自治労音協通信

  3面 NO28号/98.7.25発行

 <音楽夜話>

ブルーグラスを語るpart5

(栃木県職労)松本敏之

 今回は、ブルーグラス音楽の世界でも、最も商業的に成功したバンド、Lester Flatt,Earl Scruggs and the Foggy Mountain Boysについて書きます。

Lester Flattは1914年、テネシー生まれ。1938年からプロのヒルビリーバンドを組んでいたと言います。1945年にBill MonroeのBlue Grass Boysに入り、ギターを担当。FlattのリードヴォーカルとMonroeの高いテナーのデュエットがブルーグラスを特徴づけることになりました。

Earl Scruggsは1924年、ノースキャロライナ生まれ。母を除いて誰もがバンジョーを弾く家族であったそうです。それまではクローハンマーと呼ばれる2本指奏法が普通であったのに対して、Earl Scruggsスタイルと呼ばれる3本指奏法を編み出し、1948年に参加したBlue Grass Boysで公にしました。

1948年にまずScruggsが、そして相次いでFlattがBlue Grass Boysを離れます。そして、その年の春には、このふたりを中心に、Blue Grass Boysのスタイルの新しいバンド、The Foggy Mountain Boysが結成されました。最初のレコーディングセッションでのメンバーは、FlattとScruggsのほかに、Mac Wiseman(g)、Jim Shumate(f)、Cedric Rainwater(b)。フィドラーは変遷を重ねてやがてPaul Walrenに落ち着きます。結成間もなくCurly Seckler(m)が加わり、テナー・ヴォーカルでFlattと息の合ったコンビを聞かせてくれます。のちに、ドーブロー・ギターのUncle Josh Gravesも加わります。

Flatt and Scruggsの最初期の演奏は、 Mercuryレコードでの録音によって、聞くことができます。この録音は、何種類かのレコードで、今日まで日本でも発売されてきましたが、今、私の手許にあるのは、ROUNDER CD SS-18;SS-19「Lester Flatt & Earl Scruggs;The Mercury sessions,volume 1;2」です。これによると、 Flatt and Scruggsの Mercuryレコードでの録音は、1948年秋、1949年4〜5月、1949年12月、1950年10月の4回です。「Foggy Mountain Breakdown」は恐らくブルーグラス・スタイルの曲で日本で最も良く知られているもので、1967年に映画『ボニーとクライド』のサウンドトラックでも使われていますが、1949年12月のセッションで録音されています。また、「Roll in My Sweet Baby's Arms」も大変有名な歌曲のひとつですが、1950年10月のセッションで録音されています。 

1950年の最後のMercuryセッションと前後して、Flatt & Scruggsはレコード会社をColumbiaにかわり、人気も50年代から60年代の絶頂期を迎えます。1953年8月録音の「Your Love Is Like A Flower」、1955年9月の最初にドーブロー・ギターを加えたセッションの「Blue Ridge Cabin Home」、そして録音データはわかりませんが、「The Ballad of Jed Clambert(じゃじゃ馬ならし)」などが代表曲になるでしょう。1955年以降はカントリー色を強くし、またロカビリーの影響も取り入れ、1959年ごろからはフォークリバイバルにのってフォーク色を強めます。1960年代に入るとフラットマンドリンを省いて第2ギターを加えるなど、中音域に厚味を加える編成に変わっていくあたりは、Bill Monroeのバンドに対する彼らの音楽の特徴になったと言えるでしょう。マーサホワイト小麦粉会社がスポンサーになり、1953年からラジオにレギュラー番組を持つことができたことも、人気一番になった原因のひとつでしょう。 

Columbiaのレコードでは、1950年代の半ばの録音から編集されている「Foggy Mountain Jamboree」「Foggy Mountain Banjo」、1960年代のライブ録音の「Flatt & Scruggs Recorded Live at Vanderbilt University」などが、私は好きです。

しかし、1960年代の終わり(正確な年の記録を見つけられませんでした)にコンビは解消。FlattはLester Flatt and the Nashville Grassを結成して正統派のブルーグラスを演奏しますが、1979年5月に他界しました。Scruggsは息子たちといっしょに、ドラムズやエレキベースを加えてロック色のかかったバンド、Earl Scruggs Reviewを結成することになります。 (つづく)

私とボサノバ パート3『『行方不明の写真』

山本英二(新潟県職労)

僕が住む新潟県小千谷市は、地理的には新潟平野がちょうど終わり、雪深い魚沼地方への入り口にあたる。人口四万二千人で、隣接する本県第二番目の都市長岡市の四分の一に満たない。近隣に次々とできる郊外型大型店舗の影響を受け、小千谷の町はこの二〜三年で店を閉めたところが目立ってきた。人口流出も止まらない。けれども、こんなところに住んでいて得をしたことがあった。

昨年三月、初めてボサノバのライブに行った時のこと。渋谷にある「サバス東京」(ブラジリアンレストラン兼ライブハウス)に、アナ・カランというブラジル出身の女性シンガーが来るという情報をつかんだ僕は、一人で行くのも不安で(そのコンサートはディナー付きだったので。それにブラジル料理とはどんなものか食べたことがなかったし)、田村一哉君と小山貴子さんに電話をかけ、「ブラジル料理とボサノバを聞きに東京へ行こう」と無理矢理誘った。二人にしてみれば、何の前触れもなく電話が来て、突然何を言い出すんだろうと思ったに違いない。それに二人とも、ブラジル料理もアナ・カランも全く知らないのだから、返事をするにも困っただろうと(今にしてみれば)思う。

