめに
  2. 生い立ち
  3. 直接の政治による犯罪
  4. 表象の政治による犯罪
  5. おわりに

平和とは、人間が生まれながらに持っている権利を守ることである。 その権利とは、自分の生活を他人におびやかされない権利、自然が 与えてくれた、きれいな空気を呼吸する権利、未来の子どもが健康 に暮らす権利、この三つではないだろうか。
  ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ
  一九六三年六月一〇日アメリカン大学講演「平和の戦略」より

1. はじめに

 本小論ではジョン・フィッツジェラルド・ケネディ (John Fitzgerald Kennedy、 JFK、 日本では、ジョン・F・ケネディあるいはJ・F・Kなどとも表記される) という人物を 扱う。彼は一九六一年から、一九六三年一一月二二日に暗殺されるまで、米国第三五代大 統領を務めた。ジョン・フィッツジェラルド・ケネディの大統領就任期間中の直接的な犯 罪を分析するならば、他の多くの米国大統領と比べて極端にその規模が大きいとかあるい は極端に残忍であるということは必ずしもない。むろんこれは、ジョン・フィッツジェラ ルド・ケネディの犯罪が大したことでなかったというのではなく、他のほとんどの米国大 統領も負けず劣らず大規模な犯罪に手を染めてきたということである。

 さて、それにもかかわらず、他の米国大統領ではなく、特にジョン・フィッツジェラル ド・ケネディを二〇世紀の悪党の一人としてわざわざ論ずるのは何故か、その理由を始め に簡単に説明しておこう。第一の理由は、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ自身が 政治的な位置にあるときに直接犯した犯罪に加え、彼の表象がそれ以降の様々な犯罪の隠 蔽と美化に用いられているという点にある。直接的な犯罪の規模は、他の米国大統領とそ う変わらないが、彼の犯罪について語られることにより新たに引き起こされる(あるいは 隠蔽される)犯罪を巡る言説の構図において、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディの 貢献は非常に大きい。第二の理由は、非常に外的なものであるが、単にジョン・フィッツ ジェラルド・ケネディが二〇世紀生まれの最初の米国大統領であるという点にある。この ような偶然の一致を考慮することは、既にジョン・フィッツジェラルド・ケネディに関し て大規模に進められてきた、取るに足らないことの神話化に貢献してしまうのではないか という危惧もあるが、二〇世紀の悪党達という枠組みにおいて、二〇世紀というものの象 徴性をとりあえずは受け入れつつそこで支配的な構図を逆転させるために役立つものであ るならば、一応の前提として悪いものではあるまい。

 以下では、極めて図式的に、生い立ち、直接の政治による犯罪、表象の政治による犯罪 について順に論じていこう。これを通じて、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ個人 がいかなる意味で二〇世紀の悪党として扱われるに足るのかについてと同時に、ジョン・ フィッツジェラルド・ケネディを二〇世紀の悪党としているところの、ケネディを巡る言 説のメカニズムについてもある程度明確にしていきたい。


2. 生い立ち

 ジョン・フィッツジェラルド・ケネディは、一九一七年五月二九日、米国マサチュセッ ツ州ブルックラインにて、父ジョゼフと母ローズの間の次男として生まれた。父方の曾祖 父パトリック・ケネディは、アイルランドから米国へ移り住んできた移民であり、母ロー ズもアイルランド系である。曾祖父、祖父と着実に資産をため、祖父は州議会議員も務め た。ジョン・フィッツジェラルドの父ジョゼフはさらにその商売範囲を広げ、米国でも有 数の資産家となった。ジョン・フィッツジェラルドが生まれた一九一七年にジョゼフは、 赤字を覚悟で「国家の大事業」たる戦争に参加するため、軍艦産業に融資を行っている。 一九二七年、ケネディ一家はボストンからニューヨークに移住する。直接の理由は、父ジ ョゼフが、ボストンに古くからある会員制のクラブへの入会をアイルランド系だからとい うことで断られたことにあるらしい。ボストンと比べると、相対的にニューヨークはアイ ルランド系移民への差別は少なかったというわけだ。これだけの事柄からも、父ジョゼフ が、アイルランド系であるという被差別者の意識を反転させた結果として、差別者である アングロサクソン系米国人上流階級への同化指向を強く持っていたことが伺える。

 このような父ジョゼフの支配する家庭環境で育った、ジョン・フィッツジェラルドを始 めとするケネディ家の者達は、ジョゼフの代では実現できなかった資産に見合った社会的 地位(?)なるものを得ることを目標として生きることとなった。被差別者の中には、自 らを差別するものに強い同化傾向を示すものが現れることがあることは良く知られている が、その後のジョン・フィッツジェラルド・ケネディの生涯はそのパターンに従っている。

 彼は病弱で生まれながらにして背骨に問題を抱えていたらしい。一八歳のときロンドン 大学入学を目指して渡英するが、病気のため一年で帰国、プリンストン大学に入学する。 プリンストンもまもなくやめ、一九歳のときにハーバード大学に入り直す。卒業時には、 卒業論文の執筆が間に合わず、父の手助けにより知り合いの記者に手伝ってもらった。こ の論文は、やはり父の画策により出版されて注目を浴びた。「上流の人間と付き合ってい く」には本を出版して注目を浴びることは重要だという父の考えに基づいている。

 ジョン・フィッツジェラルド・ケネディは、大学卒業後の一九四一年、二四歳のときに 米国海軍に入隊する。翌年には魚雷艇の艇長となり(病気のため軍医は難色を示したが、 ここでも父の画策があった)、ガダルカナル島近くで日本の軍艦と衝突、部下の命を救っ たことで勲章を受けるが、実際のところは、衝突からその後の対応まで、彼の判断ミスが 多々あったことがわかっている。この美談にも、父が関与しているらしい。

 いずれにせよ、こうした経歴を最大限に活用し、彼は政治に乗り出す。一九四六年、二 九歳のときに下院議員に当選、三一歳には再選を果たす。一九五二年には上院議員に立候 補して当選を果たす。翌年三六歳のときに、ジャクリーン・ブービエと結婚するが、その 後体調を崩し、入院し背中の手術を行う。その間、ソーレンセンという彼のブレインの肝 煎りで、『勇気ある人々』なる本を執筆し、一九五六年に出版する。この本は、ジョン・ クインシー・アダムズ(第六代米国大統領:一八二五〜一八二九年)を始めとする米国の 歴代政治家の「勇気ある行動」を取り上げたものであった。ちなみに、ジョン・クインシ ー・アダムズといえば、アンドリュー・ジャクソン(第七代米国大統領:一八二九〜一八 三七年)がフロリダで先住民に対する虐殺を行っていたときに、「無法者のインディアン と二グロの群れ」に対処するためのテロ行為の「すばらしい効果」を賞賛した人物であり、 「消防隊やクリケットクラブにプレジデントなる地位がある」という理由で「プレジデン ト(大統領)」という称号を毛嫌いした人物でもある。

