わたしの雑記帳

2009/3/20 草野恵さん(高1・15)の民事裁判。両親の証人尋問。

2009年3月10日(火)13時30分から、東京高裁103号法廷で、草野恵さん(高1・15)死亡事故の民事裁判が行われた。
裁判官は、河野清孝裁判長、小西洋氏、草野克也氏。
この日は、原告母と父の本人尋問があった。
(※以下、不正確な部分もあることをご了承ください)

最初は母親から。原告代理人の樫尾わかな弁護士から主尋問がはじまった。

Q:入学当時のことについて。
A:メグは高校入学後、バレー部に入った。中学でもバレー部だったが、生徒会で思うようにやれなかった。高校で本格的にやりはじめた。
当初は、帰宅すると「聞いて、聞いて」とU顧問のことや友だちのことを楽しそうに報告していた。

Q:ノート事件について。
A:1学期にU顧問から、友だちにノートを借りた件で厳しく叱られたと聞いた。
2003年10月半ば、同じバレー部の母親から聞いた。
友だちから借りたノートを家に忘れ、自分のノートだけ提出したことで、U顧問がみんなが練習中に体育館で大きな声で、「お前なんかこのチームにいらないんだよ!」と怒鳴られたと聞いた。

Q:そのことは恵さんからは聞いたことは?
A:あとから思えば、丁度その頃、普段と違う様子だったことがあって、「何かあったの?」と聞いたが、「何でもない」と話さなかった。「話したほうが気がらくになるよ」と言ったが、「いい」と言った。
7月10日頃、「バレー部なんて入るんじゃなかった」と言った。それまで、U顧問のことをよく話していたが、ぷっつり話に出なくなった。

Q:バレー部の合宿について
:すごく怖がっていた。「毎年、毎年、倒れるひとがいる」「倒れるひとがいて当たり前なんだよ」と言っていた。
「生きて帰ったらお祝いしてね」と2度も、はっきり言った。


Q:7月29日の恵さんが倒れた日について。
A:学校から5時58分に電話があった。「熱中症で重篤な状態です」「病院の先生に両親を呼ぶようにいわれました」とF顧問から電話があった。新幹線のなかで再び連絡があり、「頭の中に血がたまっているので、緊急手術します」とのことだった。
競技がバレーボールなので、まさか命をなくすことは100%ないと信じていた
夫と、メグは恥ずかしがりやなので、かわいいカツラを買ってあげようと話していた。

Q:病院についてからのことについて。
A:U顧問は外に立って「申し訳ありません。すみません」と言った。
手術室前で待っている間、説明は全くなかった。重篤だとは想像しなかった。
メグは真っ白な包帯でまかれて、たくさんの管がつけられていた。
無事、手術が終わってよかったと思い、「安心しました」と言ったら、U顧問がすごい目で見て、なんでこんな目で見られなければならないのかと思った。
主治医に「話があります」と言われ、「遠まわしな言い方はやめます。お嬢さんの救命はできません」と告げられた。
「体育館は何でできているんですか?」「床はコンクリートですか?」「硬い床ですか?」と何度も聞かれた。
「すごく硬いもので打ったとしか思えません」と言われた。

救命はできないと言われて、頭が真っ白になった。「もって1週間か10日。もっと早いかもしれません」と言われた。

Q:そのときの心情は?
A:言葉で整理できない。助かることしか考えていなかった。まともに受け入れることができないでいた。
メグはまばたきもできず、指1本動かせない状態だった。メグが死ぬことは全く考えられなかった。
「お母さん、ごめん」と言いながら起きてくるのではないかと思った。

Q:学校からの説明は?
A:全く受けていない。
医師が「司法解剖させてください。脳の腫れが異常で、全く納得がいかない」と言った。
父親は、「これ以上、メグに痛い思いをさせたくない」と言ったが、私は「よろしく、お願いします」と言った。
2人の意見が違ったので、「警察の検視官の判断に委ねましょう」ということになった。
検視官は、「この目のあざはどうしたんだ。殴られたのか?」と聞いた。
私たちも殴られてできた傷だとずっと思っていたくらいひどい傷だった。
警察官が、「司法解剖しましょう」と言ったので、父親も「よろしくお願いします」と言った。

