米青年チャールズ・ホーマンの失踪・殺害事件の解明に新たな一歩
−−映画『ミッシング』の物語は今も続く−−


 皆さんは映画『ミッシング』(コスタ・ガブラス監督、1982年)をご存じだろうか。キューバを生み出したラテンアメリカで社会主義の新たな実験を進めるアジェンデ政権下のチリでジャーナリストとして活躍する米国青年チャールズ・ホーマンが、1973年のピノチェット軍事クーデターに巻き込まれ、“失踪”を遂げた事件、この事件をドキュメントしたトマス・ハウザー『チャールズ・ホーマンの処刑』を映画化したものである。ホーマンは同年9月17日に軍に拘束され、わずかその2日後には処刑されていた。映画でもホーマンの妻と父親が戒厳令下のチリで脅迫と妨害をはねのけながら必死の捜索をするが、ホーマンの死という最も悲劇的な結果に終わり、その真相は闇の中に葬られる形でジ・エンドとなっていた。

 しかし、今や、その真実が、チリの司法によって白日の下にさらされようとしている。映画の中では、元警察官の知り合いで、ホーマンの尋問の際に立ち会った四人の一人としてしか登場しない人物が、つい先日12月上旬にチリの司法において、偽証を行ったとして告発されたのである。

 彼が知っていることを洗いざらいぶちまければ、チャールズ・ホーマンの死について何も知らなかったとシラを切りとおしていたアメリカの大使館員や国務省の嘘も暴かれることになるだろう。
 そして、このことは、彼のみならず、アメリカとチリの軍政との共犯関係が生み出した幾千、幾万とも知れぬ犠牲者についての真相を明らかにすることにつながるであろう。なぜなら、チャールズ・ホーマンの殺害は、チリの軍政の残虐さを示すものであると同時に、アメリカがチリのクーデターに関わっていたということを示すものでもあったからだ。

 ホーマンがなぜ殺害されなければならなかったのか、彼の殺害について許可を与えたのは誰だったのか、という真相を突き詰めて行けば、クーデターに対するアメリカの関与のドロドロとした部分が明白になるはずだ。ホーマンは単に「関与」を知ったから殺されたのではない。彼は、絶対知ってはならないこと、「民主主義」や「解放」の偽りの看板を掲げる米国がやるはずがなこと、米国民に知らされてはならないことを知ってしまったのである。それは映画でも出てくる「ミル・グループ」という米の対中南米軍事諜報工作機関である。この機関は、アメリカのラテンアメリカに対する全面的で系統的な帝国主義的な軍事的政治的介入、社会主義志向の政権や反米民族民主政権の転覆と軍事独裁政権の樹立工作等々を引き受けていた。

 歴代米政権は、米国がチリのクーデターに深く関わっていたということも、ホーマンの死について何らかのことを知っていたということも、未だに公式に認めていない。チャールズ・ホーマンの妻ジョイスは、現在、「チャールズ・ホーマン・トゥルース・プロジェクト」(http://www.hormantruth.org/index.htm)を設立し、ピノチェットが行った不当な人権抑圧を徹底的に調査し、ピノチェットとその手下たちを司法の場に引きずり出す活動を積極的に支援している。映画『ミッシング』の物語は今もなお続いているのである。
※興味のある人は下記のサイトをご覧頂きたい。
http://www.realcities.com/mld/krwashington/7479555.htm
http://www.cnn.com/2000/WORLD/americas/06/30/chile.documents/
http://jbonline.terra.com.br/jb/papel/internacional/2001/07/30/jorint20010730005.html

2003年12月28日
木村奈保子



告発されたチリの元取調官は米国民間人殺害事件の解決に資するかも知れない
by ヘレン・ヒューゲス & ケヴィン・G・ホール
コモンドリームズ・ニュースセンター
http://www.commondreams.org/headlines03/1213-02.htm
2003年12月13日(土)「Knight-Ridder」に掲載

チリ、サンチャゴ −− チリ空軍の退役取調官が今週告発されたが、それは、米国が背後で支えた30年前のチリの流血のクーデターのときに殺害された若い米国民間人の事件を調査している人々に、解決の助力を与えることができるかもしれない。

