II 女性運動の歩み


1. 運動のおこり

 インドでは、女性運動は1つの長い歴史を持つ。現実として女性は抑圧され差別されつづけて来たが、一方で女性の力の原理であるシャクティの概念は何千年も前から認められて来た(シャクティの概念については後に解説する)。このような中で、女性が目指して来たのは、あくまでも男性と同等の地位を得ることであり、当初の理念について言えば、決して男性支配への「抵抗」によるものではなかったようである。彼女たちは男性支配と女性支配という二つの原理が対立することなしに共存可能であると考えていた。この考え方はさして珍しいものではなく、哲学や宗教の分野では男性原理と女性原理の統合は不完全なものから完全なものへの変化の重要な要件とされ、それが真の自己発見につながるものだとも言われる。とはいえ、歴史的にはこの二つの原理はあらゆる側面で対立し、他の多くの国同様インドにおいても父権的社会体制が定着することで、女性は男性に比べより強い抑圧と拘束を受けつづけてきたのである。

 インドの女性運動は近年になるまで研究対象として正式に扱われたことがなかった。しかしそもそもジェンダー問題が社会問題として世間一般に認められるようになったこと自体が比較的最近のことである以上、これは当然のこととも言える。実際インドにおいて女性運動が目にみえる形で行われるようになったのはイギリス植民地支配下に入ってからであり、イギリス支配やそれに伴う西洋文化の採用が直接・間接的に大きな影響を与えた。しかし、それでは女性はそれまで男性支配に対して全く抵抗運動を行なってこなかったかというと、決してそうではなかった。周知のようにインドは古くから数多くの民族が流入、対立を繰り返した地であり、19世紀後半からはイギリスにより植民地支配を受けている。そのような中で上位カースト、特にバラモンたちは自分達の社会的地位が危機にさらされるごとに自分達よりも下位に属す者達、下位カーストと女性に対する抑圧を強化してきた。これに対して下位カーストと女性は何世紀にもわたり様々な抵抗を試みた。その主な例として、宗教分野における抵抗があげられる。当時彼らに抵抗の余地が残されていたのは宗教分野(しかも信教の自由は認められていないためにその抵抗も解釈上のものに限られてしまうのだが)くらいであった事のあらわれともとれようか。

 一つは母神信仰と豊穣信仰の復活である。これはT章に挙げたジャクテイ信仰に代表される。ジャクテイ信仰は女性を「すべての力と行動の源」とし、「女性だけが男性神を動かすことができる」とする。この信仰は先述のように何先年も前から存在し、抑圧を強いられる女性たちの精神的な支えとなってきた。もう一つは6、7世紀におきたバクテイ信仰である。これはバラモンの介入がなくても神と個人的に関係を持てるとする教えで、明らかにバラモン独裁文化への抵抗が読み取れる。バクテイ信仰はバラモン以外のインド人に広く受け入れられ、男女、階級を問わず多くの人々が信徒となった。特に下位カーストや、上位カーストの寡婦といった、中でも待遇が甚だしく酷い人々が目立った。あまりに広く信仰されたために、最終的にはバラモンもしぶしぶながらこの教えを認めざるをえず、ここにおいて抵抗運動は「成功」を見ている。また父権的カーストエリート主義への抵抗の過程で、女性と下位カーストとの連帯、つまりジェンダーとカーストとの結び付きが起きていることも注目すべき事実である。

 更に、父権的体制をもたらす既存の宗教に関する文献の中においてもわずかながら女性による批判が見られる。これも興味深い。例えばヒンドゥーの女傑ラタナプラバーは「厳格な隔離は嫉妬によるもので馬鹿げている」と訴えており、仏教ではブッダの妻ゴパが「純粋なる思いにはこのような人為的保護は必要ない」として婚姻式でベールをかぶることを拒んでいる。

 

2. 植民地支配と女性運動

(1) 女性運動に対するイギリスのアプローチ

 19世紀広範からインドはイギリスの植民地支配下に入る。イギリスによるインドからの強烈な経済的搾取は、結果的にインド農業の自給体制と土着の産業を組織的に破壊してしまった。ここに近代インド貧困の源があるわけであるが、イギリスはこの事態を植民地支配を正当化する理由として大いに利用した。つまり「インドは自治には時期尚早、或は適さない」と公言するのに都合がよかったのである。

 インドの女性運動も同様の趣旨でイギリスに利用される運命にあった。イギリスは「我々はインドにおいて大きな道徳的義務がある」と、あたかも自分達こそがインドの特に女性解放の旗手であるかのように主張し、これを支持するべく女性解放のための改革を数多く行った。女性の法的地位の向上にも貢献し、1772年から1947年の間にサテイー禁止法に代表される九つの主要な法律を導入している。但しこれが純粋に女性のためであったかというと甚だ疑わしいもので、本当のところは自らの地位確保のための「細工」にすぎないとみるべきだろう。実際イギリスが行った政策には明らかに一貫性を欠いており、女性問題に対して「不介入」と「解放」をかなり選択的に行っている。

