元日本共産党『二重秘密党員』の遺言(その1)

1999.1月合併号

仮初にも「民主主義」を言うのなら

1999.1.1.1号所収分

 鼠が集まって誰が猫に鈴を付けるか相談する寓話があった。

 この寓話を枕に振ると、なおさらのことになるだろうが、どう転んでみても、私がここで日本共産党について論ずると、おそらく誤解だらけの反応が起きるに違いない。

 しかし、それを恐れていたのでは、「もの言わぬは腹ふくるる業」とか、少なくとも健康には宜しくない。むしろ、この際、大いに世間を騒がせてみたいものである。それぐらいのことをしないと、今の社会を変えるのは不可能であろう。

 つい最近のことだが、ある生真面目な日本共産党員と酒を飲みながらの話で、ついつい気軽に、「この問題では共産党も与党」という主旨の発言をしたところ、「他の政党と一緒にするな」と怒るので、私は、「他の政党は問題ではない」と彼をいなした。

 事実、社会党は空中分解してしまったし、新左翼諸流派は、まだまだ非力で、問題とするに足りない。

 そういう反体制派の実情を踏まえて考えると、日本共産党が「民主的」かどうかということは、周囲のすべての関係者、日本国籍ばかりではなくて、広い意味の関係者、たとえば古典的スローガン、「万国の労働者」全体にも影響するのである。

 そこで、普遍救済の立場から、この際、遺言のつもりで遠慮のない論評を開始する。

 まず最初に、私自身の党歴を簡潔に述べる。

「二重秘密党員」としたのは、第一に、私が日本テレビ放送網株式会社の社員だった頃、大手メディアの党員は「非公然」と称されていたからである。地域別の地区委員会ではなくて東京なら都委員会の直属組織に所属していたのである。

 第二に私は、のちに詳しく述べる特殊事情の下で、そこからも「秘匿」の扱いを受けたことがある。だから「二重」としたのである。

「非公然」組織所属の場合には、都党大会とか、全党大会とかには、代議員として出席するわけにはいかない。一度だけ、専従で昔は東京都の職員だったという都委員を、全党大会の代議員に選ぶ会議に出席したことがある。良く考えれば、その都委員は、その会議に集められた組織の所属ではなくて、「指導」の担当者にすぎなかったのだが、その時には特に疑問を覚えなかった。

 その後、イリイチとか名乗る東大の学生党員が、伊豆で行われた党大会の会場前でビラを撒いて除名処分になった。その際の新聞記事に、「代議員の選出方法がおかしい」という主旨のイリイチの主張が載っていたが、これも、そんなに詳しい記事ではなかったので、少しは気になりながらも実情調査まではしなかった。

 フリーになってから、地元の支部に所属し、初めて迎えた地区党大会の代議員選出を経験して、やっとのことで実情が分かった。

 この実情については、その後、古参党員の何人かに話してみたが、皆が、首をかしげるだけで、まともな返事をしない。やはり、猫に鈴を付ける役回りは嫌なのだろう。

 以下、その実情を具体的に述べる。

 その時に私が所属していた支部には、18人の党員がいた。普段の会議、といっても月1回こっきり、党費と新聞代集めが中心の会議に参加するのは、4,5人だけである。地区党大会の代議員選出は最重要のイヴェントなので、出席できない党員からは委任状を集め、過半数を越える10人が集まった。顔見知りの地区委員も参加していた。

 地区党大会の代議員選出は10人単位で1 人だが、18人の場合には4捨5入で2人を選出できることになっているという説明があった。

 その時は、普段、いつも選出されて出席してきた支部長が、よんどころない用事ができて、私に代わってくれというので、公然化は嫌だなと思いながらも私が立候補した。

 もう一人立候補すれば、定員通りだから信任投票になる。ところが、その際、先に記した顔見知りの地区委員が、今まで一度も会ったことのない男を、「地区委員のだれそれ」と紹介して、彼を選んでくれと言うのである。彼は、支部の所属ではない。

 私は、長いこと労働組合の役員をやっていたから、即座に、「それはおかしい」と反対した。支部の代表として代議員を選ぶのだから、支部所属の党員にしか被選挙権がないのが当然である。それだけではない。「地区委員は、大会で批判を受ける執行部側なのだから、代議員になる資格はないはずだ」と私は主張した。これは開闢以来の事件のようであった。

