わたしの雑記帳

2006/11/12 川崎女児いじめPTSD事件の民事裁判に思うこと。


2006年11月2日、神奈川県川崎地裁の1号法廷で、川崎女児いじめPTSD事件の民事裁判があり、傍聴に行った。傍聴席は被害女児側の応援者でほぼ満席に近く埋まっていた。

現在、いじめ自殺が相次ぎ、学校や教育委員会の隠ぺい体質が問題になっているが、この事件は市教委がいじめの存在を認め、被害者家族に情報を開示した数少ない事例でもある。
一方で、市教委がいじめを認めて、学校に指導に入ったにもかかわらず、なぜ、被害児童は転校をせざるを得なかったのか。なぜ、いじめをしたとされる児童たちは認めようとせず、訴訟にまで至ったのか、私自身、強い関心を抱いていた事件でもある。

Kさんのお父さんにお会いして、さらに詳しく事情を聞くなかで少し見えてきたのは、担任教師が児童らのいじめに対して指導しなかったばかりでなく、むしろ加担するような言動さえあったこと。その責任を問われるのを恐れ、加害者側に立って、調査を拒んだこと。そして、自分の子どもがしたことの事実を認めようとはしない親と一緒に加担した親たちの擁護の姿勢だった。

似ていると思ったのは「目黒区鷹番小の体罰訴訟」(me010324 me010421 参照)
体罰教師を擁護して被害者親子を攻撃した保護者たち。被害にあったのが自分の子どもだったらと置き換えて考えることもしない。ただ、騒ぎ立てるほうが悪いと攻撃し、被害者を何重にも傷つけた。数の論理で自分たちが勝つと信じていた親たち。まさか自分たちまでが裁判の場に引きずりだされるなどとは考えもしなかっただろう。
多くのいじめ事件、少年事件の事例をみて思うのは、子どもは親の鏡であるということ。親に反省がなければ、子どもは絶対に反省できない。立ち直りは極めて困難になるということだ。

この日の証人は2人。調査を妨害したり、被害者やその親を誹謗中傷したりしたとされる。
一見、善意の第三者が、こじれはじめたいじめの加害者と被害者の間を取り持ったようにもみえる。おそらく、被害女児の両親も当初はそう信じていただろう。

とても残念なことに、多くの事件でこのような役回りをする人間が出る。味方をしてくれていると信じて話した情報が筒抜けになっていたり、しげく出入りしている人間が悪意の噂を流すことで周囲も信じてしまう。信じてした人間に裏切られる辛さ。また裏切られるのではないかという恐怖心と人間不信。
本人たちは、仲間のための自分なりの正義だと信じていたりするから、罪悪感はない。

証言では、教育委員会による調査依頼の場での生々しいやり取りが語られた。教師であるにも関わらず、なぜか保護者席に座って、子どもたちを守るために調査に応ずるべきではないと発言した教師。教育委員会のひとから「あなたは本来、座るべき場所ではないだろう」とたしなめられたという。
いじめやそれに対する教師の対応を問題にしている席で、被害女児の性格や親に問題があるかのような発言をした当時の証人。場の空気がそこで変わったという。

かつて、自分の子どもが悪いことをしたときには、しつけとして女児を叱り、お尻をたたいたという原告・父親。それが、いじめられて学校に行きたがらないわが子の頬をたたいたことにされたという。
いじめられた女児にも悪いところがあるという主張。

必ず言われる、いじめられる側にも理由があるという話。どんな人でも完璧ではないだろう。子どもであればなおさら。しかし、人間として不完全な部分があったらいじめてもいい理由になるのだろうか。
周囲の人間はどんな権限をもって、よってたかって、その子を責めるというのだろう。責めた子どもたちのなかに、人から一切、責められる理由のない完璧な子どもがひとりでもいるだろうか。いじめれば、その子の不完全な部分がよくなるのだろうか。
いじめる側はどんな理由でも作り出す。それがいじめというものだ。その言い訳に大人が振り回されること自体恥ずかしい。そして、自分の子どもを擁護するために、謝罪ではなく、かえって相手を攻撃する親。この親の姿を見て、子どもが反省できるはずがない。こういう親だからこそ、子どもはいじめをするのだろう。いじめることに罪悪感さえ持てず、自分の行為を正当化するのだろう。

今回、原告側から出されたのは、女児にあてた謝罪の手紙。「早く来てね。待ってるよ。仮病とか、打ったりしてごめんね。本当にごめんね。もう絶対に打たないから、早く来てね」
担任に言われて、書かされた手紙だろうか。軽い調子で書かれた文面からは、心は伝わってこない。
事実、被害女児は親が仲介に入ったあともいじめられ、転校するしかなかった。まったく反省する気持ちがないなら、謝ってなどもらわないほうがどれだけマシだろう。
形だけでも謝られたら、許さなければならなくなる。許すことを強要される。そして、やっぱり少し、期待してしまう。こちらの鎧を脱がせておいて、再び攻撃を仕掛けてくる。そうなることがわかっていても、深く傷つくだろう。もう二度と誰も信じられないと思うだろう。謝罪なんていらないと思うだろう。

「これはあなたのお子さんが書いたものですね」の原告弁護士の問いに、証人尋問されていた母親は黙ってしまった。自分の子どももいじめに加担していたという事実を知らなかったと言った。今だ「わからない」という。わかってて否定するのか。わかろうとしないのか。
「このような発言をしたのは誰ですか」。「私です」。法廷には、原告が持ち込んだノートパソコンとスピーカーがあった。否定すれば、その場で流そうとスタンバイされていた。それを見て、観念したのか、発言を認めた。

いじめの傍観者、観衆は、被害者が反撃に出るときには加害者側につく。けっして中立ではない。積極的に加害行為を行わないだけで、やはり加害者なのだと思う。

いじめ問題が解決しない理由に、大人の問題が大きく立ちはだかっている。自分のことしか考えられない、自分本位の考え方しかできない、被害者の気持ちを想像することができない大人たち。その大人たちが、寄ってたかって、問題解決をさらに困難にさせている。いじめの防波堤ともなるべき大人たちが、いじめる側に加担する。子どもと一緒になって、子どもを、親を攻撃する。数が多いと罪悪感が希薄になる。どんなに理不尽なことでも、自分たちが勝てると思っている。
かつて、子どものけんかに大人は口を出すなと言った。今は、子どものいじめに大人が加担するなと言いたい。
いじめはけんかではないから、子ども同士で解決できない場合、互いの傷が深くなる前に大人が介入するべきだと私は思っている。大人が仲介してでも解決できれば、そこから、解決の方法を子どもたちは学んでいくだろう。しかし今、そのいじめを解決したモデルが身近にない。

大人たちこそ、いじめの被害者に味方をして、いじめはいけないことだときっぱりと教えること。いじめる側の言い分なぞに耳をかさないこと。失敗したり、悪いことをしたら心から謝罪して、二度と繰り返さないことを誓うということを大人自身が子どもたちに態度で明確に示すこと。話し合いで解決できる道を子どもたちに示すこと。
大人たちが言葉ではなく、行動で示していくことが、いじめ対策にはまず必要ではないかと思う。
いじめを隠ぺいする大人たちの姿をみて、子どもたちが何を学ぶかよく考えてほしい。
子どもの問題は大人の問題であると自覚するべきだと思う。


次回の裁判の日程は2007年1勝ち25日(木)。1時30分〜4時00分。川崎支部1号法廷にて。原告父親の証人尋問。続いて、原告母親の証人尋問の予定。




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