宋神道さんの人生と裁判から、私たちは何を学び、そして何ができるのか
【書籍紹介】
在日の慰安婦裁判を支える会・編『オレの心は負けてない』(樹花舎)
川田文子・著『皇軍慰安所の女たち』(筑摩書房)
(からん 2007.10)

 心待ちに待った映画『オレの心は負けていない』が公開されます。私はこれを機にもう一度宋神道さんの人生を学び直そうと考え、久しぶりに本棚から川田文子著『皇軍慰安所の女たち』(筑摩書房)を取り出し、読み直しました。そして改めて宋神道さんの人生の波瀾万丈と、「在日」であるが故に、より重い心の傷に思いを馳せました。
 この川田文子さんの著書は提訴直後の1993年に書かれたもので、当然裁判の経過については全く書かれていません。そこで支援団体の「在日の慰安婦裁判を支える会」から裁判のパンフレットを取り寄せ、また映画公開にあわせて同じく「支える会」により書かれた『オレの心は負けてない』(樹花舎)を読みました。この本は『皇軍慰安所の女たち』とは全く違う感動を与えてくれました。それは裁判を通じた宋神道さんと支援者との交流の記録、被害回復の記録でもあったのです。



1,川田文子・著『皇軍慰安所の女たち』(筑摩書房)

 この本は、「従軍慰安婦」=日本軍性奴隷被害者を描いた最高傑作である(と私は思う)『赤瓦の家』(筑摩書房)を書いた川田文子さんの手によるもので、『赤瓦の家』の続編とでも言うべき作品。『赤瓦の家』は、戦後沖縄にとり残された在日韓国・朝鮮人「慰安婦」ペ・ポンギさんの人生をルポルタージュしたもの。そして『皇軍慰安所の女たち』はペ・ポンギさんの死から始まっており、ペ・ポンギさんを喪った悲しみと憤りに終始リードされている。(以下、在日韓国・朝鮮人を在日朝鮮人と表記する。)
 この本は宋神道さんの他に二人の日本人「慰安婦」を描いているが、なかでも宋神道さんの人生は隔絶に重い。川田文子さんの名付けた宋神道さんの章は、「神道さん、凄絶な70年のドラマ」だ。その文字通り、凄絶に尽きる。神道さんの人生をコンパクトにまとめることは、ほとんど無駄な労力のように思えてくる。

 16歳で添わぬ結婚と継母から逃げ出して、「人間ブローカー」に騙され中国の地へ。死臭漂う武昌で始めて強姦され、その後漢口・岳州・宜昌・応山・安陸・長安などを転々としながら、7年もの長期にわたって慰安所生活を強いられてきた。その間、数度にわたる出産と堕胎を体験し、産んだ子を育てられるわけもなく他人に譲った。
 戦後は戦後で苦しい大陸暮らし。元日本兵に誘われるままに玄海灘を渡り、博多に着くなり捨てられた。見知らぬ土地で、言葉も通じない土地で、しかも上野駅で全財産を盗まれた神道さんは、北へ向かう汽車から身投げ自殺を試みている。失意の神道さんは農家の人に命を救われ、その人の紹介で宮城で飯場をやっていた河再銀(日本名・河本幸市)さんに身を寄せ、遠い異郷で戦後長い時を暮らしてきた。戦後半世紀以上にわたる日本社会の差別が、7年の被害生活の上に降り積もっただろう事は想像に難くない。

 ポンギさんにしても神道さんにしても、戦後の人生により重たさを感じる。被害体験が回復しがたい心の傷となっていることは疑うべくもないが、日本という差別社会―性差別・民族差別―がより重石となり、被害を深刻化させている。「従軍慰安婦」=日本軍性奴隷制度を生み出した思想は何ら反省される事なく、戦後日本の社会の日常に息づいていた。戦前の大日本帝国の加害は“私”の責任ではないかも知れないが、一切の戦争責任も問われず一切の戦後補償も行われず一切の被害回復もなされず、そればかりか今なお被害女性を傷つける閉鎖的で差別的な日本社会の存在を許してきたのは、“私”の責任でもある。
 「在日」という重みは、名乗り出ている他の被害女性とはまた違った重みであり、私たちに直に突きつけられている。そしてそのことは裁判の過程で、より一層際だつことになる。


2,在日の慰安婦裁判を支える会・編『オレの心は負けてない』(樹花舎)

 この本は裁判が終わり、映画公開にあわせて出版された。先に「裁判を通じた宋神道さんと支援者との交流の記録、被害回復の記録」と書いたが、まずは神道さんの心の傷の深さにふれたい。それは『皇軍慰安所の女たち』では分からなかったことだ。否、それに気づくのに私の想像力があまりにも貧弱だったのだろう。神道さんの人生には圧倒されたが、よく読めば気づくはずの深淵には、恥ずかしながら気づいていなかったのだ。

