暴行傷害PTSD発症した服部太郎くん000126)が、2005年11月14日、控訴審の東京高裁で陳述した内容。
(改行および文字色付けはtakeda)

陳 述 書

 東京高等裁判所

 第12民事部御中
                                                 服部 太郎

 1月26日の事件について

 平成12年1月26日の傷害事件については、裁判所でAくんの一方的な暴力事件と認めて頂きましたが、時間にしてわずか20分の事だったかもしれませんが、僕にとっては何時間にも感じた恐怖の時間でした。彼の行為は、一歩違えば、人の命さえも簡単に奪ってしまう恐ろしい行為でした。
 暴力だけではなくAくんは、「東陽中の生徒じゃなければ血まみれにしてやる」と更に恐怖を増強させることを言ったり、「警察に言うなよ」と事件の隠滅を僕に強要したことは、許せることではありません。


 また、Aくんの暴力行為の傍らで「Aにさからうなんて、命知らずだ」と言ったBくんや僕の背中を蹴ったCくんの行為は許せるものではありません。一見、何も関わっていないように見えるBくんですが、彼が法廷証言した時に一番反省している様子が伺えず、たくさんの嘘をついてAくんの暴行を正当化しようとしてことは、僕の心の傷を大きくした卑劣な行為です。

 1月28日の事件について

 1月28日の事件が起きたことによって、
26日の事件の恐怖だけでなく、らの行為が更に僕が一生抱えなければならない「深い心の傷」を残したことが、判決で認められなかったことは、本当に残念でなりません。

 
当日僕は、1月26日の暴力で負った怪我で、全身に激痛があり寝起きすらままならず、日常生活に支障が出ていました。夕方、布団の中で、夢うつつにチャイムの音が連続して鳴っていたのを覚えています。直後に、「誰か」がドアを開け、閉めた音が聞こえました。

日が暮れて、母がぐったりして帰宅した様子を見たとき、僕は大きな不安に襲われました。いままでに、母がそのような状態で帰宅することがなかったからです。
母が、少し落ち着いてから話しを聞くと、10数名の同級生が自宅アパート押しかけて来たという事でした。

 
僕が28日に恐怖を感じた一番大きな理由は、自宅に押しかけてきた10数名に含まれていたメンバーの顔ぶれでした。
10数名の中に、Xくん、Yくん、Zくん、Bくん、Cくんがいたことを聞きました。事件以前に、東陽中で多くの生徒に暴力を振っていたり、素行の悪さが目立ったメンバーがいたことを聞いて、僕はそれまでに感じたことのなかった言いようもない恐怖心が衝撃となって体を突き抜けました。

 
学校での彼ら行為を日頃みていた僕は、玄関のドアをこじ開けようとした行為があったことを聞いたとき、「もし、玄関のカギが開いていれば、布団の中で身動き一つできない僕はどうなっていしまっていたのか」と思い、僕は「殺されていたかもしれない」、「最悪一緒にいた母も、その脅威に晒されていたかもしれない」と瞬時に考えてしまい、その恐怖はいまもぬぐいされません。

 丙27号証の中(I先生の忘備録)や丙2号証(学年会記録))などで、自宅に押しかけてきた10人の中で、問題生徒としてXくん、Yくん、Bくん、くん、Nくんの名前が記載されています。Xくんは、丙24号証の2 生徒指導委員会協議事項書の中で、「4/19 3,情報交換 3年 、○○ともめる(14)髪を染める(15)喫煙(16)ピアス(17)」と記載されていますが、その通りに、僕から見ても学校内では目立った存在でした。
 また、丙27号証の「P32 2/3(木)7:55〜校長指示 ○○・○○・○○、○○ 上記生徒を指導する。・・全体に迷惑をかけたり、ましてや器物破損をするのでは困る。家庭連絡と欠席停止などの措置を取ることも話す。」とありますが、Cくんは、証人尋問の中でこの生徒について、弁護士の杉浦先生から受けた質問に対して、「どういう人かわかりますか?」と聞かれて「友だち」と答えています。

 浜松地裁では、Aくんのグループの存在が認めてもらえませんでしたが、1月28日に押しかけた彼らは、Aくんの友だちとか学校で問題があった生徒を仲間と認めています。
人が嫌がったり、迷惑をかける彼らの行為を日常的に学校で見聞きしていたり、被害を受けていた僕は、自宅に押しかけてきた彼らの名前を聞いたので、言いようもない恐怖が湧きあがったのです。  

