[投稿]「医者、用水路を拓く−−アフガンの大地から世界の虚構に挑む」を読んで

 ホームページで紹介されていた『医者、用水路を拓く−−アフガンの大地から世界の虚構に挑む』(中村哲著)を読みました。私は、署名事務局のアフガニスタン・イラク戦争の記録=「アフガニスタン被害報道日誌」「イラク戦争被害の記録」に記事を投稿していた者です。この中村医師の本を読んであらためてアフガニスタン戦争とそれに協力し続けている日本の異常さを感じ、この6年間を振り返りました。
[紹介]医者、用水路を拓く−−アフガンの大地から世界の虚構に挑む

 今から約6年前、テロ特措法を巡り激しいやり取りが国会内外で行なわれた2001年末の衆院テロ対策特別委員会で中村医師は、「今緊急なアフガン問題は、政治や軍事問題ではない。パンと水の問題である。命の尊さこそ普遍的な事実である」「自衛隊の派遣は、有害無益、飢餓状態の解消こそが最大の問題である」ことを訴えました。そして再び、その「テロ特措法」の延長、いや「新テロ特措法」の採決をめぐりやり取りがされていた最中に、本書が出版されたわけです。いわば、ペシャワール会が6年間にわたって行った「戦争という暴力に対する『徹底抗戦』」の記録をたたきつけたのです。新テロ特措法が強行採決されインド洋に自衛艦が再派遣された現在、本書を読んで新たな怒りがこみ上げてきます。
 「戦争どころではない」−−中村医師が淡々と語る言葉のなかにいかなる思いが込められていたのか。この本の中でも語り口調は淡々としています。しかし、それは、激しい怒りで貫かれています。中村医師は、遠いアフガニスタンの地から「悲しかったのは急速な日本の変貌である」「日本もまた、急速に変わっていた」と9.11以降に生じた日本社会の変貌をたびたび問題にします。それは侵略戦争への加担に対する批判だけではありません。「国際貢献」「国際社会」「グローバル・スタンダード」が最優先されるようになり、「軽薄と無関心、暴力と華美な風俗が混在する世相」、「武力とカネが人間を支配する時代」−−そのような日本社会のあり方そのものに鋭い批判の目が向けられています。私は、単なるアフガニスタンでの活動の記録にとどまらない、鋭い社会批判としてもこの本を紹介したいと思います。
 以下この本を読んで感じたことを書き付けてみました。重複などもあるかもしれませんが、是非読んでいただきたく投稿します。
2008年3月20日
(KS)


戦争に巻き込まれたアフガンでの活動の記録

 本書は、9/11以後、戦乱の真っ只中に放り込まれたアフガニスタンにおける、多くの民衆と共に用水路建設工事、医療活動、食糧支援活動に従事しやり遂げた中村医師とペシャワール会の血のにじむような活動の記録である。中村医師、ペシャワール会のこれまでの活動とはまったく異なる状況下における、戦争と混乱の中での活動の報告である。
 まさに時期は、世界の耳目がアフガンに集中した時期から始まる。アフガンバッシングが繰り返し喧伝された時期だ。タリバン政権とテロリストの関係を、あたかも眼前で見てきたかのような不正確な情報に基づいて断じ、タリバン政権が女性にブルカの着用を義務付けているとしてその非民主化ぶりをあげつらい、タリバンによる公開処刑の映像が幾度も垂れ流され、そして、バーミヤンの仏像を破壊したとして、タリバンに怒りを掻き立てられていた時期だ。米国、日本政府は言うに及ばずマスコミもまた、タリバン政権批判一色に染められた。また、遅れたアフガンを見下す論調もあった。しかし、当時、中村医師は、農村社会を基盤とするアフガニスタンにおいてはイスラム教の教えに基づく民衆の生活には合理性があること、西側先進諸国の基準でアフガンのそれを比較することの愚を粘り強く訴えていたことが思い出される。しかし多くの日本人は、仏像の破壊に対しては怒りを露にするも、旱魃と経済制裁によって苦しい生活を余儀なくされたアフガン民衆の現状に思いを馳せることはなかったのだ。アフガン攻撃やむなしの世論が誘導され、いとも簡単に、そのような雰囲気が蔓延していった。当時の状況はあまりにも異常であった。