 チャールズ・ホーマン、31歳、政治漫画家でフリーのレポーター、当時サンチャゴ在住。彼は、アウグスト・ピノチェト将軍が1973年9月11日に権力を掌握したすぐ後に殺害された。彼を探し出そうとしたホーマンの妻ジョイスと父親エドによる、気も狂わんばかりの奔走が、1982年オスカー賞受賞映画「ミッシング」(コンスタンチン・コスタ・ガヴラス監督)の基になった。


ジョイス・ホーマン(HELEN HUGHES, KRT)
Knight Ridder Washington Bureau より
 30年にわたって、ホーマンの死は謎のままだった。そして、ホーマンを殺害する命令が下された時にCIA局員が立ち会っていたという、かすかな情報があった。この水曜日に、チリの判事ホルヘ・セペダは、その情報を申し立てたと伝えられている男ラファエル・アグスチン・ゴンサレス・ベルドゥゴ(64歳)を告発した。セペダ判事は、ゴンサレスがホーマンの処刑について決定的な情報をもっていると主張し、またチリと米国の法廷での以前の証言において偽証していたのだと申し立てた。

 サンチャゴでの金曜日のインタヴューで、ジョイス・ホーマンの弁護士セルジオ・コルバランは、すぐにもっと多くの告発があることを期待していると述べた。彼はまた次のように述べた。ゴンサレスは、ホーマンの死について何らかのことを知っているということを偽って否定した可能性のあるクーデター当時の米国大使館員たちを特定できるだろう、と。

 「ゴンサレスは、彼らと関係をもっていた。はじめから。」とコルバラン弁護士は述べた。

 米国務省とCIAの高官は、ホーマンの身に起こったことについて何らかのことを知っているということを長らく否定してきた。クリントン政権時に開示された情報の中に、国務省とサンチャゴの米大使館員はホーマンの運命について彼の家族と共有したよりも多くのことを知っていた、ということを示すものがあった。しかし、彼の死における米国の共犯関係は、まだ何も確証されていない。

 「今、告発があるという事実は、真の前進です。」とジョイス・ホーマンはニューヨークからの電話インタヴューで述べた。「徹底的に究明されるべき新しい良い情報が、かなりありそうです。」と。

 最近出版された『ピノチェットのファイル』は大半は近年開示された米政府文書にもとづいて書かれたものだが、その著者ピーター・コーンブルーは、ひとつの章の多くを2年前に退役したこのゴンサレスにさいている。彼は、1976年6月の「ワシントン・ポスト」と「CBSニュース」に現れたリポートを引用している。それは、イタリア大使館に隠れて政治亡命を求めたゴンサレスが、リポーターと会見した後のものである。


ピーター・コーンブルー
(CNN.comより)
 ゴンサレスは、チャールズ・ホーマンを拘束していたチリ軍情報将校のために、ホーマンの英語をスペイン語に通訳した、とリポーターに語っている。彼はまた、ホーマンの尋問の時とホーマンを殺す命令が出される時に、ひとりの米国人おそらくはCIA局員が立ち会っていた、とリポーターに語っている。ホーマンは、クーデター6日目の9月17日に彼の家から強制連行されていたのである。

 上記の本によれば、ゴンサレスはリポーターに、ホーマンはクーデターへの米国の関与について知り過ぎたから処刑された、と語っている。ゴンサレスはまた、彼が、1974年3月にホーマンの遺体が返還されたときの、米国とチリ政府の仲介者でもあったと述べている。

 コーンブルーによって開示文書から突き止められた1976年の国務省メモは、ゴンサレスについて、「彼の精神状態はかなり問題がある」と述べているが、ゴンサレスがCIAと結びつきを持っていること、および米国情報機関が「ホーマンの死に不幸な役割を果たしたかもしれない」ということを認めている。

 「もしゴンサレスが、合法的な圧力のもとで、誰が命令をくだし誰が射殺したかに関して秘密を漏らせば、我々は、チャールズ・ホーマン事件で正義を達成することになるだろう。」と、コーンブルーは金曜日の電話インタヴューで述べた。

