反占領・平和レポート NO.40 (2004/6/18)
Anti-Occupation Pro-Peace Report No.40

シャロンが政権延命の手段として持ち出し弄んだ「ガザ撤収案」
−−実態はガザ地区の完全封鎖=“巨大強制収容所”化/その裏面は「分離壁(Wall)」による西岸での領土併合の強行−−
Sharon's “Disengagement Plan” as the Means to Prolong the Life of the Government −− Gaza Strip : “a Giant Prison Camp”, Cut off on All Sides / Coinciding with the Annexation in West Bank by Wall on a Large Scale −−


(1)はじめに−−イスラエル平和運動「グッシュ・シャロム」が「ガザ撤収案」を厳しく批判。
 昨年末、にわかに降って湧いたように持ち出された「ガザ撤収案」は、始めから終わりまでシャロンの延命のための道具でした。そのドタバタ劇のなかで、シャロンの本質が次第に透けて見えるようになってきました。
 シャロンの「ガザ撤収案」をめぐるドタバタは、6月6日の「閣議承認」でようやく一区切りとなりましたが、大手メディアと国際世論がこれに関心を集中している間に、ガザ地区ではラファへの規模を抑えた再侵攻とさらなる家屋破壊が繰り返され、さらに西岸地区では「分離壁(Wall)」の建設が強行されています。

 前代未聞のパレスチナ民衆虐殺を平気で遂行するシャロン、その最近の代表的な現れであるラファの大虐殺と大破壊、その血に飢えたシャロンがまるで「平和の使者」気取りで持ち出した「ガザ撤収案」。シャロンの与党リクード党で拒否され、代わって労働党から、さらにはその労働党系の平和運動団体ピースナウが支持した「ガザ撤収案」。イスラエルの平和運動の内部をある意味で混乱に陥れた「ガザ撤収案」。−−シャロンがクセ玉として持ち出したこの「ガザ撤収案」は、イスラエル内外の、また国際政治の政治的焦点として注目の的になってきました。
 果たして、シャロンにとってこの「ガザ撤収案」の真の狙いは何なのか。彼の描く内外政策の全体像はどんなものであり、その中でこの案はどんな位置付けにあるのか。私たちも、つかみかねてきた彼の狙いと思惑を暴き出したいと思います。

 今回のレポートでは、「ガザ撤収案」を中心としたここ半年のイスラエル国内の動きを克明に解説した長文論説を翻訳紹介します。イスラエル平和運動の主力の一つ「グッシュ・シャロム」のスポークスマン、アダム・ケラー氏が編集している「ジ・アザー・イスラエル(The Other Israel)」という季刊誌がありますが、その最新号(2004年5月)の「運命のギャンブル(The Doomed Gamble)」と題された編集論説です。かなり長いのですが、イスラエル国内の政治状況が非常によく分かる興味深いものです。昨年10月に「ジュネーブ合意」が公表されたころから、5月2日にリクード党員投票でシャロンの案が否決された直後までが扱われています。

 また、もうひとつウリ・アヴネリ氏の論説「ブッシャロン」も合わせて翻訳紹介します。これは、アブグレイブ刑務所のおぞましい虐待・拷問が暴露され始めたときに書かれたもので、ブッシュとシャロンが骨がらみで一蓮托生のものとして没落の過程をたどりはじめたことを論じています。

 まずは、それらの要約を兼ねて、また2000年秋に始まり現在に至る事態を今一度ふり返りながら、シャロン政権の本質について考察してみたいと思います。


(2)シャロン型イスラエル・アパルトヘイト体制の構築:帝国主義的領土併合、そのために「中東和平」をつぶし「戦時」を維持すること。
 シャロンの「ガザ撤収案(Disengagement Plan)」は現在、欧米の大手企業メディアでも日本のNHKや企業メディアでも、和平への第一歩であるかのように、歓迎ムードで報じられています。しかしこれほど事実に反するデタラメなことはありません。「ガザからの撤退」は「撤退」でも「和平」でも何でもありません。もちろん歓迎や賛成など全くできません。

 結論を先に言えば、彼の「ガザ撤収案」とは、壮大なパレスチナの植民地化、シャロン型イスラエル・アパルトヘイト体制の構築なのです。ここに翻訳した「運命のギャンブル」の筆者はこの案を、ブッシュを真似たシャロンの「ユニラテラリズム(単独行動主義)」と評しています。
 主要な内容は2つにまとめることができます。ひとつは、西岸での「分離壁(Wall)」建設強行による大規模領土併合の煙幕として「ガザ撤退」を持ち出しているということです。もうひとつは、「ガザ撤退」そのものがまやかしで、ガザ地区の完全封鎖=“巨大強制収容所”化がその内容であるということです。これのどこが「撤退」「和平」なのでしょうか。ふざけるにもほどがあります。このような内容をもった「ガザ撤収案」が政権延命の道具として使われ、さらにシャロンとその息子たちの汚職疑惑隠しという自己保身のために使われてきたのです。

 シャロンは、グリーンライン(1967年国境線)を基本線としてパレスチナ国家を樹立する和平案に、一貫して反対してきました。現在シャロンが強行している「分離壁」の現実からすれば、なぜ反対してきたのかが明瞭にわかります。西岸地区の最も恵まれた土地資源を押さえている巨大入植地をイスラエルに併合すること、まだ残っている豊かな土地を奪い尽くしてイスラエル領にしてしまうこと。グリーンラインに基づいてパレスチナ国家が樹立されれば、それはできなくなってしまいます。

 シャロンが一貫して主張してきたことに、「交渉の相手がいない」というのがあります。しかしこれは、今となっては明らかです。交渉の相手が本当にいないのではなく、「交渉の相手がいるという状況を絶対につくらせない」というシャロンの決意を表明したものにほかならないということです。つまり、主権国家としてのパレスチナ国家の樹立を何が何でも阻止するということです。したがって、主権国家間での交渉によって事が決定するのではなく、軍事的力関係によってすべてが決する状況を維持するということです。そういう発想の背景には、世界一の軍事大国アメリカの全面的支援を得て、圧倒的な軍事的優位を確保しているという現実があるのは、言うまでもありません。

 現在生起している事態は、直接的には2000年9月末に生じた事件に端を発しています。「オスロ合意」に基づくパレスチナ国家樹立のための最終合意が、この年の夏、キャンプデービッドで決裂した直後の時期をとらえて、シャロンがエルサレムのイスラム教聖地アル・アクサ寺院に挑発的に足を踏み入れました。それに抗議するパレスチナ人民の非暴力デモに、イスラエル警察・軍が武力弾圧し、まやかしの「和平」=「オスロ合意」に対するパレスチナ人民の怒りがついに爆発しました。第二次インティファーダ=アル・アクサ・インティファーダの始まりです。

 「オスロ合意」のもとで進行していた事態は、真の和平とは程遠い、イスラエル型アパルトヘイト体制の構築でした。しかしそれすらも、シャロンにとっては許容できないものでした。将来の領土併合を見越して入植地建設に邁進してきたのはシャロンでした。入植地を少なくとも一部は解体してでも占領の重荷をおろしたいと考えた労働党政権に対して、リクード党シャロンは、入植地建設によって確保してきた「領土」を併合しないではおかない帝国主義的欲求と衝動にかられていました。
 2002年春には、パレスチナ人の反占領闘争を血の海に鎮め、武力でもって「オスロ合意」で形成されたパレスチナ自治政府を破壊しようとしました。

 2003年春から夏にかけて、イラク戦争での米英軍の圧倒的勝利を背景に、ブッシュ政権は中東和平を演出しようとしました。「ロード・マップ」です。そのもとで、2003年6月はじめ、アカバ会談で米ブッシュ大統領が仲介して、イスラエル首相シャロンとパレスチナ首相アッバスが握手し、「フドナ(停戦)」も実現しました。しかしそれは、シャロン政権による執拗な挑発によって、3か月もしないうちに崩壊させられました。

 その後にやってきたのが「ジュネーブ合意」です。3年にわたる流血の連鎖=「戦時」に疲弊してきたイスラエル国民が、再び和平を渇望しはじめ、ようやく実現した停戦が崩壊して、2003年秋の段階では、和平への渇望は抑え難いものとなっていました。そこへ持ち出された「ジュネーブ合意」は、イスラエル国内と国際社会で急速に支持を広げました。米政府でさえ、国務省を中心にシャロン政権に取って代わる新政権を展望した可能性さえ感じられる状況が生まれました。危機感を募らせたシャロンがここで持ち出したのが「ガザ撤退」でした。

 ことここにいたって、シャロンの本質は、まぎれもないはっきりしたものとして表れています。つまり、あらゆる種類の「和平」をつぶし「戦時」を維持することです。それによってはじめて、豊かな土地からパレスチナ人を追い出し、そこの資源を略奪し、領土併合を行うことが可能になるからです。そのために、ハマスなどへの軍事的挑発を繰り返して、大規模な軍事行動が正当化されるような状況を意図的につくり出そうとしてきたのです。イスラエルに圧倒的に有利な和平案であっても、ことごとくつぶそうとしてきたのもそのためです。
※この間の事態の推移については詳しくは「反占領・平和レポートNo.30〜39」を参照して下さい。


(3)「エンクレイヴ(囲われた飛び地)」にパレスチナ人を閉じ込める「ガザ撤収案」。 
 「ガザ撤収案」についての6月6日の「閣議承認」は、シャロンの体面を保つためだけの、全く実質のないものでした。四段階に分けて行われるという「ガザ撤退」のそれぞれの実施段階ごとに新たに閣議の承認が必要であるというものです。これでは何も決定されなかったに等しいと言うよりほかにありません。おまけに、第一段階の閣議承認は「来春3月までに行われるだろう」というのです。これほどふざけたものであるにもかかわらず、日本の大手メディアは、「ガザ撤退が閣議承認された」と大きく報じました。シャロンは、イスラエル国内と国際社会の一部に一定の幻想をふりまくことに成功しています。
 しかし、だまされてはなりません。シャロンの「ガザ撤収案」は、前で述べたように、西岸での「分離壁(Wall)」建設強行による大規模領土併合の煙幕であり、ガザ地区そのものについては完全封鎖、強制収容所化にほかなりません。

 西岸における「分離壁」建設は、一昨年の秋ごろから本格化しました。昨年7月末、第一期工事が完了したとされ、10月初めに第二期工事が閣議承認されました。このルートがグリーンライン(1967年国境)から西岸地区へ大きく喰い込んで、大規模入植地をイスラエル領に取り込むものであることがはっきりしました。現地での反対闘争が激化し、国際的な支援連帯も広がり、国際的関心も高まりました。それが、国連決議とハーグでの国際司法裁判所による審理につながりました。
 西岸の入植地を取り込み、パレスチナ人の領土を西岸地区の40%にまで切り縮めて、パレスチナ人を「エンクレイヴ(飛び地)」に壁(Wall)で閉じ込めるというシャロンの計画は、国際的な非難の的となりました。「ガザからの撤退」は、この西岸での領土併合の煙幕としての役割を果たしました。国際的非難をかわし、イスラエル国内の和平への渇望に応えるかのような幻想をふりまく役割を見事に果たしたのです。