 しかしそのような社会の雰囲気の中で、「世界中が寄ってかかって『アフガニスタン』を論じている間にも、飢えた人々がさまよい、病人が死んで」いるとして、全力で食糧の買い付け、民衆へ供給をしていたのだ。ペシャワール会の主張は鮮明であり、行動も素早かった。一方政府は、アフガン情勢を利用して、難民対策として自衛隊のペシャワール派兵を目論んでいたのだ。このような邪悪な企みに対して中村医師は、「カブール市内は国内避難民であふれていた。・・・本当に緊急な支援が必要なのは今!アフガン国内なのだ。米軍の空爆を前提として国外で避難民を待つよりは、避難民を出さない努力、すなわち暴力的な報復爆撃を止める努力が必要だった」と訴えた。このような意見は少数派だったが、私たちもまた、タリバン攻撃が当たり前とする世論の高まりを前にしながらも敢然と自らの主張を展開する中村医師と、ペシャワール会から発信されるアフガンの真の情報に勇気付けられてきた。本書の「第一章 爆弾よりもパンを」は、このような状況下におけるペシャワール会による救援活動の報告である。

アフガンをおそっていた大旱魃と飢餓

 本書を読むと、米軍のアフガン攻撃の直前のアフガンが悲惨な状況であったことを再度認識させられた。当時アフガンでは未曾有の大旱魃に襲われていた。「1200万人が被災し、飢餓線上の者400万人、餓死線上の者100万人と推測」(WHO・2000年5月)。そして各地の様子について次のように報告している。大旱魃によって田畑は干上がり、農村は放棄され大量の農民が難民となった。食糧不足、栄養失調と水不足は、人々を苦しめた。汚水を口にした多くの子どもたちは赤痢などに感染し死んでいった。アフガニスタンにとって食糧援助が最も必要とされた時であった。しかし、「国際社会」は助けが最も必要とされている時に国連制裁なるものを発動し、食糧輸入を絶とうとした。そして各国NGOは人々の困窮を尻目に撤退していった、と。苦しみにあえぐ国に対して米国をはじめとする「先進国」は、爆弾の雨を降らせたのである。今振り返ってみても、その非人道性に怒りを覚える。しかし、小泉首相は、この攻撃を明確に支持したのである。しかも、戦争のやり方も、非人道性の極地であった。徹底した空爆。劣化ウラン、クラスター爆弾、バンカーバスター等、数多くの非人道兵器が投入され、大地は最新兵器の実験場と化し、多くの人々がその爆弾の下で犠牲となったのだ。マザリシャリフでは、捕虜となったタリバン兵が虐殺された。相手を"虫けら"としてしか見ない「戦争レイシズム」(戦争人種差別主義)、これが超大国米国のやり方だった。本書では、戦火のカブールの状況を次のように報告している。(ピンポイント爆撃は、)「一地区を集中的に襲って人々が逃げると、今度は安全と思われた別の場所が襲う。・・・・市民たちは徒歩、タクシー、馬車で市中を逃げ惑い、神経をすり減らした。無論、多くの死傷者が出た。唯一残って爆撃の報道を続けるアルジャジーラ放送局も壊滅した」と。私たちもアフガンにおける民衆虐殺の実情を少しでも広めようと、『アフガニスタン被害報道日誌』をホームページ上にアップし、マスコミ報道で把握した犠牲者を記録する活動を行った。本書は、飢餓に苦しむアフガンに戦争が仕掛けられるといった極限の情勢下におけるペシャワール会の奮闘の記録である。