とにかく三人で行くことになり、チケットも予約して、当日東京へと出かけて行った。店に入り、ワインを飲みながら待っていると、マネージャーらしい人が僕らのテーブルにやって来て、「わざわざ新潟から来てくれたことに、この店の経営者の姪がとても感激している。ライブが終わってもここで待っていてほしい。」と話しかけて来た。もしかしたらアナに会わせてもらえるかもしれない、と期待に胸がドキドキしてきた。僕にしてみれば、絶対に新潟では見られないから東京に来ているだけという意識しかない。かかった時間も、僕の家から神林村にある田村君の家まで行くのにかかる時間とそう大差はない。新潟はよほど田舎だと思われているようだ。

そうこうしているうちに、ステージにアナが登場し、演奏が始まった。ボサノバの名曲やエリス・レジーナにちなんだ歌、アナのオリジナル等が歌われ、あっと言う間にライブは終わった。さてお待ち兼ねのアナとの対面だ。さっきのマネージャーがテーブルに来て、経営者の姪のところへ連れて行く。彼女は「新潟からお出でくださって、アナもすごく喜んでいるんですよ。サインしてもらいましょう」と言い、控室に通してくれた。

アナがそこにいる。だが、ワインの酔いと胸の高鳴りで頭が全く働かない。結局名前とThank youくらいしか言えなかったが、経営者の姪の取り計らいで一緒に写真を撮ろうということになった。テーブルに戻り、他の客がいる前で、僕ら三人はアナと写真を撮ってもらい、後で送ってもらうことになった。ますます感激した僕は、胸の高鳴りは一段落して、今度は気がよくなってしまった。それが大失敗のもとだったのだろう。頭が回っていないのに気だけが大きくなった。単なる酔っ払いの僕は、帰り際にすれ違った男の髭面にピンと来て、大胆にも声をかけてしまった。彼はアナのバックでギターを弾いていた男だった。以下は彼と僕の会話であるが、英語でどう話したか覚えていないので、こういう感じの会話だったと理解してもらいたい。僕「ありがとう、とってもよかったよ」彼「そうか!ありがとう!」僕「実は僕もギター弾くんだ」彼「おぉ!プロかい?アマチュアかい?」僕「アマチュアさ」彼「そうか。よかったら来週もまた見にこいよ」僕「…」彼「来週もまだやってるんだ」僕「…」彼「来週どうだ?来週、ネ・ク・ス・ト ウィーク」僕「…」彼は僕が三月の期末手当と貯金を下ろしてやっと来たということと、新潟という田舎から来ているということを知らないのだ。僕は「また来いよ」でなく「来週も来い」という予想外の展開と、来週は来られないという英語が出ず、途中から「うーん」とか、「えー」とかでつっかえたままだった。そばでマネージャーが聞いていて、「来週も来いってさ」と笑ってる。僕はその場を何とかごまかして、急いで店を出た。彼は僕のことをおかしな奴だと思ったに違いない。恐らく、その時の僕の態度が原因だろうと思う。あれから一年半になるというのに、まだ写真が送られてこないのは…。

真栄のサークル組織計画 *連載第1回

音楽活動と音楽運動

キーボードを弾く藤原さん

先日、自治労青年女性音楽活動家養成講座で話をしてくれと言われて恥ずかしげもなく東京に出かけていきました。

何を話そうかと悩んでいてふと、自分はいつから音楽を始めたのだろうと思い返しました。

思えば小学校の頃、ご多分に漏れず芸能界へ興味を持ち、今まだあるのでしょうか「明星」とか「平凡」といった月刊誌を買い、その付録に付いていた歌謡曲の本を見ながら昼休みにオルガンを弾いていた。これがオタマジャクシとの始めの出会いだったような気がします。

その後、中学、高校と吹奏楽部に席を置き、とうとう卒業してからも数年間やっていました。しかし、続けていた吹奏楽もやっていた楽器が悪かった。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、バスチューバという最低音を担当する楽器だったんです。このパートはいわゆる縁の下の力持ち、決して目立つことはない楽器です。

中学三年の時でした、「目立ちたい」という願望がふつふつとわきあがりました。でもこの楽器では目立てない。でも「目立ちたい」。そこで思いついたのがアレンジでした。自分がアレンジすれば指揮もでき、目立てる。こんな不純な動機がアレンジという道に入ったきっかけだったような気がします。

職場に入って職場にあったコンポバンドに入り、吹奏楽はやめたものの別の形での音楽活動をしていましたが、当時地区労の先輩であった後藤さん(「だから言いたいことを言おうよ」の作者)から「音楽好きの人が集まる合宿があるから行ってみないか」と誘われて参加した日音協東北ブロック合宿が音楽運動の始まりでした。

音楽というのは読んで字のごとく、音を楽しむことですが、それまで自分中で楽しければいいと言う独りよがりの物だったのが、そのときから何かを他人に伝えようと意識しだしたような気がします。

多少語弊もあるとは思いますが、そういった意味で自分の中では「音楽活動」と「音楽運動」という言葉に違いを付けています。

意図が有るか無いかでせっかく生まれてきたオタマジャクシも死んでしまう。そう自分に言い聞かせながら五線紙に向かっているこの頃です。(つづく)

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