 ジョン・フィッツジェラルド・ケネディは一九五八年に上院議員に再選され、二年後の 一九六〇年、四三歳のときに、民主党の大統領候補に選ばれる。同年末には共和党のニク ソン候補を破って米国大統領に当選し、翌一九六一年一月二〇日、米国第三五代大統領に 就任した。彼の大統領就任においては、彼の選挙対策ブレーンが、当時広まってきたテレ ビの影響を入念に検討し、ケネディのイメージをテレビを通して作り上げたからであると 言われる。ちなみに宗教的には米国で最初のカトリック教徒の大統領である。その後一九 六三年一一月二二日、テキサス州ダラスで暗殺されるまで、米国の大統領であった。

 いささか退屈な経歴ではあるが、単純にいうと、彼は、自らを差別していたアングロ・ サクソン系米国人へのコンプレックスの裏返しとしての強い同化願望を父から受け継いで 米国大統領になることを選び、そしてその父からの様々な手助けにより米国大統領になっ たということである。このような人物は、しばしば、自らが同化対象とした人々が口にす る、それらの人々自身は信じていないけれども便利な言葉を真剣に信ずることがある。実 際、トルーマン大統領やアイゼンハワー大統領は共産主義の脅威はナンセンスなもので、 ただ共産主義の脅威を強調することが米国のビジネス界にとって好都合であるから口にし ているに過ぎなかったのであるが、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディはこのナンセ ンスを本気にしていて、冷戦に「熱い戦争」で勝利したいと思っていたらしい。また、そ れが自分の名を残すことになるとも思っていたようだ。「リンカーンに南北戦争がなかっ たら、誰がリンカーンの名を覚えていただろうか」と大真面目に語っている(Vidal, 1998)。 ケネディの特徴を強いて挙げるならば、テレビの効果を最大限に発揮した最初の大統領で あったこと、多くの大統領が信じていなかったナンセンスをどうやら信じていたらしいこ と、である。

 ケネディの暗殺に関して色々なことが言われているが、彼が、ビジネス界にとって便利 な宣伝に過ぎないものを真面目に信じてしまったことが一つの大きな要因であろうと思わ れる。日本の政治家の右翼的な発言が、他のアジア諸国で商売をする企業にとって迷惑で あるのと多少似通った状況である。とはいえ、一方で、彼がナンセンスを信じていたこと が、現実に彼が直接大統領として行った犯罪は他の大統領と似たり寄ったりだったとして も、彼の表象を介した犯罪の増殖に貢献している面も否定できない。


3. 直接の政治による犯罪

 ジョン・フィッツジェラルド・ケネディが犯した直接的な犯罪行為について、ここでは 彼の大統領期間中に限って簡単に振り返ることにしよう。彼がまだ上院議員だったときに、 マッカーシーへの反対を決して表明しなかったことで暗黙にマッカシーへの支持を与えた など、色々と注目すべき点はある。けれども、大統領期以外のときに彼にはそれほど影響 力はなかったし、また、大統領期の犯罪だけで、小論で扱うに十分すぎる程の量があるか らである。一応、地理的に、ベトナムを中心とする東南アジア、ラテンアメリカ、そして 国内と分けて整理することとし、その過程で、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディの 政策「ニューフロンティア政策」、「進歩のための同盟」、「平和部隊」などの実状を多 少なりとも明確にしよう。

3.1 ベトナム

 第二次世界大戦後すぐに、抗日戦を闘ってきたベトナム独立同盟会が独立宣言を出すが、 独立を認めないフランスは南部に傀儡政権を作ったため、ベトナム民主共和国及び南北ベ トナム人と、フランス及びフランスの傀儡政府との間に、八年にわたる第一次インドシナ 戦争が起こった。一九五四年ジュネーブ協定により、第一次インドシナ戦争は終結し、ベ トナムの独立を認めること、暫定的に南北を軍事境界として分割し、一九五六年の選挙で ベトナムを統一することが合意された。米国はフランスの後を引き継ぐかたちでベトナム に介入する。ジュネーブ協定の数日後に、米国国家安全保障委員会報告(NSC5429/2)では、 「共産主義者の転覆行為と反乱に対しては、それが軍事的なものでない場合でも」米国は 軍事作戦を展開するべしと述べている。米国は直ちに南ベトナムにゴ・ジェン・ジェム傀 儡政権を擁立し、軍事顧問を派遣してベトナム住民に対するテロ攻撃を強化すると同時に 五六年の選挙実行を妨害した。自由な選挙を行うならば米国の傀儡が敗北することは明ら かだったからである。

 ジェム政権が南ベトナムの人々に対してテロ活動を行っているさなかの一九五六年六月、 当時上院議員だったジョン・フィッツジェラルド・ケネディは、「ジェム大統領のすばら しい成功」に酔いしれ「ベトナムの政治的自由の状況は感動的である」として次のように 述べている(Chomsky, 1993:45)。

ベトナムは東南アジアにおける「自由世界」の要であり、門の礎であり堤防の穴をふさぐ 指である。・・・「自由ベトナム」の独立は自由世界にとって軍事上重要なだけではない。 ベトナム経済は東南アジア全域の経済にとって重要であり、その政治的自由は自由を得た り維持したいと考えているアジアの全域にとって、そして実は世界中にとってのインスピ レーションなのだ。

 一九六一年の大統領就任後、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディはただちに軍事支 出の増額に踏み出した。一九六二年に米国の諸弾薬は世界中の人一人あたりにTNT火薬 一〇トンを分け与えられる量に達していた。同時にベトナムへの介入を一気に強化する。 彼が信じるところの「政治的自由」を守るためには、何としてもベトナム人の自由な意思 表明を妨害しなくてはならかったためである。ジョン・フィッツジェラルド・ケネディは 軍事顧問に加えてヘリコプタ他の投入を強化した。一九六一年一一月二二日には米軍の直 接介入を許可する。悪名高い枯葉剤の利用を許可したのも同じ時期である。一一月末には、 既に畑に対して枯葉剤を撒くための装置が既にヘリコプタに備えられた。

 一九六二年一月には米国軍人の数は八四一人から五五七六人へと急増し、軍事顧問とし てではなく、師団として米軍は直接、南ベトナム人の虐殺にのめり込んでいくことになる。 一九六二年二月には、既に米空軍が何度も戦闘行為に出動している。同年半ばには、CI Aを中心に、米国は北ベトナムでの破壊行為を展開した。ニューマンによると、ケネディ はベトナム解放軍が最も強力な基盤を持っている地域の経済基盤(つまり食料)を破壊し 社会構成を壊滅させることによって解放軍と戦おうとしたのであり、その結果が、枯葉剤 の使用と強制キャンプへの農民の収容、空爆、無差別絨毯爆撃につながっていったのであ る(Newman, 1992)。