 実際の政治では、イギリスは当初公的政策において私法には介入しない方針を取ったが、社会の変化を妨げるという理由で非難を受け、まもなく方針を変更した。しかし1858年のビクトリア女王による「インド皇帝宣言」において私法改正は現地インド人に任せるよう述べているところを見ると、当初の“私法不介入”方針が健在であったといえる。(余談になるが、私法改正を任されたインド人判事らは西洋教育を受けていたために、イギリスの先例拘束主義に習って過去の事例に結び付けて法解釈を行い、結果として特に上位カーストの道徳的規制が強化されるという皮肉な事態が起こった。)つまりイギリスはインド統治に対してそもそも首尾一貫した方針を持たなかったのである。やがて彼らはこの矛盾する2方針を利己的に区別、利用していく。

 例えば、イギリス政府はサティーの禁止に関しては消極的であった。サティーを禁止することは、インド女性解放の旗手を自認するイギリス政府にとって都合のいいように思えるかもしれない。事実そういう面もある。しかしサティーは上位カーストの習慣であり、イギリス政府が彼らと手を結んでいたし、ヒンドゥー教に対して介入することによる反発を恐れたのである。実際19世紀初頭インド総督ウエルズリがイギリス議会に対してサティーに対する関心を表明したが、議会はそれを黙殺した。1812年に「女性へのサテイー強制により女性の意識を麻痺させること」を禁止する法律を制定しているが、直接サティーを禁止したわけではなかった。ところが1818年ベンガル総督でリベラル派であったベンティンクはベンガル州に限ってサティーを禁止する法律を設け、さらに1829年、インド総督となったベンティンクはついに英領インドにおけるサティーを禁止した(サテイー廃止については民族主義者によるサテイー反対運動や1857年の英印戦争(いわゆるセポイの乱)などの影響も大きい。)。これがヒンドゥーの宗教に対するイギリスの初めての介入であったにも関わらず、イギリス政府恐れていたほどの反発はなかったし、社会不安も起こらなかった。結果的にイギリスの面目をほどこす結果となったのである。

 しかし一方で南インドケーララ州ナーヤルの母系社会に対しては積極的に介入し、法律による規制をかけ、ひいては母権制を崩壊させてしまった。ナーヤルの母系社会では通い構が一般的で父子関係もなく、女性は一定の社会的地位を認められていた。彼女たちにとって夫は経済的に依存する相手ではないために、その夫婦関係には経済的搾取の基盤が無かったからである。そのためナーヤルにはサテイー、幼児殺しも存在しなかった。しかしイギリスは1868年には男性に妻子扶養義務を認め、1896年にはマドラス婚姻法において一夫一妻制を規定するなどの法改正を行った。同時に相続に関する土地改革も進め、最終的には母権制度は廃絶されてしまった。イギリスがこの問題に積極的に介入したのは、母系制がイギリスにとっても、父系的な上位カーストにとっても不道徳な家族構造であったからである。

 以上のサテイーと母権制に対するイギリスの異なった対応は、全て自国の利益と照らし合わせて判断した上で対応するイギリスの側面をよく現している。女性の自由を完全に認めていたわけではなく、自らの利益と合致する問題に関してのみ選択的に介入を行なったのである。

 ところで、いわゆる中産階級が誕生したのもイギリスの統治下においてである。イギリスは女性が新しい行政職に就くことを禁じていたが、人為的な階級創設※2の過程で部分的に中産階級の男性が女性の社会進出を必要としたために、職種は限られていたとはいえ女性に職業につく機会が開かれ、女性の地位向上の足掛かりができた。実際一部の中産階級女性は社会の中で活動するにつれて自らの社会的な位置を変える可能性を見出していった。経済的に独立することにより、彼女たちは父権的カースト制度の外で生きる夢を実現していったのである。しかしこれはあくまでも一部の女性に限られたことであり、社会のあらゆる側面に差別は健在であった。彼女たちの多くは依然として家事、慣習に拘束されていた。また社会進出を果たした女性も職場で差別を受けることになった。そのような環境で彼女たちに大した昇進は望めなかったし、自分の部下の男性からセクシャル・ハラスメントを受けることはほぼ当たり前だった。このように職場においても、ジェンダー格差を残したまま階級構造が築かれてきたのである。