 ジョイス・ホーマンは、弁護士たちと会って法的手続きの戦略を練るために1月にチリへ行く予定をしている。彼女は、2000年に、前独裁者ピノチェットに対する何百もの犯罪告発のうちのひとつとして、彼女の夫の事件で訴訟を起こした。

 「チャールズが尋問されているときに部屋にひとりの米国人がいたと言ったのは、まさにゴンサレスでした。」「それは、間違いなく私たちが考えたこととぴったり符合しています。」と彼女は述べた。

 チリ空軍は、木曜日に次のように述べた。ゴンサレスの申し立てられた罪は、彼が1975年4月に空軍の勤務につく前に起こったことである、と。

 ここ3年に、チリで、アルゼンチンで、またラテンアメリカの他の地域で、前独裁者を起訴しようとする努力が実を結びはじめている。この努力は、開示された文書によって援助される形になった。それらの文書が詳細に明らかにしているのは、どのようにしてニクソン政権とフォード政権が、冷戦の同盟者として右翼独裁権力に言い寄ったか、ということである。


■■「ミッシング」:あらすじ■■■■■■■

 ボール遊びに興じる少年たちの背後から、彼らを追い散らすように兵士を満載した軍用車が通る。普通の自動車は軍の検問を受け、道には銃を水平に構えた兵士が並ぶ。ここは、1973年9月、軍事クーデター直後のチリである。

「この作品は実話であり、起こった事実は記録として残されている。ただし、罪なき人々と作品を保護するため、登場人物の名は一部変更されている。」

 チリのサンチャゴに住むアメリカ人チャーリー(チャールズ・ホーマン)は、アニメ映画や新聞の製作に携わっていた。彼がクーデターに遭遇したのは、仕事仲間の女性テリー・サイモンとともに、リゾート地、ビニアの海岸で日帰りの予定で休暇を楽しんでいた時であった。クーデターのために道路は封鎖され、連絡も取れず、サンチャゴでは、彼の妻ベス(実名ジョイス)が、彼の身を案じていた。ビニアで出会った米軍関係者に送られてサンチャゴに戻ってきたチャーリーとテリーはベスと再会した。彼らの仲間のフランクとデイヴィッドも行方不明になっているという状況を耳にして、彼らは出国の準備に取りかかった。
 街では軍が横暴を極めていた。街のあちこちに人が倒れており、銃声が頻繁に聞こえる。兵士による女性に対する侮辱的な行為も公然となされていた。テリーももう少しで軍に連れて行かれるところであった。アメリカ大使館はなぜかアメリカ市民の出国の手はずに消極的だった。それでも、チャーリーは「心配ないよ。ぼくたちなら。アメリカ人だもん。」と明るく言い放った。しかし、その後、彼は消息を絶った。

 チャーリーの父親エドは、米国務省に捜索を依頼したが、軍事政権に逮捕されたアメリカ国民は全員釈放されたとの知らせしか聞けなかった。逮捕されていた最後の二人、フランク・テルージとデイヴィッド・ホローウエイ(二人ともチャーリーとベスの共通の友人)も釈放されたという。国務省の役人は苦々しげに、テルージが大使館に挨拶もせずに出国したとか、ベスはその出鱈目な言動で現地の大使館を悩ませているとか言うのであった。エドはさらに、コネのある政治家に捜索を依頼したが、息子が過激派ではないかとの疑いをかけられただけであった。
 エドはサンチャゴに飛んだ。空港では領事のパットナムが出迎えた。ベスは、髪を振り乱し、服装も表情もくたびれた様子であった。エドは、なんとかベスの身なりを整えさせ、大使館に出向いた。大使館では、アメリカ大使、アメリカ海軍所属の駐在武官専任者のタワー大佐、国防省のクレー大佐が、愛想良く対応した。しかし、チャーリーの行方については、各方面を徹底的に捜索したが何も手がかりがないので、潜伏しているに違いないと言うばかりであった。しかも、ベスに捜索のためと称して、チャーリーの友人のリストを出させようとしていた。エドはアメリカ政府を基本的に信頼していたので、ベスが大使館員に粗暴な態度で対応するのが気に入らなかった。
 