 こうした米国の介入にもかかわらず、六二年末までに南ベトナム解放区は増大し、六三 年早々には米軍将校指揮下の南ベトナム「政府」軍師団が壊滅的打撃を受ける事件が起こ る。六三年には、ジェム政権は残虐さを増し、仏教徒の弾圧を強化するとともに私服を肥 やす行為に没頭しはじめる。米国はジェムを「統治能力なし」とみなして、クーデターを 扇動した。一九六三年一一月一日のことである。

 その後の米国のベトナムにおける行為と敗退までの歴史は周知の通りであるが、ケネデ ィ政権下の米国のベトナム侵略政策を見ると、その後の展開のほぼ全てがケネディ期に始 まったといえる。例えば北爆は一九六四年のトンキン湾事件以降であり、ジョンソン大統 領の責任であるかのように語られるが、北への侵略の道は既にケネディによって開かれて いたのである。しばしば、ケネディについては、全面北爆をしなかった(!)こと等によ ってあたかも平和推進者のように言われる。「百発殴るかもしれなかったところを十発し か殴らなかったので良い人だ」という馬鹿げたレトリックは、ケネディを巡って頻繁に用 いられるものであるが、これはその典型である。

 この時期から、米軍が南ベトナムの農民を攻撃していることは別に秘密ではなかった。 一九六一年から六三年までの間にも、米軍の直接関与は軍関係者が公言していたし、また、 ニューヨークタイムズ紙も報道している。ロジャー・ヒルズマンも南ベトナム農民の殺害 に言及しているし(Hilsman, 1967)、『ペンタゴン・ペーパーズ』でも、「南ベトナム (政府)は本質的に米国の創造物である」ということは明言されているし、また、解放軍 とは関係のない農民がどれだけ殺されたかわからない(ほど殺された)ことを述べている。 詳しく分析している余裕はないが、ケネディの発言とそれをフォローする著作や報道の多 くに共通しているのは、例えば南ベトナム農民を無差別に殺すことが倫理的に悪であると いう意識が全く欠如している点である。米国の政策にとって農民を殺すことが有利に働く ならば良い、米国に戦略上不利ならば悪いという論理のみが用いられている。

 ちなみに、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディは、自らの政策を「ニューフロンテ ィア」政策と名付けた。ニューディール政策を緩やかなモデルとして想定していたという 以外特に具体的な政策を指している言葉ではないが、アングロ・サクソンを筆頭とする白 人入植者の利益を拡大するために先住民の虐殺を繰り返してきた米国のいわゆる「フロン ティア」政策に対して、ベトナムを始めとして世界中での自らの利権を確保するために虐 殺行為を展開したケネディ政権の政策を「ニューフロンティア」と言うのはなかなか適切 な言い回しである。

3.2 キューバ侵略と「キューバ危機」

 ラテンアメリカ・カリブ地域でのジョン・フィッツジェラルド・ケネディの政策を要約 すると、キューバへの侵略(の失敗)とキューバ危機に見られる直接的侵略行為、米国へ の輸出型農業経済の促進と、それに伴う人々の反対を封じ込めるためのラテンアメリカ各 国の警察国家化、ということになる。これらは、「世界の悪との対決」、「進歩のための 同盟」、「平和部隊」(ただしグリーンベレー部隊も同時期の設立のはずである)などと いった奇妙な言葉のもとで遂行された。

 一九五九年のキューバ革命後、米国からの援助を取り付けられず、反対に米国の敵意に 直面したキューバはソ連への依存を強めていく。米国のキューバ侵略とカストロ暗殺は、 ケネディが大統領に当選する前から準備されていたもので、ケネディが大統領当選後(就 任前)の一九六〇年一一月にはCIAから、キューバ侵略のシナリオについて報告を受け ていた。米国が調印していた米州機構憲章を破って、米国の関与を隠したかたちでならと、 ケネディがキューバ侵略にゴーサインを出したのは就任早々のことである。この際に、米 兵を直接上陸させないこと、米軍機の米軍マークをわからないように塗りつぶすこと、な どといった条件を出した。大国の傲慢さを背景に、わからなければ、あるいはわかっても しらを切り通せさえすれば何をやってもよいというわけだ。ケネディらしい決断である( ちなみに、こうした国際法に反するあるいは戦争犯罪に相当するカモフラージュは米国「 リベラル」の好む手段であり、「人権大統領」カーターも、ニカラグア軍司令官たちを偽 の赤十字マークを付けた飛行機で国外に避難させたことがある)。

 一九六一年四月一七日、CIAがグアテマラとニカラグアで訓練した反革命キューバ人 一四〇〇名あまりと二〇名ほどの米国人パイロットとが、キューバのピロン海岸に侵略し た。この侵略はキューバ軍によって撃退された。この件についてケネディに対する非難の 声が色々上がったが、侵略そのものが犯罪であるからという観点の非難は全くなく、単に 敗北という戦略上の失敗が非難されたのみであった。ベトナムに関するケネディの政策を 巡る議論と全く同じパターンである。

 米国の侵略への危機感、そして米国の経済封鎖の結果、ソ連への経済的・軍事的・政治 的依存を深めたキューバは一九六二年九月にソ連と武器援助協定を締結した。同年十月に ケネディは、ソ連がキューバにミサイル基地を設置しようとしていることを察知し、二〇 〇隻近い艦艇と一〇〇〇機以上の軍用機でキューバを取り囲んだ。いわゆる「キューバ危 機」である。この危機は、ソ連船が方向を変えて戻っていったため回避された。

 「キューバのミサイルで米国が攻撃されたときにはソ連を攻撃する」というのがジョン ・フィッツジェラルド・ケネディの公の説明であったが、ソ連の輸送船がキューバに近づ きつつあった段階で彼の指は核ミサイル発射ボタンにかかっていたという話もあるから、 実際の所は、キューバにミサイル基地が建設されたならばケネディは核戦争を開始してい たということになる。ソ連の政治家達をを擁護する気はみじんもないが、トルコなど、米 国とキューバとの距離に相当する距離の場所に米国のミサイル基地を抱える(という表現 は変だが)ソ連の政治家が、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディのようであったなら、 私たちは今、生存していなかったかも知れない。

 キューバ危機にあたってのケネディの行動は、米国の政府と軍部内で先制攻撃を唱える タカ派を抑え、ぎりぎりのところでソ連の譲歩を引き出した適切な決断として米国で評価 された。また、その後ケネディはフルシチョフと会談し、核軍縮への先鞭をつけたと言わ れている。しかしながら、なぜ、米国とソ連がそもそも自ら所有している(そして他のほ とんどの国々・人々が所有していない)核を使わなかったことで誉められるのであろうか。 キューバ危機を巡ってのケネディについての議論では、この単純な事実が抜け落ちている。