 「ガザ撤退」がシャロンによって吹聴され始めたのは、昨年10月に「ジュネーブ合意」が発表されてイスラエル世論が沸騰し、抑えられていた和平への渇望が一挙に噴き出してからです。政局の主導権を和平派に奪われないために、にわかに持ち出されたものです。その後、今年4月中旬の訪米のときまでに、その中身は何度も変わりました。結局行き着いたのは、“武断的和平派シャロン”による“勝利的撤退”を演出するための、いっそうの軍事的強硬策でした。ヤシン師、ランティシ師を相次いで暗殺し、ガザ侵攻を繰り返しました。なかでも特にエスカレートしたのは、ガザ地区南部エジプト国境のラファへの侵攻と家屋破壊でした。4月に訪米してブッシュに提示した案では、陸海空すべてにわたってガザ地区をイスラエルが軍事的に完全封鎖することが明記されています。シャロンのいう「ガザ撤退」は、ガザ地区の巨大軍事監獄化、強制収容所化にほかならないのです。


(4)策に溺れたシャロン、その没落の始まり。シャロンに賭けて面目を失ったブッシュ。
 「ジュネーブ合意」が公表されてからの2か月ほどは、毎週のように新たな和平案がイスラエル国内の新聞紙上をにぎわし、政府の無策が批判されました。しかし、極右をも含めた右派を掌握し現に政権を握っているシャロンが「ガザ撤退」をぶち上げた途端、まだ日程も具体的中身も定かでないにもかかわらず、「ジュネーブ合意」も含めたあらゆる種類の和平案は見向きもされなくなって、メディアの関心から消えていきました。効果はてきめんでした。これで「和平派左派」を抑え込むことができました。あとは具体的な中身について小出しにしながら、世論の注目を集め続ければよかったのです。

 しかし、今度は右派からの激しい批判にさらされました。それを抑え込むためには、“武断的”和平、“勝利的”撤退を演出する必要がありました。その上で、決定打はブッシュ政権のお墨付きを得ることでした。米政府側の反応は、当初は冷やかでした。イラク占領統治が破綻をきたし、大統領再選に暗雲がただよいはじめているときに、シャロンのギャンブルに付き合う余裕はなかったからです。シャロンは、腹心の顧問弁護士ワイスグラスをたびたび訪米させ、イスラエル外務省と米国務省という正規ルートを通さずに(シャローム外相はガザ撤退に強硬に反対していた)、ライス大統領補佐官との親密な関係を頼りにブッシュ大統領を説得しようとしました。「ガザ撤退」はブッシュ政権にとっても大きな外交的得点になると説得したのです。結局、ブッシュは国務省の反対を押し切ってシャロン案を受け入れる決断をしたと伝えられています。

 4月14日、2か月あまり延びのびにされたシャロンの訪米がついに実現しました。このブッシュ=シャロン会談は、ひとつの大きな転換点となりました。これまでの米国歴代政府は、表向きイスラエル=パレスチナの仲介者・調停者という体裁をとり続けてきました。国際法で許容されない占領地での入植活動とその延長線上にある領土併合については、容認しないというタテマエだけは維持してきました。しかし、今回はその仮面すらぬぎすてて、公然と入植地を既成事実として容認しました。さらに、パレスチナ難民の帰還権を公然と否認しました。あたかもパレスチナの全権を委任された代表ででもあるかのように振る舞いました。すべては、「ガザ撤退」を“歴史的快挙”と賞賛する中で行われました。これによってブッシュは、シャロンとの一蓮托生の骨がらみの関係をいっそう強固なものとしました。まさに「ブッシャロン(Busharon)」という造語がピッタリ当てはまります。シャロンは思い通りの展開に慢心し、ブッシュはうまくいくと思われたシャロンに賭けたのです。

 5月2日、リクード党員投票でシャロン案が約60%の反対で否決されました。その背景には主要に2つの事柄がありました。ひとつは、リクード党内に入植者を中心とする「ユダヤのリーダーシップ」という極右的党内派閥が形成され、次第に力を持ちはじめていたということです。もうひとつは、経済的苦境を背景として、第二次シャロン政権のネタニヤフ財務相のもとでネオコン的新自由主義に基づく緊縮財政が実施され、福祉、教育、保健の予算が鋭くカットされて、それが伝統的な貧しいリクード党支持者層をも直撃したという事情です。リクード党員の多くの実生活における経済的不満が、入植者たちの精力的な「ガザ撤退」反対のキャンペーンにそのはけ口を見出し、シャロン案の否決という形で表現されたのです。

 これによってシャロンの面目は丸つぶれとなりました。米ブッシュ政権が承認したことで不本意ながら賛成に回った有力者たちが、再び勢いづきました。ブッシュの面目も丸つぶれになりました。ブッシュには、それに加えてこの直後に、不名誉きわまりないあのアブグレイブ・スキャンダルが襲ったのです。


(5)パレスチナ・イスラエルの新たな闘いの胎動。
 「分離壁(Wall)」の第二期工事が本格化する中で、新たな事態が生じはじめました。第一期工事の段階での反対闘争は、全般的に流血の武力闘争が前に出ている状況のもとで、国際連帯運動活動家やイスラエル平和運動活動家が前に立ってパレスチナ現地住民を守る形が中心でした。しかし、第二期工事が始まり、壁のルートとなった村や町で一片の通達だけで次々と土地が一方的に接収され、オリーブの木が根こそぎにされ、畑がつぶされていく現実の中で、ついにパレスチナ住民たちが非暴力大衆闘争で前面に出はじめました。

 それが最初にはっきりした形で現れたのは、ラマラ西方のブドゥルス村での闘いでした。昨年11月に壁建設工事が開始されると、約1400人のブドゥルス村の人々は老若男女、子どもたちも含めて、村のすべての人が参加して抗議のデモを繰り返しました。イスラエル軍に催涙弾やゴム弾で何度追い散らされても、工事現場に戻ってきて座り込み、抗議のデモを繰り返しました。それを、国際連帯運動の活動家やイスラエルの活動家が支援しました。100人以上の負傷者を出しながらも2か月以上にわたる粘り強い村人たちの闘いによって、建設作業は中断を余儀なくされました。

 次いで今年2月、ハーグの国際司法裁判所で「ウォール」の審理が行われるころから、エルサレム北東のビドゥ村で反対闘争が激しく行われ、それに対するイスラエル軍の弾圧が激しさを増しはじめていました。ハーグのニュースがメディアから消えた直後に、抗議デモにイスラエル軍が発砲して非武装のパレスチナ人3人が射殺されました。しかし、ビドゥの村人たちはひるまず、住民全部がこぞって連日工事現場に出かけて、投石したり、ブルドーザーの前に座り込んだりしました。この闘いでは、国際連帯の活動家やイスラエル平和運動の活動家に加えて、グリーンラインを隔てたイスラエル側の町の住民が抗議行動に加わりはじめました。

 これらの闘いの中で現れた新たな特徴は、まず第一に、第一次インティファーダのときのような非暴力大衆闘争・全人民的闘争が再現されはじめたということです。第二に、それにともなってハマスやファタハなどの組織の違いをこえて、全住民の結束した闘いが展開されたことです。第三に、イスラエルの新たな人々が連帯・支援闘争に加わるようになったことです。特筆すべきことは、イスラエルの若者たちが多く加わるようになったことと、グリーンライン沿いの近隣イスラエル住民が広範に加わるようになってきたことです。ビドゥ村で生じたことが他の村や町でも現れてきているのです。

 イスラエル国内における闘いの重要な変化としては、軍務拒否運動の着実な前進が一定の量に達して、質的な変化をとげはじめていることが挙げられます。2002年1月に「軍務拒否兵士の手紙」が新聞紙上に掲載されて、イスラエル社会に衝撃を与えました。現在の組織的な軍務拒否運動の始まりです。当初500人を目標に始まりましたが、停滞と前進を繰り返しながら、現在1300人以上が公然と軍務拒否を宣言しています(多くは占領地での軍務拒否ですが、すべての軍務を拒否している人も含まれます)。

 この間、大きな前進の波が2度ありました。ひとつは昨年9月、イスラエルのエリート中のエリートである空軍パイロット27名が集団で拒否宣言をしたときです。軍事国家イスラエルの根幹が揺すぶられました。もうひとつは、まさに現在焦点化しているガザ地区の入植地警護をめぐる、昨年末からの軍務拒否の波です。入植者の数より多い兵士によって守られているネッツァリム入植地での軍務を終えた一群の予備役高官たちが、撤退すべきであると政府批判したインタヴュー記事が、12月初めに新聞に掲載されました。新聞の読者欄にも、ガザ地区の現実とそこでの軍務の無益さを語る投書が相次ぎました。シャロンが「ガザ撤退」を語りはじめた理由のひとつに、この軍務拒否の新たな波があったことはまちがいありません。
 シャロンと軍首脳は、軍務拒否の波に対して、一方で拒否者に厳罰を課しながら他方で士気を高めるために軍事的強硬策を発動してきました。今回のラファ大侵攻もそのような意味合いをもっています。しかし、それが逆効果を生むところまで事態は進んできました。5月30日に、新たに46人の将兵が集団で軍務拒否を宣言したのです。

 パレスチナ人民の大衆的な闘争が再び力強く前進しはじめました。そしてイスラエル国内の反占領・平和運動も、軍務を拒否した兵士たちやウォール反対闘争に新しく加わった人々によって新たな力を得て、再度力強い前進を開始しました。それが、パレスチナ人民の新たな大衆闘争とますます結びつこうとしています。これらの闘いの前進に、国際的な連帯闘争のいっそうの強化が結びつかねばなりません。

2004年6月18日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局



運命のギャンブル
THE DOOMED GAMBLE( An Editorial Overview )
『The Other Israel』2004年5月号 編集論説
2004.5.3 テルアビブ


 「レファレンダム(リクード党員投票)」前の日々は、平和を切望するイスラエル人にとっては、つらく厳しい日々であった。パレスチナ占領地の一部からの撤退とそこに建設されていたイスラエル人入植地の解体を含む計画に関して、投票資格があるのは、与党リクード党のたった20万人の党員だけであった。それでも、そこにあったのは排除されたことに対するフラストレーションというよりはむしろ、事柄全体の背後にある意図についての深い懐疑の念であった。

 首相アリエル・シャロンが提唱者であるということだけからしても、党員投票の結果いかんにかかわらずガザから本当に撤退する意図は全くないのではないかと疑うのは、十分な理由があることなのである。シャロン自身が、自らのいわゆる「ガザ撤収計画(Gaza Disengagement Plan)」のことを「1948年以来パレスチナ人に起こったことの中で最悪のこと」(原文のママ)であると宣言し、投票の準備段階には暗殺と殺人の大波が伴ったのである。

 リクード党員投票は、疲れ切っていらついている首相のますます絶望的になっているサバイバル闘争というショーの中の最新の場面でしかない。−−ほんの1年前にはアポロ神の巨像コロッサスのようにイスラエルの街々を闊歩していた男、それが今や、敗北を受け入れることができなくて手当たり次第に何でもつかんでは利用しようとしている、そのために踏みつけになるものが何であっても良心にとがめもしなければ気にもかけない。