 その時に、かつての非公然、直属時代の経験が蘇った。イリイチ問題の記事も思い出した。「これがそうか」と思い当たった。

 しかし、その時には他に立候補者もないことだし、私は、意見を保留して、自分一人の名前を投票用紙に記入した。

 ところが、選挙管理に選ばれた党員は、無記名の用紙を集計する際、非常に緊張した表情になり、「二人とも満票で当選」と発表したのである。明らかに間違いなのだが、ここで揉めても仕方がないと諦めて、地区党大会で異議を唱えることにした。

 結果として私の異議は無視されたのだが、地区委員会の説明では、日本共産党が朝鮮戦争の時期の分裂を解消した歴史的な「6全協」の際、「選ばれて出てこい」としたのが、この選出方法の始まりだと言うのである。

 これもおかしな話である。いい加減な習慣を許すと民主主義は崩壊する。事実、昔から、「日本共産党に民主主義はない」と大声で語る古参党員が多数いたのである。

 因みに、「市長が独裁化している」と批判されている最中の武蔵野市の市議会においてさえも、執行部側の市長や部課長は、答弁をする立場だけで、議決権は持っていない。

 以下、具体的な数字を示して、日本共産党の「代議員選出方法」のおかしさを、さらに詳しく説明する。

 おおざっぱに言うと、地区党大会の代議員は100名ほどである。地区委員は50名ほどである。代議員の内の50名を、本来は執行部側であるはずの地区委員が占めていたら、どういうことになるかというと、これは簡単である。執行部の地区委員会の提案に、それを作成した地区委員が反対するわけがない。地元では特に専従の地区委員のことを、「胃袋を機関に預けている人」などと言うのである。地区委員プラス平党員の代議員がわずかでも賛成すれば、シャンシャン大会となる。

1999.2.6.追記。確か、資本主義国では最大の党員数だったイタリア共産党(その後、分裂、改名などあり)では、大きな企業支部で、「専従にすると必ず腐敗する」という経験により、専従を廃止したという新聞記事を見たことがある。日本の労働組合の経験にも、同じようなことがある。もちろん、少数の貴重な例外はあるが、少なくとも、地位を維持するための保守性は避け難い傾向である。

 事実、私一人の「保留」で、ほとんどシャンシャン大会に終わった。これは、その後の私の「除籍」への伏線となるのだが、その話は、これまたのちに詳しく述べる。

 異議を無視された私は、腹が収まらないので無理をして、この地区党大会のメイン・イヴェント、都党大会の代議員に立候補してみた。地区委員会が用意した定員通りの立候補者以外の立候補は、これまた、開闢以来の事件のようであったが、私には3分の1の票が集まった。もちろん落選ではあるが、この3分の1を一般党員の代議員数で考えると、3分の2になる。過半数なのである。

 休憩時間には、見知らぬ党員が私の側に寄ってきて「勇気がありますね」と囁いた。

 以上が、今、唯一の野党などと言われる日本共産党の、一番底辺の「民主主義」の制度的な実情なのである。民主主義は制度である。この原則を無視する組織に、社会改革を語る資格があるのだろうか。「日暮れて道遠し」の感、なきにしもあらずである。

(その1)終わり。次回に続く。

(その2)ファシズムと紙一重の『一枚岩』

1999.1.8.2号所収分

 前回の地区党大会の経験の続きである。

 地区党大会の採決で、私一人が「保留」に手を上げたのは、開闢以来のできごとだったらしいが、この採決の仕方も、これまた一般人どころか、一般党員のほとんどが知らない仕掛けになっていた。ここで仮に名付けると、「国際共産主義的手法」によるものだったのである。

 とはいっても、コミンテルンだのコミンフォルムだのという、舌を噛みそうな名前の赤い雲の上の組織の歴史を、わざわざ紐解くまでのことはない。

 第1の特徴は、議案の「挙手採決」を議長が提案すると、総会屋顔負けの熟練で間髪を入れず「異議なし!」の声が響き、即座に、そのように執り行なわれることである。

 これは、あまり珍しい現象ではないが、やはり「民主主義的」とは言い難い。

 第2の特徴は、その後の「挙手採決」の順序である。「反対」「保留」「棄権」「賛成」の順で議長が挙手を求めて、最後の「賛成」の手が挙がった途端に、議長が大声で、「圧倒的多数により可決」と宣言し、ここぞとばかりの万雷の拍手となって終るのである。

