伊藤孝司 WEB写真展
 朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)vol.1 (03〜07年) 
  


朝鮮民主主義人民共和国で、膨大な量のビデオ映像・写真を撮影してきました。それらのうち、テレビや雑誌などで発表していない写真を中心にご紹介します。なお、朝鮮民主主義人民共和国を「北朝鮮」ではなく「朝鮮」と表示しているのは、日本社会が大韓民国を「南朝鮮」ではなく「韓国」と呼んでいることに合わせたものです


2007年8月  白頭山・妙香山・平壌・南浦・開城・軍事境界線

標高2774mの白頭山(ペクトゥサン)山頂。カルデラ湖・天池(チョンジ)が、澄んだ水を満々と湛える。山麓には針葉樹林が続き、山頂に近づくと高山植物のお花畑が広がるなど、ここにはすばらしい自然が残る。
抗日武装闘争時代の軍服を着た白頭山密営の案内人。
白頭山密営で見た子どもたち。雨の中を、労働者や軍人が次々と訪れていた。
8月7日からの大雨で、平壌(ピョンヤン)市内へ流れ込む寸前まで増水した大同江(テドンガン)。川岸の遊歩道は完全に水没し、街路灯や木々が水中から頭だけを出しているこの水害で、死者・行方不明者600人以上が出た。
平壌市・万景台(マンギョンデ)にある金日成(キム・イルソン)主席の生家前で、訪問者の記念写真を撮る写真屋のおばさん。日本製の機械式シャッターのフイルムカメラを使っていた。出来上がった写真は、1週間後に郵便で送られて来るとのこと。
8・15祖国解放記念日の金日成主席の銅像。像の高さは23m。金正日(キム・ジョンイル)総書記からの、立派な花かごが捧げられていた。
金日成主席の銅像に敬礼する人民軍兵士。さまざまな団体や個人だけでなく、平壌駐在の外国人も献花をしていた。
10万人出演の巨大マスゲーム「アリラン」の、8月15日の公演。平壌を訪れた「ギネス・ワールド・レコード社」代表によってこの日、「世界最大のマスゲーム」として認定された。
「アリラン」公演の後半でのテコンドーの模範演技。この部分は2002年・2005年の公演では、人民軍兵士による怖いほど迫力のある銃剣術の演技だった。
南浦(ナムポ)市にある江西(カンソ)三墓には、高句麗時代の7世紀初めに築かれた大墓・中墓・小墓が並ぶ。ユネスコの世界文化遺産認定の標識が建つ。
江西大墓の石室内北壁に描かれた玄武。東壁に青龍、西壁に白虎、南壁入り口の両側には朱雀が描かれている。薄暗い灯りの中に浮かび上がったこれら壁画のすばらしさに言葉を失った。
水山里(スサンリ)壁画古墳の王妃像。このチマ・チョゴリ姿は、奈良・高松塚古墳の女性群像の原像だという。高句麗壁画には、高松塚古墳・キトラ古墳と共通点のある壁画が数多くあり、高句麗文化が日本へ伝わったと推測できる。
開城(ケソン)市にある朝鮮天台宗の名刹・霊通寺(リョントンサ)。1997年から調査・発掘が始まり、2005年に復元工事が終わった。
板門店(パンムンジョム)の東側にある人民軍の陣地へ行く。韓国が戦車止めのために建設したコンクリート障壁がここから見える。前回2001年に訪れた時と同じ将校は、私の顔を覚えていた。彼は6年前と同じように、韓国への厳しい警戒心を語った。
南北を分断する幅4kmの非武装地帯。自然が残されて野鳥の楽園となり、韓国側のガソリンスタンドも見えた。のどかな景色に思われるが、ここには膨大な量の地雷が埋設されている。韓国との政治・経済での和解・交流が大きく進んでいるにもかかわらず、軍事的には厳しい対峙状況が今も続く。