(2)女性運動に対する民族主義の対応

 ここでもう一つ忘れてはならないのが、女性運動は独立を目指す民族主義者によっても同様に利用されていたという事実である。イギリスも民族主義者も、自分達と利害の一致する問題では女性を支持し、利害のぶつかり会う問題では女性を疎外した。例えば女参政権の獲得は1917年に「女性のインド協会」によって提起された問題であるが、民族主義者はそれに対して支持を表明していた(もちろん建前上のものであったとしても)。なぜならイギリス本国においても、1928年まで女性に参政権が与えられなかった。したがってインドにおいて女性に参政権が与えられれば、インドの女性の政治変化がイギリス並みかそれ以上に進んでいることを示し、インドが後進的で自治に向かないとするイギリス側の主張に反論できるからだ。さらに「どうせ女性に参政権を与えても、彼女たちは財産条項により選挙資格を認められることはないだろうから※」という男性たちの考え方が存在していたということも言えるだろう。

 何はともあれ民族主義運動と結びついた女性運動はイギリスに対して運動を続けた結果、1931年のカラチ大会において、会議派は「法の下での男女・カースト・宗教上の平等、雇用・就業における無差別、普通成人選挙の実現」を誓約した。さらに1935年のインド統治法で選挙権を拡大したが、その割合はインド人男性10%、女性に至ってはわずか0.06%というものであった。

 このように女性参政権の問題については女性運動と結びついた民族主義運動だが、多くの男性が男女平等という原則を受け入れたわけではなかった。それはヒンドゥー私法の改革に対する、民族主義のアプローチを見ることで明らかになる。結婚、離婚、相続について定めたヒンドゥー法典の改革は1934年に「全インド女性会議」によって提唱された。しかし、これは民族主義者たちを含めた男性たちの猛反発をくらった。それは家族の中での彼らの特権を失うことになるからだ。女性参政権のように政治や雇用といった面において、少なくとも建前上は、民族主義者の支持を得ることができたが、直接彼らの私的関係や家族関係における特権に関わるヒンドゥー私法の改革については彼らは譲歩を拒んだ。

 このように民族主義運動と女性運動は同一のものではないが、その目的が一致する部分では強い連帯が生まれた。その結果、インドの女性はインド人男性を主要な敵とみなすことに躊躇し、女性の抑圧の原因として外国勢力による支配を強調することになった。その結果、女性の地位に関するカースト、階級、ジェンダー支配の影響が等閑視されることになったのである。

※2 イギリスにとっては植民地支配のため英語で教育されたインド人行政官を必要であった。そのため、英国はインドの教育制度を整え上位カーストに教育を受ける機会を提供することにより、彼らの間から中産階級が登場するに至った。

 

3. 運動の組織化

 2で述べたように、インドの女性運動が目にみえるようになったのはごく最近のことである。これには女性たちが社会の構造上孤立し、同じような問題を抱える他の女性と連帯できなかったこと、そしてそれゆえに個人の問題が個人の次元で終わってしまい、それ以上広がりを見せなかったことの二つが主な理由として考えられる。実は19世紀イギリス植民地時代に一部の社会の上層出身の人々により、女性の解放を目指す組織は作られていたのだが、植民地支配の強化や戦争の激化の中でそういった組織も活動を停止せざるをえなかったようだ(これらの組織については後述する)。

 ところで19世紀に創設された女性解放のための組織についてだが、興味深いことに初期段階において主な組織は全て男性が創設している。これは当時女性には社会的な力を持つことが許されなかったことを考えれば当然ともいえるのかもしれない。当時男性が扱った女性問題はサテイー、寡婦への汚名、一夫多妻生、幼児婚、女性への教育などであった。

 女性に関する通念に挑戦した先駆者はラーム・モーハン・ローイである。彼はベンガルの伝統的な一族の出身で英語教育を受けている。ラームは理性と個人の権利という原理を信じており、それらはヒンドゥー思想にも西洋思想にも共通すると考えた。これが彼の女性運動の根本原理となった。運動を進める中で、彼は全ての被抑圧集団に対する市民権と政治的権利を要求していく。そんな中彼の実姉がサテイーにより死ぬという事件が起こり、そのショックから彼の運動は加熱して行った。彼が1828年に創設したブラーフも・サマージは小集団のエリート協会であり、ヒンドゥー教改革を念頭においていて、影響力は大きかった。

 ブラーフモ・サマージが先駆となり、その後様々な組織が創設されたが、中でも1887年に改革主義者のラーデナーにより創設された「民族社会集団(National Social Conference)は特筆に値する。彼等は全国規模で女性解放の戦いを進めることを目的とし、幼児婚禁止キャンペーンと連携して寡婦再婚禁止に対する反対運動に乗り出した。結果として1891年に政府に「承諾年齢法(Age of Consent Act)」を制定させることで成果を得ており、女性の合法的な結婚年齢規定は10才から12才に引き上げられた。民族社会集会はまた女性に対する教育問題も取り上げ、小数規模の女学校の創設も果たした(但しキリスト教ミッション・スクールであったためヒンドゥーやムスリムに対してあまり効果はなかった)。これに続いて1916年にはカルべにより最初の女子大学が創設された。更に1904年よりインド女性集会を開き、女性のための教育プログラムを組織した。