 この手法は一般には見られないし、上記の「国際共産主義的手法」の核心にふれる現象だから、その論評は、そう簡単ではない。

 まずは世間常識を確認するが、普通の世間の挙手採決では、「賛成」「反対」「保留」「棄権」の順で議長が挙手を求めて、その度毎に議事運営委員などが挙げた手の数を集計する。場合によっては全部の集計の記載が終わるまで休憩を取ったりして、再開後に議長が結果を報告する。

 議長が「ただ今から採決の結果を発表します」などと言い、静かに数字を読み上げ、最後に、「よって可決」とか、「よって否決」とか宣言する。すると、賛成か反対か、どちらでも、自分の意見が通った方が拍手したりするのである。

 それでも、「万雷の拍手」という光景は、あまり見掛けない。普通の世間では、負けた方への想いやりも必要だからである。

 勝った方が負けた方に、「負けて悔しい花一文目!」などと野次ったりする習慣は、聞いたことはないが、そうやると少しは明るくなるかもしれない。呵々。

 さて、私が、たったの一人で「保留」に手を挙げた時、会場は、シーンと静まり返った。それ以前の誰も手を挙げない「反対」挙手ゼロの時にも、普通の世間の会議よりは静かだったのだが、その静かさがさらに深くなって、皆が息を止めたような雰囲気になった。

 これは、実に不気味な雰囲気なのである。特に、たったの一人で手を挙げた本人の私にしてみれば、まるで縛り上げられてギロチンの前に立たされているような気分になった。200人ほどがギッシリと会場を埋めているのに、まさに針一本落ちても響くほどの静けさなのである。このような状況で本人が覚える圧迫感は、実際に経験してみなければ分からないだろう。実に恐ろしい孤立感なのである。

 ただし、私には、一定の経験があり、覚悟があり、ある程度のことは予期していたから、心臓が止まることはなかった。

「経験」というのは、たったの一回の民放労連大会での経験と、その後の経過である。

 日本民間放送労働組合、略称「民放労連」は、当然のことながら、戦後の民放設立以後に結成されている。それも、戦後日本の初期の労働組合全国組織の大分裂以後、朝鮮戦争以後のことであるから、総評=社会党の、いわゆる55年体制の枠外で成長し、政党支持自由の方針を掲げていた。1960年安保改定反対闘争以後には、同じくその時期に党勢を急速に延ばした日本共産党の影響を受ける組合員が増えた。

 国際交流の盛んな時期には、ソ連や中国に行く組合幹部が多くて、「あちら」の風習を取り入れる傾向が出た。その一つに、上記の「挙手採決」に関する「国際共産主義的手法」があったのである。

 私は、現役で民放労連日本テレビ労働組合(これが正式名称)の執行委員だったころには、必ず代議員として民放労連の大会に出席していたから、記憶に間違いはないと思うのだが、その時期に、たったの一度だけ、上記の「挙手採決」に関する「国際共産主義的手法」が採用されたことがあるのだ。

 細部までは記憶していないが、おそらく議長団の中に、上記の手法を現地で見て感激した代議員が入っていたのであろう。

 その時にも、非常に異様な雰囲気になった。しかし、その後、民放労連の内部で、「あれはファッショ的」という評価になり、以後、一度も復活しなかった「はず」である。この「はず」の正確な検証はしていないが、まず間違いないと思う。

 いわゆる「左翼」を、いわゆる「右翼」のファッシズムと一緒にするとは、けしからんと感じる人もいるに違いない。ところが、日本ではファッショという言葉が、イタリアのムッソリーニと一緒に記憶されているものの、実は、古くは労働組合の名称にも入っていたのである。和イ辞典で「ファッシズム(イタリアの国粋主義・国家社会主義)」などと説明しているイタリア語の「ファッシズモ」の語源は、ファッシオ(fascio)であり、本来は「束」「結束」「固まり」「一団」の意味なのである。

 だから、左だろうと右だろうと、過度の「結束」、たとえば「一枚岩の団結」などを強要する組織は、言葉、または概念の本来の意味で、間違いなしに「ファッショ的」なのである。すでに崩壊した「本家」のソ連がそうだった。

 もともとソ連の真似事の「挙手採決」などに理論的根拠があるはずもない。日本共産党は、末期のソ連共産党を「修正主義」、中国共産党を「教条主義」と批判していた。それなのに、本家の崩壊後も後生大事に儀式の真似事だけは続けるというのなら、さらに古い「本家」の中国では過去の遺物の「元号」を、未だに強要し続ける骨董趣味の天皇制と、いったい、どこが違うのか。日本共産党も、民放労連に見習って、即刻、上記のような異様な「結束」を強要する悪習を廃止すべきである。

