わたしの雑記帳

2011/11/8 群馬県桐生市立新里小学校の上村明子さん(小6・12)自殺の民事裁判

2011年11月4日(金)、午後2時から前橋地裁で、2010年10月23日、いじめを苦に自殺した桐生市立新里小学校の上村明子さん(小6・12)の民事裁判(平成22年(ワ)988号)があった。
被告は桐生市と群馬県。裁判長は西口元氏、裁判官は水橋厳氏、出口裕子氏。

傍聴券は30分前に配布で、またまた残念ながら抽選にはずれ、譲っていただいた傍聴券で、傍聴することができた。
通常は、口頭弁論と言っても名前ばかりで、書類のやりとりだけで、5分、10分で終わってしまう。しかし、傍聴人の多さを意識してか、裁判長の指示で、法廷で口頭によるやりとりが行われた。
法律に素人の私が、私なりに聞き取って、解釈した内容では、ほぼ以下のようになる。

「安全配慮義務違反」の内容について。
まず、いじめと自殺との関係について、原告代理人弁護士から、事実的因果関係だけでなく、相当因果関係があると主張。
(不法行為として損害賠償が認められるためには、加害者の行為と損害発生との間に因果関係(事実的因果関係)が認められなければならい。しかし、この因果関係を単なる条件関係ととらえると、行為者は際限もない責任を負わされることになってしまうため、現在では、相当因果関係の範囲に限定している。相当因果関係とは、経験的知識に照らして、通常発生すべき結果に対して、すなわち、行為の時に認識していた、また認識可能であった結果にたいしてのみ法的因果関係ありとするもの。※1 )

このあたりを説明するのに、「風が吹けば、桶屋が儲かる」ということわざが引用された。風が吹くと、砂やほこりが舞って、眼病になるひとが増える、結果、目を洗うための桶がよく売れて、桶屋が儲かるという意味にたとえて、風が吹くことと、桶屋が儲かることとの間に因果関係はあるものの、その因果関係を認めると、相当広い範囲のものになる。従って、風が吹くことと、桶屋が儲かることとは、相当因果関係があるとは言えない、という意味に私は理解した。

次に、いじめによる自殺は「通常損害」か、「特別損害」か、について。
原告代理人弁護士は、いじめは、いじめ被害者に自己否定意識を植え付ける。深刻な心理的苦痛を与える。その結果、自殺や自傷行為に至るとして、通常考えられる損害、すなわち「通常損害」であると主張。
(「特別損害」、すなわち特別な事情によって生じた損害の場合、訴えた側(原告)が、当事者がその事情や損害を予見し得たかを立証しなければならない)

そして、教育の専門家としての予見は可能であったとし、学校が適切な指導、監督をしていれば、いじめがあったとしても、明子さんが自殺することを防止できたと主張。
明子さんへのいじめは小学校4年生からあったのに、担任はいじめ防止措置を執らなかった、校長には危機管理意識がなかったとした。

一方、被告の桐生市は、小学生のいじめ自殺がまれであること。平成20年はゼロであったと主張として、自殺は「特別損害」だと主張した。そして、学校の予見可能性を否定。
また、小学生の場合とくに学校だけでなく、家庭が大切だが、明子さんの場合、家庭環境に問題があったと主張。
小学校5年生時、母親がスクールカウンセラーに相談した内容を持ち出して、家族の問題や経済問題、親子仲、明子さんには問題行動があったと主張。これらを明らかにするよう、要求した。

さらに、2010年10月21日の校外学習のあと、10月22日は明子さんは学校を休み、23日は土曜日の昼間に自殺をした。
土曜日も、次の日曜日も学校は休み。いじめがあったとしても苦痛を受けることはない。なのに、なぜ土曜日に自殺をしたのか。
22日と、23日の明子さんの行動が不明であるが、そこに原因があるのではないか、その間の家庭内の具体的的なやりとりを明らかにするよう求めた。
これに対して、裁判長は、明子さんの母親に、次回までに、この2日間の明子さんの行動ややりとりについて、書いて出すようにと言った。

