[キューバ旅行記]
ひとびとの陽気さと革命の誇りにふれた5日間


 はじめに


『カストロ 銅像なき権力者』(戸井十月著 2003年6月 新潮社)
 2008年3月25日から4月1日までキューバに行ってきました。がキューバで過ごしたのは3月26日の午後から3月30日までのわずか5日間でした。
 私がキューバに行こうと思ったのは『カストロ 銅像なき権力者』(戸井十月・2003年)の本を読んだからです。戸井さんは14年前(1988年)キューバを訪れました。その後、ソビエト連邦が崩壊し、アメリカの経済封鎖が続く中、戸井さんのいつも思ってきたことは「どうして、キューバは潰れないのだろうか。どうして、こんなに強くて豊かなアメリカを目の前にして頑張れるのだろうか」と。『百冊の本を読むより、一人の人間と会え』というキューバの諺を信条にカストロに会いに行き、2回目の訪キューバで念願が叶えられました。この本を読むとカストロやキューバが大好きになり、キューバに行ってみたくなります。
 以下、キューバに行き見聞きしたこと、感じたことを記します。

 音楽がすき ダンスがすき 底抜けにあかるいキューバ人


旧ハバナ市内のレストランで
 キューバには音楽があふれています。路地にも、広場にも、家にも。音楽が流れているからお店かなあと覗いてみると家のソファーでくつろいでラジカセをかけていました。
 レストランで食事をしていると、ギター・マラカス・ボンゴなどの楽器を持った人たちが現れ、何曲か演奏してくれます。もちろんチップを要求したりやCD販売にきます。観光客と踊ったり、グループにダンサーがいたりします。独特の腰の振りがとっても魅力的です。キューバでは小学校からダンスが正規のカリキュラムに入っていると聞きました。

旧ハバナ市内のオビスポ通りで
 キューバ人の女性ガイドさんに案内されてレストランに行く途中、数人の男性がおしゃべりをしているそばを通りかかるとその中の一人が親しげに話しかけてきました。ガイドさんに知り合いですかと尋ねると『私の以前の恋人です』と答えてくれました。キューバ人はおしゃべり好きで、誰でも受け入れています。特に公務員であるホテルの従業員は愛想よく「グラーシアス(有難う)」「チャーオ(バイバイ)」と声をかけてくれ、街行く人からよく「チナ(中国人)」と言われました。滞在中に見かけた日本人は在キューバ5年のアイランドツアーの現地スタッフ夫妻と革命博物館を案内していたスタッフだけでした。

 差別がなく互いに助け合っている人々


トリニダに広がるサトウキビ畑
 カリブ海に浮かぶ島、キューバにはもともと原住民が住んでいました。1492年コロンブスはキューバに到着しました。その当時キューバには先住民がいましたがスペインの植民地化が進むと共に滅亡の道をたどっていったそうです。スペイン人によるキューバ植民地化は同時に砂糖産業、奴隷産業を盛んにし、キューバはスペインと中南米の中継地点としては発展を遂げたそうです。アジア系の人は見かけませんでしたが、肌の色や年齢や性差に関係なく、一人一人が国民としての誇りと自信を持って暮らしていると感じましたし、精神的に豊かでゆとりを持っていると思いました。

フレンチ風の建物
 ハバナからバスで走っていると、二十人前後の人々が道路際で紙幣を持った手を挙げて行きかう車の運転手に乗せて欲しいアピールしていました。トラックの荷台にたくさんの人が乗っているところや乗り込んでいる場面を目にしました。何時間ぐらい待っているのでしょうか。のどかな光景です。また、政府も生徒たちにヒッチハイクを長期休暇中にするように進めています。そのわけは自主性や判断力が身につくからと。余談になりますが、四十年前は日本でもヒッチハイクは盛んでした。


 物を大事にする人々


旧ハバナ市内
 旧ハバナ市民の住居は17世紀ごろに建てられた建物を利用しています。それらの多くは天井が高く作られています。床から天井までの間に床を設け、中1階や中2階にして住んでいます。家の外壁の塗り替えをしていました。

修理している車(トリニダ)
 朝早くから歩いて出勤する人もいました。馬車には馬の糞が道路に落ちない工夫がしていました。道路はとてもきれいでごみは落ちていません。ごみをリアカーで集めている親子連れを見ました。車は50年代のアメリカ車です。50年以上修理をしながら乗っています。私たちの乗ったタクシーは中からドアが開かないので運転手さんが降りてきて開けてくれました。きれいな車も見かけました。観光バスは新しい中国製でした。夜になると町は真っ暗になります。でも町の人々は遅くまで騒いでいます。街灯はありません、町のほっとステーションのコンビニもありません、自動販売機もありません。夜に車を走らせるのはよほど良く知っているものでないとできないそうです。昼間の建物の中は、明かりをつけないからか薄暗いです。人々が集まる広場には古本が多かったです。