 以上で(その2)終り。次回に続く。

(その3)「ギヨチニズム」の根源に「理論」崇拝の矛盾

1999.1.15.3号所収分

 日本共産党における「個人崇拝」の事実に関しては、最早、多言を要しない。

 野次馬ジャーナリズムの格好のネタだった「ミヤケン」は、ついに引退を表明したが、私自身がまだ党籍があったころにも、党員の間で「まだかまだか」と一日も早い引退を期待する公然の、しかし、党内の儀式上ではあくまでも非公式の発言は、むしろ、あたり構わずの状態だった。

 表面上の理屈から言うと「太古の皆が平等だった原始共同体(コミュティ)」(これ自体が最近の研究の発展によれば幻想だったが、それは別途紹介とする)の今日的再現を目指す政党なのに、しかも、一応は個人崇拝を戒める規約等があるのに、なぜそれが改まらないのか。

 これは不思議な現象のようで、実は、まったく不思議ではない。

 人類の集団を形成するのは人類そのもの以外の何者でもあり得ないからである。

 私の表現によれば、裸の猿は、一番自己中心の強い遺伝子を保有する権力志向の固まりである。思想的に右だろうと左だろうと、集団ができれば、ただちに、お山の大将型と茶坊主型の強固な連携が、ラグビーのルーズ・スクラムそこ退けのスピードで形成される。これはもう、お互いが生まれ持つ本能と条件反射による瞬時の共同作業であって、この椅子取りゲームに落ちこぼれるのは、ごく少数の臍曲りだけでしかない。

 日本共産党の規約で定めた「対等平等」の類いは、人類社会の長い歴史の中で見れば、何も特別に新奇な珍しいものではない。似たような「御札」の類いは、何千年も前から何度も作られている。しかし、すぐに反古と化すのである。神棚に奉って拝むだけで、実質的には同じような上下関係の支配が続くのである。同類、同根のソ連共産党の歴史を見れば、最早、議論の余地はない。

 その上に、これは私が勝手に「還暦記念の新発見」と自称しているマインド・コントロールの条件付けなのだが、とりあえず特に日本共産党に限って指摘できる問題がある。

 これを私が発見したのは、 2年ほど前の午後11時頃、日課の就寝前の散歩の途上のことだった。よくあることだが、前々から考えていた問題の答えが、突然、しかも、その時にしていることとは何の関連もなしに、突然、ひらめくことがある。実は、本人が表面的に意識していないだけであって、脳味噌の中では継続して思考が働いているのである。

「そうか。何だ。理論政党だからだったのか」というのが、その「ひらめき」だった。この「理論」には、あえてカッコを付けない。からかうつもりではないからだ。それどころか、実に深刻な問題をはらんでいるのだ。

 いったん脳裏にひらめいてみれば、実は、これも原理的には単純なことであって、理論政党を自称する以上、何よりも、かによりも、理論的に「正しい」ことが第一の条件となる。自民党などの保守政党のように、「なあなあ」で話を付けることはできなくなる。

 日本共産党では、指導者は、当然、一番「理論的」で「正しい」のである。逆に言えば、一番「理論的」で「正しい」からこそ、指導者に選ばれているのでなければ、ならないのである。

 さらには、だからこそ、その一番「理論的」で「正しい」、しかも専従で飯を食う経験豊かな指導者が何十人もいて、専門的に考え抜き、書記局とか中央委員会とかで「集団討議」して作成した方針に対して、たったの一人で日常の飯のためのしがない仕事の合間に思い付いただけの反対意見を提出するなどという行為は、規約上の権利が明記されているにもかかわらず、「正しくない」のである。

 この一番「理論的」で「正しい」指導者という神話が崩壊するのは、前述の「お山の大将型と茶坊主型の強固な連携」による組織にとっては、最大の危機である。一番「理論的」で「正しい」のだから、何としても誤りを認めることはできない。だから、「ミヤケン」がルーマニアの独裁者、チャウシェスクの「評価を誤った」か否かという事件の際には、ついに誤りを認めることなしに最後まで押し切り、その後の選挙での後退については、「東欧の嵐」の影響などという他人事の評価で済ましてしまい、自分たちの責任ではないと澄ましていたのである。