 自宅に来たのが、僕の友人達だったのなら、もちろんそのような行為は当然する事はありませんし、僕は不安や恐怖を感じたりしません。

 また、彼らは「太郎が悪い、太郎が先に手を出した」と言っていたと聞きました。大勢で騒ぎ、Xくんが「なんだてめぇー」と両親に向かって言ったり、彼らの証言のように冷静に話したということはなく、両親や目撃したOさんも集団による威迫、脅迫と感じています。説明に来るには不要な大人数と乱暴な言動は、どうして説明に来たと言えるのでしょうか?
 1月28日の10人は、26日のAくんの暴行を目撃している4人がいながら、僕が救急車で運ばれたことを知りながら、僕が怪我を負ってどんな状況であるかも考えることもできなくて、Aくんの話を聞いただけで、何も考えずに単純で短絡的な発想で集まり、さらに絶望や恐怖を僕に与えた行為は、いくら考えても理解の範疇を超えています。
 また、彼らの供述には、それぞれに食い違いがあったり、父が「Xくんの胸ぐらを掴んで殴りかかった」と嘘をついたことも含めて、「非常識な行為」で済まされることは、納得できません。

 PTSDの症状について

 1月26日の暴行事件に加え、1月28日の集団威迫行為が原因で、PTSDを負った僕ですが、5年経った今は症状の落ち着きこそありますが、事件前のように戻ったとは言えません。精神的な物は、個人の考え方や感じ方によって影響する部分はありますが、僕の心の傷は決して「すぐ治る」ものではありません。
 
判決では、2000年6月に「症状は治まっている」と書かれていますが、その時は症状がさらに悪化していた時期でした。

 
最初に、PTSDの症状に僕が気づき始めたのが、2月に警察による現場検証で、まだまだ寒い日が続く中、僕の体調を母が気づかってマフラーを巻いてくれた時でした。
 
当日は、風が強く巻いたマフラーが、僕の顔の真横まで撫でるように、風になびいたとき僕はそのマフラーの動きにとても驚いて、反射的にマフラーがなびいた反対方向へ体が動いたのでした。このときは、自分がなぜこんな反応をするのかわかりませんでした。
 
しかし、日が経つにつれ、植物の動き、人の動き、音などに、異常なまで体が強ばり、とっさに防御態勢をとる事がわかりました。
 
事件後は、ほとんどが自宅と父の会社にいるだけで、周りには僕に危害を与える人はいませんでしたが、両親でもあっても自分の背後や真横(視野の外)でなにか動くことをとても嫌っていました。

 同窓会と成人式へ参加したことについて

 
2000年6月からは、それまで、自宅と会社の僅かな100mの間をいつも付き添ってくれた両親の付き添いなしで「自分一人で頑張って歩いてみよう」と思いました。両親は凄く心配してくれました。僕も恐怖心や不安はありましたが、家を出るとき「今から会社に行く」家に着いたとき「無事家に着いた」と、必ず両親に電話しました。この時は、こういうことから始めていけば、徐々に恐怖心を取り除いて不安を軽減していけるようになると思っていました。

 
2000年12月に中3のクラスメイトから、自宅へ「同窓会」の連絡が来ました。友人に会いたい気持ちはありましたが、「加害者達には会いたくない」ことと、まだ一人の外出は怖かったので、同窓会の出席することにはとても悩みました。それでも、クラスメートに会いたいと思う気持ちがあって、誰が出席するか、確認を何度もしました。不安になっている僕に、クラスメートは何度も誘ってくれたので、出席することにしました。
 
両親はとても心配していましたが、僕の気持ちを理解してくれて携帯電話を購入して連絡が取れるようにして、送り迎えは両親がしてくれました。

 
当日の同窓会に、Mくんがいましたが、彼は同窓会の会場周辺をフラフラとしていただけで、僕に近づくこともなく危害を加えてくる様子はなくホッとしましたが、外出時には、やはり恐怖心から緊張感が強くなって、同窓会はとても楽しく過ごしましたが、数時間の外出でひどい疲労感を感じました。

 2005年1月9日、20歳を迎える僕は成人式に出席しました。成人式では、加害者達と会うことに不安や恐怖心がつきまとうことを考えましたが、中学時代の多くの友人と会いたいと思う気持ちが強く、また何度も考えて悩みましたが、いつまでも逃げていたくないというと思いもあって、成人式に参加しました。

 友人達と久しぶりの対面を果たしましたが、しばらくぶりに会った友人達は、高校を卒業して大学へ進学したり、専門学校へ行ったり、就職したと聞いて、僕は「数年間でみんなと大きく差がついてしまった」「自分だけ、取り残されてしまった」と焦りを感じたり、恥ずかしくもありました。こういう気持ちは、彼らにはわからないだろうと考えると、また悔しくもありました。