3.3 「進歩のための同盟」と「平和部隊」

 地域的な紛争を巡る対立は重要であるとはいえ全面的な東西対決に突入するには及ばな いことを意識したジョン・フィッツジェラルド・ケネディは、特に米国の「裏庭」である ラテンアメリカ諸国とカリブ地域で、より少ない危険(むろん米国の一部の人々にとって) で米国の利権を維持する方法を考えることになった。ラテンアメリカ諸国に対して、それ まで軍やCIAを通したかなり直接的な侵略と干渉を繰り返してきた米国は、ケネディ時 代以降、ラテンアメリカ諸国の軍隊の国家保安軍化による各国の軍事・警察国家化によっ て米国の利権を維持するという政策をとり始める。これと並行して、いかに政治的な非難 を浴びせようと否定しがたい、キューバでの住環境・教育・医療の改善に対抗するために、 一定の経済構造改革をラテンアメリカ諸国に適用しようと試みた。本来、別の主権国家に 対して何らかの政策を適用するということ自体問題のあるところではあるが、一九世紀の 特に末以来、ラテンアメリカ・カリブ地域に直接的な介入を繰り返して来た米国には、そ のような感覚は全くないのであろう。

 ケネディ政権下でラテンアメリカに対してとられたこの奇妙な政策は、公式には一九六 一年八月一七日に調印された「進歩のための同盟(Alliance for Progress)」と言う枠 組みで進められた。公に述べられた目標は、経済社会的発展及び農地改革と、大変印象的 である。しかしながら、各国の土地所有者達が反対したこともあり、農地改革は行われな かった(政治的自由を歌いながらベトナムにおける政治的自由をあらゆる手段で抑圧して きたケネディであるから、ここでも農地改革を歌ったのはレトリックに過ぎないと考える ことも可能であるが、キューバの存在とキューバ危機により、最初は少なくとも一定程度 の農地改革を行う意図が少しはあったらしい)。その変わりに、農業の「近代化」が進め られ、米国から輸入された農業機器と肥料に基づく、米国への輸出向けの農業パターンが 急速に形成される(Williams, 1986)。

 その結果、輸出用作物を作る一方でとうもろこしや大豆などの国内生産用の作物生産を 減らすという体制がラテンアメリカ諸国に広まり、定着した。「進歩のための同盟」のも とで、牛肉の生産と輸出は増えたが国内消費は減った。これが国内に飢えが広まる一方で GNPが増加するという「経済の奇跡」を引き起こしたのである。米国の側から見ると、 これは米国国民の税金を米国企業につぎ込むメカニズムということになる。実際、ケネデ ィは「進歩のための同盟」設立直後に、二五名のビジネスリーダからなる「進歩のための 同盟のための通商委員会」を設置している。結局の所、「進歩のための同盟」は「大企業 の進歩のための同盟」に他ならなかった。

 ラテンアメリカ諸国で米国企業の利潤を追求するためには、国の「安定」が必要である。 国民の多くを飢えに追いやることを伴う「進歩のための同盟」下では、国の「安定」のた めには、各国を「安全保障国家」化する必要があった。ケネディ政権下で、ラテンアメリ カの軍隊は、国家安全保障軍として体系的に再組織化された。米国からの武器輸出パター ンも如実に変化し、それ以降現在に至るまでラテンアメリカの多くの国で特徴となる、も っぱら国内の「反乱分子」を標的とする軍隊が各国に誕生する。同じ頃、南ベトナム内で は米軍が直接手を下すかたちで同様のことを行い、ノウハウを蓄積させていたのである。 同時に米国国際開発局を通して、ラテンアメリカ各国警察の公安化も進められた。

 米国による、ラテンアメリカ国家の「安全保障国家化」は、軍や警察を通して行われた のみではなかった。米国国防総省が述べているように、「あらゆる反政府的運動を破壊す るために」、「軍、準軍、政治、経済・心理的及び市民的行動」を全て用いたのである。 ジョン・フィッツジェラルド・ケネディが提唱した「平和部隊」もその一環であった。平 和部隊は「進歩のための同盟」締結直後の一九六一年九月に発足した政策で、表向きには、 ボランティアを発展途上国に送るものであったが、実際は米国国際開発局やCIAのため の諜報ネットワークであり、そのように機能した。ケネディは大統領就任時に「米国が自 分のために何をしてくれるか問うのはやめましょう。自分が米国のために何をなしうるか を問いましょう」と述べた。この言葉に熱狂したと思われる米国の青年達が、まさに米国 (企業)のために平和部隊に続々と参加したのである。米国(企業)のために、米国の青 年達がボランティアで働いてくれ、しかも、そのための政府援助というかたちで米国国民 の税金を利用できるのであるから、まさに、すばらしい政策であった。

 最近日本の文部省や何かが「ボランティア」の奨励を熱心に行っている。本来税金を利 用してすべきことをせずに、人にただ働きさせる枠組みとしてのボランティアは大変望ま しいものであるが、文部省提唱のボランティアには、「平和部隊」のような単純なスロー ガンが欠けているようである。

 当時、対ゲリラ政策の直接指揮にあたったチャールズ・マチェリングは、ケネディ政権 のもとで、米国は「ハインリヒ・ヒムラーの皆殺し部隊式やり方」と「直接の共犯関係」 を持つことになったと述べている(チョムスキー, 1994)。国内の「治安」維持を主要な 役割としたこれらの国々の軍隊は、一九六〇年代以降次々とクーデターを起こしていく。 現在まで続く政治的虐殺・誘拐・拷問、環境破壊と累積債務の直接の起源はここにあると 言ってよい。

 ジョン・フィッツジェラルド・ケネディが「平和的な革命を不可能にする者達が暴力的 な革命を不可避にする」という有名な言葉を述べたのは、進歩のための同盟一周年の講演 においてである。実際のところ、ケネディこそが、彼自身が述べた「平和的な革命を不可 能にする者」として他に類を見ない存在であった。

3.4 国内問題

 ジョン・フィッツジェラルド・ケネディが大統領に就任していた時期の最も大きな米国 の国内問題は、いわゆる「公民権」問題であった。ケネディの大統領就任時には、特に一 九五五年末のモントゴメリー事件もあって、黒人の抗議行動が高まり、それに対する白人 の暴力行為が続いており、既に人種問題は爆発寸前のところまで来ていた。法的に言うな らば、バスにおける隔離のような人種隔離は連邦政府により以前から不法とされていたの であり、単に連邦政府は南部にこうした法律を強制しようとしてこなかったのである。ま た、いわゆる「公民権問題」は、世界的な文脈では、マルコムXも指摘したように、人権 問題であった。

 ジョン・フィッツジェラルド・ケネディは、大統領就任後、この問題について、何一つ 積極的な手を加えなかった。爆発を避けつつ現状維持につとめ何もしない、というのが彼 の基本政策であった。何かして南部の白人の支持を失うのはまずい、一方、状況が爆発し て彼への批判が高まるのもまずい、という判断だったのである。それゆえ、ジョン・フィ ッツジェラルド・ケネディは、公民権委員会議長のシオドア・ヘスバーグ神父に対して、 どうしても行動せざるを得なくなるまでは何もするなと言っていた。