 チャウシェスク問題に関しては、私自身が二度も中央委員会に呼び付けられるという経験をしているから、別途、詳しく述べる。

 私は、そういう党の体質を十分承知の上で、何度も意見を提出した。いかなる上級機関に対しても直接意見を提出して回答を求めることができるという、明確な規約に基づく権利を行使して、チャウシェスク問題に関する意見を提出したのであるが、代々木の党本部の一室で、確か「国際部長」の肩書きだったと記憶するが、典型的な組織官僚に、ねちねちと陰湿な脅しを受け、さらに、そのやり方に対して、抗議の意見書を提出した。

 このチャウシェスク問題での衝突は、一応規約に違反しない行為だったから、それで処分を受けるということはなかったが、実質的には以後に影響した。これもまた後に詳しく述べるが、私が「除籍」になった時、中央委員会の実情に詳しい先輩党員の一人が、その経過を聞くや否や、ハッハッハと笑って、「別件逮捕だね」と言い放ったのである。

 自分たちは「正しい」のだから、反対派は「民衆の敵」なのであって、ギヨチンで首を切り落とすのが当然だというのが、私の命名では「ギヨチニスト」である。

 今の日本共産党の場合には、除名、除籍であり、「反党分子」「トロッキスト」などなどによる「追い討ち」である。こういう「戦国時代」のような風習は、即刻改めるべきである。

 ただし、私の場合には、今までのところではあるが、「追い討ち」を掛けられてはいない。フリーの貧乏ものかきのことだから、「追い討ち」の掛けようもないだろうが、私には、日本テレビ相手に16年半の不当解雇撤回闘争をした経験もあるから、場合によっては「不当除籍・名誉毀損」で裁判を起こす覚悟もある。それぐらいの覚悟がなければ、真実を語り、論ずることはできないと思っている。

 なお、今回は「理論」という表現を用いて論じたが、私は決して、「理論的水準が低い」とペダンチックに侮蔑したり、だから駄目だと主張しているのではない。「羊頭狗肉」とか「ブラッフ」とかを戒めているのである。

 私は嘘を憎む。嘘付きを軽蔑する。などと力むと唯物論者らしくないから、「正直は最良の政策」というアングロ・サクソン流にしておいてもいい。

 以上で(その3)終り。次回に続く。

1999.1.22.4号所収分

本連載を興味深く読んでいるとの現役日本共産党員からの個人宛mailを拝受。情報源を秘匿するのは当然の義務と心得るが、御声援有難う。頑張ります。

(その4)「科学的社会主義」vs「元祖やきいも」

 日本共産党はその綱領の基本に「科学的社会主義」を位置付けている。

 かつては「マルクス主義」とか「マルクス・レーニン主義」とか称していたのだが、それらの総合的発展として「科学的社会主義」の用語を定めたのである。しかし、「科学的」という今更ながらの形容詞については、反発する向きも多い。

 本来、この「科学的」という形容詞は、マルクスの盟友、エンゲルスの著書『空想から科学への社会主義の発展』に由来するものであって、マルクスの主著『資本論』によって社会主義思想が、初めて科学的な基礎を与えられたという主張を意味しているのである。だから、論者によっては、「マルクスの理論そのものが一つの社会科学の体系を成しているのだから、ことさらに科学的という言葉で飾る必要はない」などということになる。

 私なども、世間を下から斜めに見るのが商売のマスメディアの世界に住んでいたから、「科学的」などと気張って枕に振られると、ついつい笑ってしまう方である。実際に、日本共産党が「科学的社会主義」の用語を決定する以前にも、声を張り上げては、「科学的な情勢分析」を強調する名調子(?)の演説が得意な労働組合のオルグがいたのである。その頃から私は、この「科学的」の枕振り方式を「元祖やきいも」と名付けていた。

 では、『資本論』には、どのような「科学的」な基礎があったのかということになると、まともな回答ができる日本共産党の幹部は、あまり見当たらない。

 基本的なところから、私なりにこだわると、『資本論』の原題は、正確には、『資本/政治的経済学批判』なのである。原型となったマルクス自身の著書には、訳題『経済学批判』があるが、これも正確には同じく『政治的経済学批判』である。