2007年6月  平壌
中国からの無償援助で建設され、2005年9月に操業を開始した大安(テアン)親善ガラス工場。1日300トンの原料を処理し、1万8000uの板ガラスを生産しているという。
最新鋭の設備を持つガラス工場だが、電力不足のために自動梱包装置は動かすことが出来ず、大きな板ガラスを人力で箱に詰めていた。
2006年2月に開館した「金策(キムチェク)工業総合大学」の「電子図書館」。パソコンのOSは、リナックスを独自に改良したものを使い始めたとのこと。
平壌(ピョンヤン)市から南へ車で約1時間半の田園地帯の中に、「信川(シンチョン)博物館」がある。朝鮮戦争の際、ここを占領した米軍は住民の3分の1にあたる3万5383人を虐殺したという。学校や職場からだけでなく、たくさんの軍人たちも訪れていた。
「信川博物館」には、虐殺された人々の数多くの遺品が展示されていた。写真は靴。米朝関係が改善の方向に進んでいても、徹底した米国批判の教育が今も続いている。


2006年3月  開城
=日本=
靖国神社にあった時の北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)。1592年、豊臣秀吉は15万もの兵で朝鮮を侵略。それに対し、朝鮮北部で加藤清正軍を地元の義勇軍が撃退した。その記念碑を日露戦争で朝鮮北部に駐留した日本軍が持ち帰り、靖国神社に置かれてきた。
=韓国=
かつて北関大捷碑が建っていたのは現在の吉州(キルジュ)市。日本と韓国の仏教者の努力によって、北関大捷碑は韓国を経由して朝鮮民主主義人民共和国へ返還されることになった。2005年10月12日に北関大捷碑は靖国神社から韓国へ引き渡され、11月17日にはソウル市で盛大な歓迎式典が開催された。


2006年3月1日、北関大捷碑を積んだトラックと関係者・報道陣160人を乗せたバスは軍事境界線を越えて開城(ケソン)へ到着。出入国管理施設で検査を受けた。
碑を積んだトラックが開城市内の成均館(ソンギュンガン)に到着し、北関大捷碑の引渡し式典が始まった。
南北の関係者たちは、碑を南北和解・協力のシンボルとし、碑返還でさらなる南北の友好をと謳った。
挨拶をする朝鮮仏教徒連盟中央委員会副委員長。「碑返還は日朝の敵対的関係を解消し、アジアの平和の達成にも寄与する」と語った。
式典の最後に、引渡し文書を交換する南北の関係者。韓国の参加者らは、市内観光をしてソウルへ戻った。
開城での式典取材のために宿泊した開城民族旅館。気温はとんでもなく低かったが、オンドルが暖かかった。朝起きて見たら、外は美しい雪景色。
品数が多くて豪華な開城の伝統料理。


2005年9月  平壌

9月の平壌(ピョンヤン)はさわやかな晴天が続いた。羊角島(ヤンガクド)ホテルの窓からの景色は美しかった。
3年ぶりにマスゲーム「アリラン祭典」が開催された。鑑賞のために、大勢の韓国人観光客がソウルからの直行チャーター便で訪れていた。
子どもたちが、手にしたボードで文字や絵を次々と描く。
「アリラン祭典」のフィナーレ。こうした一糸乱れぬ大規模なマスゲームは、世界中でこの国しかできないだろう。
平壌郊外を走り回った。どの道路の路肩にもコスモスが咲き、収穫直前の水田は黄金色に輝いていた。
平壌郊外を訪れる途中、車の中から見かけた一家。幸せそうだ。
金日成(キム・イルソン)広場は、10月10日の労働党創建記念日のために練習する人々で埋め尽くされていた。
朝早く窓から外を見ると、朝霧でかすんだ水墨画のような幻想的な景色が広がっていた。



