オーロラ自由アトリエ設立のご挨拶


これまで、家族制度から天皇制、国家を見すえ、この社会全体に見え隠れする権威・権力をえぐりだしていこうと《蜚語》(ひご)を発行してきました。批判精神をなくしたマスメディアはもちろん、すでに一つの体制と化した「市民運動」の自浄力のなさにも、その本質にかかわる疑問をなげかけながら、自由とは? 人権とは? 差別とは? そして私たちにとっての「希望」とは?――そのような問いを繰り返してきたつもりです。

  「30年前、安保があった」なんていうキャンペーンをしきりに目にしたのは、しばらく前でしたが、思えば20年前には全共闘運動がありました。その当時の若者が、いま、それぞれこの社会の中堅を占める年齢となっています。何しろ「団塊」といわれるごとくに、人数が多いわけですから、その影響力はけっこう大きい。そのせいか、まるで世の中が進歩? しているかのようにも見えてしまうわけです。当時では考えられなかったようなことが、市民権を得ているし、オルターナティブなんて言葉も普及して、その世界で活躍している人もいます。なんとかその波に乗ろうと、売り込みに躍起になっている人もチラホラ。だとしたら、しかし、私がいま感じている、かつて一度もなかったような息苦しさは何でしょう? いま、思うことをやらなければ、もう永遠にそのような 機会はないのではないかというような……。この肥大化した体制に、すべてがのみこまれてしまっているような気がしてなりません。それは、ずっと前に、ほんとうは予測されたことではあるのですが――。体制が、あれやこれやの「進歩的」部分をもすべて呑みこんで、肥大化・権威化しています。いまや、あらゆるもの――「思想の自由」さえも――商品化できてしまうのです。あの深夜の討論番組のように。

  賛否両論並記を装いながら、その実、自らを特権化する役割しか果たしていない既成メディア。保守的であるにせよ「進歩的」であるにせよ、不可侵の権威や作られたスターが幅を利かせていることに疑問を持たない情報消費者。ありとあらゆる段階にはびこる無思想な情緒主義……。一見「進歩的」に思わせる装いのもと、社会は実は限りなく後退しているのではないでしょうか。
 なんとしても、その肥大化に呑みこまれることだけは避けたい。そして、この息苦しさから抜け出したい。この空前のなれあい状況を撃ち抜く、ほんとうの批判精神を持つものを作りたい。                
 日本の現在に、真の批判精神を――。どう見ても無謀としか思えない、この事始め、どうぞよろしくお願いいたします。

1990年10月

オーロラ自由アトリエ
遠藤京子


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