 並み居る経済学者が、なぜ、この「政治的」(Politischen)を無視し続けたのか、私には分からない。誰に聞いても答えがない。もしかすると、戦前には「政治的」とあるだけで「発禁」が決定的になったからではなかろうか、などと興味津々。ともかく、この「政治的」と言う単語を無視すべきではないと考えている。意味に関しては、「政治的」という直訳よりも「国家主義的」と意訳した方が適切だと思っている。

 なぜかというと、日本では『資本論』の第 4巻になっている「ノート」の『剰余価値学説史』の方が先に書かれていて、そこでの最大の批判の対象は、アダム・スミスの著書、訳題『国富論』または『諸国民の富』だからである。この原題は、以下のように長い。

「An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations」である。

 問題は特に、Nationの訳語にある。どんな英和辞典にも、「国民、国家、民族」の訳語が並んでいる。まともに考えると、いったいどれが適切なのかと、迷わざるを得ない。

 語源はラテン語だが、羅和辞典では natioが「出生、誕生、種族、人種、国民」などとなっていて、「国家」はない。本来は「出生」(natura,natus)に発する単語の群れの一つなのだが、近代になって「国民国家」または「民族国家」(nation state)の意味を帯びるに至ったのであろう。さらには、政治家が、自然の出生と国家への帰属を意図的に混同する「政治的」修飾によって、「種族」を「国民」に仕立て上げ、「国民」を「国家」の従属物とし、「国家」の名における集団殺人(戦争)の道具にまで陥れたのである。

 以上のような文脈で、私は、『資本論』の副題の「政治的」を、さらに具体的に「国家主義的」と意訳する方が、分かりやすいと考えているのである。

 しかし、このような考え方を議論する場は、日本共産党の通常の組織の中には、まるでなかった。

 私が参加していた「資本論勉強会」には、たまたま、現在の日本共産党の委員長、不破哲三の鉄鋼労連書記局員時代を知る先輩が何人かいた。彼らに言わせると、「フワテツは資本論なんてもんじゃない」のだった。要するに資本論の勉強はしていないという意味である。世間周知のように、ミヤケンは「元文芸評論家」であり、資本論を云々した試しがない。不破哲三の実兄、上田耕一郎も同様である。

 若手の書記局長については寡聞にして何らの情報も持ち合わせていないが、やはり、それほどの経済学的知識があるとは思えない。これも若手の地元日本共産党議員らに探りを入れてみると、まさかの時は「工藤さんがいる」という返事になる。「工藤さん」とは、地元に住む元中央委員のことである。つまり、他は、それ以下ということである。

 以上のような「科学的」状況について、私は、一つだけ確実に言える事実を実体験している。それは不破哲三の『資本論』に関する発言の誤りと、その訂正の仕方の不誠実さである。この事実は、小さいことのようだが、人間の誠実さ、信頼性に関わることなので、私自身の日本共産党への評価と今後の可能性についての予測にとっては、決定的にマイナス効果を持っているのである。

 ある時、日本共産党の機関紙、日刊新聞の『赤旗』に、不破哲三の談話が載った。そこではマルクスが『資本論』に書いた言葉が、(資本家の思想は)「あとは野となれ山となれ」だとなっていた。だが、この「あとは野となれ山となれ」は、昔から日本にある表現である。私は、すぐに気付いた。不破哲三は、うろ覚えで、マルクスが引用した有名なルイ16世の表現、「わが亡き跡に洪水よ来れ」を、ほぼ同じ意味の日本語の表現と取り違えたのである。実は、この少し前に、『わが亡き跡に洪水よ来れ』(「亡き」は単に「なき」、「跡」は「後」だったか?)という題名の本も出ていたのである。かなり前には『洪水の後』だったか、うろ覚えだが、そんな日本語題名のフランス映画があった。「洪水」は、旧約聖書の目玉商品だから、いわば重要なキーワードである。欧米文化かぶれならずとも、およそ『資本論』を齧ったことのある者にとっては、この取り違えは恥となる。

 だから私は、早速、日本共産党の本部に電話をして、即刻訂正するように求めた。

 ところがまず、電話を受けてくれた『赤旗』記者が、『資本論』などまるで知らない。トンチンカンな長話を繰り返して(ああ、電話料金は、こちら持ちだった)、やっと「検討します」の返事に到達した。次には、その後、ウンともスンとも、まるで訂正記事が現われない。やっとしばらくして、不破哲三が、いかにも前から知っているかのように、「わが亡き跡に洪水よ来れ」という「マルクスが引用した有名なルイ16世の言葉」について語る記事が出現した。だが、不破哲三が、それ以前に「間違えた」または「取り違えた」という訂正記事は、一度も出なかった。

