チェチェン総合情報

チェチェンニュース Vol.04 No.19 2004.06.04

発行部数:1109部

■書評:『誓い〜チェチェンの戦火を生きたひとりの医師の物語〜』

ハッサン・バイエフ/著 天野隆司/訳 アスペクト刊
(評者:林京子)

 この自伝の著者バイエフは、第1次及び第2次チェチェン戦争において、持 てる知力、体力、精神力を極限まで尽くして負傷者の治療にあたった医師であ る。

 私は、第1次チェチェン戦争時、ジャーナリストの夫と共に何度もチェチェ ンを訪れた。爆撃を受けてめちゃくちゃになった集落、掃討作戦で「抹殺され た」村、難民キャンプ。どこも疲れ果て悲しみの表情をした人々でいっぱいだっ た。とくに、病院を訪ねるのは気が重かった。そこには、大人であろうと子ど もであろうと、手足がなかったり、大きなやけどをしていたり、包帯から血が どんどん染み出ていたり、ひどい状態のけが人が収容されていて、みんなひっ そりと、自らの運命を受け入れるように痛みをこらえていた。私は直接バイエ フに会ったことはない。私が無力感で呆然としている時、彼は知恵を尽くし、 黙々と負傷者の治療にあたっていたのだろう。

 バイエフはロシア人、チェチェン人の区別なく、時には彼自身を危機に陥れ ようとする人物までも執刀した。たとえ相手が何者であれ、患者の命を救うた めにぎりぎりまで努力した。しかし、彼は「医師」である前に、「勇気ある真 の人間」であると言いたい。バイエフは本書で、チェチェン側の捕虜となった サーシャというロシア人軍医を逃亡させたことを告白しているが、これはチェ チェン人への裏切り行為とも言え、バイエフ一人だけでなく、家族親戚までど んな目にあうかわからないような行動だった。

 しかし、罪もない人間が殺されるという戦争の不条理に納得できないバイエ フは、理屈を超えた行動に出る。因習やしがらみといったものを捨て、何のゆ かりもないロシア人を、彼らの仲間のもとに送り届けることを選んだのだ。そ の結果、バイエフは同じチェチェン人によって処刑されそうになるが間一髪で 免れる。思いがけないことに、最終的にはこの一件が、ロシア軍の掃討作戦か ら彼の村を救うことになる。バイエフがサーシャを助けた人物であることに気 づいたロシア軍の将軍が、秘密裡に村の安全を保証してくれたのだ。何が真実 かわからない、人間の尊厳など吹き飛んでしまう戦場で、バイエフと将軍は誠 意で向かい合ったのだった。

 バイエフは、患者や家族のために、自分の命をたびたび危機にさらしている。 そんな彼を神は見捨てない。危機一髪で何度も命拾いをする。あたかもバイエ フの覚悟ある行動を見届けた神が、ぎりぎりのところで、運命の駒をよい方向 へちょっとずらしてくれているようだ。戦争という極限状態では、生も死もナ ンセンスなほど紙一重に存在しており、地獄も奇跡も日常的に起こる。用心に 用心を重ねたとしても、あとは運なのだと思う。

 バイエフは人間愛にあふれた好人物である一方、やはり典型的な「チェチェ ンの男」でもある。エネルギッシュで、向上心に富み、信仰を大切にし、民族 の伝統を重んじる一方で、ビジネスの才があり、お金儲けがうまい。さらに、 見事な格闘家でもある。

 チェチェンの男は強くなければならない。義理人情に厚く、稼ぎがよくなけ ればならない。大家族を養い立派な家を建てるのが男の甲斐性なのだ。と、男 の道まっしぐらであるが、これは長年に渡り虐げられてきた少数民族が身につ けた、生きるための知恵ともいえる。私がモスクワで仲良くなったチェチェン 男は、最高学府の大学院で哲学を学び、イスラムの厳格な規律にのっとった生 活を送っていたが、ちょこちょことサイドビジネスをしてはお金を稼いでいた。 イスラム神秘主義について語る一方で、俺は金を稼いでちゃんと家族を養うぜ、 と。それが新鮮であり頼もしくもあったが、同時に、この人たちはこうやって ロシア社会を生き抜いているのだなと実感したのである。この本を読んで、ぜ ひチェチェン民族の生き方と出会ってほしいと思う。

 隣人を大切にし、良心にそって誇りを持って生きる。チェチェンの人々と出 会ってから、私は何か決断を迫られた時、チェチェン人ならどうするだろうと 自問自答するようになった。そして、彼らに恥じない生き方をしなければと肝 に銘じるのである。

 チェチェンを夫婦で行動していると、何十回となく言われたものだ。「子ど もはまだ?」「戦争が終ったらね」私はいつもそう答えていた。そして公約通 り(?)、第1次チェチェン戦争が終結した翌年私たちには元気な男の子が生 まれた。子どもは今年で7歳になった。その間もずっとチェチェンでは厳しい 状況が続いている。人々は疲弊し、以前のチェチェンのようではないかもしれ ない。バイエフですら心を病んでしまった。戦争の負荷はあまりにも重く、彼 らの試練を思うとやりきれない。でも、いつかこの困難を乗り越えてほしい。 かつて彼らの先祖がそうしてきたように。心からそれを願っている。

『誓い〜チェチェンの戦火を生きたひとりの医師の物語〜』
著者/訳者名 :ハッサン・バイエフ/著 天野隆司/訳
出版社名 :アスペクト (ISBN:4-7572-1038-8)
発行年月 :2004年06月
サイズ :509P 20cm
販売価格 :2,940円(税込)
こちらで購入できます :http://www.esbooks.co.jp/books/detail?accd=31378600

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