「決死隊」の食糧輸送

 戦争が仕掛けられる前後の二ヶ月間にペシャワール会は、1800万トンの小麦、食料油20万リットルを、餓死に直面していた15万人が冬を越せるだけの食糧を供給した。これらを調達した資金は、多くに市民の善意=募金によるものであった。飢餓が発生しているアフガンにおいて何よりも必要な物、それは戦争と爆弾ではなくパンであることを訴えるペシャワール会に対して、目標額をはるかに超える6億円もの援助が手元に寄せられたという。中村医師はこの募金を元に最大限の食糧の買い付けを指示し、現地に食糧が続々と運び込まれたのである。本書では、現地の職員たちの奮闘ぶりが詳しく紹介されている。空爆下における決死の食糧の輸送活動に望むスタッフたち。死を覚悟し、カブールに向けて大量の食糧を輸送するためのトラックに乗り込むジア医師たち。(「決死隊」)激しい空爆の下、全滅することで援助を停止せざるを得なくなるリスクを軽減するために分散しながらも続けられた職員たちの奮闘振り。(「爆撃下のカブール」)中村医師は、現地のアフガン人たちの勇敢さを随所で称えている。ペシャワール会の記録以外では、アフガン人の本当の姿が登場することは皆無であろう。そう、第一章「爆弾よりもパンを」の中には、ブッシュとアメリカ、同盟諸国に攻撃されながらも、決して屈することなく自国民の救済のために闘ったアフガン人の姿が語られている。また私たちは、中村医師をはじめとする日本人ワーカーたちが戦火の中に放り込まれたアフガン民衆へ真の救いの手を差し伸べたこと、そして、このような日本人が存在していたことを、決して忘れてはならないと思う。奮闘するペシャワール会に対して2002年、沖縄平和賞が授与された。心ある人々は、彼らの事業を見つめていた。それに対して戦争を仕掛けた輩どもは、ますます泥沼化するアフガン情勢を前にしても自らの過ちを認め謝罪するどころか、いまだに「対テロ戦争」の継続を叫び続け、民衆虐殺を繰り返しているのだ。私たちは、爆弾の雨を降らせたブッシュとアメリカ、戦争を支持し海上自衛隊をインド洋上に派遣した小泉のような救いようのない輩が存在する一方、ペシャワール会のようなアフガン民衆の窮乏を救うための偉大な活動があったことに、尊敬を禁じえない。

『殺しながら助ける』支援というものがあり得るのか

 「第二章 復興支援ブームの中で−医療支援の後退」では、「戦後」のアフガンにおける政府機関とNGOによる「復興支援」の実態、ペシャワール会が医療活動の中止を余儀なくされた経緯、そして新たな事業−用水路建設−に取り組むようになった経緯を取り扱っている。
 本書を読み、2002年1月に東京で開催された「アフガン支援復興会議」のことを思い出した。そうだった。日本は、忠犬ごとくブッシュに媚びへつらい、アフガンに戦争に協力した小泉、日本は、アフガンの戦後処理においても米国に忠誠を示すために、「アフガン復興」なるセレモニーを主導していたのであった。よくよく考えてみるならば、日本もまた「アフガン復興」に浅からぬ関係を、その端緒から持っていたのである。中村医師は、東京で開催された「アフガン支援復興会議」について、「『自由とデモクラシー』という錦の御旗の下、まるで未開の蛮族を文明化してやるような驕りが、先進国側になかったとはいえない」「−罪もない子をたくさん餓死させた上、ご丁寧に爆弾を振りまいて殺傷し、いまさら教育支援だの、医療支援だのあるものか。人の命を何と思っとるんだ−これが偽らざる心情だった」と批判している。(「アフガン復興支援ブーム」)そして、西側主導の「アフガン復興」、その主要な内容となる難民の帰還問題が失敗するであろうことを見越していたかのようだ。当時、ブルカを脱いだ女性が自由の象徴として、さかんにマスメディアで報道された。このようなイメージのみが喧伝され、深刻な飢餓は取り上げられなかった。中村医師は、アフガンにおける最大の問題が、「砂漠化による農村の崩壊」であり、「簡単に言えば、みなが食えなくなったということである」と見ていた。アフガンの農村の崩壊については本書の中でも詳しく論じられているが、砂漠化の進行で耕地が極端に減り、主に農村部から出稼ぎ難民が急増し、2000年以降自給率は60%を割っていた。このような理解があり、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が始めた「難民帰還プロジェクト」なるものが、早々に破綻せざるを得ないことを当初から感じていたことを明確に述べている。アフガン難民数は、農村の荒廃がさらに進んだ結果、増大していた。これが「復興支援」の実態であった。