 宋神道さんは切れのいい言葉で物事を的確に語る。辛い記憶を笑いで吹き飛ばそうとするかのように。しかし彼女には語ろうとしない、語ることを身体が拒絶する記憶が幾つかある。
 ほとんどの元「慰安婦」の証言で、はじめて日本軍将兵に暴行を受けた時の記憶を、嗚咽し、狂乱し、言葉を詰まらせながら証言する。それは聴く人も辛いが、語る人にはその数万倍も数億倍も辛い行為なのは間違いない。当時の記憶が呼び覚まされ、語ることで、被害女性は被害を追体験しなければならないのだ。
 神道さんはその最初の被害のことを、決して語ろうとはしない。
 裁判での本人尋問でも、原告弁護士にそのことを質問されたときに、はぐらかしている。おそらく神道さんは質問者の意味を理解した上で、誤魔化している。裁判という公の場だけでなく、支援者も川田さんもこのときのことを聞いたことがない。きっと身体が拒絶するのだ。
 また自分の出産・堕胎の体験も話そうとするのを避ける。だから神道さんがいつ、どこで、どういう順序で子どもたちを出産・堕胎したのか、具体的なことは未だ明らかではない。
 パーソナルな心の傷を比較することなど出来ないが、それでも宋神道さんの心の傷は特段に深いと言わざるを得ない。それは神道さんの人間不信にも表れている。
 初対面の在日朝鮮人の支援者に対して「俺は朝鮮人が嫌いだ」と悪態をつく。それも2日間も。心を鉄壁の鎧で包み、防御する様が痛々しい。
 また中国への取材旅行でのこと。宿で支援者の在日朝鮮人女性とふたり留守番をしていて、他の人の帰りがちょっと遅かった。そのときの神道さんの悲痛な心の叫び。「朝鮮のオナゴ二人、中国に置き去りにされたんじゃないか?!」
 人間不信という言葉で片付けるのが躊躇われるほどの、深い傷だ。

 宋神道さんの傷――それは7年間という長い被害生活と、「在日」によるところが大きいだろう。
 金学順さんや、あるいはフィリピンのマリア・ロサ・ヘンソンさんに比して、圧倒的に長い被害生活。その年月が長ければ長いほど、傷は深くなる。(金学順さんらが「軽い」といっているわけではない、決して!)7年という月日は、自分の心を合理化することでしか生き延びることは出来ない。辛いことを辛いと、痛いことを痛いと認識しては、生きていけない。
 そして「在日」であるということ。東京では支援者に囲まれていても、宮城に帰れば日本人の集落で一人暮らさなければならない。神道さんの身辺―食べるもの、着るものなど―に民族を示す符号は全くと言っていいほど存在せず、神道さんは日本人社会に溶け込んで暮らしてきた。裁判を起こすときも、提訴を起こす決意をした翌日には、その言葉を翻していた。何度も何度も、揺らぎ続けた。地域で、元「慰安婦」として、在日朝鮮人として陰口をたたかれ、差別される。
 「どんなに親切にされても今まで何度も騙されてきたから、朝鮮人だろうが、日本人だろうが、他人は信用できねえんだ。人間の一寸先の心はわからねえ」
 「俺はこれまで何度も騙されてきたから人を信用できねんだ。おめえたちが支援する、するって言ったってどこで放り出されるか、わかったもんじゃね!」

 それでも宋神道さんは裁判を闘い抜いた。それは日本政府や国民基金というゴマカシに対する強い怒りだった。
 そして支援者との信頼関係の構築の中で、神道さん自身が変わっていった。ガチガチに凝り固まった人間不信が少しずつ氷解し、被害回復への道筋が少しずつではあるが開けつつあった。

 しかし日本の司法が下した判断は冷酷だった。
 一審・東京地裁 棄却
 二審・東京高裁 棄却
 最高裁 棄却――敗訴が決定した。
 事実認定はされたものの、国家無答責、除斥期間の経過を理由に退けた。東京高裁では、国際法上の国家責任については認めたものの、除斥期間を理由に請求を退けた。高裁判決の時、新聞では「国際法違反を初認定」の文字が躍ったが、宋神道さんの苦しみに向き合った判決とは到底言い難い。
 「こんな国だから裁判も負けるさ。大丈夫だ。宋神道は負けやしない」(敗訴確定後の発言)
 裁判に10年。10年の間に宋神道さんは大きく変わっていた。――この10年で変わらなかったのは、日本社会だけだ。否、より悪くなっている。



 宋神道さんのために、彼女をはじめとする元「慰安婦」=日本軍性奴隷被害女性たちのために、今、私たちは何が出来るのでしょうか。
 裁判闘争は(一部の勝利をもたらしたものの)ほとんど敗北し、日本社会の差別性を際だたせる結果となりました。また教科書からの記述も消えてしまいました。(そして悔しいかな、沖縄のような怒りと闘争とはほど遠い現実!)
 「私に何が出来るのか、今!」――映画を観るに際して、私は一生懸命に考えたいと思います。