紹介
映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』
(監督:マイケル・ムーア)
Bowling for Columbine

 この作品は「我々アメリカ人は、隠し持った大量の銃で殺し合い、世界中の多くの国々に対しても銃を使用するような、比類のない暴力的な国民であると訴えている映画」であり、「ジョージ・W・ブッシュが架空の恐怖で国民を脅しつけ、そのことによって国民が彼の望む権限を何でも彼に与えるようにしむけている、ということを明らかにしている映画」(マイケル・ムーア)なのである。だからこそ、この映画が今年度のアカデミー賞で最優秀ドキュメンタリー賞を獲得した時、授賞式の場でムーア監督は次のように言い放った。「・・・我々は、虚構の時代に生きているが故にノンフィクションを好むのです。 我々は、虚構の選挙結果によって虚構の大統領をもつ一時期を生きています。我々は今まさに虚構の理由で現に戦争を行なっています。・・・我々はこの戦争に反対だ、ミスター・ブッシュ。恥を知れ、ミスター・ブッシュ、恥を知りなさい。・・・」と。

 この映画は、コロンバイン高校で起きた銃乱射事件を契機に、なぜ、アメリカで銃犯罪が多発するのかという問題に取り組んだドキュメンタリーとして作られた。ムーア監督は、いかにも人のよさそうな風貌と飾りけのない服装で、どこにでも立ち現われ、だれとでも話す。そして、その対話の映像の中から、人が隠したいと思っている真実までも明らかにしていく。メディアが垂れ流し、人々が真実だと思いこんでいる事柄の一つ一つが、いかに根拠のないものであるかを、笑いによって告発していく。さらに、取材の過程で、ムーア監督自身が当初の意図を越えていく。銃を規制することだけで済む問題ではないのだと。

 映画は、アメリカ南北戦争時に歌われた「リパブリック賛歌」をバックに、 「1999年4月20日、アメリカ合衆国は普段通りの穏やかな朝を迎えた。」というナレーションから始まる。仕事を始めようとする善良なる人々をとらえた映像は、次の瞬間、コソボへの爆撃に切り替わる。しかし、アメリカ国民の多くは、アメリカが爆撃している国の名前すら知らない。そして、コロラド州では二人の少年が朝早くからボウリングに興じていた。その1時間後、この二人の少年が、自分たちの通っていたコロンバイン高校で、銃を乱射して13人を殺害し、自殺するという事件が起こった。
 この事件はアメリカ社会に大きな衝撃をもたらし、悲劇の原因がさまざまに取りざたされた。家庭崩壊、貧困、暴力的な映画やゲームなどがやり玉に挙がった。しかし、家庭崩壊についてはイギリスの方が多く、カナダの失業率はアメリカの2倍である。ゲームに関しては日本が最高。しかし、銃による死者の数はアメリカが、年間1万人台なのに、これらの国は数十〜数百人である。
 アメリカでは、気軽に銃が手に入る。銀行の景品が銃だったりする。弾丸はスーパーで売られていて、未成年者でも大量に購入できる。さらに、このような悲劇的な事件が起こる度に巻き起こる銃規制の声に対して、全米ライフル協会(MRA)が、それに真っ向から反対する集会を開く。その協会の会長は有名な俳優のチャールトン・ヘストンである。人々は家族を守るために銃は必要であると信じている。
 少年たちの住んでいた地域には、大きな軍需産業がある。監督はそこにも取材に行く。担当者は、そつのない言葉で無差別殺人を批判する。巨大ミサイルを背後に従えながら。少年たちの事件と軍需産業とが何の関連がある、とあきれたように述べる担当者。しかし、ここで作られた兵器によって、アメリカ政府が、他国の政治に干渉して戦争を行い、アメリカに奉仕する独裁者を作り上げ、無差別殺戮を行ない続けてきた。ベトナム、チリ、ニカラグア、イラク・・・。だが、誰も、世界でも突出したアメリカの戦争政策と、世界でも突出して銃犯罪が多いこととの間に関連性を見ようとはしない。
 その一方で、この少年たちが心酔していたという理由で、ロック歌手のマリリン・マンソンがコロラド州でライブを禁じられるにまでなった。おどろおどろしいメークをし、 「悪魔的」な歌を歌うマンソン。しかし、ムーア監督との対話において、彼は冷静かつ真摯に事件と向き合う。彼はアメリカ社会を分析する。「恐ろしいニュースを流したかと思うと、次の瞬間にはコマーシャルが流れ、消費を呼びかける。メディアは恐怖と消費との一大キャンペーンを作りあげている。消費へと向かわせるために、人々に恐怖を与える。その恐怖心が人を銃に向かわせる」と。監督に「コロンバインの生徒たちに何か言うことは?」と問われて、「何もない。ただ、彼らの言うことを聞きたい」と静かに言う。
 犯罪の数が20パーセント減っている間に、犯罪がメディアに取り上げられるのは 600パーセントも上昇していると、警察関係者は語る。しかも、メディアが毎日毎日放送する映像は、必ずと言っていいほど、黒人が犯人である。警官が、犯人と派手に格闘をして、ねじ伏せて後ろ手に手錠をかける場面ばかり。そういった番組を制作するプロ デューサーにも、ムーア監督は「なぜ、黒人ばかりなのか」と尋ねる。その方が視聴率が稼げるとの答。ムーア監督は「金融犯罪の方が被害額は大きいし、犯人は白人ばかりだ。上司に不満を持つサラリーマンが見たらスカッとするよ」と提案する。立派な背広を着た白人男性を、ムーア監督が激しく追いかけ、服もやぶれんばかりの格闘の末、逮捕するという場面を想像しながら。しかし、プロデューサーはリアリティに欠けるとむげに否定する。この社会において、数十ドルを盗んだ黒人男性は尊厳を徹底して踏みにじられるが、何百万ドルもの金融犯罪を犯した白人男性が乱暴な扱いを受けることはありえないと、このプロデューサーは語ってしまったのである。