ホセマルテイの生家に飾られた写真
 ゲバラやホセ・マルティが大好きな国民

 キューバ革命のカストロともう一人の立役者となるアルゼンチン医師チェ・ゲバラの顔は町のあちこちで見かけました。旧ハバナ市内の壁一面に描かれた顔。国会議事堂の壁。建物の屋上。

サンタ・クララのゲバラ立像
 サンタ・クララのチェ・ゲバラの革命広場には、1958年、キューバ革命戦争の最終盤での火炎瓶の飛び交う市街戦「サンタ・クララの戦い」の司令官のチェ・ゲバラを記念してチェの立像がありました。
 チェに率いられた部隊はパチィスタ軍の軍用列車を脱線させ多くの兵を捕虜にして武器を奪った後にハバナに攻め上った。サンタ・クララでの負け戦で士気を挫かれたパチィスタ軍はそれ以降敗退を重ねることになったそうです。「勝利よ永遠なれ」と刻まれた台座の下にゲバラの人生をテーマにした博物館と納骨堂がありました。納骨堂にはゲバラと共にボリビアで戦い死んだ同志たちの名が刻まれていました。1997年7月、ボリビアから遺骨が運ばれ、この納骨堂に納められたそうです。博物館にはゲバラの写真・革命運動中に使っていた道具など貴重なものがたくさん展示されていました。もちろん日本を訪問した写真もありました。
 1997年のチェの国葬式典でのカストロの挨拶は「私たちは、チェと、その同志たちに別れを告げにきたのではなく、出迎えのために来たのです。チェは道徳の巨人です。彼のように純粋で、真の尊敬に値する人間の存在は、腐敗した政治家や偽善者がはびこる今こそ、よりいっそう際立って見えます。チェの理想が実現していたら、世界は違ったものになっていたでしょう。戦士は死ぬ。しかし思想は死なない。チェは、全世界の貧者の象徴として永遠に生き続けるでしょう。」(「カストロ 銅像なき権力者」より)

旧ハバナ市内の建物に描かれたゲバラ
 観光客相手のどのお店を覗いてもゲバラの顔入りシャツ・本・しおり・お金・CD・帽子等などが、並んでいます。
 革命記念日、革命博物館、革命広場、ホセ・マルテイの生家や銅像や記念館、そしてチェの顔がどこにでもあり、人々がキューバ革命の伝統と指導者を誇りにしていることが伺えました。戸井さんは本の中で、キューバ現地の運転手の言葉として、「ホセ・マルテイの思想と知識、カミーロの戦略と戦術、チェの勇気と行動力、フィデルの政治力と統率力。この4人がいれば、今でもアメリカにひと泡吹かせてやれるんですけどね」と紹介していますが、そんなキューバ人の気持ちが私にも解る気がします。

1960年のヘミングウェイつり大会で個人優勝したカストロとヘミングウェイの写真

『老人と海』の舞台となったコヒマルの海
 「カストロは偶像崇高を極端に嫌う。キューバでは革命直後にカストロ自らが提案して成立させた法律で、公の場に生存する国家的人物の姿を飾ることを禁止されている」(「カストロ銅像なき権力者」より)街角でカストロの顔や姿はお目にかかることはありませんでした。唯一ヘミングウェイゆかりのレストランにヘミングウェイと撮った写真がありました。




 町の様子


サンタ・クララの革命広場
 都市には必ず革命広場があります。1月1日の『革命成就記念日』、5月1日の『メーデー』、7月26日の『革命記念日』に数十万人の人々が広場に集まるそうです。交通渋滞を起こし身動きが取れなくなるそうです。2009年の1月1日は革命50周年です。
 町には銀行・薬局・レストラン・配給所・肉屋・電気店などがあります。看板やショーウンドウがありませんので、住居か店舗はわかりませんが、覗いてみるとわかりました。
 ハバナでは月に最後の日曜日に自由市場が大きいメイン通りであります。ハバナ最後の日は日曜日でした。大きなトラックを横付けし早朝より採れたての野菜・果物・米・魚などを売っていました。常設の市場は町の一角にありました。観光客相手のフリーマーケットにはみやげものなどが並べられ、たくさんの人でごった返していました。



ホセマルテイ博物館
 コロンブスがキューバに到着したときに「人間が目にした最も美しい国」といいました。キューバはどこでも『観光地』になり絵になります。きれいな海・ヨーロッパ風の建物。特に素敵な、何度でも会いたい人々がたくさんいます。