Q:恵さんの荷物はいつ受け取ったのか?
A:着替えなどの入ったバックは遺体安置所にあったので、「持って帰ります」と言って、持って帰った。
1カ月以上、開けられなかった。でも、「洗ってあげなくちゃ」と思って、バックをあけて、携帯電話が入っていないことに気づいた。
バレーノートも入っていなかった。バレーノートは、自分でできなかったことや頑張ろうと思うことを書いて、U顧問のコメントをもらう。
9月30日に、1年A組の生徒さんが全員来た。バレー部2人に、「メグの携帯がない」と話すと、合宿中、携帯電話は取り上げられていて、帰りのバスの中で返されたと話してくれた。
メグの携帯を2人が捜してくれて、1カ月後に持ってきてくれた。帰ってきた携帯は充電しようと思ったら、バッテリーが抜かれていた。

Q:そのことは、学校に話したのか?
A:話した記憶がない。

Q:学校との話し合いについて。
A:3回、学校と面談の機会をもったが、全く納得がいかなかった。他人ごとのような説明だった。
私たちが聞きたかったのは2つ。何でメグは亡くなったのか。なんでメグを早く、病院に連れて行ってくれなかったのか。
顧問が大丈夫だと判断したから、病院に連れて行かなかったといわれた。
U顧問の証言で、28日の午後8時頃、ネットにぶつかって頭を強打したとき、「大丈夫?」と聞いたら、「大丈夫」と返事が帰ってきたから、大丈夫だと思ったと言った。親であれば、頭を触って、「どこをぶつけたの?」と聞いただろう。
「尻もちをついたと思っていた」と言うが、保健体育の先生が、頭を打った音と尻もちの音を間違えるだろうか。
29日に倒れたときも、過呼吸と判断して、重篤だとは思わなかったという。そのときに病院に連れて行ってくれていたら、メグは助かったかもしれない。

Q:本人が言わなかったからということについて。
A:運動部では、どこを打ったとか、自分の都合の悪いこと、痛いなどとは言える環境になかったと思う。
倒れたときに、「大丈夫?」と聞かれたら「大丈夫」と答えると思う。
メグの兄はラグビーをしていたが、倒れて脳震とうを起こしていても「大丈夫?」と聞かれたら「大丈夫」と答えるだろう。「大丈夫じゃない」とは言えなかったと思うと言っている。
メグはノート事件を引きずっていただけに、一生懸命、人のために、やる気を見せなければ、弱音を吐けないと思っていたはずだ。
29日、U顧問は歩くこともできず、2名の生徒に支えられて運ばれたメグの頬をたたいて、意識を取り戻させたという。
倒れたときの様子も、何度も倒れ、上級生がわきから手を入れて立たせたという。
しかし、昨年と同じ過呼吸だと判断して、頬をたたいて、名前を呼んだという。
たとえ過呼吸だったとしても、意識がないのだから、重篤と判断して、病院に連れていくべきだった。

Q:U顧問からの謝罪はあったのか?
A:説明も、謝罪もなかった。線香を3回上げに来たが、メグが何で死んだか一切、説明がなかった。
直接話したことや電話で、娘が何で死んだか知りたい。すべて教えてほしいと頼んだ。
U顧問は「自分ができることは言ってください。何でもします」と言ったが、「では教えてほしい」と言うと、「学校の一員ですので、話すことはできません」と話してくれなかった。

Q:生徒から聞いたことは?
A:生徒が、我が家を訪ねるときには、前日に顧問に報告しなければいけないと聞いた。行ってからも、草野の家に行って、こういう話をしましたと報告しなければ行けないと聞いた。
また、カウンセリングということで、生徒を集めて、「何で草野の家に行くんだ」「行かなければいい」「誰が連絡をしたのか?」「行こうと言い出したのは誰か?」などと聞いたという。それは、子どもたちから聞いた。
しかし、生徒たちは、進級など、節目ごとにメグに報告に来てくれた。