「復興ブーム」と「援助ビジネス」への徹底した批判

 自らの利権のための事業を実施する海外の援助団体に対する批判も容赦ない。彼らは、援助をビジネスとして割り切り、高慢な態度で、自らの価値観を押し付けるやり方であった。まさにそのような様々な援助に対してアフガン民衆は、「人目を引く道路沿いに『灌漑プロジェクト』、「住宅プロジェクト」などと、大きな看板が競うように立てられたものの、住民は屈辱的な思いで眺めていた」(「アフガン復興支援ブーム」)ことを報告している。援助資金の恩恵にあずかるのはカブールのみで、それとて特権階級の中に消え去り、その首都カブールでは、外国人相手の売春が横行し、空爆で稼ぎ手を失った寡婦達のこじきが増える、高級ホテルの間近に荒れ果てたスラムの海が広がっている、このような実態を指摘している。映像が報じた「復興するアフガン」は、主には外国人が出入りしやすい首都の一部だけであり、圧倒的多数の民衆が暮らす農村地帯の窮乏については、思いを馳せることもないのが実態なのである。しかも、現カルザイ政権には、援助の用途を差配する資格を与えられていないのだ。援助のもたらした問題はこれだけではない。「復興ラッシュ」の結果として物価が高騰し、インフレが激しくなったというのだ。一例が紹介されているが、カブールの事務所家賃が40ドルから2500ドルへと、何と短期間に60倍以上も跳ね上がったというから驚きだ。(「カブールからの撤退」)当然、貧しかった人々はさらに物が買えなくなり、生活はますます苦しくなる。援助が人々を苦しめる、このような倒錯した事態が現地で進行しているのである。「アフガン復興会議」を主導した日本はこの事態に責任を負っている。どのような援助が望まれるのか。中村医師は、後の章の中で明確に指摘している(「『協力』とは」)。「今、国際支援の全体的な色調を眺めるとき、途上国の立場よりも先進国が支援内容の是非善悪を決めてしまう傾向が強くなってきた気がしてならない」。必要なことは、「現地の人々の立場に立ち、現地の文化や価値観を尊重し、現地のために働くこと」であると。それはまさに、無私、無償の精神である。プロのNGOが闊歩し、ひも付き援助に露骨に国益を反映させる西側諸国による援助の実態は、その理念とは対極の存在である。
 中村医師は、ボランティアという新語にはなじめないとして、現地ワーカー、日本人ワーカーという言葉を使う。言葉の一つ一つに気骨を感じる。彼は、「よい思い出になりました」などといって去っていく日本人ワーカーらに「思い出作りのためにアフガン支援をやっているのではない」と物見遊山気分の来訪者を厳しく批判する。

 西側の援助団体がカブールに殺到する中、ペシャワール会は真に医療が必要な地方への診療活動の拡大に乗り出した。しかしながら、長年にわたり多くの民衆に支持され、感謝されてきたPMSの活動の根幹が、「復興ラッシュ」によって存続できなくなったというのである。(「最後の訪問」)「PMSの医師が高給(PMSの10倍の例もあったという)で他の援助団体に引き抜かれていったこと。その結果、医師が不足した。米軍の占領支配とセットなった住民懐柔を目的とした民生政策に組み込まれた結果、援助団体の活動が攻撃の対象となり、安全を確保できなくなったことあげられている。そしてついに2005年1月、PMSのダラエビーチ、ワマの診療所からの撤退を余儀なくされたという。PMSは、援助団体がカブールに集中するのを計算に入れ、2002年4月にカブールの5つの臨時診療所を閉鎖し、真に医療を必要としている東部地区農村地帯に活動を集中してきたが、一時撤退を余儀なくされた。一時撤退ではあるが、再開の目途すらも立たない、苦渋の選択であった。その時の気持ちを次のように語っている。「・・・・15年間の労苦に思いを馳せ、生木をさかれるような感情をぬぐえなかった。同時に、心ない軍事活動や外国団体の場当たり的なやり方に嫌悪感を抱かざるを得なかった。住民たちは悲しみ、PMSによる診療再開を求める陳情が、ひっきりなしにジャララバード事務所に届けられたが、「今は待て」としかいえず、内心穏やかではなかった」。