 また、一九六一年に学生達が「フリーダム・ライダーズ」を組織して北部から南部へ人 種混成バスを走らせた時には、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディの弟であり司法長 官であったロバート・ケネディは、ミシシッピ警察と談合し、ミシシッピ警察が彼らを暴 徒から保護することと引き替えに彼らの逮捕に同意したのである。米国の他の地域でも、 人種差別反対と公民権の確立に向けて活動している人々が暴行を受け続けたが、連邦政府 は、ケネディの方針通り、これに対して何ら積極的な手だてを講じなかった。

 一九六三年夏には、有名な「ワシントン大行進」が行われる。もともとこれは、公民権 運動の黒人指導者達が、政府による問題解決の失敗に抗議するために組織されたものであ った。この集会が爆発の契機となることを恐れたケネディは、それを友好的なものとすべ く資金をつぎ込み、環境を整え、大行進内での行動を穏健にするような検閲体制を作り出 した。例えば、何度も逮捕され殴打されていたジョン・ルイスが集会で出そうとした意見 は事前に「大行進」の指導者により変更を要求された。「公民権問題」は基本的に白人に よる差別の問題なのであるから、それに対する抗議行動の穏健化(のみ)に奔走したケネ ディの政策が問題解決を促すはずがない。実際、ワシントン大行進をあざ笑うかのように、 その一八日後にはバーミングハムの黒人教会で爆弾が爆発し、四人の少女が殺された。

 結局、新たな公民権法が制定されたのは一九六四年の七月であった。公民権法の制定を 先送りにし続けたケネディ自身が暗殺された一九六三年一一月二二日よりも後であり、ま た、人種を巡る対立の解決を大統領就任中先延ばしにし続けた結果、黒人を中心とする多 くの人々の命がさらに奪われた後のことであった。

3.5 整理

 ここまで、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディの大統領就任期間中の主要な出来事 を駆け足で見てきた。他にも、彼が大統領就任中に手を染めた色々な犯罪を指摘すること ができる。例えば、インドネシアによる西パプア併合への道筋をつけたこと、ジョージ・ ワシントンとイロコイ族との間に締結された条約を無視してダムを建設し、セネカ族の土 地を水没させたこと、などである。

 こうした悪事は、けれども、歴代の米国大統領が行ってきたこととあまりかわりばえの しないものであった。実際、ハワード・ジンは『民衆のアメリカ史』の中で、ケネディの 政策を次のように要約している(ジン, 1993:734)。

(ケネディの)中道的基盤の上では、すべてが安定するかに見えた。黒人のためには何も するにおよばなかった。経済構造を変えるようなことは何もする必要がなかった。侵略的 な対外政策は継続しえた。この国は統制下に入ったかに見えた。

上で見てきたように、ケネディが国内及び国外各所で犯した犯罪は巨大なものではあった が、歴代米国大統領の中でとりわけ突出しているというほどのことでもない。それにも関 わらず、彼は二〇世紀の悪党として他の米国大統領以上に重視されるべき理由がある。そ れは、ケネディを巡る表象の政治学の存在である。


4. 表象の政治による犯罪

 ジョン・フィッツジェラルド・ケネディの行ったことのみを観察するならば、例えば他 の多くの米国大統領と比べてとりたてて何か特徴があるわけではない。それにも関わらず、 彼は歴代米国大統領の中で最もたくさん語られた大統領である。例えば、ざっと見ただけ で、ケネディについての英語の図書は六〇〇点あまり、日本語でも一〇〇点あまりあるこ とがわかる。ここでは、これについて「何故か」という問いを発してケネディを巡る不毛 な言説に参加するのではなく、ケネディを巡る表象を観察することにより、そこで発動し ている犯罪のダイナミズムを多少なりとも明らかにすることを試みる。大まかに言って、 最も強く感じられるのは「選択的前景化」およびそれに伴う情報の刷り込みと、その上で の「痴的ゴリ押し」である。

4.1 選択的前景化及び(後景での)前提の刷り込み

 ケネディを巡る議論は、大まかに言って、次のように整理できる。まず、一方に『ケネ ディからの伝言』、『ケネディの遺産:平和部隊の真実』『ケネディ:英知と勇気の大統 領』『ケネディ:勇気と決断の大統領』『ケネディの道:未来を拓いた大統領』のような、 嘘と隠蔽を交えて語られるケネディ賞賛の言説があり、他方に、『ケネディ家の悪夢:セ ックスとスキャンダルにまみれた3世代の男たち』『マフィアとケネディ一族』『ケネデ ィ家の女たち』『ケネディ王国:権力に憑かれた男たち』のように私生活に限られたケネ ディへの(しばしば誹謗的な)ゴシップがある。その中間に、『ケネディ:栄光と苦悩の 一千日』のようなケネディは政治家として辣腕であったかナイーブであったかという議論、 及び映画『JFK』、『ケネディはなぜ暗殺されたか』、『ケネディを撃った男たち:現 代史の謎』、『二〇三九年の真実』といった暗殺ものゴシップが位置する。これら全てを 大枠で支えるものとして、『ケネディ演説集:アメリカの課題と挑戦』、『ケネディ語録』、 『絶叫するケネディー:その最重要演説16編』、『ケネディ大統領演説集:英和対照』、 『ケネディは生きている:名演説21篇とその背景』といったケネディ語録ものがある。

 タイトルからだけでもわかるように、ケネディを巡る出版や議論の全体的傾向自体が、 既に選択的前景化の結果であり、ケネディを巡る議論のマクロなスペクトラムは、既に非 常に狭く限定されている。このような枠組みにあらかじめ限定されているため、出版され たものにおける議論は、「朝三暮四」の茶番にしかならないようになっている。さらに個 別の本や議論のレベルに降りて、ケネディを巡って言われていることを観察すると、典型 的なミクロのダイナミズムがいくつか観察できる。

 ケネディの全体像を解説しようと意図された新書や子供向けの人物伝などは、マクロな 構図の中でバランスを取っており、ミクロな前景化と刷り込みのメカニズムを「偏りなく」 示していて興味深い。例えば、『ケネディ:銃弾に倒れた若き大統領(学習まんが人物館)』 を見てみよう。何よりも目に付く(かない)のは、本漫画中でベトナム侵略が扱われてい ないことであるが、細かい言葉の効果も興味深い。一例のみを挙げると、キューバ侵略が 失敗した後、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ大統領はテレビに登場し、「私は政 府の責任者であり、今回の失敗の全責任は私にあります」と述べる。次のコマでは、米国 風家族が登場し、女の子が「きちんとあやまるのってえらいと思うわ」、母親らしき人物 が「いさぎよいことは、すばらしいことなのよ」とのたまう。しかし、大統領は何を謝っ ているのだろうか。侵略の「失敗」をである。そもそもの侵略が国際法違反であり、米国 自身が批准した米州機構憲章違反であり、従って、失敗か成功かに関わらず米国政府は国 際的な犯罪行為を犯していたという単純な事実は、ここでは全く消し去られている。

