季刊総合雑誌『批判精神』創刊にあたって


 1990年10月、「空前のなれあい状況を撃ち抜く、ほんとうの批判精神を持つものを作りたい」(「設立のご挨拶」)と、オーロラ自由アトリエは出発しました。それから八年間、点数はそう多くはありませんが、設立の趣旨に恥じないものを刊行してきたつもりです。また、このかんに発生したさまざまな問題や事態に際して、何らかの意見を表明したりもしてきました。
 そしていま9年目を迎えるにあたり、ここに、新たに「自由」「平等」「反戦」を基本理念とした総合雑誌、季刊『批判精神』を創刊します。
                    *
 この社会は、一人の人間として何物にも拠らず自立し、自らの考え方や思想にのみ基づいて生きようとすればするほど、孤立せざるを得ないようです。それでもこのかん、重層的な差別と分断の荒野の中で、似た思いを抱く人びととの出会いもありました。
 それらの人びとが、これを媒介にしてさらに相互に知りあい、問題を共有し、議論を深めることが、この雑誌の最初の目標です。
                    *    
 ソ連が崩壊して10年、資本の論理が大手を振って世界を駆けまわっています。その結果、富の偏在は目に余るほどひどくなっています。消費が美徳と言わんばかりに、人びとの欲望をかき立てるイメージ操作がなされ、形も中身も存在しない空疎なものが商品化されています。
 飢えて死ぬ子どもがいる同じ瞬間に、同じ地球上で余った食べ物が大量のゴミとなる現実を、どうして容認できましょうか。富を公平に分配することは、そう難しいことではないのに、政治や経済、社会のシステムがそれを強固に拒んでいます。
 民族主義や国家主義、あるいは宗教が人びとを支配し、戦争が絶えません。個個人を見れば本来そうとは思えないのに、戦争を起こそうとする勢力は民族や国家、宗教などによる集団主義・排外主義を煽り、人びとを戦争に駆り立てます。
 戦争によって誰が得をするのか。犠牲になるのは誰なのか。忘れてはならないのは、戦争はそれを望む勢力にとっては、莫大な金儲けの手段だということです。国家が起こす戦争の本質を知り、さらに多くの人びとにそのことを伝え、反対し続ける論理と力とを培っていきたいと思います。
 人間が生み出したこの世の悲惨は、人間の手によってしか解決できません。それを、あたかも神秘的な出来事であるかのように言いくるめ、人間以外の何か別の力によってどうにかなるといった幻想をふりまく輩が後を断ちません。自らの運命を他にゆだねるのではなく、一人ひとりが自分自身の手で未来を切り開いてゆくための情報や知恵を培ってゆくことも、この雑誌の目標の一つです。
                    *
 人びとの自由や平等への希求を、あらゆる権威主義が拒みます。「文化」の名を騙り、金や権力のある者たちが作り上げた商品にたくさんの人びとが吸引され、同じものに何百万もの人が熱狂するといった状況が作り出されています。こうした現象は、映像や音楽、スポーツ等の領域に限られたものではありません。
 新聞や雑誌などの「活字文化」と言われるもの、さらには、いわゆる「アカデミズム」の領域でさえ、何かの焼き直しか、俗耳に心地よい論評に埋め尽くされ、論議が起こりそうな主張は体よく避けられつつあります。
 こうした傾向は、政治や社会の改革を訴える人びとの間でも顕著です。いったん何かの分野で目立った発言や行動があれば、たちまち当該の事柄の「権威」にまつりあげられた「専門家」として、その人間の発言はすべて正しく、批判されることがありません。
 かつて集会などでは、講演者・演説者の発言内容に賛成しない人びとが「野次」を飛ばしました。言論が常に開かれたものであるためには不可欠のことです。そのような行為に対していつのころからか、「人の話は黙って聞きましょう」などと言う偽善者が現われました。また、批判に対して「重箱の隅を突くようなことだ」と、批判内容の重大性を無視してか、気づかずしてか、批判者があたかも些細なことにこだわっているかのような言い方もされます。
 「小異」とされがちなことの中にこそ、実は重大な問題の根源が潜んでいるのです。にもかかわらず、「小異を捨てよ」「大同に就け」と誰かが叫びます。するとたちまち他の大勢も同様の合唱を始めるのです。何かを批判することそのものがとてつもなく非常識な突飛なことのように扱われ、「原則主義」と言って非難されることさえあります。
 このような状況があまりにも長く続きすぎたせいでしょうか。今では、最低限の原則をめぐる判断力までもが摩滅して、なぜ人びとがこんなことに疑問を持たないのかと思うこともしばしばです。この雑誌は、そのような思想の衰弱した現状を打開することも目標の一つと考えています。
                    *
 昔、『それで自由になったのかい』という歌がありました。高度経済成長によって、人びとの暮らしが豊かになってきたころのことです。豊かさは自由の証か、コマーシャリズムに躍らされて消費生活を満喫することが、自由なのかと、問いかけていました。今ではその何倍もの豊かさがあります。私たちはさらに自由になったのでしょうか。
 自由であるということは、自分自身が誰にも支配されないことです。それと同時に、誰をも支配しないということでもあります。この日本という国に日本人として存在すること自体が、他者を支配抑圧していることになってしまう社会構造に生きる私たちは、ほんとうに自由と言えるでしょうか。差別と分断から解き放たれたほんとうの自由を求めることが、この雑誌の最終的な目標です。
                    *
 これは闘いです。何がいいのか、何が正しいのか。その中からしか、真の変革が生まれるはずのない、これは現実に対する永続的な批判なのです。
                    *
 以上のような状況下に、こうした雑誌を創刊し発行し続けてゆくことは、緊急に必要であると同時に、またそれだけ、極めて厳しい営みとならざるを得ません。さまざまな次元にわたるご協力、ご支援をお願いいたします。とりわけ、定期購読をお願いするともに、周りの方がたにもぜひお勧めくださることを併せてお願いいたします。
 
1998年11月

オーロラ自由アトリエ


【オーロラ自由アトリエのタイトルページへ戻る】