 生死の問題や歴史的決定であらねばならないことが、バナナ共和国の年代記からとってこられたような汚職スキャンダルの、安っぽい戯画の中のポーン(チェスの歩兵)のように利用されてきた。ひとつ明瞭となったことがある。自分たちの希望とは裏腹に、アリエル・シャロンはイスラエルのドゴールになるかもしれないと思っていた人々は、判断間違いをしていたということである。1年前の選挙でイスラエル史上最大の勝利を得た男には、国が直面している深刻な問題に対して、何らかの現実的な解決策を提示する能力がないということは明らかである。


焦点化している分離壁(Wall)

 ハーグ、2月23日。数日間、イスラエル−パレスチナ紛争の焦点がオランダに移ったかのようであった。パレスチナの村々の土地や畑やオリーブ園を次から次へと切り裂き、数万数十万の人々の日々の生活を絶望的なまでに破壊していく「分離フェンス/壁/バリアー」(さまざまに名づけられている)、その合法性または非合法性に関して当事者の主張を聴くために、国際法廷が開かれたのである。

 法廷の外では、数百人が「ウォール」に抗議するために集まった。ヨーロッパ在住のパレスチナ人や特別にやってきたパレスチナ人、十数か国からの平和グループのメンバー、そして数人のイスラエル人活動家とアラブ人のクネセット議員(イスラエル議会議員)も加わっていた。

 彼らに反対する側には、「ウォール」を支持するユダヤ教徒とキリスト教徒がいて、メディアのスポットライトは、自爆攻撃で家族を殺されたイスラエル人に向けられていた。エルサレムで爆破されたバスの残がいまでが、多大な費用をかけてヨーロッパまで空輸されてそこに置かれていた。

 その家族たちは、さらなる自爆をとめるためには「ウォール」が必要であると、国際メディアに対して感情をたかぶらせたアピールをしていた。−−しかし、「ウォール」が何故、イスラエルの1967年以前の国境線であるグリーンライン上ではなく、パレスチナ人の領土にこれほどまでに深くくい込んで建設されねばならないかという問題は避けながら。(だが、法廷でのヒアリングの一日前に、シャロンは、これ見よがしに誇示するように 15,000人のバカ・ア・シャルキヤの住民を西岸から切り離していたフェンスの一部を取り壊すよう命じた。)

 占領地では、ハーグでの審理の開始にあわせてゼネストがおこなわれ、「ウォール」の全ルートにそって、またパレスチナ人の主要な都市で、多数の人々がデモをおこなった。−−その人々の大部分は、イスラエル軍兵士とイスラエル警察による野蛮な暴力の行使に見舞われた。(そのなかには、パレスチナのクレイ首相が参加したアブ・ディスでの集会も含まれている。)

 テルアビブでは、若いイスラエル人の無政府主義者たちが国防省の外の道路を封鎖して警察の拘置所へ引っぱられ、首相官邸の外での集会では、段ボールで作られた「ウォール」の模型が象徴的に破壊された。

 これと同じときハーグの法廷では、集まった判事たちの前でパレスチナ人の代表が、「ウォール」とその破壊的な影響とに関する詳細な事実説明をしていた。「そのウォールのルートについての地図はどこで手に入れましたか? 私はそれは不正確だと思いますが。」と、ひとりのイスラエル人ジャーナリストがパレスチナ人で米国籍の弁護士ステファニー・ホウリーに尋ねた。彼女はこう答えた、「私は、それをイスラエル国防軍のウェブサイトからダウンロードしたのです。」と。

 シャロン政府の側はといえば、この審理に代表を送らなかった。−−法廷の結論を後に否認しやすくなるように、またその実行を拒絶しやすくなるように。「我々は、このヨーロッパの偽善を拒絶する。」とシャロン首相は宣言し、他方で、他の閣僚たちや報道関係の解説者たちは、「ウォール」についての国際的な批判は主として反ユダヤ主義から出てきたものだとほのめかし吹聴した。それでも政府は、伝えられるところでは、パレスチナ側のキャンペーンに集まった予想外の勢いに懸念を示していた。

 3日間の公開審理が世界中に生放送された後、判事たちは数週間かあるいは数か月続くかもしれない審理のために閉じこもった。「ハーグのお祭り」はニュースメディアから失せた。−−そしてまさにその翌日、イスラエル治安当局は、エルサレムの北東にあるビドゥのオリーブ園を通る「ウォール」に抗議するデモで、3人の非武装のパレスチナ人デモ参加者を射殺した。

 それにもひるまず、ビドゥの村人たちは、翌朝もその翌日も現場に戻った。村の住人全部がこぞって、ブルドーザーが彼らの土地を引き裂いている場所へ出かけ、投石したり、破壊マシーンの通り道に立ちはだかったり、座り込んだりしたのである。ブルドーザーを護り「ウォール」の建設続行を確保するために配備された軍と警察は、催涙ガス、棍棒、大音響爆弾、「ゴム」弾などで対応した。時には致死の実弾をまたもや使った。

 ビドゥ村はひとり取り残されているのではなかった。「ウォール」の建設が続き、ひとつまたひとつと村々がブルドーザーの通り道となり、これまでは傍観していた村の住人たちをも絶えず闘いに引き込んできた。実際、それは第一次インティファーダの大衆的闘争方式への回帰であった。それはまた、長らくパレスチナのNGOによって提唱されてきたことでもあった。−−そして、イスラエル人活動家の参加もかつて見られなかったほどに強められた。

 「ウォールに反対する無政府主義者たち(Anarchists against the Wall)」は、来る日も来る日も村人たちとともに闘うためにやってきた。そして、しばしば他のグループからもイスラエル人が加わった。「人権のためのラビたち(Rabbis for Human Rights)」「タ・アユッシュ」「グッシュ・シャロム」「女性連合」などである。

 また、ビドゥ村からグリーンラインを隔てた向こう側にあって、ビドゥ村の住人たちと個人的な結びつきや接触のある人も多いメヴァセレット・ツィオンの町からもイスラエル人が多数参加した。−−そして、他の境界の町々のイスラエル人たちが、彼らの実例に続いた。

 そうこうするうちに、権威あるACRI(市民権協会)が「ウォール」反対の合法闘争に身を投じた。「平和安全保障委員会」に組織されたハト派の元将軍たちも、同様の行動をとった。彼らは、最高裁判所に提出された宣誓供述書の中でこう述べている。現在の「ウォール」のコースはパレスチナの村人たちにたいへんな害を引き起こしているだけでなく、純軍事的観点からもひどくまずいものである、と。

 現在おこなわれているこの闘争があるからこそ、−−そしてきっと、ハーグ法廷へのパレスチナ人の訴えには反対であるが「ウォール」には独自の立場からの反対を宣言している米国人からの、あまり表にはあらわれない圧力があって−−、政府は意見を撤回しはじめた。いくつかの村では、政府は、村人へのダメージを取り除きはしないけれども縮小するような「ウォール」のコースの修正を発表した。

 さらに、シャロンはアリエル・サリエントを放棄しようとしているといううわさがますます増大した。このサリエント(突出部)は、西岸内深くにある入植都市アリエルとその他のいくつかの入植地を効果的に併合するために何キロも西岸深くにくい込んだ「ウォール」の、政府承認ルートの一部をなしているものである。

 しかし、イスラエルの政治における気まぐれのひとつとして、このアリエル・サリエントの問題が、シャロン首相とネタニヤフ財務相との間の複雑な権力関係の中心問題になった。ネタニヤフ財務相は、アリエル・サリエントの庇護者、守護神を自ら任じ、その保持を、難問にさらされている首相を支持する条件としたのである。


ネタニヤフの反社会的政策

 ベンヤミン・ネタニヤフは、アリエル・シャロンよりも前に首相となった。そして少なくとも彼自身の観点からすれば、シャロンになり代わって首相になるはずであった。2002年にネタニヤフは、シャロンのリーダーシップに直接チャレンジし、そして完全に打ち負かされたが、あなどりがたい力を温存した。その後は、この二人の間で脆く危うい休戦が成立し、シャロンはネタニヤフを財務相に任命した。−−経済政策以外の問題では財務相が首相を支持し、その見返りとしてネタニヤフの経済政策を首相が後押しするという暗黙の了解で。

 それは、シャロンの観点からすれば、負担の多い取引であったことが明らかとなった。ネタニヤフは、長らく米共和党の高官たちと強力なコンタクトをもち続け、彼らとその観点の多くを共有してきた。そして財務相になって、新保守主義(ネオコン)の攻撃的な経済政策を発動した。その犠牲者である貧困層や社会的弱者は、リクード党の伝統的支持基盤なのである。

 実際、過去20年のすべてのイスラエル政府は−−リクード党の政府も労働党の政府もその連立政府も−−、自由市場経済に従い、かつての平等主義的イスラエル社会で貧富の格差を着実に増大させてきたが、それを露骨に行なったものはなかった。2003年の就任の時から、ネタニヤフは、福祉、教育、保健の予算を鋭くカットすることに乗り出し、それに抗議するシングルマザーたちを「寄生虫」と酷評し、労働組合との正面きった衝突を引き起こした。

 学者賢者たちに「経済停滞の終結」を宣言させたが、数十万人の新たな失業者の間にその確信をもたらすことは全くできず、困窮者のための無料食堂の外に長々と順番を待つ列を作り出すばかりであった。世論調査が示すところでは、大多数のイスラエル人は、政府の経済政策が「厳しく残酷である」と考えている。

 伝統的にリクード党に投票してきた人々の間での怒りとフラストレーションは、首尾一貫しない、焦点が絞りきれないものにとどまっていた。それは、一部は労働党が選択肢を提示できないことによるものでもある。それでもシャロンの人気は低下し、彼自身の党の草の根でフツフツと煮えたぎる不満は、彼の地位に対する無視できない脅威になった。


降りかかってくる汚職疑惑

 シャロンは、彼の家族や彼自身をめぐるさまざまな汚職疑惑にも悩まされた。もともとは、2003年1月の選挙運動のときに表面化し、その時には「左翼によって広められた悪意ある噂だ」と軽蔑的に払いのけたのだが、うさん臭い諸事情が明らかにされて、自身に降りかかってきた。警察の高官や検察官を脅迫するための、ちょっとした努力や些細なものとは言えないような努力にもかかわらず、法執行機関は、かなりなエネルギーと熱意で調査をとり行なった。そして、メディアもそれをすべて真剣に取り上げた。

 シャロンが汚職で訴追される可能性は、ますます具体的なものになった。それは、不可避的に彼の辞職につながるであろう。そしておそらく、訴追されるのが彼の息子たちの一人である場合も、彼は辞職しなければならないだろう。というのも、彼らのビジネスは緊密に父親と結びついているからである。