 ジョン・フィッツジェラルド・ケネディについて書かれた二つの新書、『JFK:大統 領の神話と実像(ちくま新書)』及び『ケネディ:その実像を求めて(講談社現代新書』 (ともに一九九四年刊)も非常に興味深い。前者は、ケネディを「個人的な問題はあった ものの時代の変革の中でたくみに生き、またその変革を助長した大統領としてとらえ」 (あとがき)たものであり、まさに、上記のケネディを巡るスペクトラムの中心に位置す る。一方、後者は、「自信はない」が「なるべく客観的な観点に立って」執筆したという。 新書という普及しやすい形態に加え、折衷的あるいは客観的なものと自称されていること からも、ケネディを巡る典型的言説の特徴を見るには都合の良い本である。両者に見られ るトーンの違いにも関わらず、後景に滑り込ませている論調には共通点が多い。

 最も重要なものは、画一的なアメリカ(米国)観である。『ケネディ』は、ケネディ暗 殺を契機に「アメリカ人は、古き良き時代が終わりかけていることをはっきりと認めざる を得なかった」と述べており、また、『JFK』は、五〇年代を「アメリカ的な考え方が 世界を制したかに見えたパックス・アメリカーナの時代」(p.9)で「世界でも有数の豊 かなライフスタイルを楽しむことができたし、その豊かさは希望する者にはすべて分け与 えられるものであった」(p.131)と述べている。

 ここで前提とされている「アメリカ人」はアングロサクソンを中心とした入植者であり、 「アメリカ」とはそれらの入植者の世界に過ぎない。当時差別され、貧困におとしめられ ていた黒人や、インディアンはどこへ行ったのであろうか。こうした前提を適度に盛り込 んだ上で、例えば「大統領という地位はアメリカに生まれた者が一度は心の中に描いてみ る、野心の究極の姿である」(『JFK』p.57)といった独りよがりの説明が可能となる。

 しかしながら、もし仮に、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディが、これらの著作が 描き出すように「社会的弱者のための福祉政策」(『JFK』p.87)を取ったのだったら、 そもそも、ケネディについて述べる著者の目は、黒人や先住民を考慮したものであるべき ではなかったか。また、一方で、もしこれらの著者が言うように、「豊かさ」が「希望す る者にはすべて分け与えられる」ような社会であったなら、「社会的弱者」などそもそも 存在しておらず、「社会的弱者のための福祉政策」など不要ではなかったはずではなかろ うか。

 このような論理の破綻を覆い隠し、全ての記述を暗黙のうちにアングロサクソン系入植 者の米国という視点でまとめあげ、あからさまな犯罪を隠蔽するための準備として、「ア メリカ」に対する視点が固定される。都合のよいことに、ケネディを巡る本はケネディを 主題としているのであるから、「アメリカ」そのものは背景に留まり、それゆえ、読者の 視点を後ろからからめ取り、ここでの「アメリカ」の視点に固定する(本当のところ、筆 者自身は、そのようなことで惑わされる程知的レベルの低い読者がいるとは信じられない のだが)。

 このような記述の過程で、「全て人間は平等に作られている」と書く筆の乾かぬうちに 「辺境の住民(=入植者)に対してインディアン蛮族の過酷な攻撃をもたらしめた」とし てインディアンを人間から除外した米国独立宣言の差別精神が反復され強化されると同時 に、「アメリカ」建国において犯された入植者たちによるおびただしい犯罪は免責される ことになる。これで、後述するような痴的ゴリ押しのために必須の視点は形成されたとい うわけだ。これはケネディについて書かれた非常に多くの本に共通することである。

 さらに、細かくケネディ関連書を読むと、背景での刷り込みはより微細にわたって観察 される。例えば、より専門的な(装いの)書物である『一九六一ケネディの戦争』という 本がある。『ペンタゴン・ペーパーズ』を始めとする膨大な資料にあたってまとめた「実 証的」な著作であるらしいのだが、ここでも「ケネディの死がアメリカにとって繁栄と平 和の終わり、未曾有の困難の始まりを告げる弔鐘となったことである」(p.5)等々、「ア メリカ」観の背景における刷り込みはしっかりとなされている。その結果、ケネディにつ いて「困難な評価」(p.7ff)が問題として前景化され、明白な侵略行為は議論の中心か ら除外されていく。

 このような前提のもとで、そして、それに基づきあらかじめ論証抜きでケネディのベト ナム介入を(犯罪ではなく)「愚行」と定義した上で、「ケネディ外交の本格的実証研究」 たる自己規定を行っている同書は、当然のことながら、ケネディ外交以外については、驚 くべき「非実証的」見解を記述の中に滑り込ませる。例えば、ベトナム戦争について「か つてはフランス人の戦いであり、その後は南ベトナム人の戦いだったはずのものが、この 年(一九六一年)を境にアメリカ人自身の戦争に転化した」(p.15)といったものである。 一体いつ、「南ベトナム人」が、フランス人やアメリカ人と同じ範疇で、「戦い」の場に 身を置いたのであろう(あるいは「だったはず」という表現に対応するならば置きえたの であろう)。「実証的」に見ると、大多数の「南ベトナム人」がフランスやアメリカに対 して闘っていたにもかかわらず、このように述べる「実証的」根拠はどこにあるのだろう か。むろん、ジェムを始めとする仏米の傀儡である「南ベトナム人」は存在したが、そう した少数の傀儡南ベトナム人を「南ベトナム人」として一般化する論拠はどこにあるので あろうか(人数的に言うならば、白人入植者に「アメリカ」を代表させるのと較べてすら、 遥かに無理がある)。

 一旦このようにして、語ることの範囲を狭く規定する視点が確立されてしまえば、あと は痴的ゴリ押しで論旨を展開することが可能になる。そして、そうした痴的ゴリ押しは、 一回りして前提の強化を促して行く。かくして痴的トートロジーは自己増殖と強化を続け ることになる。以下、駆け足でそれを見ていくことにしよう。

4.2 痴的ゴリ押し

 痴的ゴリ押しのレベルにも色々あるが、多少なりとも工夫を凝らしたものに、「彼は正 義の人だった、というのも彼は悪魔ほど悪くないから」とでも表すべき(レ)トリックが ある(「正義」を「知性」に、「悪魔」を「蝿」に置き換え、「悪く」の前に「頭が」を 挿入したバージョンもある)。都合の悪いことはかくしてしまう選択的前景化と表裏をな す手法である。例えば、前出の『ケネディ:銃弾に倒れた若き大統領(学習まんが人物館)』 巻末解説では、ベトナム戦争について、次のように述べている。