Q:生徒が最初に来たのは?
A:2003年11月の頭だったと思う。1年生部員全員が訪問してくれた。
「来るのが遅くなってごめんなさい。本当はもっと早く来たかったんだけど、学校と草野さんがうまくいっていないと聞いていたので」「行ってはいけない雰囲気を感じていた」と話してくれた。
そのときに、「メモを見ましたか?」と聞かれて、「メモって何?」と聞き返すと、合宿を切り上げて帰るバスのなかで、「メグのママに見せるため、知っていること、見たことを書きなさい」と言われて書いたと話してくれた。
この時、はじめてメモの存在を知った。
「メグのママに見せたら、怒っているので」ということで、私たちは書き直しさせられたと言った。3年生はU顧問が、2年生はF顧問が指導したと言った。


そのあと、2004年4月の頭くらいに、3年生が卒業して進学したのを見計らって、「メグがなぜ死んだか全くわからないので、知っていることを教えてほしい。心にぽっかりあいた穴を生めてほしい」と話して、8名全員に来てもらった。
そのとき、ひとりの子は「すごい音がした。審判台が倒れたくらい。ふり返ると、メグが立ち上がろうとしていた」と話した。
別の子も、「体育館中に響き渡るくらいすごい音がした。顧問がしゃべるときはよそ見をしたらいけないことになっているが、思わずふり返ってしまった。メグは倒れていたのが起き上がるときだった」と話した。
宿に戻ってメグに「何で倒れたの?」「大丈夫?」とお風呂でいろいろ聞いた。メグは「平行感覚がない」と話していた。

ミーティングのときに、メグは集中できていない様子で、いろんな方向を見ていた。それを見てU顧問は「全くあんたって子は変わっていないわね」と吐き捨てるように言った。
「なぜ?」と聞くと、「よくわからない。ノート事件のことかなと思った」「あの時はU顧問が机を蹴飛ばし、机がぶっとんだ」「すごい声で怒っていたよね。メグは泣きながら帰っていった」と話してくれた。
顧問の信用をなくして、メグはひとの3倍もがんばって名誉を回復しなければいけないと思ったのではないか。

「メグは体力的に劣っていたが、それでも一生懸命やっていた」と話してくれた。

Q:恵さんが合宿中に顧問に注意を受けたというが。
A:合宿中、メグは突然、3年生の部屋に部屋替えされた。
そのことについて、部員が「キャプテンと顧問が事前に相談して、合宿中に注意する子決めている。この時は3名の名前があがったという。

Q:合宿に参加したのは?
A:1年生が14名。2年生が8名。1年生を目当てにすると聞いた。

Q:恵さんが倒れたときのことについて。
A:メグは倒れて意識がなかった。また呼吸かと思ったという。メグ、メグとよんだが反応がなかった。白目を剥いていたと言っていた。倒れるときには、崩れるように前のめりに倒れて、意識がなかったと。
メグが更衣室に運ばれたあと、部員たちはコートに戻された。U顧問から水を飲ませるように言われて、飲ませようとしたが、意識がなく、口からこぼれたと話した。
意識が戻って、う〜んというような声を出したので、どこか痛いの?と聞いたら、うなずいたように見えたという。
「痛い」「ここ」「寒い」と言った。汗をかいていたので「着替えようね」と言うと、両手をあげて、「お母さん」と言い着替えさせた。

U顧問は、この時のことを「大丈夫?」と聞いたら、「意識が戻ったから大丈夫です」と報告を受けたから大丈夫だと思ったと言った。お昼ごはんは、顧問の報告ではメグは全部食べたと言っていたが。子どもたちは、メグがかなり疲れていた様子だったから、声をかけずにそっとしておいたと言っていた。保護者からのスイカの差し入れがあったが、メグは手も出せない状態だったという。
メグはスイカが大好きだから、食事ができるくらいなら食べたはず。