 パレスチナの子どもたちに対するほとんど毎日の銃撃を公金横領よりもずっと悪い堕落の形態であると考えるイスラエル人でさえ、うさん臭い金融業者デイヴィッド・アペルによってシャロンの息子ギラッド(その資格はどうみても支払われたサラリーに見合うものでは全くなかった)に支払われた月 20,000ドルのような事件を、また、アペルはさまざまな儲かる不動産取引で見返りにパパ・シャロンの援助を得ることを期待していたかどうかという議論を、詳しくフォローしていたりしたのである。

 品のないことかもしれないが、この事件や同様の事件が、シャロンを放逐する最後で最良の希望を提供しているように見えた。彼の在職が続いていることは、もうとっくに悪夢となっていたからである。「殺人のために辞めるのでなければ、まだしも汚職で(辞めさせることができれば)。」というわけである。


信頼を失った軍事的選択肢

 そうこうするうちに、シャロンの地位は、あまりはっきりはしないがずっとはるかに根本的な要因によって脅かされるようになった。イスラエル人は、全体として、パレスチナ人との紛争に軍事的解決がありうるという確信を失いつつあったのである。その確信は、バラクの完全な失敗のすぐ後を受けて2001年に権力についたシャロンが、解決を達成すると約束したことに基礎を置いていた。

 大衆は、経済学者たちによるリセッションの終結宣言に懐疑的であったのと同様に、「敗北という事実がパレスチナ人の意識に焼きつけられるであろう」というような将軍たちの言明に、非常に懐疑的になった。軍が西岸の諸都市に殺到してアラファトの本部を瓦礫にした「防御の盾作戦」の2年後の今、自爆攻撃の脅威は依然として非常に現実的なものであり続けている。

 シャロンは、パレスチナ首相アブ・マーゼンの短い在職期間とアブ・マーゼンが維持しようとした「フドナ(停戦)」を、あまり真剣に受け取らなかったのかもしれない。多くのイスラエル人−−シャロンの支持者も含めて−−にとって、それは真の希望のかすかな輝きであった。彼らは、それが壊れたことにひどく落胆した。その原因は、かなりな程度までシャロンと将軍たちの暗殺政策の継続にあり、それが新たな流血の悪循環に道を開いた。そして、より高い地位のパレスチナ人を標的にすることへと突き進んだのである。

 アカバ会談のテレビ映像でアブ・マーゼンがシャロンやブッシュといっしょにいるのを見て、アブ・マーゼンはイスラエルにとって和平のパートナーであるという考えに約半年間なれ親しんだ後には、シャロンの立場の大部分がこれまで依拠してきた次のような自己満足の独善的な決まり文句を受け入れることは、イスラエル人にとってもはや困難なことであった。「我々は和平を望んでいるが、話し合うべき相手がいない。」「和平がいつの日にかやってくるときまで、強く不動であり続け、耐え続けること、これは我々の宿命である。」「原則として、我々は『ロードマップ』を受け入れる。しかし、パレスチナ人がテロと闘わないので、それは実施できないのだ。」等々。

 具体的に一歩前へ進むことに対する、うずくような渇望があった。その真空−−シャロンはそれを満たすためのことを何一つ行わなかったために生じていた真空−−は、多種多様な人々によって満たされることとなった。そのどれもが、首相には全く気にいらないものであったが。

 まっさきに挙げるべきものは、もちろん「ジュネーブ合意」である。それは突如現れて、イスラエル人、パレスチナ人の間で、さらに国際外交舞台で、まる二か月以上にわたって注目の的となった。少し古い「アヤロン=ヌセイベ合意」も新たな注目と支持を集め、その他にもたくさんの合意や発案が登場した。公的なもの、非公式のもの、なかば公的なもの、イスラエル人によるもの、パレスチナ人によるもの、国際的なもの、プロの外交官によるもの、企業家によるもの、宗教的指導者によるもの、映画スターによるものまで。観念論的で非現実的なものもあれば、プラグマティックなもの、地に足のついたものもあった。

 メディアは、新たな和平案となるかもしれないそれぞれについて、週末の増補で数ページを割いて取り上げた。そして、事実上どの新聞記事も、次のような同じ言葉を含むものとなっていた。「政府の明らかな怠慢と全体としての政治的イニシアティブの欠如が、この種の私的なイニシアティブに自由な場を提供したのである。...」と。

 シャロンは、その軍事的政治的全経歴を通じて「イニシアティブをとること、それを保持すること」を誇ってきたが、今回は、非常に多様なプラン−−その大半は、おおむね1967年国境までイスラエルが撤退することを想定していた−−に大いにかき乱された。それを、彼自身が語らねばならなかったほどに。

 「ある真空状態が、危険なプランやイニシアティブを登場させた。サウジ・プラン、アラブ連盟プラン、アヤロン=ヌセイベ合意、ジュネーブ合意、ヨーロッパ・イニシアティブ、等々。ドイツ外相ヨシュカ・フィッシャーでさえ、ひとつのプランを策定し始めた(...)。そして、米国でさえ例外ではないかもしれない。(...)外交的方策がないということが、好ましからざる条件で交渉に入らねばならないような強い圧力をイスラエルに対して招来する。」(「イディオト・アハロノト」5月5日)と。

[インタビューの中でシャロンは、兵役拒否の波に影響されたということは否定したが、「一般大衆の中に不満が」あるということは認めた。]

 当代随一の勇士シャロンが、ここで、のらりくらりと問題から逃げ出していくことはしないだろう、彼が為すべき最善であると思うことにのみ基づいて、攻勢の新ラウンドを主導するだろう、ということは明らかであった。和平主義者たちと張り合わねばならなかったので、彼は、独自のブレンドをつくろうとした。すなわち、「和平戦士(warrior-peacemaker)」というブレンドである。

 シャロンの最初の企て−−昨年12月にさかのぼるが、大いに喧伝されたヘルツリヤ会議での首相の政策演説−−は、うまく目的を達することができなかった。「パレスチナ人から一方的に分離する」という枠組みで期限を切らずに行われる「入植地の段階的な再配置」という首相のあいまいな言及によっても、声高の批判は鎮められなかった。この「ヘルツリヤ演説」は、詳細の不明な「痛みをともなう譲歩」をするという、以前から信用を失っていたシャロンの空虚な約束の新版でしかないとして退けられた。

 主導権を取り戻すためには、シャロンは、もっと先を行って具体的でリアルなものを提供しなければならなかった。少なくとも、そうしつつあるというように見える必要があった。


ネッツァリムのため...はお断り!

 昨年の10月25日に、2人の武装パレスチナ人が、ガザ地区中央部の厳重に守られたネッツァリム入植地に侵入し、自分たち自身が殺される前に3人のイスラエル兵を射殺した。

 その翌日、新聞は、殺された3人のうちの2人が軍では「非戦闘員」に分類される女性兵士であったこと、それにもかかわらず占領地の最も危険な場所のひとつに駐屯していたということを明らかにした。

 鋭い論争が公然と行われて数日続き、死んだ兵士の家族が政府と軍上層部を厳しく非難した。事が収まってからも、ネッツァリムとガザ地区の他の入植地に、人々の注目がかなりな程度集中し続けた。

 ガザの入植地の状況−−常に知られてきたことであるにもかかわらず、イスラエルの人口密集地でのパレスチナ人の自爆攻撃の波によって長らくあいまいにされてきたこと−−に、突如スポットライトがあてられた。要塞化された隔離地で、ひとにぎりの宗教的民族主義的入植者たちが、それよりずっと数の多い兵士に守られて、特別に移入されたタイの労働者の低賃金労働を搾取することによって農業を維持している。それが、人口の密集したガザ地区のおそろしい貧困と惨状の真っただ中に存在しているのである。

 このバカげた状況に最初に抗議したのは、この入植地を警護するために訪れた兵士たちであった。兵士たち−−大半は予備役兵−−による手紙が読者からの手紙欄に現れて、ガザ地区にしがみつくことの無益さに抗議の意見を表明した。

 この時期を通じてずっと、シャロンは、繰り返し出された声明の中で、ネッツァリムその他の入植地から撤退するといういかなる考えも排除していた。「砲火の下でのいかなる撤退も、恐ろしい結果をもたらし、テロリズムを鼓舞するだけである。」と。首相にとっては不幸なことに、これらの声明のいくつかは、生放送で行われた。...

 そうこうするうちに、一群の予備役の高官たちが、ネッツァリムでの軍務を終えた後、「ハ・アレツ」紙に鋭い批判のインタヴューを載せた。その結論は、「我々は絶対にそこにとどまってはならない」というものであった(2003.12.5)。

 その後、ネッツァリムに駐留した6人の徴集兵がともに無断欠勤し、困難な護衛任務について抗議した。「ほとんど休みなしで40時間も」勤務し、「陣地周辺の防衛フェンスという最も危険な所を、軍の服務規程ではペアーで防衛すべしと規定しているのに、たった一人で護衛しなければならない」と。

 無断欠勤者の一人の父親は、イスラエルラジオにこう述べた。
 「私は、1970年代にスエズ運河で戦いました。そして、息子を優れた兵士に育てました。しかし、彼がこの状況を私に電話してきたときに、私は彼に戻ってくるように言いました。それから、私は、彼の指揮官に電話して言いました、『彼を酷使することをやめるならば、戻すことができるだろう。』と」。

 別なケースでは、プリヴェイト・ガリ・オフェク−−たった1週間の貧弱な訓練コースを受けただけでネッツァリム勤務を命じられた女性兵士−−は、姿を現わさなかった。自身が予備役士官である父親のモシェ・オフェクは、こう述べた。「私は、何の役にも立たないことのために娘に命を投げ出させるつもりはない。」(「イディオト・アハロノト」紙1月5日)と。軍高官の強硬な声明にもかかわらず、結局のところ、軍は命令を撤回してプリヴェイト・オフェクを別なところの勤務にあてた。


抗議はますます政治的なものに

 リション・レツィオンの町から来た一群の「懸念する市民たち」が、ガザ地区の入口で毎週、即座の撤退を要求してヴィジル(監視・抗議行動)をやり始めた。特別に印象的で大きなグループというわけではないが、しかし彼らには、何かしら「フォー・マザーズ(Four Mothers)」運動−−この運動がついに軍をレバノンから撤退させた−−の始まりを思い出させるような、すばらしい記憶とダブるところがあった。「拒否する勇気を(Courage to Refuse)」の予備役兵グループも、同じ場所で自分たちのヴィジルを行なって、兵士たちに直接訴え、「非常にいい反応」を得た。そして、労働党の青年組織が、「過ぎ越しの祭りまでにガザから出ろ」という署名を始めた。

 12月末、「イディオト・アハロノト」紙のある聡明な解説者が、こう報じた。一群の「ハト派の大金持ちたち」が、ガザ地区からの撤退を要求する大規模なキャンペーンに資金を提供することを決めた。彼らは、それが「シャロンの最も弱い点をつくことになるだろう」と考えたからである、と。その1週間後、「ピース・ナウ」が、「ハ・アレツ」紙に「テルアビブからガザ地区まで大抗議パレード」という全ページ広告を出した。

 この後すぐ、ガザからの撤退キャンペーンに全力を集中するという、労働党の戦略的決定が続いた。そしてメディア解説者たちは、これを反対運動のすばらしい動きとして称揚し、次のように論じた。労働党の新たなキャンペーンに直面して、シャロンは、「ネッツァリムを放棄することはテルアビブを放棄するに等しい」という彼がこれまで宣言してきた立場を維持することは困難だと分かるだろう、と。