明子さんが給食をひとりで食べていたことについて、原告はクラスメイト全員から仲間はずれにされていたと主張するが、仲間外れというのは、能動的、意図的行為。しかし、明子さんは自分から拒否して、仲間に入らず、声をかけることもしなかった。従って、仲間外れではないと主張。また、明子さんが給食を一人で食べていた日数はわずか8日間しかないと出張した。

校外学習の際に、ある児童が、「なんでこんな時だけ来るのか」と言ったことについては、校外学習前の2日間、明子さんは学校を休んだが、休んでいる時にDVDのレンタルショップにいたのを見た。
児童は明子さんを傷つける目的で言ったのではなく、授業はさぼっているので、こんな時だけ来るのかと、素直に疑問をぶつけただけで、理由なく、深く相手を傷つけるいじめには該当しないと主張。

それに対しては、原告側は、給食を一人で食べていたのは8日間だけというが、それは明子さんが学校を休んだりしたためであり、実際には4週間にわたって、一人で給食を食べていたと反論。
また、校外学習で、「なんでこんな時だけ来るのか」と言ったのは、明子さんをいじめていた張本人のA子であること。いじめがあるため、学校に来られなくなっていた明子さんに、教師が明日は校外学習なので来てみてはどうかと誘い、それならと意を決して参加したのに対し、明子さんが学校に来られない原因をつくった児童からの非難の言葉であったということを言及した。

なお、西口裁判長からは、明子さんへのいじめは、悪口と仲間はずれであり、事実関係には争いがないと、何度も断言するような発言があった。あとは、そのいじめをどう評価するかが問題だとした
そして、津久井のいじめ自殺裁判高裁判決(940715)と鹿沼のいじめ自殺裁判の最高裁判決(991126)を引き合いに、いじめをどう評価するか、予見可能性の予見とは、何を予見するのか、いじめなのか、自殺なのかという問題提起がなされた。
(被告は、この裁判では自殺損害を賠償せよと原告側が主張しているのだから、自殺を予見すべきと解釈するべきと主張)
さらに、自殺した子がどういう子だったのか、性格が影響しているのではないか、特別弱い子だったのか、過失相殺についても言及。
予見可能性が最大の争点とした。

原告弁護士は、5年生の担任から、6年生の担任への引きつぎがどのようになされたのかが、まだはっきりしていないので、はっきりさせてほしいという要望があったが、被告側はすでに認否で十分、終わっていると主張した。

裁判長は、次回(2012年1月20日11時00分から)、損害論について原告側が陳述書を提出し、結審することもあり得ると示唆した。

※1 「学校教育裁判と教育法」/市川須美子/2007720日三省堂」参照



ここから私見。

前回は、傍聴券の抽選にはずれ、裁判を傍聴することができなかった。今回も外れたものの、幸い、傍聴することができて、さまざまな問題を目の当たりにした。


事実認定の甘さ
裁判長は何度も、「悪口と仲間はずれという事実関係に争いはなく、あとは評価の問題だ」とした。
どのような書証がやりとりされているかわからないので何とも言えないが、この日のやりとりだけ見ても、事実関係に争いがないとはとても思えない。
また、いじめは隠されるものであり、学校の調査報告、調査委員会の報告さえ、いい加減で、実際に明子さんに何があったかは明らかにされていない。生前、両親が本人から聞いていたことしかなく、それさえ否定されている。
そして、よく大人たちが口にするのは「たかが悪口を言われたり、仲間はずれごときで死んでしまうなんて」という言葉。
津久井の判決では、一つひとつの行為は大したことには思えなくとも、他の児童生徒が同様のことをしているとわかっいて行うのは、共同不法行為と言って、大きな被害を与える違法な行為であると認定した。
悪口や仲間はずれがあったというだけでは、賠償する必要も認められないような子どもが日常的に行うささいな行為なのか、集団でひとりをいじめ倒すような悪質なものであるかは判断がつかない。裁判官の言う、どのようないじめであったかの「評価」にも関わる。
また、校外学習での「こんな時だけ来るのか」というA子の発言は、報告会で報告された内容によると、5回もしつこく繰り返され、明子さんはみんなの前で大泣きしたという。その明子さんをフォローすることもせず、引きずるようにして、教師たちは社会科見学に連れて行ったという。被告弁護士が法廷で述べた、小学生の子どもとして、素直な疑問もしくは感想を言っただけというニュアンスとは、ほど遠い。
にもかかわらず、原告、被告との間に事実関係の争いはないので、5年生の担任、6年生の担任、校長の証人尋問さえ行うつもりがないと、裁判長はいう。