 エドとベスは、互いに分かり合えず、時には衝突しながらも、チャーリーを探すという目的のために行動を共にし、様々な関係者の証言を集めていった。
 チャーリーと一緒だったテリーは、クーデターの翌日、ビニアでバブコックという男に出会ったことを話した。この男はアメリカ海軍の退役将校で、「海軍の命令で仕事をしにやってきた」と言い、チャーリーがアメリカ人だと知ると、気を許して、このチリのクーデターとの関係を匂わすようなことを話すのだった。
 バブコックは、そこに現れた軍の将校らしき人物に親しげに「大佐」と呼びかけた。それは「ミル・グループ」つまりアメリカの「ミリタリー・グループ」のメンバーであるとバブコック自信の口から語られた。
 チャーリーはその時からメモを取り始めたという。

 兵隊がチャーリーをトラックに乗せ、そのトラックが競技場にはいるところを目撃したという現地の女性の証言も得られた。
 しかし、大使館員たちは、それは兵隊に変装した左翼による自作自演の誘拐劇ではないかとまで言うのであった。軍事政権がアメリカ人を逮捕したということになれば、この政権の評判をおとしめることができるからだと言う。
「だって現実に逮捕しているじゃない。」ベスが叫んだ。
 業を煮やしたエドは、こう言い放った。
「率直に言って、中南米諸国のアメリカ大使館は、その国の警察及び軍事訓練プログラムに関与する組織を持っている、と私は承知している。」「その組織の是非はどうでもいいから、それを利用して息子を捜し出してくれ。」
 触れてはならないことに触れられて困惑した様子の大使館員は、あくまでもその組織の存在を否定した。

 逮捕されていた二人のアメリカ人のうちの一人、デイヴィッドの証言も聞くことができた。デイヴィッドは、フランクと共に、新聞の仕事をしていたところを兵士たちに踏み込まれ、強制的に収容所に連れて行かれた。そして、尋問のため一人ずつ呼び出されていった。デイヴィッドは釈放されたが、フランクについては消息不明のままなのである。出国したという話だったが、故郷の親とも連絡がついていないのである。
 病院、国立競技場、様々な所を探した。しかし、チャーリーの手がかりはつかめなかった。そして軍事政権では、釈放されたはずのフランクに関する書類は見つからなかった。

 各国の大使館の庭は、軍事政権からの保護を求める人々で溢れ返っていた。その一つ、イタリア大使館で、エドとベスは重要な証言を持った男パリスに会うことができた。
 パリスは、チリの元警察官で、彼の話では、ルース将軍(チリでの情報機関のボス)のオフィスで、将軍と、大佐と、パリスにこの話をしてくれた同僚(これが、上記の記事にあるゴンサレスなのである)と、そしてアメリカ人の士官がおり、その隣の部屋に「ホーマン」という名の囚人が拷問を受け半死半生の状態でいたというのであった。将軍は「囚人は消えるべきだ。知りすぎたから。」と言ったという。そして、国立競技場に送り返されたということであった。アメリカ人の士官は将軍の周囲にはいくらでもいた。将軍のオフィスの近くには、アメリカの「ミル・グループ」のオフィスがあるのは誰でも知っていることだった。
「私たちが知りたいのは、アメリカ人に相談もせずに一人のアメリカ人の抹殺を命令できるかということよ。」この事件を追っているリポーターの女性が言った。
「そんな危険はおかさんでしょう。」パリスは言った。
 しかしその裏付けを採る方法はなかった
 