 さらに、この労働党のキャンペーンは、シャロン連立政権のカギであるシヌイ党を大いにまごつかせた。シヌイ党は、主に以前の労働党支持者から票を獲得していたからである。(実際、シヌイ党は、独自の提案を提起することによって労働党のキャンペーンに反応したのである。だが、それは、すぐ後にやってきたことと比べてバカバカしいほど弱々しいもので、「入植者たちをネッツァリムから他所へ移し、そこには純軍事的な前哨基地だけを残し、パレスチナ人が1年半停戦を順守すればそれも撤去する。」というものであった。)

 そうこうするうちに、「ハ・アレツ」紙の、影響力があるが気まぐれの悪名が高いコラムニスト、ヨウエル・マークス−−過去3年間シャロンの鋭い批判と穏やかな支持との間を行ったり来たりしてきた−−が、目立った署名入り評論で、「シャロン政権の歴史的意義が問われるときが来た」、首相は「独自の大胆なイニシアティヴを発揮しなければならない、さもなければ暗愚と不名誉の中で一掃されるであろう。」と述べた。

 数日後、マークスは、ネゲヴにあるシャロンの農場で私的な単独インタヴューに招かれた。彼はそこからスクープを持って現れた。シャロンは、ガザ地区から撤退するつもりであると宣言した、そしてそこの入植地を解体するつもりである、と。


日程は添えられていない

 首相とその側近たちは、「ガザからの撤収」案について非常に多弁であるが、また事細かな詳細を議論することに本当に熱心でさえあるが、それが実際のところいつ行なわれるのかについては極めてあいまいである。

 「米国の選挙の前ではない、米国の友人たちが船を揺り動かさないように我々に頼んできているからだ。」/「今年ではない、まず完了するまでに多くの調整や準備が必要だから。」/「次の過ぎ越しの祭り[2005年4月]までには、その真っ最中になっているだろう。」/「軍は、目標時期として2005年9月を考えているが、これは公式のものではない。」等々。

 テンポの速いイスラエルと中東の政治では、1年半は永遠に等しい。さらに、シャロンよりはるかに信頼に値したこれまでの首相でも、この種の義務を果たすことにおいては全く期限など守らなかった。その義務が、国際的な合意を結ぶときに発表された明確なタイムテーブルに正式に記されている場合でさえ、そうであった。

 次のことを想定するのは、全く妥当なことであった。シャロンは、1年かそこら、ガザからの撤退をしゃべり続け、そこから国内的にも国際的にも最大限の利益を引き出し、入植地を拡大し「ウォール」を建設する時間を稼ぐ、そして、のらりくらりとすり抜ける口実を見つけ出す。

 他方では、もし彼が引き返すことができないほど深入りすることになるとすれば、おそらく彼は、ガザからの撤退を、彼の長期にわたる目的−−西岸の大部分をイスラエルの統治下に組み込むこと−−を推進のための必要な犠牲とみなすだろう。「クィーンを助けるためにナイトを犠牲にする」とは、ある解説者がチェスの言葉でそれを表現したものである。

 副教育相でガザ地区入植地のリーダーであるツヴィ・ヘンデルは、全く異なった説明をした。「調査官がシャロンと彼の息子たちの件を深く追及すればするほど、入植地を解体するという彼のプランはいっそう徹底したものになる。」と。他でもないこの件に関しては、政治的立場が違っても多くのイスラエル人が、ヘンデルの意見に同意する傾向があった。首相の否定にもかかわらず、広く次のように考えられた。彼の主な動機のひとつは、刑事訴追検察官を脅しつけることであり、そして、これほどの「歴史的大事業」を手がけている首相を訴追するなどということを、「検察当局が敢えて行なうようなことはしない」という状況をつくり出すことであった、と。


ハト派の混乱

 非常に部分的で疑わしい撤退案でさえ、今一度シャロンが主導権を握って政治日程を定め、平和運動の隊列に混乱の種をまくのには十分であることがわかった。執行権力を握っている首相による新規構想が出されたので、メディアはすぐに、反対派によって出された「ジュネーブ合意」などのような発案への関心をなくしてしまった。はじめは世論調査で30%から40%の支持を獲得していた「ジュネーブ合意」は、その勢いを失い、当事者たちは、大衆的支持を獲得するために集会を行なうことをためらった。

 「ピース・ナウ」はといえば、実際、「入植地を解体することが命を救う」というスローガンのもとで大衆的キャンペーンを開始することを考えていたのだが、変化した状況の下では、それは確実にシャロン支持と解釈されたことであろう。(「ピース・ナウ」は実際に、「左派からの支持はシャロンの支持者たちの間でのシャロンの立場を害し、撤退の遂行をいっそう困難にするだろう。」というシャロン側近からの非公式なアプローチによって説得されて、思いとどまったのである。)

 このジレンマの要点は、次のことにある。原則として、イスラエルの和平推進論者は(この点ではパレスチナ人も)、占領地からの撤退と入植地の解体に誰も反対できない、ということである。だが、時が経つにつれてシャロンの案と言動は、口当たりの悪いものになっていった。というのは、ガザからの撤退には、西岸での領土併合の動きが伴っていたからである。また、ガザからの撤退そのものが完全撤退とは程遠く、「解放された」ガザ地区は事実上巨大な監獄となるということが明らかになったからである。さらには、シャロンは、左のわき腹を固め右にも勝利して後、残酷で野蛮な反パレスチナ・キャンペーンを開始したからである。それは、これまでの首相自身の基準からさえ逸脱したものであった...。


煙幕効果

 さまざまな汚職事件が見出しを飾るたびごとに、シャロンは、すばやく新たな耳目を引くような発表を行なった。あるいは、閉じられたドアの背後で議論され作業が行なわれていると伝えられる込み入った計画や戦略についての、人をじらすようなチラ見せの非公式のリークを首相筋が行なった。あらゆる政治的色合いのイスラエル人が−−そして全世界が−−、いぶかったり推測をたくましくしたりし続けた。

 「ガザ地区の21の入植地のうち17は撤去されるだろう、しかし北部の4つは無駄のないブロックなので、イスラエルの統治下に残されるだろう。」「熟考の後、首相はガザの21の入植地をすべて撤去すると決定した。さらに、エジプトとの国境の往来を開放することも検討し、エジプト政府に武器密輸の防止に責任をもってくれるように求めている。」「軍首脳と協議した後、シャロンは、エジプト国境地域、コードネーム『フィラデルフィ』をイスラエルが掌握し続けると決定した。ガザ地区を出入りするすべてのパレスチナ人は、しっかりモニターされ続けることになるだろう。さらに、パレスチナ人は、空港も港も許されないことになるだろう。」「武器密輸を防止するために、イスラエル管理下のフィラデルフィ・ルートは、現在の不十分な100メートル幅から拡張されねばならないかもしれない。そのために、国境の都市ラファで数百戸のパレスチナ人の家屋の破壊が必要とされるかもしれない。」(原文のまま)

 さらに、こう続く。

 「首相は、ガザ撤退と同時にまたはそれに引き続いて、ユディア・サマリア(訳注:西岸地区のイスラエルでの呼び名)の入植地撤去計画を作成するよう、国家安全保障委員会のギオラ・エイランド将軍に、指示した。」「エイランド将軍は、西岸についてのいくつかの計画を選択肢として準備した。それぞれ、6カ所、11カ所、17カ所の撤去を求めている。」「首相は、撤去をガザ地区だけに限定することに傾いている。」「首相は、北サマリアの4つの入植地の撤去をはっきりと決心した。」「西岸の入植地撤去の決定は、まだはっきりしていない。6つの入植地を追加的に撤去することが検討されている。」「シャロンは決めた。ガザの21の入植地と西岸の北部にある4つである。」

 イスラエルのほとんどの人々は、新聞各紙の断片的でしばしば矛盾している情報を読むことができるくらいで、このプロセスに影響を与えることができるような人はほとんどいなかった。シャロンと彼のアドバイザーたちは、内閣と議会にも完全に知らせずにおいたのである。パレスチナ人は、それ以上に完全に排除された。その計画のどんな些細な変更も生活に多大な影響を持つことになるにもかかわらず。

 シャロン案の発表以来ずっと、パレスチナの現場は混乱状態にあった。パレスチナ自治政府も、さまざまな政治的軍事的諸党派−−特にガザ地区に最大の支持基盤を持っていたハマス−−も、シャロンの撤退案には大いに懐疑的ではあったが、イスラエルの撤退が本当に行われれば結果として起きる事態に備えて、大急ぎで有利な立場を確保しようとしていた。

 だが、シャロンがパレスチナ人とのいかなる交渉も完全に拒否していたので、そういうことは極めて困難なものになっていた。シャロンは、2005年に独立パレスチナ国家を樹立することへ向けたイスラエルとパレスチナの集中した交渉を義務づけている「ロード・マップ」へのリップサービスは続けながら、実際には、「テロと戦い、民主的改革を遂行するような、新たなパレスチナ指導部」が現れることを、そのような交渉の条件にしたのである。


和平パートナーとしてのブッシュ

 「交渉すべき相手がいない。(There is no partner.)」という呪文を際限なく繰り返しながら、シャロンは、まさに非常に集中した交渉−−紆余曲折を経ながらも最後に重大局面を伴った真の交渉−−を行なった。しかしながら、パレスチナ人とではなく、ブッシュ政権との交渉である。

 もともと、軍撤退と入植地撤去をリクード党内で口当たりのいいものにするために、ガザ撤退への「報酬」を米国から引き出そうと考えたのは、ドフ・ワイスグラス−−シャロンの事務長で筆頭顧問、以前のシャロン家の顧問弁護士−−であった。ホワイトハウスの国家安全保障大統領補佐官コンドリーザ・ライスとの個人的結びつきを使って−−米国務省とイスラエル外務省を通さずに両者を完全に排除して−−話し合いを行なったのも、ワイスグラスであった。

 まずもって、米国に相談せずに立案して公表した一方的な案に対して、シャロンに何らかの報酬−−財政的または外交的見返り−−を与えるということに、米国側はあまり熱心ではなかった。ブッシュ政権は、パレスチナ首相アブ・マーゼンの完全な失敗のことで、まだ傷がうずいていた。大統領が彼を抱擁しにわざわざアカバまで出向いていったすぐ後に、彼の政権は崩壊したのである。

 イラクでの完全な失敗と近づく選挙とが念頭にあって、米政府は、中東で何か大きな動きが起こることを避けたかった。それで、シャロンのガザ撤収案への最初の反応は、「どうか、2004年11月まではやめてくれ!」というものだった。しかし、ワイスグラス−−政治家や大企業の代理で数多くのデリケートな案件を交渉してきた抜け目のない弁護士−−は、何度も繰り返しワシントンに通い、米政府高官たちと会い、シャロン案が大統領にとってぜひとも必要な外交的成功になりうると説得し続けた。