29日の午後、ツーマンといって、2人で顧問の投げるボールを受けたとき、メグは前のめりに倒れて、ピクリとも動かなかったという。動けないメグを3年生部員たちが、両手をそれぞれ持ってコートに出した。
涼しいところに移動させようと体育館の入り口に皆で移動させたが、メグは失禁していたという。手足が内側に曲がっていたといっていた。みんなで手足をマッサージした。顧問は「様子をみましょう」と言ったという。
5分間、様子を見たという。
救急隊が到着したときには、瞳孔が開いていて、駄目だと思ったくらいだと聞いている。
そんな状態なのに、体育館の中では平然と練習が続けられていて、周りを見たら、危ない子がいっぱいいたと聞いた。


Q:そのことは誰から聞いたのか?
A:翌年4月、救急隊員にお礼にうかがったとき、メグを搬送してくれたひとが2人いた。その日、体育館には何度も行ったと。
体育館のすごく暑くて、誰もいなくても32、3度あった。体育館の床から70センチのところでは37度くらいあった。

Q:恵さんと家族の関係について。
A:メグはやっと生まれた女の子で、2人の兄と年が離れていた。どこに行くにも一緒だった。買い物にもよく行った。
家族にとって中心的存在で、宝物だった。2番目の兄と年が10歳離れていて、半分父親のようなもので、とてもかわいがっていた。メグが亡くなったあと、私は離れられなくて、泣き暮らしていた。兄たちは、自分たちも辛いのにかばってくれた。
「復帰しろよ。このままではだめになる。俺たちも辛いんだ。俺たちも子どもなんだよ」と言われた。
息子が、メグの写真の前で声を殺して泣いているのを見た。

Q:裁判を起こした理由について。
A:学校からは、娘はなぜ死んだのか、何があったのか、疑問に思うことを教えてくれない。娘の死を無駄にしたくなかった。生きた証を残したい。U顧問は今でも「あの時の判断は間違っていなかった」と言っている。彼女が間違っていなければ、娘は生きている。娘はしゃべることができない。自分がやってきたことに対して、どこがいけなかったのか、どうすればよかったのか、もっと反省してほしい。
保護者会にも一度も呼んでもらえない。学校が説明したのは、葬儀に参列したとか、死んだあとのことばかりで、なぜ娘が死んだのかの説明はなかったと聞いた。しかも、女子バレー部の保護者のみで、一般の保護者は、事故について聞かされていなかった。
娘の死を真摯に受け止めて、再発防止に努力してほしい。死の真実を知らされていない。娘の死を無駄にしたくない。
学校側は数ヶ月で会話の窓口を閉ざしてしまった。裁判所にお願いして、正面から受け止めてもらうしかなかった。


******
被告弁護士からの反対尋問

Q:訴状では、硬膜下血腫がいつできたか特定されていない。硬膜下血腫ができたプロセスがこの裁判の争点になっているが、いつできたと考えているか?
A:母親としては、いつできたというのは関係ない。助けてもらうべき命を助けてもらえなかったということだけ。

Q:合宿中、辛いと言えないというのは、自分がバレーボールをやっていた経験からか?
A:そう。息子たちも絶対に言えないと言っていた。いろいろ聞いて歩いた。

Q:生徒メモによると、28日の午後、恵さんが気分が悪いというので、吐きに行ったらどうかと言ったとあるが、生徒同士で、あるいは自分の判断で、練習から抜け出ることができのではないか?
A:自分の判断ではなく、先輩の指示で、練習からはずれることができた。