遺族がなぜ裁判を起こすか。責任を認めてほしいということはあるにしても、まずは事実が知りたい。
子どもがたとえ親にいじめを打ち明けていても、ほとんどの場合、親に話していない事実がたくさんある。それは、親に話した内容以上に深刻ないじめであることが多い。自分で認めること自体が辛い内容だったり、親をがっかりさせたり、悲しませたりするのではないかという心配があって、打ち明けられない。
子どもの視野はせまい。大人とは問題意識も違う。いじめの加害者のことで頭がいっぱいのときに、教師の対応についてまでは伝えきれなかったりする。教師が、いじめを見て、見ぬふりをしていた事実なども、裁判をして、証言のなかから初めてわかることもある。

「聞いても本当のことは答えないだろうから」。かつてそう言って、証人尋問をしなかった裁判長がいたが、それを言ったら、すべての証人尋問を否定することになる。
事前に弁護士がチェックして提出される書面とは違い、本人が自分の意思で話すとき、思わぬ本音が出てきたり、何度か聞かれるうちに前の答えとの矛盾が生じたりする。
書面では答えてもらえなかった細かいことを質問し、答えてもらうことも可能になる。

今回、いじめていた児童は被告としていないので、証人尋問できないのは仕方がないにしても、保護者が何度も訴えても、いじめを放置してきた学校関係者の証人尋問が一切、行われないということは不当に感じる。

カウンセラーの守秘義務について
困っているとき相談しても役に立たなかった、学校と連携して有効策を打ち出してこなかったカウンセラーが、裁判になると途端に効力を発揮して、この家庭、親子にはこんな問題があったと言う。
保護者がカウンセラーに相談した内容は、非常に具体的に、市の代理人弁護士の口から語られた。
相談者の問題を解決する目的以外に、相談者に断りなく、勝手に学校に情報提供する、こんなことがカウンセラーに許されるのだろうか。
子どもが亡くなったあと、親でさえ、わが子がカウンセラーに話した内容を知りたいと言っても、守秘義務を盾に断られたり、情報が出てくるまでにいろいろ検討され、時間がかかったりする。
学校・教育委員会、事故調査委員会さえ、プライバシーを盾に、遺族に調査委員会の報告書の内容さえ、2枚の要約だけで、全文を出すことを拒んできた。
本人の許可のない情報の提供と、裁判の公開の場での秘密の暴露。刑事事件の被告人なら、いざ知らず、こんなことが許されてよいのだろうか。

桐生市が依頼した調査委員会は、上村さんが不信感を抱き、調査を拒否したにもかかわらず、いじめの存在とともに、家庭の問題が明子さんの自殺の原因であると断定した。
当事者が協力を拒んでいるのに、どこから得た情報だろうと思っていたら、スクールカウンセラーだったのかと思う。

裁判のあとの報告会である支援者のひとりが言っていた。スクールカウンセラーと言っても、元教師で、学校のスパイなんだと。
真偽を確かめたわけではないが、あり得ると思った。