 長らくワイスグラスの努力は失敗の運命にあるように見えた。彼は、シャロンがホワイトハウスに招かれること、シャロン案に大統領の公の支持が与えられることを、要請し続けた。気の進まない米国側は、ワイスグラスによってもともと2月に日程が組まれたシャロン訪米を3月、4月と延期し続けた。

 そうこうするうちに、このワシントンとの交渉は、シャロンにとってますます死活的に重大なものとなった。というのは、ネタニヤフやリクード党内の他のライバルたちが、「米国からの実質ある見返り」を支持の条件にしたからである。「ハ・アレツ」紙に、「リクード党高官が」次のように述べたことが引用され報じられた。「ワイスグラスは、コンドリーザ・ライスとの不首尾に終わる会談で、無理をし過ぎて失敗するだろう。彼は、自ら危険を招くようなことをしている。そして、彼のボスもいっしょに引きずり込むかもしれない。」と。


ガザの人々は早くも代価を支払わされている

 他の状況の下であれば、占領地からのイスラエルの撤退と入植地の解体は、大きな信頼醸成措置になりえたかもしれないし、全面的な和平プロセスを再始動させる手段となりえたかもしれない。いくら少なく見積もっても、常識的に考えて、スムーズな移行を保証するためには、ガザ地区のまさに現地で、何らかの調整が指示されてしかるべきであっただろう。

 しかしながら、シャロンの論理は全く異なっていた。彼の主要な関心は、ガザからの撤退と西岸北部の名ばかりの入植地撤去が、より広範な撤退の序曲ではなくて、これでもうおしまいという状況を確保することであった。

 シャロンの将軍たちの方はといえば、パレスチナ人は撤退を「勝利」と考え、それがさらなる攻撃を奨励するかもしれない、という考えにとりつかれていた。(実際、ハマスの広報担当者は特に、シャロンが彼のプランを発案したことを、パレスチナの武装闘争の成果であるとしていた。)その結果は、ガザ地区における流血のいっそうのエスカレーションであった。それは、ガザ地区から撤退するつもりであるというシャロンの演説の数にほとんど比例して増大した。

 軍は、人口が密集し貧困にうちひしがれた町や難民キャンプへの、一連の「強制的深部潜入捜索」を開始した。その宣言された目的とは、「テロリストの疑いがある者を逮捕すること」「テロリストの工場をつきとめること」「武器密輸トンネルを破壊すること」であった。

 このような強制捜索では、「テロリストの家」を破壊するブルドーザーが戦車の後に付き従い、武装ヘリコプターが上空を飛び、イスラエル軍歩兵部隊は装甲車の外へはほとんど現れない。軽武装のパレスチナゲリラは、戦車やブルドーザーの装甲車輛に何百人もの若者たちが投石する中で、できる限りの抵抗を試みる。当然のこととして、そのような一方的に武力の偏った戦闘は、パレスチナ側に多大な犠牲者を出して終わる。2〜3時間で15人が死亡し、100人以上が負傷した場合もあった。しかし、軍は、もともとの目的を達成することに特に成功したわけではなかった。(多くの場合、指名手配された戦闘員は、小回りのきかない重武装の車列が家に到着するまでに、とっくに逃げていた。)

 襲撃が終わるとイスラエル軍は撤退し、パレスチナゲリラが、ガザ地区にある入植地に迫撃砲を撃ち込むことで報復するのが常である。場合によっては、国境の向こうのイスラエルの町にカッサム・ミサイル(非常に不確実だが比較的小さく簡便に持ち運びができて発射できる)が撃ち込まれることもある。そのような攻撃が数多くなると、軍は、新たな襲撃を行ない、ミサイル発射の格好の場所を提供していると軍が勝手に推定するオレンジやオリーブの果樹園を系統的に破壊する。いつものことながら、そのような破壊でミサイルを阻止することはできない。そして、樹木の破壊に対する抵抗は、新たなパレスチナ人の犠牲者を生み出す結果となる。


暗殺リスト

 この間ずっと、軍当局は、1994年につくったフェンスでパレスチナ人をガザ地区の中に閉じ込めたという想定で、自己満足して安心していた。この想定は、ハマスの戦闘員が空っぽのコンテナーに忍び込んでイスラエルのアシュドッド港に潜入したとき、荒々しく打ち砕かれた。そこで彼らは自爆し、10人の港湾作業員を殺害したのである。

 その直後のイスラエル各紙では、自爆があった後のお決まりの報告記事や描写が載っただけでなく、港の中心部に備蓄されている化学物質や化学肥料の大きな貯蔵庫を爆破しようとしたのだという説もあった。「もしこの悪魔的計画が成功していたとすれば、アシュドッドの大部分は、数千人にのぼる犠牲者を伴って破壊されていただろう。」と「マ・アリヴ」紙は断言した。アシュドッドの市街地図を載せて、その爆発を仮定したときの範囲にけばけばしい赤丸で印までつけて...。

 実際には、自爆者たちによるそのような意図を示すような証拠は何ひとつなかっただけでなく、彼らが携えていた爆発物の総量は丈夫なつくりの化学物質コンテナーを貫通するのに十分ではなかっただろうと、専門家が述べたのである。にもかかわらず、このアシュドッドの爆発事件は、ただちに「戦略的爆破」「かろうじて避けられたイスラエルの9.11」ということにされてしまった。

 主要閣僚からなるインナー・キャビネットを召集して、シャロンは、「例外なくハマスのいかなるメンバーやリーダーも」暗殺してよいという包括的委任をとりつけるのに困難はなかった。もはや政府は、「標的を定めた殺害(targeted killings)」のタテマエにわずらわされなくなった。「カチカチ音をたてている爆弾」だけを、つまり具体的な攻撃の準備や実行に現にかかわっている者だけを狙ったものだというのが、これまでのタテマエであった。また、軍事部門と政治部門の区別も必要なくなった。「ハマス全体がカチカチと音をたてているひとつの爆弾である」と首相は公式に述べ、「マ・アリヴ」紙の翌日の第一面にハマス指導者たちの写真が、「死を運命づけられた者たち」という表題付きで載せられた。

 そして実際、その4日後の朝早く、イスラエル軍の武装ヘリコプターがシェイク・アフマド・ヤシン−−ハマスの創設者で崇敬されている指導者−−をつきとめた。ガザのモスクから車椅子で出てくるところだった。ミサイルが発射され、ヤシン他7人が即死した。(さらに4人のパレスチナ人がその直後の騒乱の中で殺された。)

 およそ20万人がシェイク・ヤシンの葬儀に参加した。それは、かつて見られなかったほど大きなハマスへの支持の表れであった。そして、ハマス指導部は復讐を誓った。解説者たちが注目したように、この暗殺のタイミングは、首相にとって非常に好都合だった。クネセット(イスラエル議会)での不信任決議のときと一致し、シャロンがリクード党閣僚に初めて彼のガザ撤退案を正式提示するときと一致していたのである。

 世論調査は、イスラエル国民の多数者がこの暗殺を支持していることを示した。(これまで、テロとの戦いのために必要とされる−−政府と軍がそう言う−−事実上いかなる行為に対しても多数者の支持があったように。)もちろん、堅固な少数者の反対もあったのだが。そして、イスラエル国民は、ヤシン暗殺にどんな意見を持っていても、ハマスが誓った復讐に非常な恐れと懸念を感じたのである。ショッピングセンターやレストランは空っぽになり、外国のバスケットボールチームはイスラエルでの試合をキャンセルした。パレスチナ側では、70人の著名なパレスチナ知識人たちが、ハマスに、イスラエルの報復を引き起こすような復讐の自爆攻撃を控えるように、そのかわりに占領に対する非暴力のレジスタンスに集中するように、公開で呼びかけた。

 ハマスの復讐の具体化がないままに、数週間がすぎて1か月以上が経過した。政府と軍は、勝ち誇ったように語り始めた。我々の不断の警戒と手入れがハマスの運動を無力化したのだ、と主張した。また、1ダースほどの悪魔的計画が芽のうちに摘み取られたとも発表した。そして、高度な警戒態勢が続けられ、警察と軍は厳戒態勢を続けた。また、解説者たちと一般国民は、「あるかどうか」ではなく「いつあるか」の問題としてハマスの復讐について語り続けた。


巧妙な新機軸としての党員投票

 3月28日、検察官エドナ・アルベル−−国家訴追機構のナンバー2で、高く評価されているベテラン法律家、最高裁裁判官に昇進する候補者とみなされている人物−−は、検察当局の最善の法的良心に基づいて、次のような自分の意見を明らかにした。シャロン首相に不利な証拠からすれば、司法手続きの開始は正当なものである、と。彼女は、さらに続けて、いくつもの汚職事件の告発調書が既にある程度まで準備されていると述べた。

 しかしながら、イスラエルの法規範によれば、首相に対する訴追は、アルベルの上司である検事総長が自ら提出することによってのみ行うことができる。1月に職務についたばかりである検事総長マズーズは、次のことを明らかにした。彼自らが証拠を再点検し、自分自身で決定を行い、それを5月の終わりまでに公表することを約束する、と。訴追の決定は、シャロンを選択の余地なく辞職に追い込むことになるものであった。
(訳注:5月18日から24日にかけてのラファへの軍事侵攻の直後、検事総長が訴追しない方針を固めたとイスラエルのメディアは一斉に報じた。そして6月15日には、検事総長は証拠不十分で不起訴とする決定を下した。)

 入植者のリーダーたちは、「このような国家の決定的な案件が、このような嫌疑のかかっている首相によって扱われるのは、適切ではない」という理由で、シャロンはガザからの撤退のあらゆる準備を中止すべきであると提案した。

 反対に、シャロンは直ちにキャンペーンを加速させた。彼は「現地の既成事実」を創り出した張本人であるが、明らかにこのガザ案件をとりまとめ、マズーズ検事総長の決定までに実行への形作りをすることを決意していた。見たところそれは、単なる汚職事件のためにこのような重大な動きを途絶させたくはないと、検事総長がそう思うことを期待してのことのようであった。

 アルベルが爆弾発言をした3日後、シャロンは、独自のキャンペーンのひとつを準備していた。リクード党の会合に現れて、登録されている20万人の党員で初の党員投票を実施するつもりであること、ガザ撤収案を党員投票の決定にゆだねるつもりであることを発表したのである。

 この党員投票のことが、即座にシャロンの汚職事件にとってかわって、ニュースの見出しを飾った。全イスラエル市民の間での集中した大衆的討議の議題とはならずに、リクード党員の間だけで投票を行うという、首相の決定が報じられた。

 多くのリクード党員でない人々は、自分たちの未来に多大な影響を与えるような決定に参加できないことに、怒りと侮辱を感じた。ある意味でそれは、1967年以来存在してきた異常な事態の論理必然的な展開であった。このとき以来イスラエル国民は、申し分のない[はずの]選挙プロセスにおいて、数百万人の市民権を奪われたパレスチナ人の運命をも決定してきたのである。