2005年4〜5月  平壌・興南・咸興
普通江(ポトンガン)に近い大きな池では、お年寄りたちが1日中釣りを楽しんでいた。誰もがリール付きの釣り竿を使っているが、釣り上げたところをついに見なかった。
メーデーの日の大城山(テソンサン)遊戯場。お年寄りの女性たちが楽しげに踊っていた。近寄って撮影していたら、一人のおばさんがコップに並々と注いだ焼酎を有無を言わせずに私の口に流し込んだ。
ステージでは、プロの芸人たちが歌や手品を次々と演じる。観客たちはそれを心から楽しんでいた。
歌手が、座っている観客たちの手を引っぱって踊りに誘う。若者たちはすぐに席へ戻ってしまうが、お年よりはいつまでも踊り続ける。
万景台(マンギョンデ)区域にある高層アパートの前庭で撮影をしていたら、学校帰りの子どもたちが私に興味を持って近づいてきた。
8月15日からのマスゲーム「アリラン」の練習が、金日成(キム・イルソン)広場で始まっていた。
ある一家の墓参りに同行させてもらう。平壌市郊外の広大な共同墓地の中で、墓参りをしてからその場でご馳走を食べ酒を飲んだ。
平壌市内にある「電子娯楽遊戯室」という名のパチンコ屋。タバコやカップラーメンから洗濯機・大型冷蔵庫までのさまざまな景品が用意されている。
「平壌ボーリング館」は平日の昼間からにぎわっていた。若者たちが多いが、最も上手だったのは中年女性たちのグループだった。
平壌から、咸鏡南道(ハムギョンナムド)の興南(フンナム)へ自動車で向かう。平壌だけでなく地方でも自転車が増えた。
「興南肥料連合企業所」の朝。通勤してきた労働者たちを宣伝隊が鼓舞する。
「興南肥料連合企業所」は、日本植民地時代の「日本窒素肥料興南工場」の跡にある。その構内に、当時に建設された施設がわずかに残る。それはアンモニア合成塔で、80年代半ばから使われていない。解放後初めて外国人に公開された。
「日本窒素肥料興南工場」で働いた元朝鮮人労働者たちと、ピクニックへ行った。
咸興(ハムン)の公園で、若い女性たちが写真屋のおばさんに写真を撮ってもらっていた。



2004年10月  元山・平壌
万景峰号で元山(ウォンサン)へ着くと、埠頭で子どもたちのブラスバンドが歓迎してくれた。
元山の「平和(ピョンファ)幼稚園」で、顔を汚しながら書道の練習をする子ども。
平和幼稚園」の女の子たちは、上手な歌を聞かせてくれた。どこでも子どもたちの施設は充実している。
「平壌市育児院」に支援の粉ミルクを渡す「北朝鮮人道支援ネットワーク(ハンクネット)」の人たち。今までにいくつもの施設へ7・5トンの粉ミルクを贈った。
「平壌市育児院」には、親が死亡したり病気をしている5歳までの子どもたちが生活している。子どもたちの健康状態はかなり改善されたが、DPRKの標準体重・身長を下回る子どもが多い。
平壌市郊外にある「チョンドン協同農場」での稲刈り。重油が十分にあれば、収穫量は大幅に増えるという。
「チョンドン協同農場」の精米所には、WFP(国連世界食糧計画)の袋に入った穀物が置かれていた。袋の中には、玄米に近い朝鮮産の米が入っていた。WFPはDPRKへの人道支援のために6000万枚もの穀物袋を持ち込んでおり、それが再利用されているのだ。
WFPが運営する「平壌子ども食品工場」に運び込まれた日本政府が贈ったトウモロコシの山。
「平壌子ども食品工場」では、子どもたち用の粉末のお粥などを製造している。WFPによるDPRKへの支援食糧の約40パーセントが、5歳未満の子どもたち向けだ。残りは妊婦やお年寄りといった社会的弱者に配給される。
WFP平壌事務所のリチャード・ラガン代表は「援助物資の横流しはどの国にもあります。それが行われているかどうかが問題ではなく、横流しがこの国の政府の意図的な政策かどうかということです。私はDPRKでは絶対にそうではないと確信を持って言えます」と語る。
金日成(キム・イルソン)広場には、天気が良ければ子どもたちがローラースケートをしている姿がある。
大同江(テドンガン)の川岸で、腕白坊主たちが遊び回っていた。呼び止めてカメラを向けたがまったく物怖じしない。



2004年9月  平壌
平壌市内のルンラ小学校に行くと、授業を終えた子どもたちが運動場に整列して体操をしていた
ルンラ小学校で開かれた絵画展。日本のNGO「KOREAこどもキャンペーン」が日本人・在日朝鮮人・朝鮮人・韓国人の子どもたちが描いた絵画の交流を行ってきた。
「我が家の朝の体操」と題した絵を描いた4年生のチャ・ジンヒョク君。家族を一人ひとり紹介してくれた。
平壌市郊外にあるテガン協同農場の託児所には、太陽光発電装置が「KOREAこどもキャンペーン」によって設置された。停電した際に使用される。
テガン協同農場の託児所の中。床にはホットカーペットが敷かれ、電気オルガンが使われていた。
「第4回平壌映画祭」が、「平壌国際映画会館」で12日に開催された。ロビーに貼られた外国映画のポスターを観客たちが熱心に見入っていた。
「第1回国際武道競技大会」の開会式が15日の夕方に行われた。広場は、踊る人たちとそれを見に来た人たちでいっぱいになった。
「国際武道競技大会」のテコンド会場。茶髪の在日朝鮮人の選手が試合をしている。会場内には企業広告が初めて登場した。
歩道で売られているアイスクリームを、通行人が次々と買っていく。こうした光景は珍しくなくなった。
9月中旬でもまだまだ暑い。公園の噴水で、学校帰りの子どもたちが夢中になって遊んでいた。