 犯罪の報道一つを取ってみても、巧妙な形で人種主義的偏見が煽られる。被害者意識を強く持たされた人々は、銃を手にしなければ安心できない。いや、銃を手にしてさえ安心できない。アメリカという国が世界一の軍事力を所有してさえ安心できないように。
 この映画を制作中、さらに悲劇的な事件が起こった。小学校で6歳の少年が6歳の少女を銃で撃ち殺すという事件が。
 この少女の葬儀に多くのメディアが駆けつけた。アナウンサーは、カメラの前では神妙にしているが、カメラから離れると、風で髪型が崩れないかどうかばかりを心配している。そしてまたもや、全米ライフル協会の大会が開かれ、銃を持つ権利が高らかに宣言された。
 ムーア監督は、チャールトン・ヘストンの自宅を訪れ、ヘストンが銃を持ちたがる心理について迫っていく。弾丸を込めた銃が枕元にあると安心すると言ってのけるヘストン。さらに「アメリカの歴史は血にまみれた歴史だ。それに、他の国に比べて多くの人種がいる」と、自分が人種差別主義者であることを暴露してしまう。さすがにやばいことを言ってしまったと感じたヘストンはインタビューを一方的に打ち切り、部屋から出ていく。その背中を追いかけて、ムーア監督は被害にあった少女の写真を手に、「これを見てやって」と追いかけるが、ヘストンは聞こえないふりをして、広い邸宅の別の棟へと姿を消す。ムーア監督は、少女の写真をヘストン邸の柱の影に立てかけておき、その場を立ち去る。
 ちなみに、チャールトン・ヘストンの代表作『ベン・ハー』についても一言述べておきたい。『ベン・ハー』といえば、戦車競争の場面が最高の見せ場である。ベン・ハーのかたき役は卑怯にも自分の戦車に細工をするが、ベン・ハーは正々堂々と闘って勝利する。ところが、実は、原作では、ベン・ハーの方こそが卑怯な手段で競争に勝つのである。復讐の鬼となり、そのために卑劣な行為にまで走る主人公であるからこそ、愛を説くキリストの登場が意義を持つ。しかし、正義のヒーローと化した映画のベン・ハーにとっては、キリストは、彼が困った時に、水をくれたり、家族の病気を治してくれたりする便利な奉仕者でしかない。「復讐鬼」を「正義のヒーロー」にすり代えるこの手法は、今日に至るまで延々と使用され続け、今回のイラク戦争においても多くの人を惑わすことに成功している。
 「なあ、俺たちはいつになったら、自分自身を偽ることをやめるんだ?」(マイケル・ムーア著『アホでマヌケなアメリカ白人』より)

4月19日 木村奈保子
(現在、大阪では、なんば千日前敷島シネポップと新梅田シティガーデンシネマにて上映中)