今は、教師にもカウンセリングマインドが求められれる。現役時代に勉強する場合にも、職務に必要な研修としての援助を受けやすいだろう。そして、退職後の仕事としても魅力的だ。地域によっては、退職した管理職の職を退職後1年は補償する条例(?)があるところもある。
その受け皿に、今までも自治体の教育相談や電話相談の相談員がなってきた(学校側の人間が相談員をしているために、いじめの相談をしても、学校を擁護する形で、いじめられた本人の問題にされやすく、解決につながらない)。流れとしてはカウンセラーも十分ありえるだろう。
学校にとっても、正義感をもって教師や学校のやり方に批判的だったり、口を挟んでくるカウンセラーより、自分たちの元同僚で、学校や教師の立場を十分に理解して、協力してくれる人間をスクールカウンセラーとして、雇いたいと思うだろう。

家庭の問題・本人の問題について
小学校の5年生時に、保護者がカウンセラーに相談した内容が、今回、裁判で具体的に出てきた。
やりとりのなかで、あまりにひどい言われ様に、明子さんのお母さんは法廷で泣き出した。裁判の報告会でも、思い出しては泣いた。
これこそ、学校、教委の新たな攻撃、加害行為であり、子どもを失った親の二次被害、三次被害であると思う。

小学校の高学年頃になると、自我が芽生えて、今まで以上に親の思いどおりにいかなくなる。その年齢の子どもを持つ親で、まったく悩みのない親がどれだけいることか。また、その年齢で親の思いどおりに育っているとしたら、むしろそのことのほうが、後々にさらに大きな問題として出てくることがある。
市側は、親の経済的な問題や家族関係、亡くなった明子さんの性格や問題行動を具体的に上げてきた。
支援者の話ではそのなかに、明子さんがやったのではなく、いじめ加害者から罪をなすりつけられたのではと思われるような内容も含まれていたという。
自分のクラスのいじめ問題を放置した担任教師が、どれだけ真剣に事実解明をしたかも疑問が残る。表面上だけ見て、あるいは聞いて、それを今まで調査も何もせず放置していた可能性もある。

そして、学校とカウンセラーが本人や家庭の問題を把握していたのであれば、なおさら、最悪の事態になる前に、手を打つべきだった。
裁判長が判例を挙げた津久井のいじめ自殺でも、平野洋くんは転校生だった。三室小ズッコケ事件(791101)でも、被害者は転校生だった。
転校生、障がいのある児童生徒、親や本人が外国籍の子どもは、周囲と異なり、少数派であることから、いじめのターゲットになりやすい。また、お金持ちや、貧しい家庭の子どもも、他の子どもと持ち物が違う、家の様子が違う、親の職業への差別なとで、ターゲットになりやすい。
どんな家庭の子どもであっても、そしてたとえ本人に問題があったとしても、いじめてよい理由にはならない。
そういういじめのターゲットになりやすい子どもに対しては、だから仕方がないではなく、より注意して、教師が毅然とした態度でもって、いじめをさせないことが大切になる。
まして、親は悩み、学校を信頼して、他人には知られたくないような内容でも、何度も相談したり、要望を出してきていた。
親は問題の所在を知り、解決に向けての努力を懸命にしてきた。子どもの最善の利益をはかってきた。
その努力に対して、学校は今まで何の手だてもつくさず、事件が起きてから、相談内容を逆手にとって、元々こういう問題があったのだから自殺した。学校の責任ではないという。自分たちの不作為を棚にあげて、家庭の秘密を公然と暴露し、自分たちに責任はないと堂々と主張する。