 解説者たちはといえば、実のところ何故シャロンは一般のイスラエル大衆にアプローチしないのかということを詮索していた。−−そちらの方が容易に、また圧倒的多数で、ガザ撤退が承認されたであろうに。そうはしないで、シャロンは、平均的なイスラエル人よりもはるかに民族主義的で入植者に親近感を持つ狭い集団、リクード党に、自分の政治的未来をゆだねた、と。(シャロン自身、長年の間、自分の権限を最大限活用して、仲間のリクード党員の間で入植者への支持をはぐくんできたのである...。)

 さらに、リクード党員の前にこの問題をもち出す際に、シャロンは、「ユダヤのリーダーシップ」として知られている民族主義的メシア的派閥を、ある意味で利することになってしまった。この派閥は、事実上党内の党ともいうべきもので、公言している究極目標はエルサレムに再建されるエホバの神殿を中心とした「忠実な信者たちの支配統治」の創出である。もともとは常軌を逸した取るに足りないジョークと考えられていたのだが、このグループは、かなり熟達した能力をこれまで示してきた。少数ではあるが、よく組織され、熱狂といえるところまで高度に動機づけられている。そして、この党員投票によって与えられた、党の草の根の人々にアピールするチャンスを、大いに喜び利用した。


ブッシュの宣言

 明らかに、シャロンが党員投票に確実に勝つというには程遠いという事実は、別な方面でかなりな効果を挙げるテコを彼に与えた。例えば、どうもこのことが、ワイスグラスのワシントンでの長引いた努力を確固としたものにする最終的な要因であったようだ。難局に苦しみ緊張した米国側との交渉は、4月14日にシャロンがホワイトハウスへ向けて出発するまさにその日の夜まで続いた。しかし、ついにブッシュは説得に応じ、国務省の専門家の反対を押し切って、「我が友アリエル」がそれほどまでに懇請したものを彼に手渡す腹を固めた。

 世界中のテレビ視聴者に放映された記者会見で、ブッシュ大統領は、事実上パレスチナ人の交渉担当チーフの役割を纂奪し−−そんな役割を彼にゆだねることなど、正気のパレスチナ人であれば誰ひとり夢にも思わなかったであろうが−−、パレスチナ人になり代わって決定的に重大な2つの譲歩を行なった。パレスチナ難民の帰還権は、「イスラエルにおいてではなく」パレスチナ国家において実現されるであろうということ。そして、今や「イスラエル人の人口密集地」(つまり大規模入植地)がこの地に存在しているのだから、イスラエルは1967年国境に戻る必要はないということ(その入植地は一方的に、またこれまでの米国政府の明示の要請に反して設立されてきたのだが)。

 実際、バラクとのキャンプディヴィッドやタバでの公式の交渉でも、非公式のジュネーブ会談でも、パレスチナ側の主流は、これら2つの問題を進んで議論しようとしてきた。ただし、包括的な交渉という枠組みの中で、また彼らの譲歩にはそれに見合う補償を伴うという形で。(例えば、イスラエルに併合される西岸の土地に見合うグリーンライン内のイスラエル領の領土割譲、など。)

 パレスチナ人は、ブッシュ大統領が自分たちと全く相談することもなしに、自分たちになり代わってしゃべり(パレスチナ側のチーフ交渉担当者サエブ・アレカトは「ブッシュは私の仕事をほしがっているようだ!」と述べた)、シャロンに何の見返りを求めることもなく譲歩するのを見て、怒り心頭に達した。

 パレスチナ人の憤激とフラストレーションは、シャロンが−−イスラエルに帰るやいなや−−暗殺されたシェイク・ヤシンの後継に就いて3週間にもならないハマス指導者アブデル・ランティシの暗殺を命じたとき、いっそう大きなものとなった。

 今一度、ハマス支持の巨大な表れが見られた。ハマスの指導部は絶え間ない暗殺の脅威によって地下深く潜行することを余儀なくされたが、イスラム運動の人気は一つ一つの暗殺のたびに舞い上がった。その結果、パレスチナ人の間で行われた世論調査で、初めてハマスがパレスチナの主導的な集団となり、アラファトのファタハが2番目の地位に追いやられた。シャロンとブッシュの言動は、ハマスの基本的な前提−−イスラエルとの交渉や外交的解決というのは無益なもので、断固たる闘争のみが前進する唯一の道であるという前提−−を立証したかのようにみえた。

 そうこうするうちに、武装攻撃や自爆にたずさわるパレスチナ武装勢力は、組織的な起源や出自にますます注意を払わなくなっていた。ハマスやファタハや他のグループの武装組織はしばしば共同行動を行なっていた。思いもかけなかったことに、大衆闘争が発展しつつあった「ウォール」沿いの村々でも、同じ事態が生じていた。その一方で、パレスチナ自治政府は、2002年4月の大侵攻でその権力(常に制約されたものであった)がシャロンによって大部分解体され、内閣と議会という飾り物をもってはいるが実質をもたない、抜け殻のようなものにますますなっていった。


党員投票という新機軸が裏目に出る

 「ブッシュ−ランティシ効果」の波に浮揚力を得て、シャロンは、中間派のリクード閣僚がガザ撤収案の支持者の列に気が進まないまま加わるという状況−−特に、ネタニヤフの支持−−を獲得した。

 シャロンのアドバイザーたちによって作られたプランによれば、まさにこの時点から後は、キャンペーンの残りは楽勝のはずであった。彼の後ろ盾である米国大統領のこれ以上は望めないほど明白な支持があり、重要なリクード閣僚がすべて彼の側に立ち、リクード党員の圧倒的多数の支持を得て勝利することへの障害は何もないはずであった。

 過信したシャロンは、宣伝や広告を何もしないことにした。大衆集会も開催せず、戸別訪問も行なわなかった。ひとえに、メディアへの無制限のアクセスと、党を歴史的大勝利に導いた指導者へのリクード党員の忠誠心に頼った。

 それとは対照的に、入植者たちとリクード内の強硬派は、いたるところで見かけられる広告で大規模なキャンペーンを行なった。大都市間を結ぶ幹線道路沿いに、都市バスの横腹に、また国中で建物の壁に不法に貼り紙をして。多大な資金が必要であったが、その大部分は政府から入植者に流れた金であった...。

 また、数千人の入植者たち−−当然のこととして個々人それぞれがこの問題を真剣にとらえた人々−−が、国中に出向いて、リクードの登録メンバーの家々を戸別にたずね歩き、感情的あるいはデマゴギー的な議論を行なったのである。

 「私たちユダヤ人のパイオニアは家から追い出され、そして、ハマスのテロリストが私たちに取って代わってそこに落ち着くことになります。私たちのシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)は、冒涜されるかモスクに変えられるかするでしょう。私たちの子どもたちの幼稚園は、自爆テロを育成するイスラムの幼稚園になるでしょう...。」

 実際、彼らは、ほとんど新たに何かを発明する必要などなかった。最も効果的なデマの数々は、シャロン自身が過去に使った議論から借りてくることができた。例えば、2003年の選挙でガザからの撤退を提案した労働党前党首ミツナを攻撃し嘲笑したときの議論などである。

 入植者たちの率直明瞭なメッセージに比べて、シャロンが報道機関や電子メディアでのおびただしい数のインタビューで表明したことは、自己矛盾していた。これまでにもまして、彼はいばり散らした。パレスチナ人のことを軽蔑的に、また脅し付けるようなやり方で語り、彼の計画はパレスチナ人にふりかかった事の中で最悪のものとなるかもしれないと何度も何度も繰り返し、過去の暗殺の記憶を楽しむかのようにもち出し、新たな暗殺を行うと約束した。そして、それは単なるおしゃべりではなかった。党員投票直前の準備段階の週のあいだ中、毎日、「逃走しようとして射殺された指名手配中のテロリスト」についての新たな軍事コミュニケがあった。

 そのようなやり方は、シャロンが承認を求めている案−−軍の撤退と入植地の解体の案−−にはそぐわなかった。そして、視聴者たちはそれを十分感じとっていた。

 さらに、リクード党の閣僚たちがにわかに賛成に回ったことも、シャロンにとってほとんど利益にならなかった。というのも、閣僚たちの転換はせいぜい表面的なもので、リクード党員の間では、それは確信にもとづくものではなく便宜的で不誠実なものと思われたからである。

 最後の奮闘の中で、シャロンは、彼の最後の切り札と考えられてきたものを引っぱり出した。ヤセル・アラファトである。テレビのインタビューで、シャロンは、パレスチナ大統領を粛清リストの次のターゲットにするという明らかな脅迫を行い、こう宣言した。「私はブッシュ大統領に伝えた。私はもはやアラファトに危害を加えないという約束に束縛されない、と。」

 これもまた、思うようにはいかなかった。ブッシュ大統領は、どれほどシャロンを好みアラファトを認めないという立場をとっていようとも、イスラエルの手によるアラファト殺害がこの地域での米国の利益に取り返しのつかないほどの打撃を与えるということは理解していた。

 ブッシュは次のことを、不明瞭さを残さない言葉で明らかにした。彼は依然として、アラファトに関しては当初の義務でシャロンにしばりをかけている、と。リクード党員にとって、シャロンのいばり散らしての脅しがもっと大きな脅しによって制止されたという光景は、精神を高揚させるようなものではなかったのはまちがいない。

 そうこうするうちに、入植者たちは、力を誇示する大きなショーを行なうまでになっていた。ガザ地区の入植地での大衆集会に数万人を集めたのである。


ゲームは終わった

 それで、投票の3日前のすべての世論調査で、シャロンが負けるだろうという結果が出されるという事態が起こった。

 少数の側近とともに、シャロンは大あわての行動に出た。党員投票前の最後の週末に、首相は自ら直接に数千人のリクード党員に電話した。同時に彼は、占領地で継続中のテロリスト捜索をいっそうエスカレートさせ、武装ヘリコプターによる暗殺をガザ地区から西岸地区へと拡大させることを正当化した。

 5月1日の夜、投票開始の数時間前、ガザ地区ハンユニスの町への「綿密な侵入」があって、イスラエル兵士が無差別発砲し、8歳の子どもを殺害した。パレスチナの子どもたちが殺されるのはありふれたことになっていたので、この事件はメディアではほとんど言及されなかった。

 約12時間後、2人の武装したパレスチナ人がガザ地区の入口で入植者の車を待ち伏せし、若い母親と4人の子どもを殺害した。

 伝えられるところによれば、シャロンと彼の側近は、まさにこの日に起こったことを耳にしたとき、ゲームは終わったと悟ったという。今回は、悲劇は彼らに有利には働かないだろう、と。


そして今何が?