 日本の大手新聞が、ほんの時たましか「訂正記事」を出さないことは、世間周知の事実である。だからといって、日本共産党が、どうせ「新聞記事」のことだからとばかりに、同じ真似をしても良いということにはならない。私は、この問題についての日本共産党または不破哲三個人の反省を求め続ける。

なお、こちらは貧乏でも、「毎年ハワイに行っている」との批判も出るほどの大手になった『噂の真相』編集長と同様に、いや、よりも太っ腹だから、別に、恥を掻くのを心配して掛けた時の電話代に利子を付けて寄越せなどとは言わない。

 以上で(その4)終り。次回に続く。

(その5)「階級闘争」短絡思考は「マルクス読みのマルクス知らず」

1999.1.29.5号所収分

 最近の「大恐慌型不況」などと言われる経済状況の中で、マルクスの「恐慌論」の見直しが、財界紙とも呼ばれる日経の経済論壇にも現われるようになった。

 一応の留保を付けた上でのことだが、『資本論』に関して、私は、今から5年前の拙著『電波メディアの神話』の冒頭部分で、次のように記していた。

(以下、「ひらがな化」し過ぎていたので一部を漢字に戻した以外は原文のまま)

****************************

 私には『資本論』を通読した経験しかないが、今のところマルクスの方法論や分析を根本的に訂正するに足る材料を持ち合わせていない。

 東西冷戦構造とソ連の崩壊以後、「マルクスは間違っていた」という趣旨の、それ見たことかという感じの論評が溢れているが、私が見た限りの文章では、その種の論者がまともに『資本論』を勉強したとは到底思えない。

 むしろ、『資本論』の内容への賛否以前の問題である。これまでに、この世紀の問題の書物を読み通すことができずに内心ジクジたる状態だったエセ・インテリが、これで長年のコンプレックスの原因の除去が可能になったと錯覚し、この世紀の怪物を一刻も早く忘却の彼方に葬り去ろうと焦っているように思えてならない。本当に自信をもって『資本論』の誤りを指摘できるのだったら、マルクスに匹敵する程度の説得力のある論文を発表すればいいのだが、そういう実例はいまだに聞こえてこない。

 私があえて「根本的に訂正するに足る材料」という微妙な表現をしたのは、他でもない。経済学としての『資本論』の分析への疑問ではないのだが、別の大問題が生じていると感じるからだ。

 第1には、その後の歴史の経過や、人類学、動物行動学などの新知識によって、人類という名の裸のサルが、マルクスの予見のような「自由の王国」への入居を果たすことができるような機能を、本当に持ち合わせているのかどうかを疑い始めたことだ。

 第2には、裸のサルそのものの愚行の数々が、自らの生存環境をも決定的に破壊しつつあるという、マルクスの予測を遥かに越えた悲劇的事態の進展である。

[中略]**************************

 マルクスの『資本論』における方法論を人類社会の研究という側面で理解すれば、市民個人の権利をまず重視して、そこから上昇して人類社会全体に迫るという考えも出てきてしかるべきだろう。ところが現在われわれは、実際には個人の思想上の権利をことごとく無視し続けたエセ社会主義の崩壊を目前にしている。

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 以上の文中の、「実際には個人の思想上の権利をことごとく無視し続けたエセ社会主義」と言う表現には、「エセ社会主義国」の電波メディア政策批判の他に、日本共産党その他の日本の政治的諸流派全体への批判と、自戒をも込めたつもりだった。

 その後、今は亡き元民放労連委員長、竹村富弥さんと、ある集会からの帰途、中央線の電車の中で交わした会話が、実は、私にとっては竹村さんの遺言になってしまった。その内に、「マルクスの間違い」があった。それは、労働組合運動に一生を捧げたという形容が相応しい竹村さんの口から出ただけに、非常な重みのある言葉だった。

「マルクスは労働者を信用しすぎたね。労働者だって普通の人間なんだから」

 私の日本共産党経験の中では、経歴書みたいなものに、「階級」だったか「階層」だったか記憶が明瞭ではないが、ともかく、自己申告の記入欄があるのが、ずっと気になっていた。私は、当時、労働組合の役員でもあったが、「労働者」ではなくて「知識人」と記入するように「指導」された。