正しい報告が上がらないことでの悪循環
今回、桐生市は、小学生のいじめ自殺は稀なので、予見できなくても仕方がなかったと主張し、平成20年(2008年)もゼロだったと主張している。
しかしむしろ問題なのは、明子さんが自殺した2010年(平成22年)度も、小学生の自殺1に対して、いじめが原因はゼロだったことだ。
(2011/8/10付け「わたしの雑記帳」参照)
しかも、その1名は、「友人関係での悩み」にも入っていない。「不明」となっている。
いじめ自殺7年連続0だった過去の反省から、2006年度からは、原因は複数回答できるようになった。文科省の「自殺した生徒が置かれていた状況」のところには、「当該項目は、自殺した児童生徒が置かれていた状況について,自殺の理由に関係なく,学校が事実として把握しているもの以外でも,保護者や他の児童生徒等の情報があれば,該当する項目を全て選択するものとして調査。」と書いてある。
何度も新聞やテレビで報じられたように、保護者は明子さんの生前からいじめへの対応を学校に依頼し、自殺後はいじめが原因であると主張してきた。第三者調査委員会も「いじめだけが原因とは断定できない」と結論づけたとはいえ、いじめが自殺原因のひとつであったことは認めている。
文科省の指針に従えば、明子さんの自殺は当然、いじめ自殺にカウントされるべき事案であるにも関わらず、報告を挙げていない。
自分たちが適正に報告をしていないにも関わらず、データを示して、極めてまれな例なので、予測がつかなかったとする。
文科省の児童生徒の自殺データと、警察庁の職業別自殺者数とは、毎年100人以上も開きがあることは、文科省自身が認めている。その理由を「遺族が自殺と言いたがらないから」としてるが、桐生や他の事例を見ても、遺族が言いたがらないのではなく、学校が自殺だと認めたがらない。そもそも、ほとんどの遺族は、自分の子どものことが、文科省にどのように報告されたかさえ、教えられていない。
嘘のデータを使って、自分たちの責任を逃れてきた学校、教育委員会、そして文部科学省。
間違ったデータが、正しい対応を阻害する。いかに再発防止への足かせになっているかがわかる。


結局、2006年にあれだけいじめ問題で大騒ぎをして、北海道滝川の事件が大きく報道され、言葉や仲間はずれで、小学生が自殺することもあると全国に警鐘を鳴らしても、文部科学省が、事件が大きく報道されるたびにせっせと通知を出し続けても、現場の意識は何も変わらない。そして、他人ごととしているところで、また同じことを起き続けている。
文科大臣が子どもたちに、勇気をもっていじめを大人に打ち明けようとアピールし、.そうすればいじめは解決すると言ったところで、実際に子どもが大人に相談し、親が何度も学校にいじめをなくしてくれるよう対応を求めても、学校は動こうとしない、何も問題解決しない現実は今も各地の学校で続いている。

裁判長のいじめ認識の古さ
この裁判では、現在の文部科学省が出しているいじめの定義と、裁判上の責任が問われるいじめの定義とは異なると被告側は主張しているようだ。
文部科学省は事件が大きく報道されるたびに、いじめの定義を変えた。それは一つには、文部科学省のいじめに対する認識が、現実の子どものいじめに追いついていなかったからとも捉えられる。
元々は、集団暴行や多額の恐喝など、犯罪的なもののみ、民事裁判での損害賠償の対象として考えてきた。あるいは、ふざけであっても、怪我をした、後遺症が残ったなどの結果に対して、損害賠償を認めてきた。
しかし、現実は、直接的な暴力を加えられなくとも、言葉や態度のいじめだけで、子どもたちは死に追い詰められている。
一人ふたりのうちは、「滅多にないこと」として、「通常ではない」から、「予見できなかった」「手立ての打ちようがなかった」として、原告の訴えを棄却してきた。
それが無視できないくらい、言葉や態度のいじめで、客観的に判定できるほどの精神的なダメージを負ったり、自殺する子どもたちが出てくると、可能性として十分にあり得る、予見できる損害と考えざるを得なくなった。

それでも、裁判長は言う。自殺した子どもは、特別、弱い子どもだったのではないか。
かつては、文科省も、心理学者の分析から、いじめられる子どもの特徴を「精神的に弱い子」「わがまま」「過保護」と決めつけていた。
だからこそ、いじめの定義に、「自分より弱いものに対して一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」としていた。
それまでも、いじめは「一部の児童生徒だけでなく、すべての児童生徒にかかわる視野の広い問題である」としていた(1985年6月 検討会議緊急提言)が、2007年度になってようやく、いじめの定義から、「弱い者」「継続的」をはずし、「当該生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」と、よりいじめられている側の受け取り方を重視した定義にした。