 我々は今この稿を印刷へ回そうとしているが、それは、首相アリエル・シャロンが彼自らが考案した罠にはまって彼自身の党のメンバーから打撃を受け後に続く騒乱と混乱の真っただ中である。我々の中には、彼を気の毒に思う者などほとんどありえない。また、残っていた威信のすべてを賭けたのに、それがとても不健全な企業への投資であったことが明らかとなったブッシュ大統領に対しても、同じである。

 かなり多くの解説者や政治家−−特にシャロンをイスラエルのドゴールにするという誘惑にかられてきた人々−−は、シャロンはマジシャンだから何らかの兎を帽子の中から取り出すだろう、という期待をまだ諦めずにいる。辞職して新たな選挙に打って出るとか、全国民投票を求めるとか、彼の案を作りなおして新たな装いのもとで承認を得るとか、あるいはリクード党を割ってシモン・ペレスと組んで新たな党をつくる(!)とか。

 詳しく考察してみれば、シャロンが望んでいることと彼にできることという点からして、これらの仮説のうちで妥当と思われるものはほとんどない。彼が本当にガザ撤退を意図したかどうかは、おそらく永遠に未決のまま残るだろう。いずれにしても、もし彼が望んだとしても、今は彼に入植地を撤去できる力はほとんどない。

 シャロンが手負いの獅子として振る舞うであろうということ−−これまで以上に荒々しく攻撃するということ−−は、ありえないこととして除外して考えることなどまったくできない。その50年の軍事的政治的経歴の大部分が危険な冒険からなる無慈悲な男にとって、それは最も自然なことであろう。特に、彼にはもはや失うべきものが何もないというときには。

 もし検事総長のマズーズが汚職に対する訴追によって最後の一撃を与えてシャロンを除去するならば、それは、懸念をもつすべての者にとって最善であることははっきりしているであろう。しかし、それに頼ることはできない。

 また、次の事実も正面からとらえる必要がある。イスラエルの極右の中の最も極端な部分が、今や国家の政治システムの主流に深く浸透し、一種の拒否権を確立したという事実、そしてシャロンという人物が不愉快な記憶になってしまった後にも、それは長らく続くかもしれないという事実である。

 メディアは今、「ユダヤのリーダーシップ」という派閥を創設したモシェ・フェイグリンにかなり注目している。それはリクード党内に浸透し、事実上それを乗っ取りはじめている。

 「今日はリクード、明日は国全体。我々は、物事を正しい状態に戻し、人々をユダヤの根本に連れ戻し、『信者の支配』を打ち建てるであろう。」

 だが、そのような逆行する勢力の勝利は、避けられないものではない。リクード党員投票では、約5万人の投票で彼らに勝利がもたらされた。それは、イスラエル国民全体の1%にも満たない。また昨年の選挙でのリクード支持者の数からしても、小さな部分でしかない。イスラエルの一般大衆の中に、またリクードに投票した人々の多数者の間にも、ガザから撤退して(そしてまたガザからだけではない)長く続く疲弊の紛争を終わらせたいという真の渇望が存在している。それは深く広範な渇望であり、その政治的表現をさがし求めている。シャロンがそもそもガザ撤収案を思いついたのは、まさにそれゆえであった。シャロンの人格や人となりがどうあろうとも、彼がそれを推進できるとすれば、それは場違いな形で中途半端な気持ちでしかできないであろう。

 まさに現在のこのショックのゆえに、占領を終わらせるというこのまだ一点に集約されていない願望は、いっそう首尾一貫した表現を得ることになるかもしれない。かくして、シャロンのユニラテラリズム(単独行動主義)の実験は崩壊し、それが、結局のところ一般大衆の意見をパレスチナ側との和平交渉という考えに連れ戻すかもしれない。それはまさに、シャロンが消し去ろうと追求したものだったのである。

以上、編集者




ブッシャロン:始まったカウントダウン
Busharon: The Countdown
ウリ・アブネリ
2004.5.15
「グッシュ・シャロム」配信メール及び「Zネット」より

 ブッシャロン(Busharon)という名の奇妙な生き物が、深刻な困難の中にある。この生き物の前半分−−ジョージ・W・ブッシュ−−は、裸の写真で困難に陥っている。

 言葉にならないような不運に見舞われたイラク人収監者の裸の写真や、元気あふれる女性兵士が彼らの性器を指さしている写真だけでなく、ブッシュ自身の赤裸々な姿も、誰の目にも見えるように暴露された。

 残虐な独裁者からイラクの人々を救った救済者、メソポタミアに民主主義を授ける勇ましい指導者、野蛮と闘う西洋文明の代表者、−−それが、残虐な野蛮人として自らが暴露された。

 誰もが自己欺瞞せずまじめに考えなければならない。これは、少数のサディストの男女がたまたま気がつくと、ある状態にあったというような、そんな事件ではない。系統的な収監者への虐待があったことは既に明らかである。収監者を裸にしておくこと、性的に屈辱を与えること、凶暴な犬−−おそらくは噛みついたであろう−−をけしかけること、眠らせないこと、痛みをともなう位置で長時間手枷足枷をはめ続けること、頭部に不潔なフードをかぶせること、感電死の恐怖で脅すこと、これらがすべて写真に撮られた。しかし、収監者へのこのような態度からすれば、もっと悪質な拷問が行なわれていたが写真には撮られなかっただけであるということに、ほとんど疑いはありえない。

 これが収監者の態度を「軟化させる」ための基本手順としておこなわれているということは、今や全く明らかである。この刑務所だけでなく、イラクの他のすべての刑務所だけでもなく、アフガニスタンにおいても、グアンタナモの悪魔の島においても、およそ自己防衛のできないこのような犠牲者が収監されているあらゆる場所で、こういうことが行なわれているのである。彼らの多くは、たまたま拘束された全く無実の人々である。その意味するところは何かといえば、これは方針の問題であり、最も高いレベルからきているものであるということである。

 これらのポルノ的場面でうれしそうに写真に収まっていた男女兵士たちは、確かに憎悪すべきものではあるが、これが私的な発案によるものではなかったということは、軍隊生活をよく知っているものなら誰にもわかることである。そのような私的な行為であれば、何百枚もの写真が撮られて長い間続くことなどあり得ない。指揮命令の全系統の関与なしにはありえないことなのである。

 ひとりひとりの兵士は、自分の直接の指揮官の精神に影響される。少なくとも旅団レベルまではそうである。その指揮官たちはといえば、参謀総長にまでいたるその上官たちの精神に影響される。この事件の場合には、国防総省の最上層部と国防長官がずっと前に事実を知っていたことが明らかにされた。調査に当たった将官は、書かれた命令を見出しはしなかったが、そのような命令は通例口頭で伝達され、時には単にジェスチャーだけで、あるいはウインクだけで伝達される。

 これらの兵士たちは、たいていはちゃんとした家庭の出身者であるが、リンチに走る暴徒のように振る舞った。他の人種を人間以下と見なし、その人種の人間性を否定するという、まさにそれ故に、人種差別主義は支配する人種の側を人間以下の存在に変えてしまうのである。

 ジョージ・ブッシュは、これらの写真が公表されたことで、彼の世界を失った。彼は、指揮命令の全系統、国防長官から刑務所の指揮官に至るまでを、更迭しようと思えばすることができた。彼は、もちろんしなかった。彼の対イラク戦争を正当化しようとするあらゆる道徳的倫理的議論は、ガラガラと音を立てて崩れた。民主主義も、自由も、文明も何もあったものではない。ちょうどサダム・フセインの取り巻き連中のような、冷笑的で冷酷な盗人貴族のむき出しの攻撃性以外には何も残されていない。

 もし私に予言が許されるなら、 : 今週からジョージ・W・ブッシュの政治生命の終わりへむけたカウントダウンが始まる。


 この生き物の後ろ半分−−アリエル・シャロン−−も、多大な困難の中にある。この事態は、「一方的撤収」計画へのリクード党員の拒絶から始まった。人口のほんのわずかな部分であるリクード党員、それを入植者たちはうまく操作した。

 これ以降、シャロンは、餌を求めてコソコソうろつく檻の中の捕食動物のようにうろつき回っている。彼は、閣僚の中でも議員の中でも多数派を掌握してはいない。(リクード党の議員は党員投票に拘束される。)彼は、別の政府を形成することもできない。(彼の党の議員たちがそれを許さないだろう。)彼は、ブッシュ大統領への約束を果たすこともできない。(そしてブッシュがバカげて見えるようにしてしまった。)

 彼は、作りつつある「他の計画」についてベラベラしゃべりはじめた。それは、グラウチョ・マルクスのジョークのひとつを思い出させる。:「それは私の基本原則です。もしお気に召さなければ、他のもございます。」

 もしシャロンが本当にガザを離れるつもりをしていたのなら、こんな大騒ぎなしで、きっちりしたタイムテーブルをつくり、数日でころころ詳細が変わるようなことはなしに、ただちにしたことであろう。また、計画の中に「フィラデルフィ・アクシス」を、つまりガザとエジプトとの間の2〜3百ヤードの狭い回廊を、含めたことであろう。ここは、ほとんど毎日犠牲者を生み出しているからである。(訳注:「フィラデルフィ・ルート」とも呼ばれている。ガザ地区最南部のラファでは、イスラエルがエジプトとの国境線を完全管理下に置こうと、系統的に家屋破壊をおこなっている。密輸に使われる地下トンネルを摘発し破壊するという口実で。)

 リクード党の党員投票の一週間後、2つのおそろしい打撃が加えられた。大量の爆発物を積んだ武装車輛が、建物を爆破するためにガザ市へ入ったが、パレスチナゲリラによって埋め込まれた道路脇の爆弾で爆破された。その爆発で、6人の兵士の体がバラバラになった。その翌々日、まさにそれと同じことが「フィラデルフィ・アクシス」で起こった。爆発物を満載した兵員輸送装甲車が、国境地域のトンネルを爆破するためということで送られたのだが、パレスチナのロケット砲で攻撃され、5人の乗員が吹き飛ばされた。

 この2つの爆発はそれぞれに強力であったので、兵士たちの体はバラバラになって数百メートル四方に飛び散った。イスラエル軍兵士たちが四つんばいになって、仲間の体の部分を集めるために素手で砂をさぐっているのを、国中がテレビで見た。メディアは、「体の部分」についての際限のないおしゃべりに葬儀の場面を織りまぜて、屍姦的ヒステリーの編集を競った。

 リクード党員投票での撤退拒否と兵士たちの死、その直接の結びつきを無視することは不可能であった。このことは、俳優シュロモ・ヴィシンスキーによって最もシンプルな形で表現された。彼の息子リオールが二番目の車輛で殺されたとき、彼は息子の死についてリクード党員の責任を問うたのである。

 一般のイスラエル人がガザのリアルな映像を見たのも、初めてのことであった。「テロ」などではない、「テロリスト」でもない、全住民が反占領の闘いに参加する古典的なゲリラ戦。今日のガザは、明日の西岸である。

 そのような闘いに、我々は勝利することはできない。パレスチナ人を見境なく殺すことはできるかもしれない、そこら中を破壊しまくることはできるかもしれない、今起こっているように。しかし、勝利することはできない。一般大衆は、それを理解しはじめている。「シオニスト左派」も、4年間の昏睡状態から目覚めつつあるように見える。

 イスラエルは、ガザ地区から立ち去ることになるだろう、レバノン南部の「安全保障地帯」から立ち去ったように。(訳注:4年前の2000年5月25日、レバノン国境からイスラエル軍は完全撤退した。)この2つの地区の類似性はあまりにも明らかなので、あらゆるメディアのありふれた見出しがそれをはっきりと示している。

 もし私に第二の予言が許されるなら、 : 今週からアリエル・シャロンの政治生命の終わりへむけたカウントダウンが始まる。