 今回のキューバ行きの目的は観光でした。唯一社会主義の国として頑張っているキューバ、世界遺産に登録されている旧ハバナ市街やトリニダ、テレビに映るカストロの顔、革命博物館を見たいなあ、環境や農業や医療や教育に関心があるので、できたら農業や医療や学校を見学したいなあという気持ちでした。
 親切なアイランドツアーの現地スタッフの方が日系2世の方が経営する農場に案内してくれました。場所はハバナ市内の住宅街にありました。その方の自宅から車で5分ほどのところです。農園はフェンスで、入り口には鍵がかかっていました。バナナ・パパイヤなどの南国の果物の木があり、農園の奥にはガチョウ・鶏・アヒルが飼われその糞が肥やしにしているそうです。手前は農園になっていて畝を高くする方法ではなく、畝の周りを板などで囲っていました。1つの畝には数種の作物が植えられていました。野菜はミニトマト・レタス・キューリ等日本で見かけるものがほとんどでした。


  
ハバナ市内の有機農園

 最後に


チャベスと描かれたシャツを着た観光客
 キューバから帰って改めて『カストロ 銅像なき権力者』の本を読み返しました。キューバには衛星放送で欧米からの情報も自由に入るそうですが、思想統制はもちろんしていません。亡命希望者のために港を開放しています。物質的に貧しくてもキューバの国民は精神的に文化的にとっても豊かです。その豊かさはどこから生まれてくるのでしょう。



上から、小学生と先生/小学生の男の子/学校の看板(いずれもトリニダ)
 カストロは「消費への欲望が人間を成長させることなどありえない。食料、住居、その他の生きるために不可欠な物品の公平で現実的な分配と、文化的で精神的な豊かさこそが自然を破壊せず、効率的に人間らしい世界を取り戻す唯一の道なのである」「消費社会が豊かな社会とは考えないのです。文化の豊かさこそが人間を豊かにするのです。そのためにも教育が何よりも大切なのです」と述べています。
 キューバの精神的、文化的な豊かさと物質的な豊かさは対峙していると思います。物質的な豊かさを追い求めることは短絡的かもしれませんが消費社会につながり、それがとどまるところがないと思います。消費社会では、よりもっと、もっとと子どもたちを含め拝金に走らせ、様々な競争に人々を駆り立てていっていると思います。私はキューバの人々が他を思いやり、互いに助け合い、他国の民衆に医療等の援助をすることができるのは、カストロ指導者の無私・清廉によると思いますが、教育の力も大きいと思います。精神的な豊かさを身につけていくことは教育が関係していると思います。
 私がキューバに滞在したのはわずか5日間でしたが、それでも人々が底抜けに明るく陽気で、革命を誇りにしていることなどを知ることができました。今回病院や学校の見学を予定していた日が土曜日だったので実現しませんでした。是非再訪し見学をしたいと思っています。



2008年5月30日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局 T・N





キューバ旅行 行程

3月25日 17:45関西国際空港・・・・(日付変更線通過)・・・11:10バンクーバー国際空港 乗り継ぎ 12:30バンクーバー国際空港・・・・20:00トロント国際空港  トロント 着後ホテルへ <トロント泊>

3月26日 9:05トロント空港・・・・12:45ハバナ/ホセマルテイ空港   旧ハバナ市内(フェルサ要塞、アルマス広場、アンボス・ムンドス、カテドラル広場、海岸通り、フリーマーケット) <ハバナ泊>

3月27日 ハバナからサンタ・クララ、トリニダ方面(スペイン語・英語ガイド付き)  サンタ・クララ市内(革命広場、納骨堂・ゲバラ博物館、列車転覆現場) <サンタ・クララ泊>

3月28日 トリニダ郊外(鋳物工芸工場、サトウキビ畑、奴隷の監視塔)  トリニダ(街並みが世界遺産に登録され18世紀当時の街)   シエンフエゴス(ホセマルテイ広場周辺のフレンチバロック様式の建造物) バスで旧ハバナへ  <ハバナ泊>

3月29日 コヒマル(ラ・テラサ、ヘミングウェイ像) ハバナ市内(農場、マレコン通り、ホセマルテイの博物館、革命広場、革命博物館)  <ハバナ泊>

3月30日 旧ハバナ(市立博物館、カピトリオ、ホセマルテイの生家)  13:45ハバナ・ホセマルテイ国際空港・・・・:1720トロント国際空港   着後ホテルへ <トロント泊>

3月31日 9:00トロント国際空港・・・11:02バンクーバー空港  乗り継ぎ  12:55バンクーバー空港・・・・(日付変更線通過)・・・・

4月1日 ・・・・・15:45関西空港  お疲れ様でした。

※時刻の表示は全て現地時間です。日本との時差はバンクーバー−17時間、 トロント−13時間、キューバ−14時間です。 飛行時間は 関空〜(9時間)〜バンクーバー〜(4時間半)〜トロント〜(3時間半)〜ハバナ