 それでも、友人達は変わらなく接してくれましたので、楽しく過ごすことが出来ました。夕方からは、町の居酒屋に移動して飲み会があることを聞きましたが、時間が経つにつれ、やはり疲労感が強くて、夕方前には家に帰ることにしました。家に帰ってからは、すぐに眠ってしまいました。

 まだまだ、自分は友人達のように、普通に遊ぶことも出かけることもできない状態であることを自覚した一日でした。
正直言えば、普通に遊ぶことができる友人を羨ましく思い、加害者達を恨みたい気持ちはありますが、自分の症状と上手に付き合って無理しないようにしていくことが、自分に必要なことだと思い諦めています。


 入院を経験して、わかったこと

 僕は、2001年11月から2002年4月と2003年12月から4月まで、2回の入院をしました。
 僕は、「一人で外出できるようになりたい」と、ずっと主治医の白川先生に話していました。外来で平成12年5月EMDRの入院治療を勧められていましたが、僕は治療や入院する事への不安があり、入院する決心がなかなかつきませんでした。
 なかなか解けない警戒心などの症状を早く軽減したい、「一人で外出できるようになりたい」と思い、2001年夏頃には入院してしっかりと直したいと思うようになり、入院予約をしてベットが空くのを待ちました。

 1回目の入院をして2週間後に、最初の「外泊許可」が降りて、懐かしいような感じを覚えつつ、母の迎えで自宅への帰路に付いていたときでした。病院を出発し始めた頃は、数日間の自宅外泊を楽しみにしていたのですが、段々と目的地へ近づくにつれ、倦怠感と緊張感が出始めました。車酔いはしない体質ですが、最初は「酔ったのかな?」と思っていましたが、体の震えも出はじめると、改めて僕は「自分自身の症状」を悟りました。結局、僕は自宅についてから、しばらくの間、車から降りることができませんでした。

 入院する前の、強い警戒心と近所にいる加害者達への恐怖が毎日のように続いていたせいで、恐怖に対する「麻痺」が起きていたのでした。常時緊張からか抜けることがなかったせいで、恐怖心に対する強い緊張感が自分の中では、当たり前のことになっていて気づくことがなかったのだと思います。

 一方病院は、とても「安心」できる場所でした。自宅から病院は25kmも離れていたので、「ここまでは、絶対加害者達が来ることはない」と思うことができました。病院に居るときは、事件後に感じたことがない安心感を得ることができて、緊張感が取れていたこともわかりました。相反する場所にいることで、僕は自分の「心の傷の深さ」をはっきり自覚することができたのです。

 1回目の外泊のあとから受けた治療やグループワークに参加することで、更に自覚できる症状が増え、自分がどのようなことで不安を持っているか、緊張感を感じるのかが、自覚できるようになったことで、PTSDの症状と向き合うことができるようになりました。
 PTSD患者は、包帯を巻いているわけでもなく、外見的に障害を負っているわけでもなく、他の人から見れば、一般人と変わりなく見えるかもません。他人からは見えづらい「心の病」を負っているのがPTSDなのです。

 入院中、同じ病棟の患者さん達を知ったことで、僕はPTSDについてわかったことがたくさんあります。
人によって症状も様々で、一日中完全にふさぎ込んでいる人もいれば、一日の中で症状のハイとダウンを繰り返す人もいます。このような症状を目の当たりにしても、同じ
PTSDの僕が、他の人がなぜそのような症状を起こすのか、ひとりひとりの原因が違うので、その人の症状を理解することは難しいと思うことは何度もありました。だだ、同様に「心の傷」を負っていることで、その症状に苦しんでいたり、辛いと思う気持ちはよくわかりました。

 僕は病棟の中で、安心を取り戻し、落ち着いた入院生活を送ることはできましたが、まだまだ症状が治癒したとは思うことはできない状態でした。相変わらず、外泊するときは緊張感が強くなり、退院してからも何の不安も感じることなく、すぐに一人で外出できるようにはなりませんでした。
 2回目の入院は、警戒心や緊張感の症状を完全に取り除くことを目標にして、自分から白川先生に入院治療を希望しました。自分で目標を持てたことで、かなり症状を軽減することはできました。

 「いじめから友だちを守る会」の活動について

 活動のきっかけとなったのは、いじめや暴力事件で子どもを亡くした親の人たちと2000年4月に出会い、その年の8月に、いじめや暴力事件で子どもを亡くした親の人たちの集会に参加するため両親と共に栃木県へ出かけた時のことです。
僕はそこで、いじめ自殺で友だちを亡くした△△君(当時高校2年生)と◇◇君(当時高校1年生)に初めて会いました。