大統領になったとき、ベトナムに送られていた米軍事顧問団は一五〇〇人ほどでしたが、 六三年には、一〇倍以上の一万六〇〇〇人にふくれあがていました。もちろん、ケネディ は、実戦部隊を送ってベトナム解放戦線(ベトコン)と戦おうとする、軍部の圧力ははね のけましたが、軍事顧問団を増やしたことが、ケネディの死語、アメリカがベトナム戦争 に全面的に介入するきっかけになったことは事実でしょう。

ここでは、一万六〇〇〇人にふくれあがっていた米国人が「軍事顧問団」であったといっ たあからさまな誤り(あるいは嘘)に加え、それを相対化するために、「もちろん」「軍 部の圧力ははねのけた」という妙な記述が見られる。一万六〇〇〇人には増やしたけれど、 五万人には増やさなかったことは、彼が平和と正義の使者であることを示しているという わけだ。

 「もちろん」、「限定的にではあるが」、「以外に方法はなかった」などは、痴的ゴリ 押しを後押しする表現としてケネディについて論じた本で多用されるものである。例えば、 『ケネディ:その実像を求めて』にはジョン・フィッツジェラルド・ケネディのベトナム 政策について、次のような記述がある。

「・・・したがってわれわれは南ベトナムに踏みとどまるつもりである」とケネディはは っきりと記者団の前で述べている。だがもちろんそれは、アメリカがベトナム人に代わっ て戦うためではなく、そこに駐留し、その存在を知らしめることが目的だった。(p.151)

 さらに、同書では、枯葉剤の使用について、次のように述べる。

限定的にとはいえ、軍の要求に妥協して、最初に枯葉剤やナパーム弾の使用を許可したの も、ケネディだった。それがのちに、そうした残忍な兵器の使用の拡大につながったとい えば、そのとおりである。だが、見落としてはならないのは、ケネディがベトナムに派遣 したのは、あくまでも軍事顧問団であり、彼は常に実戦部隊の投入には懐疑的だったとい うことである。(p.157)

『ケネディ:銃弾に倒れた若き大統領(学習まんが人物館)』と同様である。「残忍な兵 器の使用の拡大」というより大きな問題のもとでは、最初に許可したことは問題ではなく、 むしろ許可しただけで拡大しなかったことは(実証的観点からのこれらの正確さは取りあ えず問うまい)ケネディが正義の人であったことを示していると言いたいかのようだ。同 じ論法を使うならば、東チモールで人口の三分の一にものぼる二〇万人もの人々を、西洋 諸国と日本の熱心な協力のもとで死に追いやったインドネシアのスハルト元大統領は、残 りの四〇万人もの人々を殺さなかったために正義の英雄ということになりかねない。

 また、軍事顧問団(であったかどうかもここでは問わない)を大量に派遣したことの侵 略的性格は実戦部隊の投入よりも弱いから・・・しかしそれを見落としても見落とさなく ても、ケネディが実際に犯した犯罪には変わりはないのではなかろうかという正論は、こ こでは通用しない。なにせ、米国は「アメリカ」であるし、ジョン・フィッツジェラルド・ ケネディは「JFK」なのであるから。かくして知性の影は限りなく薄くなっていく。

 『ケネディ:その実像を求めて』における次の記述は、その輝ける標本である。

ケネディはアメリカン大学の演説でも述べたとおり、「各国がその将来を選択するにあた っては、それが他国の選択を侵害しないかぎりにおいて、それぞれの国にみずからの将来 を選択させるべきである」と考えていた。したがってケネディのベトナム政策の根本目標 は・・・国民に自分たちの将来を平和的に選ばせることだった。だが問題は、南ベトナム の政府がひとり立ちできるほど強くはないということだった。(p. 148-149)

まるで、植民地主義時代に「野蛮人」を啓蒙する「任務」について述べられた文章の ようだ。 同様の論理は繰り返される。同じく『ケネディ:その実像を求めて』では、まず「話し合 うために武装する」という、チャーチルの言葉をケネディが好んで引用したことを確認し た上で、次のように述べる。

ケネディはたしかにベトナムにおけるアメリカの軍事顧問団の数を飛躍的に増大させた。 だがそれは・・・「話し合うために武装している」に過ぎなかったのである。(p.149-150)

ジュネーブ協定で合意された、平和的にベトナム国民の将来をベトナム人自身で決めるた めの一九五六年統一選挙を妨害するために南ベトナムに傀儡政権を設置し、南ベトナムの 人々に対する残虐な弾圧を強化してきたのは米国であるという事実、そしてその政策をケ ネディが引き継ぎ、全面的に拡大したという事実は、ケネディについての「客観的」記述 にとっては意味がないらしい。何しろケネディにおいては、彼が言ったという事実自体が、 言った内容が事実であることの「客観的」な証明となるのである。

 こうした痴的ゴリ押しは、「もちろん」「限定的にではあるが」「以外に方法はなかっ た」といった「言い訳語」を使わなくなることにより完成する(著者達が言い訳語の使用 を必要と考えているトピックと必要と考えないトピックが見られるのは面白いが、ここで は残念ながら扱えない)。キューバ侵略に関する『ケネディ:その実像を求めて』の次の ような記述を見てみよう。

つまりは、この計画を引き継いだ時点で、ケネディには選択の余地はほとんど残されてい なかったのである(p.117) 亡命軍は勇敢に戦い、カストロ軍に重大な損害を与えたが、やがて弾薬がつきた(p.118) ケネディは比較的小さなこの失敗によって、多くのことを学んだということができる(p.121)

ここでは、痴的ゴリ押しは、偉大なるケネディの成長という前提の刷り込みに、見事に、 しかも直接的に環流している。「亡命軍」の多くがバチスタ独裁政権のキューバで残虐行 為を欲しいままにしたことも、キューバ侵略が米州機構憲章違反の単純明快なテロ行為 だったことも、そして何 よりも、多くの命が失われたことも忘れ去られ、ケネディは「小さなこの失敗」により成 長を遂げるわけだ。

 キューバ危機についても、核ミサイルのボタンに手をかけ、全世界を危機に巻き込んだ 当事者は、いつのまにか、危機を回避した英雄にまつりあげられる。

このとき、ケネディは第三次世界大戦、つまり核戦争の危機のふちにおいこまれてぎりぎ りの選択をせまられましたが、けっきょく、キューバに対する海上封鎖で、危機をだっす ることができました(『ケネディ:銃弾に倒れた若き大統領(学習まんが人物館)』p.150)
たしかにケネディはアメリカや世界を危機から回避させることに成功した(『JFK』p.213)。