大旱魃と向きあった現地の活動 用水路建設

 第三章「砂漠を緑に−緑の大地計画と用水路建設開始」以後が、本書主要な内容である用水路建設をめぐる報告である。中村医師のアフガンの現状認識「農村の回復なしにアフガニスタンの再生なし」、この必然的帰結として、大規模水利事業が開始されることになる。読み進めていく中で、これまで折に触れて問題にされてきた旱魃の構造的要因=「地球温暖化」が浮かび上がってくるとともに、この用水路建設という事業が、この巨大な敵との戦いであることが分かる。

 用水路建設は、農業の大規模な復興として2002年3月の段階から計画策定が始められたが、徐々にではあるが、深刻な認識がそこに加わっていった。PMSの活動として別著『医師 井戸を掘る』(2001年10月発行)に象徴されているように、医療活動と並び農村復興の対策として2000年から井戸掘り、カレーズの修復にも大きな力が注がれてきた。しかしながら本書の中でも指摘されているように、早晩に、地下水の枯渇 カレーズなどの地下水利用の灌漑は限界に達していることを認識するようになったという。そしてそこからの必然的帰結−残るは地表水の活用−用水路建設なのである。長期にわたって継続する旱魃によって農村を捨てる難民を増え続ける中、後には引けない思いで事業が始められた。しかも、「地球温暖化」なる、不可逆であまりに巨大「自然現象」が相手とあっては、持して再び元の環境に戻ることはありえない。アフガンでは、万年雪が解け出し大地を潤してきた。万年雪は巨大な貯水槽の役割を果たし、それが大地、地下の豊かな水源となってきた。しかしその万年雪が年々減少し、夏の稜線は4000メートル近くまで上って枯渇寸前であるという。しかし降雪がなくなったというわけではなく、問題なのは、せっかくの積雪が温暖化の影響によって、春から夏にかけてあっという間に消え去ってしったことにある。近年は、これに少雨が重なり記録的な旱魃が発生していたのだ。このような「地球温暖化」といった要因と少雨が重なり、アフガンの大地が干上がってしまったのだ。

 2003年3月12日には計画が宣言され、3月19日には、着工式が開始された。この日はイラク攻撃の前日に当たっている。新たな事業に挑むにあたり、その時の心意気を、中村医師は次のように述べている。「アフガン空爆の時と同様、日米同盟による『国益』を正当化し、(日本は)同盟国として事実上参戦した。  ・・我々の事業は、戦争という暴力に対する『徹底抗戦』の意味を帯びた」。そしてペシャワール会は、資金、人員のすべてを、用水路建設に傾ける大きな、新たな挑戦を開始したのだ。