 折りしも中国で文化大革命とやらが進行中だった。簡単に言えば当時の中国では、「労働者的ではない」という決め付けによって、「知識人階級」が各所で糾弾されていたのだが、最高「指導者」毛ちゃんも、再婚相手の江ちゃんも、その伝で行けば「知識人階級」なのである。要するに「階級」を口実にした権力闘争に他ならなかった。

 これらのモヤモヤが、一挙に噴火したかのような気分を味わったのは、昨年の1月17日、私自身にとっては61歳の誕生日当日、パリからの帰途の「一番安い」大韓航空機の狭い座席の上で、睡眠薬代わりに頁をめくり始めた本によってであった。

 最近の断片的情報によると、かの誇り高きフランス人が、アングロ・サクソン相手のコンピューター戦争に飽き果ててか、アクサン(髭)なしのフランス語通信をやっているとのことなので、以下、そうする。

 C'est Karl Marx, avec sa thorie de la lutte des classes, de la prise du pouvoir sur barricades et de la dictature du proletariat, qui a introduit la violence et la haine dans le Socialisme.

 拙訳をすると、「バリケードの上に、そしてプロレタリアート独裁によって権力を獲得するとという階級闘争の理論によって、社会主義に暴力と憎悪を導入したのは、カール・マルクスである」

 以下、マルクスにおいては「内戦」であった「階級闘争」の理論が、弟子によって「社会主義の名において」、「富める国と貧しき国との戦争」へと短絡していく、となる。

 以上は、パリはソルボンヌ大学の坂の上の狭い路地の、ルーマニア文庫、チャウシェスク独裁との闘いのために亡命してきたルーマニア人の経営するアングラ書店で始めて知り、求めてきたばかりの本、『第2次世界大戦を引き起こした責任者』(Les responsable de la seconde guerre mondiale)の冒頭部分、「執筆意図」の10-11頁に掛けての1節である。

 著者のポール・ラッシニエ(Paul Rassinier)は、元高校歴史学教授、戦前にフランス共産党から社会党に移り、戦争中にはレジスタンスでユダヤ人をスイスに逃がす活動に参加し、ゲシュタポに逮捕されて収容所に入りし、戦後は勲章授与者、国会議員、しかし、その経歴と経験ゆえに、ユダヤ人絶滅政策のデッチ上げによるパレスチナにおける領土奪取、欺瞞の侵略への謀略を直ちに見抜き、数冊の関係書を発表し、現在、「ホロコースト見直し論の父」と呼ばれている。歴史的な再評価が待たれる人物の一人である。

 私としては、もちろん、ラッシニエの言葉だからといって、そのまま盲従する気はない。たとえば、「階級闘争」と言う概念自体が、マルクスらの創始によるものかどうか、と言う疑問もある。「階級」が強く意識され、革命の原動力になったのは、マルクス以前の、いわゆるフランス大革命、かのギヨチン時代だったのではないのだろうか。

 ともあれ、このラッシニエの言葉によって、わが脳中に蘇ったのは、1960年安保改訂反対闘争の頂点で、国会議事堂を取り巻くデモの渦の中で覚え、高揚した気分で、喉も裂けよとばかりにガナリ続けた歌の1節であった。

「憎しみの坩堝(るつぼ)に、赤く燃ゆる、鉄(くろがね)の剣を、打ち鍛えよ」

「ワルシャワ労働歌」とされる実に勇ましい歌の1節である。

 この歌は国会突入にはもってこいの気分を作り出した。しかし、今思うと、これらの勇ましい歌には、社会主義思想というよりも、裸の猿の本能に強烈に組み込まれた「恐怖と憎悪」の生存本能に訴える唸りのような、巫女の祈りのような、戦の雄叫び(おたけび)のような、非常に原始的な響きがあったのである。

「マルクス読みのマルクス知らず」という言葉もある。マルクスの言葉自体をも、その弟子たちによる亜流の偏向、利用などをも、すべて考え直す必要がある。

「憎悪」は、それに対抗する「憎悪」を呼ぶ。若者の心の中に眠る「憎悪」の本能を掻き立て、結果として、組織の上からの支配を容易にし、社会主義思想を濁らせ続けてきた利口で有能な「指導者」たちの存在もある。この問題を深く追及することなしにはと思った、というよりも、この問題に気付いてしまった私は、以来、時にふれ、人にふれ、場所にふれ、考え続けているのである。

 以上で(その5)終り。次回に続く。以上が1999.1.1-5号所収分。

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