4.3 「アメリカ」に還るケネディ

 こうした記述をちりばめつつ、ケネディを巡る言説は、予定通り「正義と平和の象徴」 であるケネディ自身に送り返される。米国の対外干渉政策を引き継ぎ、軍事費を増加させ、 ラテンアメリカとベトナムを始めとする各所で直接・間接の武力介入と経済・政治介入を 続け、膨大な人的犠牲を生み出したケネディの軍事政策は、「話し合うために武装する」 (『ケネディ』p.116)ためだったことになり、膨大な数の犠牲者の存在を抹殺するとと もに、そもそも話し合うために武装しなくてはならないこと自体誤っているのではないか という常識的懐疑をも抹殺する。ケネディは「繁栄の時代にあって犠牲の精神を、対決の 時代に和解を説いた」、「命を賭して信念を貫き人々に勇気と希望を与え続け」「あらゆ る人々の魂を揺り動か」す(『ケネディからの伝言』裏表紙)人物となり、そして「キラ キラと輝いて無数に存在」する「ケネディをめぐる事実(ママ)」(『JFK』p. 227) とともに、「死んで本物のアメリカの仲間入り」(『JFK』p.226)を果たすのである。 かくして、大量の犠牲者を生み出しつつ、犠牲者を生み出した犯罪についての正当化を強 化しながら、ケネディはそもそもの前提で刷り込まれた「古き良きアメリカ」に、しかも 「本物のアメリカ」に戻っていく。

 そうして世界は「ケネディの歴史認識どおりに進」んでいく。今や、「(一部の人間の) 繁栄の時代にあって(他者には)犠牲の精神を」説き、「(自ら煽りだした)対決の時代 に(他者に対しては)和解を説」く言説がまかり通り、ケネディの言葉に心動かされない 人は「あらゆる人」の範疇から、つまり人間から除外される。インドネシアで、ニカラグ アで、東チモールで、イラクで、旧ユーゴスラビアで、ケネディ的正義のための虐殺は、 ケネディを巡るレトリックと全く同型のレトリックを伴いつつ続けられていく。

 ニカラグアで一九八四年に行われた民主的選挙を認めず、「ニカラグアの人々の民意を 繁栄させるために」テロと虐殺を続け、脅迫のもとで一九九〇年に行われた選挙を「民主 主義の大勝利」と讃えたレーガンの振る舞いは、まさにベトナムにおけるケネディそのま まであるし、イラクや旧ユーゴに対する爆撃を行ったクリントンは、「ジョン・ウェイン の映画で育って、JFKの軍服姿に憧れ」て育った人間である。二四年間の東チモール侵 略と不法占領で大量の死者を生み出し、拷問や強姦を繰り返し、一九九九年になってテロ と虐殺を強化したインドネシア軍は、日本政府によって「東チモール問題」の「平和的解 決」のために「努力を継続」するよう励まされ、歓迎されることになる(高橋他, 1999)。

 「ケネディ」の表象は、そしてそこで強化された言説のパターンは、ジョン・フィッツ ジェラルド・ケネディが生きた時代以降、二〇世紀も終わりになった今日まで、犯罪の行 使のために、そして犯罪に対する正当化のために「偉大な」貢献を果たしているのである。

 時折しも、二〇世紀最後の年、一九九九年の七月に、ジョン・フィッツジェラルド・ケ ネディの長男が事故死するという事件が起こり、ニューズウィーク誌(日本版)を始めと する各紙は、大々的にこれを取り扱った。ケネディ自身の犯罪とそれが属する大きな流れ における犯罪を覆い隠すために用いられてきたケネディの表象は、多様化しつつも変わら ずに引き継がれている。


5. おわりに

 ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ。一九一七年に生まれ、アングロ・サクソン系 米国人に対する強いコンプレックスとルサンチマンを持つアイルランド系家庭に生まれ育 った彼は、父の考えを内面化し、父の手助けもあって、二〇世紀生まれの最初の米国大統 領となる。一九六一年のことである。大統領就任後、彼は基本的には米国の政策を引き継 ぐ。むろん、状況に応じた変更を加えながら。彼はキューバに侵略し、ベトナムへの侵略 を強化し、ラテンアメリカ諸国を軍事=警察国家化する。これらの政策は、その過程で多 数の犠牲者を生み出し、更なる犠牲者を後に生み出す出発点・中継点ともなった。また、 核戦争の危機を煽る。当時の時代背景から考えて、米国大統領として特に特別なことを行 ったわけではない。彼の行為は、米国大統領と米国政府の政策のスペクトラムの中に納ま っている。その意味で、最初に述べたように、他の米国大統領と比べて、特に二〇世紀の 悪党として特権化する必然性はさほどない。

 ところが、暗殺された後、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディの表象は大きな力を 持ち始める。朝三暮四の議論は、体系的にケネディの神格化に貢献する。他の多くの米国 大統領と何らかわることのない犯罪を犯していたに過ぎないケネディの神格化における議 論の前提の狭隘化は、同時に米国大統領一般、「アメリカ」一般、アメリカ的なもの一般 の位置を固定し、その名の下で行われる犯罪をその名のもとに隠蔽する。「ケネディが生 きていれば、アメリカはベトナム戦争の泥沼に引きずり込まれることもな」かったのでは ないか、いや「ケネディこそ、アメリカをベトナム戦争の泥沼に引きずり込んだ張本人だ」 (『ケネディ』p.258-259)。明らかなのは、このような無意味な議論を繰り返すことによ って問題が隠蔽されたために、もう少しマシなものであり得たかもしれない二〇世紀の特 に後半の可能性はますます狭められてしまったということである。

 ジョン・フィッツジェラルド・ケネディを巡る議論の量にちょうど比例して、「ケネデ ィの犯罪」は増大する。これは、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ個人の犯罪の遺 産であり、また、犯罪を行い隠蔽する政治文化を作るため「ケネディ」の表象のもとに集 結した多くの遺産相続人の集合的犯罪でもある。まさに、ケネディを巡る議論の量により、 米国大統領としては取り立てて特徴的な犯罪者とは必ずしも言えなかったケネディは二〇 世紀の悪党列伝に名を連ねることができるまでに押し上げられたのである。

 大統領就任演説の中で、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディは次のように語る。

地球の半分はいまだに貧しい生活を強いられており、悲惨な状態のなかであえいでいます。 私たちはここに、みずからを救済するために立ち上がる人たちに対しては、いかなる形に せよ援助を惜しむものではないことを誓います。

「Everything I do, I do it for you(私がすることは全て貴方のため)」というブライ アン・アダムズの歌をテーマに、干渉と侵略、虐殺が行われる。日本という国でも、「他 のアジア地域のために戦おうとしていたんだ」という言葉とともに、侵略の歌と旗が再び 公に歌われ、揚げられる。二〇世紀が終わり、次の千年紀が始まろうとしている今、私た ちは、そろそろこうした犯罪的な茶番、そして茶番による犯罪の促進と隠蔽を終わりにし なくてはならない。


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