 チャーリーの残したメモを読み上げるベス。ビニアでのバブコックとの対話が克明に記されていた。
「クーデターはスムーズにいった。君たちは安全だよ。」
「所属はパナマ基地。パナマはいいよ。あちこちに睨みをきかせるにはおあつらえむきだ。」
「次はボリビアだな。」
 チャーリーはますます不審に思った。
『ボリビアに海軍の技術将校が何をしに行くんだ。海に面していない国に。』
 チャーリーたちは、バブコックと親しく挨拶を交わした「ミル・グループ」のパトリック大佐とも知り合いになった。パトリック大佐は、ビニアにおける軍関係者の私邸に二人を連れていった。そこには、「ミル・グループ」の関係者が何人も集まっていた。彼らはチャーリーがアメリカ人であるなら当然、同志であると思いこみ、クーデターについてのあけすけな内情を語った。彼らはチリの軍関係者とも親しくしていた。
「7月にウィドブロ提督を国に連れていって武器購入の手伝いをした。軍隊はしっかりしとるよ。だが、今回の手柄はなんと言ってもトラッカーたちの手柄だ。」
  アメリカがクーデターに何も関係していなければ、チャーリーの見聞きしたことは何の意味もない。しかし…。
 その場にはタワー大佐もいた。チャーリーとテリーをサンチャゴまで送っていったのは、タワー大佐であった。チャーリーが新聞の製作に関係していたことに気付いた彼らは、監視をつけたのだった。(そして、そのタワー大佐が、チャーリーの捜索活動の責任者の一人なのである。)

 エドとベスは死体置き場をも捜索した。建物の地下の冷たい空間に数多くの遺体があった。すると、そこに、釈放されて出国したことになっていたフランクの遺体があったのだった! フランクは頭を撃たれていた。
 アメリカ政府とチリ軍事政権が、そろって嘘をついていたことがはっきりした。エドはベスに「君たちを安く見ていた。」と謝った。
「君は私が出会った中で最も勇気ある人だ。」と。

 やがて、フォード財団の経済顧問の男性から、エドは決定的な事実を知らされた。彼の知人が軍にコネがあって、それによると、チャーリーは9月19日に軍によって国立競技場で処刑されたということであった。エドはその知人の名を聞こうとしたが、男性は口をつぐみ、それ以上のことを語ろうとはしなかった。

 また、アメリカ大使館での会合が行われた。大使館員は、見知らぬ男を連れてきていた。左翼にコネのあるジャーナリストとか称するこの男の言によれば、チャーリーは国外に脱走させられているという。
 猿芝居はまっぴらだといわんばかりに、エドはその男を追い払い、大使らに言った。
「息子は軍に殺されたと信じられます。」「アメリカ軍士官がアメリカ人の処刑に同意しないかぎり、チリ軍事政権がそんな無謀なことをするとは考えられません。」

ヘンリー・キッシンジャー
(JB Online より)
 しかし、アメリカ大使らは、なおもシラを切った。
「我々はアメリカ国民を守るためにあるのだ。荒唐無稽にもほどがある。」
「クーデターには関与していません。我々の立場は完全中立です。」と。
 しかし、エドの執拗な追求に対して、次第に本音をもらす。
「大使館はアメリカの権益を守る義務を負っています。この国では三千をこす企業がビジネスを行っています。それはアメリカの権益であり、あなたの権益でもある。」「私は一つの生き方を守ろうとしているのです。」とアメリカ大使は言う。
「立派な生き方だ。」窓から外の様子を見ながらエドが言った。
「だから難民が押し掛けてこないんでしょう。」
 人々の群でごった返していたイタリア大使館とは対照的に、アメリカ大使館の庭は静かだった。
「この際、両立は無理です。」と大使はすまして言った。
 さらに、タワー大佐が居直ったように言った。
「聞くところではおせっかいが過ぎたようだ。」
「もしもニューヨークのマフィアのことをかぎまくれば、イーストリバーに死体が浮かぶだろう。」「火遊びをすればやけどするものだ。」
 このようなことを口走る彼らの態度は、初めからチャーリーの死の全てを承知していたとしか思えないものだった。
 そしてまもなく、チャーリーの死体が見つかったという連絡が入った。なんと国立競技場の壁の中に埋められていたという。

 エドは、素知らぬ顔をして見送るパットナム領事とタワー大佐に対して、「君たちを告訴してやる!」「君たちのような連中を裁けるような国にいることを神に感謝するよ。」と言い残して、チリを去った。
 
 エド・ホーマンは、息子の死に関して共謀と職務上の過失があったとして、キッシンジャーを含む11人の官吏を訴えた。チャールズ・ホーマンの遺体は七ヶ月も経ってやっと送還され、もはや正確な死因の究明は不可能になっていた。数年の訴訟の後、その共謀を立証するあるいは否定する情報は国家機密として明らかにされないまま、控訴は棄却された。