また、平成7年3月の「いじめの問題の解決のために当面取るべき方策等について」では、「いじめについては、従来、一部にいじめられる側にもそれなりの理由や原因があるとの意見が見受けられることがあったが、いじめられる側の責に帰すことは断じてあってはならない。いじめは、子どもの健全な成長にとって看過できない影響を及ぼす深刻な問題であるとともに、人権に関わる重大な問題である。いじめの問題については、まず誰よりもいじめる側が悪いのだという認識に立ち、毅然とした態度で臨むことが必要である。」と書かれている。

津久井の事件では、「いじめられていることを打ち明けなかったことや洋くんの行為に触発された面もあるとして洋くんの責任や、子どもが死ぬほど追いつめられていることに気付かなかった両親の責任が大きい」として7割もの過失相殺をしている。
この過失相殺自体に大いに疑問を感じるが、明子さんの場合、
いじめを打ち明けていた。親はいじめに気づき、学校に何度も相談していた。
それでも、過失を言い立てようとすれば、いくらでもこじつけることはできる。裁判長が、「弱い子」などと発言していることから、明子さんの性格などにも原因を認める可能性があると懸念する。

判例主義について
かつては、犯罪的ないじめしか損害賠償の対象として認められなかった、また、客観的に見て判断しにくい心への暴力や、精神的被害に対して、日本の裁判官は長い間不当に過少評価してきた。くわえて、言葉や態度のいじめというのは、証拠が残りにくい。客観性を確保することが難しい。
そのことから、言葉や態度でのいじめ自殺事件の勝訴判決は極めて少ない
小森香澄さんの裁判(980725)と、2006/8/18に自殺した高橋美桜子(みおこ)さんの自殺裁判の判決(2011/5/20 名古屋地裁で、学校側の責任を認め、約1490万円の支払いを命じる。いじめ、自殺の予見性、いじめと後遺症による自殺の因果関係を認定。)くらいではないかと思う。

判例主義は、上位裁判所の判決のほうが適用されやすいが、小森さんは高裁で和解。高橋さんは現在、控訴審中で確定していない。
さらに、判例集に掲載されているかどうかも目安になるというが、高橋さんの場合、事実認定で原告側が納得いかない部分があり、判例集には掲載しないという話もある。
有形暴力を伴うものでは、津久井や鹿沼の判例が高裁や最高裁のものがあるが、心理的なものでは、自殺事案では地裁判決しかない。
桐生市のいじめに極めて似ている北海道滝川市のいじめ自殺裁判は、和解書のなかでいじめの存在と学校の責任に言及し、過失相殺のない賠償金を支払う、再発防止策の約束までさせた、勝訴判決にも勝るとも劣らない内容だったが、判例という意味では、判例集にも載らない。

裁判官は、自分が出した和解については双方の合意点を見い出したとして、高い評価を強調するが、いざ、他の裁判で判決の参考にするのは、きちんと判決が出されたものだけで、和解はどんなに優れた内容でも、ほとんど顧みられることがない。矛盾している。

西口裁判長は、津久井や鹿沼の判決文をよく読み、参考にするようにと言った。共に原告勝訴の判決であるので、ある面で希望は持てるものの、どの部分をとるかによって、原告の主張がどこまで認められるか、大きく違ってくると思われる。

*********

原告側が民事裁判を提起して約1年。裁判所は早く決着をつけたいという思いの方が強く、十分に審議しつくされていないのではないかと疑念を抱く。
はやく決着がつくということは、裁判所にとっても、被告側にとっても、そしておそらく、原告弁護団にとっても、労力を考えればプラス部分が大きいだろう。
毎回、傍聴券を求めて大勢が並ぶ注目の民事裁判ではあるが、桐生市や群馬県としては、大きく世間を騒がせた事件に一刻も早く終止符を打ち、世間にも早く忘れてもらいたいという思いが強くあるのではないかと思う。
しかし、遺族がなぜ裁判を起こしたのか、起こさざるをえなかったのかを、裁判所には汲んでもらいたいと思う。拙速にならないことを願う。



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