 ふたりとは、会ってすぐに気持ちが通じ合うことができて、僕は久しぶりに同年代のふたりとごく普通に話をして、楽しい時間を過ごすことができました。
 その日の夜、ふたりからは友だちの死を知ったときの悲しみ、友だちを失った辛さ、凄惨ないじめの話などの話を聞きました。TVや新聞で見聞きしていた情報より、胸に突き刺さる内容でした。僕も、ふたりに自分の体験を話しました。

 3人で話をしていたとき、△△君から「同年代のいじめで苦しむ人たちを救う会をやってみないか」という話がでました。今まで、いじめ相談は大人がやっているというイメージがありましたが、△△君は自分たちの経験を生かし、「同世代の中高生が相談・サポートする会を発足させる」という提案でした。
話を聞いた僕は「すごい事を思いつくなぁ。でも、子供同士供なら話をスムーズにいくし、お互い話もしやすい。もしかしたら、多くの人を助けられるかも」と思いました。◇◇君も同様に、自分に何かできることがあるかもしれないと言いました。
全く予想もしていなかったことでしたが、この時に3人で「友だちをいじめから守る会」を発足することを決めました。

 翌日、両親や集まっていた「親の会」人達に、「友だちをいじめから守る会」を作りたいと話しました。
 「親の会」の人達は、子どもだけで活動することを心配し、母は僕が心の傷を抱えながらの活動は、負担になるのではないかと言いましたが、自分と同じような経験をする人をなくしたい、減らしたいという思いを理解してくれました。僕たちがけして無理をしないように、「親の会」がサポートしていくことを条件に活動を応援してくれることになりました。


 2ヶ月間の準備期間を経て、10月に「いじめから友だちを守る会」が発足しました。会の発足は多くのマスコミなどが取り上げてくれました。あまりの大きな反響に、正直驚きましたが、多くの人たちが僕たちの活動を認めてくれましたので、活動を始めて良かったと思いました。
 僕は、発起人となった△△君と◇◇君と、徐々に増えた同年代の仲間と活動をすることになりました。メールや電話などで同年代の交流する仲間が出来て、会の用事で外出する機会も増えました。僕の体験を聞いて、気持ちを理解してくれる人が増えました。

 事件後、ずっと辛いと思っていた気持ち、悩んで沈んでいた気持ちが、同年代の人達と交流していくことで、少しずつ明るさを取り戻すことができました。実際に寄せられる相談に自分が答えられるかどうか、負担にならないかと心配していましたが、僕が受け持った17歳の男の子は、いじめの相談というよりお互いのプロフィール交換や日常生活の報告を文通の様な感じで、1回目の入院するまで1年間、FAXのやり取りを続けました。
 会の集会や勉強会などは、長野や東京など遠方で行われることがほとんどでした。僕が一人で外出することはできなかったので、必ずどこへ行くにも母が付き添ってくれました。また、僕は自宅から遠く離れることで、加害者達が「ここまで追いかけて来ることはない」と思うことができて、とても安心できたので、会の活動は休まず参加していました。

 1回目の入院を期に、前述の通り、自分の心の傷を自覚することができてからは、会の活動が負担になることに気づいたので、会の活動をやめることにしました。
 僕は事件に遭わなければ、このような活動はしていなかったと思います。会の活動に参加して、同年代の仲間と交流することがなければ、僕は事件前の自分を取り戻すことができなかったと思っています。

 自分の裁判を見届けたことについて

 
僕は裁判所に行き、自分の裁判を傍聴してきました。裁判がどういう風に進んでいくかということは、わかりませんでした。裁判は大変なことと聞いていましたが、本当に辛いことが多くて、体調を崩した事が何回もありました。

 裁判長は、裁判の場では一番の権限がある人ですから、裁判を進めてく中で、1回や2回では裁判長でもどっちがどうなのかを、判断をするのは難しいと思いますが、せめてどっちが善でどっちが悪か、どっちが真実を言って、どっちが嘘を言っているかっていうのを、明らかにしてもらえるのではないかという期待がありました。せめて加害者達に、罪悪感とか、僕に対してすまないという気持ちを持ってくれる機会が与えられるのではないかと思っていましたが、実際の裁判は僕が思っていたものとは違って、とても残念でした。