苦難な事業

 現地における用水路建設をめぐる内容は、本書に添付されている「用水路概略図」を片手に、難解な河川工学に関する知識を総動員しながら読み進めていくと非常に面白い。あたかもその作業は、中村医師、現地ワーカー、アフガン人ワーカーの苦難な事業を追体験するようなものある。牙をむく自然との闘い−クナール川の増水、洗屈。クナール川はヒンズークッシュ山脈の降雪を水源とし、インダス河の上流にあたる。夏は大量の雪解け水によってあふれ、その水量は侮れないものとなる。降雨とともに発生する土石流。アフガンの山肌は保水力の乏しいむき出しの岩石塊であり、少雨であっても土石流が発生し、襲いかかってくる。巨大岩盤との闘い−ダウード政権時代にこの地域で用水路計画が持ち上がるが、この巨大岩盤を前に用水路建設を断念したのだ。(結局、この岩盤を迂回する方策が取られた。)アフガン人ワーカーの手抜きが原因で、工事が深刻な事態に陥ることもしばしばだ。
 ここで描かれている中村医師は、厳しい現場監督であり、ただただ河川に憑りつかれた一人の人間である。この事業が、現地アフガン農民の命にかかわる問題であるからこその責任感、緊張感がひしひしと伝わる。中村医師の重圧の一例、取水口決壊の危機(ここが決壊してしまうと、農村が全滅する)を前に、このまま死んでしまいたいとも思ったというが紹介されているが、苦難とともに人々の生活、生命をかけた重大な事業であることをあらためて感じた。また、機械力によって自然をねじ伏せる近代工法とは異なり、「『素人』と地元住民が集まって智恵を絞り、汗を流して、行なわれた事業であった」こと、「見た目は粗雑でも、長く維持管理が住民自身の手でできなければならない」とする合理的姿勢に貫かれた姿勢に共感する気持ちが強く沸き起こってきた。このような、資金、動力が限られながらも現地の実情に合致した、また日本、アフガンの先人たちの知恵に謙虚に耳を傾け、やり遂げられたこの事業は、「援助」のあり方に大きな問題提起を行っている。広大な土地への水の供給を可能とした、真に民衆にとって必要な事業をやり遂げた中村医師、現地ワーカー、アフガン人ワーカーの並々ならぬ労力に敬意を感じるとともに、彼らの人間味溢れる心の交流に心が暖かくなるような感覚にさせる。この事業は、一市民、一市民団体が、軍事力を弄ぶだけしか能がない大国ではできなかった、真に民衆にとって必要とされるたものをやり遂げたのである。ながき将来にわたり、アフガン人に語り継がれるものであるに違いない。変貌した現地の様子を紹介する写真の数々――土と岩がむき出しの大地が、緑に大地に変わっている、子供たちが笑顔で用水路を歩いている、踊る農民たちの姿――、これらは、彼らの事業の成し遂げたものの大きさを、何よりも雄弁に物語っている。

アフガンの地から地球温暖化を訴える

 用水路建設の作業は、アフガンの地における「地球温暖化」の発見でもあった。中村医師はアフガンにおける旱魃の進行と地球環境の結びつきを次のように語っている。「春先に雪解け水が以前より増えた後に、川の水量が落ちていた。この旱魃は動揺しながらも常に進行している」、「恐ろしいことに、地下水さえもが涸れつつあることは、過去六年間の井戸の水位下降、カレーズの水位の激減で明らかであった」。そして「地球温暖化!・・・ここまで深刻な影響が出ているとは、実感がわかなかった」と。
 いつの時代においても、環境問題の犠牲者は弱者である。アフガンの地において、すでに地球温暖化の影響が、旱魃という形をとって、猛威を振るっているのである。「『環境問題』という語の響きは、目前の旱魃を見てきた者にとってはいくぶん生ぬるい。このアフガニスタンという世界の片隅だけで、既に数百万人の人々が生存する空間を失っているのである。・・・戦争どころではなかったのだと心から思った」。日本は、アフガンへの戦争に協力した。その意味で、アフガンでの戦火とその後の占領支配における民衆の犠牲に対して責任を負っている。しかしまた、炭酸ガスの排出を通した地球温暖化によって、アフガン民衆を苦しめているということになる。どうやら私たち日本人は、日々の生活ではアフガンとの接点を実感することはないが、幾重にも加担者としての立場であることを突きつけられた思いで一杯である。
 地球環境問題を捉える視点として、田中正造の生き方について触れられている。足尾鉱毒事件が発生した当時、「祖国を守るためには多少の犠牲はやむを得ない」と多くの人々は考えたであろう。今でこそ、悲惨な公害問題の原点として位置づけられているのだが。しかし、田中正造の訴えは、過去のものであろうか。中村医師は私たちにこう呼びかける。「それから100年以上経った今日、アフガニスタンの現状から世界の先進諸国に、同様の叫びを発するのは時代錯誤だろうか」。そして、緩慢に進行する地球温暖化を前に、「経済発展のためにはやむをえない」、「生活水準を下げろというのか」等々、あの手この手の言い訳を並べる先進国の人々に対して、厳しい批判を浴びせかける。「私たちは近代以前の陋習や迷信を笑う。だが、今や明らかになりつつあることは、近代化もまた、新しい形の陋習が古い形の陋習に代って、人間の精神を支配するようになっただけということである。カネと武力の呪縛は今や組織化された怪物である。人は時代の精神的空気から自由ではない。しかし、どんな時代でも事実を見据え、時を越えて『人があるべき普遍性』を示す人々はいる。様々な意見が飛び交う中で、私たちにたりないのは、田中正造の『涙』と『気力』である」。時代、境遇が異なるとはいえ、私には、中村医師の姿が田中正造に思える。中村医師のアフガンからの訴えは、「物質的豊かさ」、「繁栄」、「利便性」を提供する"見えざる手"とそれを享受し「幸福感」に浸る私たちに対する叱責にも思える。

