(翻訳) 元レバノン民兵将軍、車で爆殺

by フセイン・ダクロウブ


 ベイルート、レバノン(AP)−−元レバノンのキリスト教徒民兵将軍で、レバノン内戦中に、二つのパレスチナ人難民キャンプでの1982年の虐殺に深く関わっていた人物が、昨日木曜日(1/24)、車の爆発で殺された。3人のボディーガードも死亡した。

 これまで知られていなかったグループが犯行声明を行い、レバノンへのシリアの干渉に抗議するためにエリー・ホベイカ45才を殺害したと述べた。ホベイカは、シリアの同盟者だった。

 1975年から1990年まで続いたレバノン内戦の初期、ホベイカは、イスラエルと同盟を組んでいた。彼は、レバノン右翼民兵を率いていた。それは、イスラム教徒の多い西ベイルートにあるサブラとシャティーラのパレスチナ人難民キャンプに乱入し、幾百人の男女子供を虐殺した。
 当時イスラエル軍駐屯地がこの難民キャンプのすぐそばにあった。この虐殺事件についてのイスラエルの調査委員会は、当時の国防相アリエル・シャロン(現首相)がこの殺戮に間接的に責任があるとした。
 1985年までには、ホベイカはシリアと同盟を組むようになっていた。彼は、それ以来昨日死ぬまで、シリアと緊密な関係にあるレバノンの有力者であった。

 レバノン警察によれば、ホベイカと彼のボディガードは、木曜の午前9時40分、彼のスポーツカーに乗り込んだ時、爆発して死亡した。その爆発で、ほかに6人の負傷者が出た。
 調査官によれば、爆発は近くに駐車していた車のなかで起こった。爆発はベイルートとダマスカスを結ぶハイウェーからちょっとはずれたところ、ベイルートの東5キロ地点で起こった。

 犯行グループは、自らを「自由独立レバノンをめざすレバノン人」と呼び、キプロスの西側ニュース局事務所にファックスで犯行声明を送ってきた。その犯行声明は、ホベイカを「シリアの代理人」と呼び、レバノンに対するシリアの干渉に抗議していた。
 この声明の信憑性は確証されていない。

 イスラエルの関与・責任を指摘する声もある。
 レバノン大統領エミール・ラフードは、声明で、サブラとシャティーラの虐殺についてシャロンに対する戦争犯罪の裁判がありうる状況になっているが、ホベイカはその裁判で証言できないように殺されたのだと述べた。
 「我々は、イスラエルとその代理人がこのテロ行為の背後にいると確信している。」とレバノン内相エリアス・ムーアは、木曜の夜の記者会見で述べた。それ以上詳しくは述べなかったが。

 イスラエルではシャロンが、イスラエルはこの暗殺とは何の関係もないと述べた。
 「私は単に我々の観点から述べているだけだ。我々は、この件に全く関係していない。またこの件はコメントに価しない。」とシャロンは記者たちに述べた。

 調査官ジーン・ファードによれば、22ポンドのTNT火薬が近くのセダンの中に置かれていてリモコンで爆発させられた。その爆発が、ホベイカの車の中にあった4つのダイバー用酸素タンクに点火して爆発力を増大させた、と調査官は述べた。
 「炎が立ち上り、車が空中に舞い上がって炎上し、人々がビルのなかで悲鳴を上げた。」と、通りを隔てて目撃していたアッサド・カイラーラさんは言う。

 ホベイカは、1982年9月のサブラとシャティーラの虐殺のために汚名を着ることになった。
 当時、民兵のリーダーで大統領選当選者バシール・ゲマイエルが爆弾で暗殺され、最初それがパレスチナ人によるものとされた。この暗殺の後、レバノンの右翼ファランゲ党と結んでいた民兵は、この難民キャンプの攻撃を行ったのである。シリアもゲマイエルの暗殺について責任があるとされた。ゲマイエルは、イスラエルと同盟を結んでいた。だが彼の死の真相は今だに明らかにされていない。
 1983年のイスラエルの公式調査は、シャロンがこのキリスト教民兵の殺戮に間接的に責任があると述べた。それはシャロンの公的立場からの退出を勧告し、シャロンは国防相を辞任した。
 「我々の観点では、レバノンでの事件に何らかの関係がある者はすべて、もし武装したファランゲ勢力がイスラエル軍の具体的効果的な監視監督なしに難民キャンプに入れば、虐殺が生じるという懸念を感じたはずだ。」と委員会は書いた。

