首相公選論の問題点

 「民意」の圧倒的支持をバックに自民党総裁、そして内閣総理大臣の地位に就いた小泉純一郎は、矢継ぎ早に斬新(そうに見える)改革提言を打ち出している(この点に関して例えば、本HPの「小泉首相の思いつき改憲発言」を参照)。そのような提言の一つが、ここで取り上げる首相公選制の導入である。この問題については、国会での議論や憲法調査会、マスコミ等においても少なからぬ注目が集まっており、今後そのような傾向はますます強まることが予想される。そこで、提言の内容およびその背景、そして問題点について一瞥していくこととしたい。

1 提言の内容
 小泉首相が提言する首相公選論は、国会答弁などからまとめると、つぎのように整理できる。まず制度面については、(1)一定の数の国会議員による推薦を立候補の要件とする、(2)候補者は国会議員でなくとも良い、(3)閣僚の過半数を国会議員とする規定についても見直す余地がある、等とし、その意義として、首相を選ぶ権利を国会議員から一般国民へと移管するという政界の規制緩和をもたらすと主張している。首相公選論は、小泉首相のかねてよりの持論であったようであるが、一方で国会答弁でも「公選制がどういうものか、まだ具体的にはわかっていない」と述べているように、現時点において、制度改革の提言として明確に具体化されているわけではない。

2 背景
 小泉首相が、ある程度公式に首相公選制を唱えるようになったのは、自民党総裁選の際に、公開討論会やメディアを通じて、これを「公約」として掲げて以来のことであろう。その理由として、以下のような事情が考えられる。それは、党内基盤の脆弱さ、とりわけ最大派閥の首領である候補者に比べた場合に国会議員による支持を見込めなかった小泉候補にとって、唯一の巻返しのチャンスは、世論=民意の支持を取り付けることであった。そこでは、首相公選制を唱えることを通じて自民党という一政党の内部での総裁選を首相選択のためのアリーナへと仕立てあげ、党外から調達した民意によって党内の態勢を小泉支持の方向へと縛りつけるという戦術は、かれの勝利のためにはおそらく見込みのある唯一の選択肢であったものと考えられる。実際にも、このような首相公選制が持つプラスイメージ、すなわちそれによって民意が政治にストレートに反映され、その民意を背景に強力なリーダーシップを発揮できる首相の存在によって派閥政治の弊害が打破されるといったイメージは、小泉首相のパーソナリティーと結びつくことで、自民党総裁選での圧勝のみならず、今日に至るまでの非常に高い支持率の最大の要因となってきた。
 このように考えると、現時の首相公選論をめぐる議論状況は、実は極めて限られた文脈のもとで偶発的に表舞台に現れたものである可能性が非常に大きいように思われる。とはいえ、世情の側にもそれを受容するような一定の状況があったことももちろんである。例えば、地方公共団体の公選首長が派手なパフォーマンスを演じ、官僚や業界団体を翻弄するることであたかも民意の実現が果たされているかのような表層的な報道が、マスコミを通じて流布されてきたことなども、その遠因の一つであろう。
 実は首相公選論が、一定の注目を集めるのは今回が始めてではない。今から数十年前に中曽根康弘氏が中心となって首相公選論が提唱されたことがあった。当時、必ずしも数多くの支持を集めたわけではなかったが、このような動向に対して次のような指摘が行われている。「思うに、一般国民がこれを支持する理由は、現在の沈滞した政治に対する不満から発する一種のエモーショナルなものが多いであろう。『首相を国民投票で選ぼう』というフレーズには、派閥や国会運営をめぐる与野党の抗争に毒された議会政治を改革する希望を感じさせる清新な響きがあるので、その響きに魅せられたと推測される面が多分にあろう」(芦部信喜「首相公選論」『憲法と議会政』(東大出版会、一九七一年)初出は一九六四年)。現在、首相公選制に多くの注目が集まるのも、残念ながらこの当時とまったく同様な、政治に対する国民の閉塞感が蔓延しているという背景事情が存在するのであろう。

3 問題点
 主唱者である首相が「公選制がどういうものか、まだ具体的にはわかっていない」という制度について、立ち入った問題点の検討を行うことは困難であるが、考えられうるいくつかの点について考えてみよう。
 この首相公選論の最大の問題点は、いうまでもなく、その実現のために憲法改正が不可避であるということである。例えばここで提言されている制度を実現しようとした場合には、日本国憲法の第六条、第六六〜六九条等の各条文との抵触が直ちに生じる。さらに、問題はただ単にこれらの条文の改正に留まらない。なぜなら首相公選制すなわち政府の首長を市民の直接選挙により指名するような制度の採用は、議院内閣制という日本国憲法が採用する統治システムの全面的な見直しなしには実現することが不可能だからである。
 このような国の政治のあり方の根本に関わる問題を、「まだ具体的にはわかっていない」ままに、はじめに変更ありきという立場で議論の俎上に載せ、推し進めていくような主張に対しては懐疑的な姿勢でのぞまざるをえまい。その意味で、首相公選制の主張に対して、憲法改正に向けて世論を誘導していくための政治的思惑を読み取る立場は、その本質をつくものであるといえる。
 また現実の統治の仕組について目を移せば、今次の内閣府の新設にともない首相権限や内閣機能の強化が既に実現されており、さらにはこのような制度を足掛かりにしながら、首相による迅速かつ強力なリーダシップを核とする有事法制の制定を目指す動きも顕在化してきている。このような動きをさらに推し進めるための触媒として「首相公選論」が利用されることにも注意を払わなければらならないであろう。
 もう一点、従来の政治改革をめぐる動向とこの首相公選論がどのように接合するのかという問題が挙げられよう。先の「政治改革」において小選挙区制が導入された際には、それによって政策を中心的な論点として政党が争う選挙が実現され、衆議院議員選挙自体が政権選択の意味をもつということがまことしやかに主張された。しかしながら、現在に至るまでこのような理念の実現が選挙制度改革によって達成されたのか否かについて真剣な検証・議論はまったく行われないままに、今度は「首相公選」が声高に叫ばれるという極めて異常ともいえる状況が発生している。この点に関しては、先の「政治改革」の際、そこで提言された制度改革が善であり、それに反対する者は「守旧派」であるかの如く無責任な報道を垂れ流し、そのお先棒を担いだマスメディアの責任を問う声が根強く存在している。このような前回の轍を踏まないためにも、首相公選をめぐる問題についてマスコミの冷静な報道が望まれるし、また情報の受け手である市民の側でも安易な改革ムードに乗せられないことが緊要である。
 いずれにせよ、停滞した政治を一挙に打開するような制度改革などありえない。ましてや、過去の歴史的経験に照らしてみても、特定の個人のパーソナリティーに期待したり、依存したような政治の改革などというものは必ず手痛いしっぺ返しを受けるという結末に終わるのが通例である。そもそも、一国の統治のシステムは長い時間をかけて維持・発展させるべきものである。政治に対する地道で堅実な監視、参加以外に民主主義的な統治を実現するための手段は存在しないということを改めて銘記するべきであろう。

柳井健一(山口大学)

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