 以上のように、初期における女性運動の主な担い手は上層の、しかも多々にして西洋教育を受けた男性であった。しかしいつまでも女性がこれらの問題を男性任せにしていたわけではなかった。女性の組織も次第に誕生しつつあったのである。これらのうち、最強の影響力を持つ三つの組織は全て1920年代に創設されている。(これらの三つの主要な組織は全てイギリスの女性によって始められてはいるが、組織の誕生自体はインドにおいてであり、ここには帝国主義支配的な要素は含まれないとみてよいと思われる。)

 一つめは1917年に設立された「女性のインド協会(The Women*s India  Association)」である。後にイギリス婦人参政権運動と結び付き、20世紀前半において大きく活躍した団体である。

 二つめは「女性国民委員会(The National Council of Women)」であり、1925年に「国際女性委員会(The International Council of Women)」のインド支部として発足した。

 三つめは「全インド女性会議(The All India Women*s Conference)」である。1927年に設立されたこの団体は3団体の中でも最も影響力が強い。1930年代には「女性のインド集会」と連携していく。この組織は本来女性の教育を論じることを目的としていたが、やがて隔離、ダウリー、幼児婚や寡婦再婚禁止などの社会問題を論じずに教育は語れないということに気付き、またこれらの問題がイギリスに対するインドの従属という政治問題とは切り離し得ないことを知る、というような過程をたどって、次第にその活動領域を拡大していった。

 民族主義運動にも見られる傾向であるが、女性運動のリーダーも多くは都市の英語教育を受けた中間層から生まれた。また組織のメンバーも圧倒的に上層出身の女性により構成されていた。彼女たちが本格的に運動に参加していくのは1905年のスワデーシー運動(国産品の奨励及び外国商品のボイコット運動)からである。運動に参加した多くの男性が投獄され、必要に迫られた女性指導者の尽力によって、女性は男性が驚くほどの勢いで運動にのめりこんでいった。これは女性による女性運動への最初の積極的参加という点で大きな意味を持つ。但し、このような女性の参加を快く受け入れた男性はごく少数であり、多くの男性は「自分達の利益のために利用できる」という考えにより反対こそしなかったが、本心としてはこの状況を否定的に見ていた。ガンジーでさえも女性の運動が加熱しすぎて常軌を逸した時には露骨に嫌意を示したという。しかし大多数の女性に関して言えば、彼女たちは女性の政治問題と民族主義者の反英政治運動とをはっきりと結び付け、意識するともなく女性運動に対する男性側の抵抗をやわらげていた。

 

4.今日のインド女性運動

 独立からちょうど50年が経過し、今日ではインドの女性運動は独立直後に比べ一見かなり下火になっているように見える。このことにより、中にはこの数十年間、特に独立後、女性の地位は確実に向上し、かなりの問題が解決されたのだと誤解し安住してしまう都市のエリート男性も多い。しかし人々の意識はかなり改善されてきたとはいえ、現実として女性を拘束し抑圧する社会構造はほとんど変わってはいない。つまり女性運動が表面的に静まったのは、これまでの運動を通して現実としてのインドの社会構造に対する認識がいっそう深まり、一つ一つのの行動を起こす祭により思索を練り、慎重に行動するようになったのであって、女性運動は着実に、そして更に強度をを増して続いているのである。男性支配の原理が社会のあらゆる側面にちりばめられており、女性の地位向上のためには構造の根本的改革が不可欠とはいえ、それが甚だしく困難であるという事実について、女性は確実に理解を深めてきているのだ。

 このような女性運動の傾向は初期の女性運動を「第一波」と呼ぶのにちなんで「第二波」と呼ばれる。つまり「第一波」が「女性の従属に関する分析とそれを変えるプログラムを持った自律的な女性の組織による運動」という薄い意味しか持たないのに対して、「第二波」は「社会変革活動であると共に、既存の知識の在り方を批判する運動」という意味合いをも含む。「第一波」の時代には、他の政治問題と結び付けずには女性に関する問題を扱えなかったために、女性運動の成果に制約が加わったが、「第二波」においてはそのような事態は起こり得ないといえる。また運動を続ける中で、制度的前進と実質面での大きな格差、雇用における根強い差別、経済的独立と女性の選択など、今までは見えていなかった問題が今日次々と浮上している。

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