 シャロンは、現在、虐殺に生き残ったパレスチナ人のグループによってベルギーの裁判所に訴えられている。告訴は、昨年6月に訴状提出され、他国の外国人の裁判を認めたベルギーの法に則りシャロンを人道に対する罪で起訴することを求めている。この告訴は、ホベイカの役割については述べていない。
 ホベイカは、7月に、訴訟で進んで証言すると述べた。昨年のBBCのインタヴューでホベイカは次のように明言した。「私は戦争犯罪人ではない。私は自分を戦争犯罪人とは思わない。」と。
 ベルギーの控訴裁は、シャロンを裁くかどうかを3月に決定するとされている。
 サブラとシャティーラについて、ホベイカは、かつてこう言った。「私は、命令を遂行していたのだ。」と。

 レバノンでは、彼の殺害に、多くの人が素早くイスラエルを非難した。
 「起こった事件に対する私の最初の評価は、ベルギーで行われるこの歴史的な裁判で、まちがいなくイスラエルは検察側証人を望まないということだ。」とレバノンの難民問題相マルワン・ハマデーは、公式訪問先のヨルダンで述べた。

 イスラエル外務省報道官ヤファ・ベン・アリは、イスラエルは関与していないとして、AP通信に次のように述べた。「イスラエルはこの件に全く関係していない。また、証拠のないさまざまな主張を嫌悪感をもって拒絶する。」と。

 1993年のAP通信とのインタヴューで、ホベイカは、戦争当時の彼の役割について物思いにふけった。
 「戦争の時にやったことで、私は自分の将来をいくぶん損ねたと思う。私は、戦争中に自分がやったことの重荷をまだ背負わねばならない。私はたくさん悪行をやった。」と彼は述べた。
 しかし彼は、自分の過去はレバノンでの自分の経歴を妨げはしなかったと述べた。「この国では、あらゆることがありうる。私は、それがたやすく実現するわけではないことは知っている。」と彼は言った。

 ホベイカは、10代から武器をとって闘い、パレスチナ人と戦うためにファランゲ党の民兵に加わった。当時ベイルートのキリスト教徒地区でパレスチナ人難民キャンプが拡大しつつあった。24才までに彼は、レバノン軍の知的部隊を率いていた。そして大胆で無慈悲な司令官としての名声を獲得していた。
 レバノンの15年の内戦が1990年に終わった後、ホベイカは、戦いによって難民化した100万人のレバノン人を再定住させることと、戦闘で不具化した13500人の犠牲者の面倒をみることを仕事とする政府要人に任命された。
 ホベイカが一つの極端からもう一つの極端へと移ったのは、それが最初ではなかった。
 ホベイカのように、レバノンのたいていのマロン派キリスト教徒は、イスラエルと結びついた。彼らは、イスラエルをシリアに立ち向かうための強力な友人とみた。
 シリアとイスラエルは、この地域の二つの主要な勢力で、レバノンをめぐって長年ライバルであった。シリアは、1976年以来、表向き平和維持軍として、南部レバノンに軍部隊を維持してきた。
 1985年までに、イスラエルが彼やレバノン民兵の他の指揮官をパレスチナ人や左翼やイスラム教徒と戦わせようと訓練した5年後には、彼はシリアの同盟者になっていた。彼は死の時まで、シリアと密接な関係にあるレバノンの有力者であった。

 1991年に議会が恩赦の法案を通して、彼は、内戦中に行った犯罪についての恩赦の利益を受けた。
 ホベイカは、1992年と1996年に議員に選ばれたが、2000年には議席を失った。彼は、大統領をめざすとみなされていた。

(翻訳:事務局 YK)



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