[投稿]映画『パラダイス・ナウ』を見て――
自爆(=死)に「生きがい」を見出さざるをえないパレスチナ青年のリアルな描写

 パレスチナ人の二人の青年が自爆攻撃に向かう状況を克明に描写した映画『パラダイス・ナウ』(監督&脚本:ハニ・アブ・アサド)は、2005年に製作され、06年にゴールデングローブ賞最優秀外国語作品賞を受賞したのをはじめとして数多くの賞を受賞している。07年5月、大阪シネ・ヌーボォで上映されたが、そのときには見に行くことができなかった。最近DVDを入手して見ることができた。以下は、その感想である。
(映画の結末までが明らかになっているので、映画を見る前に結末を知りたくはないという方は、以下を読む前にまず映画を見てください。)
パラダイス・ナウ公式サイト http://www.uplink.co.jp/paradisenow/

『パラダイス・ナウ』を見て

 この映画は、自爆攻撃を決意した二人のパレスチナ人青年の行動と心理的な葛藤を描くことを通じて、パレスチナの置かれた状況がどれほど絶望的なものであるかをあぶりだしている。

 ナブルスの自動車工場で働く二人の青年サイードとハーレドは、鬱屈した貧しい生活を過ごしていた。二人は幼馴染で同じような境遇にあったが、ハーレドはその苛立ちを時には物売りの少年にまで向けるのに対して、サイードはどちらかといえば寡黙である。
 ある時、サイードは自動車の修理を通じて、外国に留学していて帰ってきたばかりのスーハという女性と親しくなる。スーハの父親はパレスチナの英雄として死んだ人物であった。しかし、サイードの父親は密告者として仲間に処刑されたのであった。

 ある日、彼らが所属している武装組織から、自爆攻撃の実行者に選ばれるという連絡が入る。ハーレドは名誉なことと意気揚々とするが、サイードは複雑な心情をかかえたまま、母にこっそり別れを告げ、スーハのところにも預かっていた自動車のキーを返しにいく。スーハに知れないように真夜中にそっと訪れたにもかかわらず、スーハは起きてサイードを部屋に招き入れる。一人暮らしの女性が夜中に男性を自分の家に入れるという大胆な行動をとったにもかかわらず、サイードは彼女に触れようとしない。

 決行の日、サイードとハーレドは、組織のアジトで、黒いスーツに着替えて髪と髭を短くそり、爆弾を腹に巻かれる。いよいよ決行の時が迫る。しかしながらナブルスを囲むフェンスを越えた時、邪魔が入り、二人は離れ離れになってしまう。お互いがお互いを探す中、サイードとハーレドはそれぞれにスーハと出会う。
 彼らが自爆攻撃を決行しようとしていることを悟ったスーハは非暴力を説くが、その言葉は彼らを取り巻く現実を変える力を持たない。
 「イスラエルに殺す理由を与えてはいけない」とスーハは言う。しかし、この言葉は外国で暮らしてきたスーハとパレスチナで暮らす彼らとの間の深い溝を示すものでしかなかった。パレスチナ人は殺される理由がなくても殺されてきたのだから。

 サイードとハーレドは、武装組織によってもう一度決行の意思を確認される。当初はハーレドの方が積極的であったのに、彼には動揺が見られる。そして、サイードは逆に断固たる意思を表明する。現地で決行を前にしてハーレドは突然態度を翻し、自爆攻撃を中止しようと言い出す。サイードは表向きそれに同意し、ハーレドとともに二人を連れてきた乗用車のところまで戻る。しかし、そこでサイードは、ハーレドだけが車に乗り込んだ時に戸を閉め、自分は残ってハーレドだけを帰すという行動をとる。
 最後のシーンは、イスラエル兵士が多く乗っているバスの中のサイードがアップになり、映像が真っ白になって終わる。

 最後にハーレドはなぜ態度を翻したのだろうか。その心理的な道筋は映画の中では必ずしも明確にされていない。スーハの言うことが正しいと考えたからであろうか。私は、そうではなく、スーハとサイードが愛し合っていることをハーレドが知ったからだと思う。自分たちには自爆攻撃の道しかなくとも、スーハと愛し合っているサイードには別の可能性があるとハーレドは考えるようになり、友人のために決行を中止したに違いないと思う。サイードを現地に残し帰還せざるをえなくされた時のハーレドの絶望的な表情には、自爆攻撃よりも非暴力という戦術の方が正しいという確信はつゆほども見られない。むしろ、自分の生をもてあまし、自暴自棄な死を選ぶであろうという予感すらさせられる。
 重い映画であったが、パレスチナに生きる人々のことを考えずにはおられなくさせられる力を持つ映画である。 

2008.3.16.大阪 H.N