 僕は自分の裁判を見届けたいという思いもあり裁判を傍聴していましたが、僕が傍聴していることで、大人の人達が、裁判所では僕の言っていることを認めてくれるのではないか、僕の前では嘘をつくことはできないだろういう思いがありました。学校の先生達と話を始めた時も同様で、自分のことだから知りたいと思う気持ちがあって、僕の前では嘘を付かないでほしいと願う気持ちがありました。裁判の傍聴も学校との話し合いも、回復したからできたことではなくて、回復するために自分が知ることが必要だと思っていました。

 裁判を起こした理由は、警察と学校には、僕の言うことを信じてもらえませんでしたが、「僕の被害を認めてもらいたい、加害者達に謝罪してもらいたい」という思いが、事件のあとからずっとあったからです。
 事件のあと、警察に被害届を提出し、調書を取る段階で、僕の言っていることは事実として認めてもらえませんでした。母も立ち会って同じこと言ってくれましたが、やはり認めてもらうことはできませんでした。警察に何十回も足を運びましたが、そのたびにそれは嘘だと言われたり、「君の被害妄想が大きい」などと言われて、非常に傷つきました。
 当時僕は、15歳だったので、加害者達の言い分ばかり信用している警察は、「加害者達を本当に罰してくれるのだろうか?」、そんな単純な考えしかなく、「罰してくれないんだったら全然意味ないじゃないか。加害者達が、反省しないと、また狙われる」と考えると、常に警戒心が強くなってしまいました。

 そのような中では、僕は「彼らのことは絶対許さない。たとえ、ごめんなさいと言っても絶対許す気になれない」と思っていましたが、裁判を始めてどんどん真実が見えてくると、多少そういう気持ちがおさまってきて、逆に真実を知りたいという欲求みたいなのが出てきました。
 証人尋問の際には、直接加害者達と1対1で話すことはなくても、やはり顔を見るだけでも怖いとか不安がありました。

 でも、
実際に彼らが裁判所に来ることで、「彼らの気持ちが変わって、反省してくれるかもしれない」と期待を持ったりしていました。
 しかし、実際の彼らは、あまりにも事件当時と変わってなくて、それどころかふざけたしゃべり方や姿勢だったので、非常に残念でした。


 僕が、裁判を傍聴して来て得られたものは、自分の心の変化です。裁判を傍聴して、今まで知らなかったことやわからなかったこと、警察や学校に聞いても教えてもらうことができなかったことが、たくさん聞くことができました。自分が言っていたことが、真実として間違ってなかったということが、徐々に明らかになってきたことで、安心感や自信を得ることができるようになりました。
 事件直後から、僕の言っていることは変わらないのですが、何年かして同じことを言っても、その中に入ってくる気持ちが気が付くと変わっていました。事件直後は話すことが辛くて、話すことで症状がぶり返す、体調を崩すという悪循環を繰り返していました。


 今でも、やはり話すことは辛いことですけれど、逆に話すことでプラスの面になるということが、裁判を通して自分でもわかってくるようになりました。

 最後に

 
今も続く恐怖心や不安、緊張感に対して、どう対処していけば良いのか、自分でもわからないことがあります。毎日通る道や良く出かける場所、何回も経験したことのあることに対しては、経験から注意することを考えることもできて、不安が軽減して警戒心も弱まりますが、初めて出かける場所や初めてのことに対しては、非常に警戒心が高まるのがわかります。

 
今も、僕は事件前のように、何も考えず自由に外出できたり、手放しで何かを楽しめるという気持ちがもてません。事件から、もうじき6年になりますが、上手に症状と付き合っていきたいと思っていても、未だに自分でもわからない体の反応が起きることがあります。

 
ずっと、このままの状態でいることは、自分でも望んでいません。自分でも、症状を克服するための努力をしています。努力をしても上手くいかないことはありますが、定時制高校へ休まず通えるようになったこと、出来る仕事が増えていくこと、用事のついでにコンビニへ寄ることなど、日常の何気ないことが積み重なって行くことで、徐々に安心や自信を取り戻していることがわかるようになりました。

 僕が、ここまで回復できたのは両親を始め、周りにいた多くの人達が、サポートしくださり、僕の心を理解してくれたことにあります。一人での外出、活動に参加するときなど僕が決意したことを、ただ賛成や反対するだけではなく、影で見守っていてくれたことが、大きな支えになっていました。僕は、本当に恵まれて環境の中で、自分の病気と向き合うことができて、回復していくことができましが、それでも「心の傷」は一生消えることはないと思います。

 けして、半年あまりで治ってしまうような「心の傷」でないことを、この陳述書をよんで、理解していただけるようお願いします。