2004年5月  万景峰号・載寧・平壌
万景峰号の厨房で冷麺が作られている。船内取材が認められ、希望したすべての場所で撮影ができた。以前はどうなのかは分からないが、現在の日本政府による厳しい監視下では、不正な行為を行なうのは不可能である。
ある在日朝鮮人1世の、載寧(チェリョン)にある両親の墓参りに同行した。小高い山の中腹にある墓地からの景色は美しかった。
墓参の翌日には景勝地へ親戚たちと出かけ、バーベキューを楽しんだ。人々は普段は質素な暮らしをし、客が来るとご馳走を出す。
満腹になったところで、家族ごとの歌合戦が始まった。誰もが非常に上手だ。最後に再会を願う歌が始まると、全員が涙を流した。
平壌市内を流れる大同江(テドンガン)に米国の情報艦「プエブロ号」が係留されている。拿捕に関わった軍人が、訪問者に当時のようすを解説していた。
不足している食料を増産するため、ジャガイモ栽培に力が入れられている。農業科学院の金善英(キム・ソンヨン)博士は40年間もジャガイモ栽培の研究をしてきた。
テコンドー世界選手権大会で、多くの金メダルを獲得したロ・ソンヒ選手。
メーデー祝賀行事が、平壌市郊外の大城山(テソンサン)遊戯場で行われた。外国人がカメラを向けても誰も気にしない。
平壌市内の何カ所かで、乗用車「フィパラム(口笛)」の広告看板を目にした。この車は、韓国との合弁企業が朝鮮で生産している。
夕方の平壌市内中心部。洗練されたデザインのビルが次々と建ち、古いアパートの改装が急速に進む。



2003年11月  平壌


モランボン第一中学校で歴史の授業を見た。黒板には「朝鮮人強制連行」「徴兵」といった漢字が書かれていた。「各学年で1年間に、歴史は1000時間以上教えています」と23歳の先生は語った。
「朝鮮反核平和のための被爆者協会」副会長のパクさん(右から二人目)を、楽浪(ラクナン)区域の高層アパートにある自宅に訪ねた。インタビュー後に出された冷麺を、パクさんの家族たちと一緒に食べた

平壌産院」は、私が朝鮮で見たどの病院よりも設備が整っていた。この赤ちゃんが大人になる頃には、朝鮮をめぐる国際的な状況はどのようになっているだろうか。

記念写真を撮りに、たくさんの新婚カップルが公園へ次々とやってきた。それぞれが雇った専属の写真やビデオのカメラマンがついて回る。
花嫁は、私が泊まったホテルの厨房で働く従業員。職場の仲間たちに挨拶するために訪れたたまたま部屋の窓からそれを見つけた私は、カメラを持って部屋を飛び出した。
「平壌映画制作所」には本格的な建築による大規模なセットがある。日本による植民地時代の町並みの中で、模型の飛行機を使って撮影が行われていた

「祖国解放戦争勝利記念館」には、朝鮮戦争で使われたたくさんの兵器が展示されている。案内してくれた女性兵士は、上品な香水の香りを漂わせていた。

地下鉄のホームで、掲示された朝鮮労働党機関紙の「労働新聞」を熱心に読む人々
動物性たんぱく質を確保するために金正日(キム・ジョンイル)総書記の指示で始まった大規模なナマズ養魚場。平壌市内に新しく建設された「平壌東火力発電所」の温排水を利用している。もらったこの写真のナマズをホテルで調理してもらったところ、実においしかった。
24時間営業のハンバーガーショップのショーケース。店の外には派手な看板はなく、教えられないと絶対に分からない場所にあった。調味料は輸入しているが、食材は国内で調達しているという。パン屋さんが経営しているだけあっておいしかった。ハンバーガーは、高麗(コリョ)航空の機内食でも出るようになった。
韓国の「現代峨山(ヒョンデアサン)」が寄贈した体育館。資材のすべては韓国から運んで建設した。韓国とのさまざまな交流が進んでおり、南北関係が大きく後退することはもはやあり得ない。だが、この場所で日本人選手が競技するのはいつのことだろうか
朝鮮は、米国や日本からの強力な軍事的圧力を受けている。また朝鮮全体としては、深刻な食料・エネルギー不足が続く。そうした中でも、2200万の人々は懸命に生活している。