偉大な事業に挑んだ中村医師その人

 アフガンにおける事業は、たしかに多くの善意によって成し遂げられてのであろう。本書の随所において、多くの協力者、資金提供者に対する感謝の言葉は述べられている。しかし、アフガンで成し遂げられた事業での中村医師の存在は際だっている。
 アフガンの大地で格闘しながらも、日本に残された脳腫瘍に苦しむ息子を思い、葛藤する中村医師の心中には涙を誘われる。「・・・『あと一年以内』と言われていたのである。左手の麻痺以外は精神的に正常で、少しでも遊びに連れて行き、楽しい思いをさせたかった」。(「弔いを果たせ」)しかし、2002年末、十歳で亡くなった。それだけではなかった。2005年5月、母親代わりでもあった姉が亡くなった。子ども、姉を相次いで亡くしながらも中村医師をアフガンの大地に駆り立てたのは何だったのか。
 中村医師のアフガンにおける活動を、何と言い表せばいいのだろうか。「偉大なる人類愛」、「溢れんばかりの慈愛」。おそらく中村医師は、このような大袈裟な言葉を拒否するだろうと思う。「人間として当たり前のことをしているだけだ」、「支援を必要としている人々に、当たり前のことをしているに過ぎない」このように主張するに違いない。しかし、弱者の立場に身を置き、ともに働き続ける中村医師の姿は、私たちが決して失ってはならない矜持、気概、人間としての原点を教えてくれる。私たちも襟を正す思いを感じるとともに、反戦運動に携わるものとして、日本における反戦平和の課題を真摯に突き詰め、行動する新たなエネルギーを得た。

最後に

 米軍とISAFによるアフガン支配は、泥沼に陥っている。中村医師はアフガンの現状について、次にように指摘している。「アフガン米軍にとっての最大の悩みは、敵味方の区別がつかないことにある。タリバーン的な文化的土壌までは、抹殺できない。北部同盟の勢力が、『新法律では治められない』として、事実上タリバーン法を復活させている。2005年9月、カブールの中央政府の法務省もこれにならった」。たとえ国土を米軍、ISAFに国土を支配されようとも、民衆の心までは支配できない。もはや彼らが勝者になることはできない。今や米軍とISAFの駐留軍は、4万人を超える規模へと急拡大している。イラク、アフガンの二戦線を維持することが苦しくなった米軍は、アフガンにおける負担を軽減しようと欧州諸国に増派を要請している。しかし、要請を受けた各国は、負け戦にさらに足を突っ込むことに慎重になっている。そのような情勢の中、自衛隊がインド洋上に派遣された。泥沼に陥ったブッシュを救うためのものである。それは、米軍とISAFの軍事支配の延長に手を貸すものであり、彼らによるアフガン民衆の占領支配と虐殺行為に手を貸すことでもある。
 繰り返しになるが、『医者、用水路を拓く』は多くの示唆を私たちに与える。また副題の「アフガンの大地から世界の虚構に挑む」には、非常に多く内容が込められている。中村医師が何に「挑み」、そこから何を訴えようとしたのか。本書を読んだ人の心の中に、それぞれの思いが刻まれたはずだ。中村医師が問いかける「私たちが持たなくてもよいものは何か、人として最後まで失ってはならぬものは何か」、この「何か」に真摯に向きあっていきたい。