『アジア、冬物語』書評より(抄録)


  剛直な書物である。差別問題、結婚・家族制度と国家の相関関係、教育、よりよい科学技術という幻想、アジア・韓国の問題。五百余点の書物と八百余人の人物を俎上にあげて、そこにみちみちている欺瞞を粉砕し、地上の権力にひとり屹立して向かいあった全五〇章には、わたしたちが「見えない」と思っている現実があざやかに彫りこまれている。しかも、そんじょそこらのエッセイストの鈍感さなど比較にもならぬ鋭敏な感覚をもって、だ。
 その感覚に触発されれば、われわれもまた、魂の深いどこかに「かくあってほしい」ユートピアへの夢があることに目覚めるだろう。挑発に乗って、まず山口泉と「論争」してみようではないか。

(井家上隆幸氏『量書狂読』三一書房)


 『アジア、冬物語』の提示するパノラマはすさまじい。意志と意志との格闘、表現と表現とのせめぎ合い、生きることと生きていることの葛藤。「同時代表現」、えてして自らの生と生活に寄り添う安易により可能と錯覚する方法、しかしおそらく限りなく困難な対象把握と自省の方法。しかも時代は、世界史の転形の時。ペレストロイカが、天安門が、ベルリンの壁が、そして東京が、釜ケ崎が、八重山が、人びとの息づかいとともに生き急ぎ、揺れ動き、ありふれた、しかしどこまでもまっとうな言葉〈人間であること〉〈その若わかしい存在〉を探りあてる果てしなき仕事の積み重ねが本書だ。この人の〈読者〉でなかったことを悔しくさえ思っているのが偽らぬところだ。

(野分遥氏『労働旬報』No.1287)


 魂のふるえが文章を推し進めていくような文体に出会いました。誰の代理人でもない、この「わたくし」が、発せずにはいられない言葉をくりだすという作業にのみが、物書きの誠実さを裏打ちするのだとことをあらためて思っています。

(読者カードより/東京都日野市44 歳)


ポスト全共闘きっての硬派。

(ジュンク堂書店京都店/福嶋聡「よむ」91年10月号)


「豊か」で「平和」といわれる日本だが、近年その姿は一層見えにくくなっている。あふれるばかりのメディアのなかに現れる評論家などの言論に、私たちは何を見いだせばよいのか。その手掛かりを与えてくれる。

(「信濃毎日新聞」91年 10月6日付)


現在の日本では問題にされにくく、しかし最低限これだけは踏まえておかなければならない、という問題点が具体的な人物や事態や本(詳細な索引がありがたい)に即して網羅された本である。

(「サンデー毎日」91年10月20 日号)


背筋を伸ばして読みたい。

(「宝島」91年10月9日号)


中央メディアが軒並み「日本は日本だ」という自明性にうつつをぬかした言説を流布している間に、朝鮮・インドシナ・琉球といったアジア圏を含んだ視座から、メディアの表層を飾った数々の時事問題を巡ってなされた真摯な論考の数々は、今健全な知性がすべき作業がいかに膨大かを示す。現在を荒野と感じうる、あなたに―」という呼びかけで始まるこの論考を、孤独な作業のまま終わらせてはイケナイ。

(「CITY ROAD」91年10月号)


底流にあるものは〈自由と平等〉をないがしろにする論理への透徹した批評精神である。刺激感いっぱいの状況論だ。
             

(「CLIPPER」91年10月10日号)


エッセイという言葉から連想されるような気軽さはみじんもなく、おう盛な批評清心に貫かれた状況論といっていいだろう。
            

(「河北新報」 91年10月20 日付)


表現する自己がどこにもない空疎な批評がまかり通る中にあって、ここにも一人、はっきりとした表現する自己を持つ批評者が存在した。
  

(『ミュージックマガジン』91年11月号)


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