2003年4〜5月  安州・咸興・端川・平壌

安州(アンジュ)のホテル敷地内から見た田園景色。人々が苗代を作っている。ここは、1995年の大水害では農地や炭鉱が完全に水没し大きな被害を出した

咸興(ハムフン)市内。市の人口は100万人近く。日本による植民地時代に基礎が作られた肥料・科学繊維生産が中心の都市。

咸興市興南(フンナム)区域の海。海辺にはリゾートホテルのようなしゃれたアパートが並ぶ。その前の海には、たくさんの漁船が出て貝を捕っていた。

端川(タンチョン)市の朝。子どもたちのブラスバンドが、街外れの交差点で演奏をしていた。職場や学校へ向かう人たちの士気を高めるために行っているという。カメラを近づけると女の子がはにかんだ。

集団で学校へ向かう子どもたちが、大声で歌いながらやって来た。宣伝カーが大音量で演説を流すなど、端川市街地の朝はかなりにぎやかである。

高台から見た端川市の中心部。市の面積は2170平方キロメートルで、海に面している。人口は28万1927人(2003年2月現在)。ここには世界的規模のマグネサイト鉱山がある。

端川市で、幼稚園の子どもたちが歌と踊りを見せてくれた。
端川市郊外の典型的な農村。苗代が造られている。朝鮮には水田が造れる平地が少ない

咸興と端川の間にある羅興(ラフン)労働者区。今までに何度も地方へ行ったが、これほど多くの住宅が並んでいるのを見たのは初めて

平壌市の高麗(コリョ)ホテル横の通勤風景。

女子大生にポーズをつける平壌の街頭写真屋。しばらく見ていたが、次々と客がやってきた。

平壌市内のいたる所で、街頭写真屋の姿を見た。なぜかおばさんばかり。
平壌市内の公衆電話。携帯電話のサービスも始まっており、海外からの電話も受けられるようになるという。インターネットカフェでは、自分のホームページを見て自宅にEメールを送ってみた。

平壌市の東側にある万景台(マンギョンデ)区域へ行った。アパート前で、男性たちが朝鮮将棋とトランプをしていた。

平壌市のアパート前で、花壇の手入れをする女性たち
錦繍山(クムスサン)記念宮殿の敷地内にある堀。飼育係りのボートに白鳥たちが集まってきた。金日成(キム・イルソン)主席の遺体が安置されていて、朝鮮にとってもっとも厳粛な場所で実にのどかな光景を見た。

平壌駅のホールで歌う駅職員による合唱団。駅の外にいて歌声に気づいた私は、何台ものカメラを持って飛び込んで行ったので、乗客たちはかなり驚いていた。1日2回、乗客たちの前で歌っているという。

平壌市の解放山(ヘバンサン)ホテル前には、アイスクリームの屋台が毎日のように店を出していた。学校や職場から帰る人たちが次々と買い求めていた。
平壌市内の夕方。夕日の中で、親子らしき人たちが立ち話をしていた。
平壌市内にあるアパートの遊び場の子供たち。ほとんどアパートに、遊具や「労働新聞」の掲示板が設けられていた。
平壌市内を流れる大同江(テドンガン)のほとりで、高句麗遺跡を描く人。朝鮮を取り巻く国際状況は極めて厳しいが、平壌や地方都市で見た人々の生活は、実に穏やかだった。


メディアの皆様へ
伊藤孝司は、朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)を1992年以来ひんぱんに訪れ、膨大な量のビデオ映像・写真を撮影・発表してきました。その中には、外国のメディアやジャーナリストがそれまで実現できなかった取材も数多くあります。そうした経験を生かし、朝鮮取材の計画立案・関係機関との交渉・現地でのコーディネートなどをお引き受けします。なお、ここに掲載している写真とほぼ同じビデオ映像があり、有料でお貸しすることもできます。連絡はitoh-takashi★nifty.com(★を@へ置き換え、全文字を打ち込んでください)へ。


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