Q:カウンセリングは何のため?恵さんの死で動揺した生徒のためではないのか?
A:誰々来なさいと、強制的にカウンセリングと称して、行われた。

Q:合宿中に注意する子を決めていたというのはどういう主旨か。悪いことをした子をということか?
A:私にも、どういう主旨かよくわからない。

Q:救急隊から、午前中に運ばれた子のほうが重かったとは聞いていないのか?
A:一切、聞いていない。

Q:K病院で別の対応があったらとは思わないか? 
A:思わない。



原告である父親の本人尋問。角田雄彦弁護士から、主尋問。
Q:母親が言ったことで間違っている点は?
A:ない。

Q:K病院で顧問から、どうして救急車で運ばれる事態になったか説明はあったか?
A:ない。
Q:あとで到着した校長からは?
A:ない。
Q:医師は学校に恵さんの容態を説明したのか?
A:K病院の医師から、学校と両親は今後、加害者と被害者という関係になるかもしれないので、病院からの説明はご家族にだけします。学校にはお父さんに聞いてくださいといいますが、いいですかと言われた。医師からは私にのみ情報が来た。
Q:学校に要望は?
A:母親から、廊下にスーツを着た人たちが6、7人いたのをなんとか廊下からどいてほしいというので、私のほうからこの人数を呼ぶ余裕があったら、こんなところにいないで、原因究明してくださいと言った。
31日に恵は亡くなった。15年の命を無駄にしたくない。原因究明プラス再発防止策をつけて報告してくださいと校長に言った。

Q:最初は解剖に反対していたのに、承諾したのはなぜか?
A:子ども2人と母親が賛成した。警察からも司法解剖したいといわれた。解剖する理由として、検死したが原因がわからないと言われたので、お願いしますと言った。

Q:学校からの説明は?
A:学校とはじめて原因について話したのは、2003年8月16日。8月8日付けの事故報告書の概要を校長が読み上げた。
私たちが知りたかったのは、何故、体育館でのバレーの練習中に娘が命を落としたのかということ。
学校の報告書には、28日に、ネットにぶつかって倒れ、頭を打って出血したみたいだと書かれていた。
8月16日になって初めて、7月29日の午前中に倒れたと聞いた。
なぜ体育館の中で、どういう対応をしていたのか、なぜ病院に連れていかなかったのか、説明してほしかった。しかし説明はなく、納得がいかない、


Q:学校の対応について。
A:病院に連れて行くチャンスは3回あった。
1回目は、28日にネットでぶつけて頭を打ったとき。脳のなかで出血していると医者から聞いていたので、その時点で病院に連れていってほしかった。出血原因として結びついた。
ネットにぷつかったときに顧問は音を聞いている。しかし、練習や応援をしているので問題ないという。
「大丈夫?」と聞いたら、「はい」と返事があったから、大丈夫だと判断した。だから病院につれていかなかったという。
なぜ、顧問が判断するのか。ぶつかったあとも、顧問ではなく、先輩がフォローしている。納得いかない。
大丈夫と聞く前に、どこを打ったか聞いてほしかった。いきなり聞いて、「大丈夫ではない」という生徒はいない。
8月16日になって、29日の午前中に恵が倒れていたことが判明した。この時点が2回目のチャンス。この時点もなぜ、病院に連れていかなかったのか。
3回目は、目の周りの傷が大きくなったとき。病院でもアザが気になった。なぜタクシーで病院に連れて行けと指示しないのか。

29日に恵が倒れて運ばれたとき、意識がなかったので顧問を呼んだ。
倒れたところを見ていないというが、どういう状態で倒れてか、なぜ生徒を呼んで聞かないのか。なぜ、医者でもないのに判断するのか。生徒の意見も聞いてほしい。
8月16日の説明では、生徒の意見をしっかり聞いて報告書に書いていますと言われた。

Q:学校に質問状を出したというが?
A:9月1に質問状を出した。なぜ、病院に連れていかないのか。本人が大丈夫と言ったから、顧問が判断したという。
15歳、高校1年生が顧問から大丈夫かと聞かれて「はい」というしかない。納得のいく説明はなかった。
頭を打ったら病院に連れていくのが常識ではないかと言ったら、校長は職員室でちゃんと指導していますと言った。ではなぜ、倒れたのに連れていっていないのか?

Q:悪いのは顧問か?校長か?
A:管理責任は学校にある。
Q:学校の説明は納得したか?
A:納得しない。学校からは説明はとくになかった。学校は間違いなく対応したという。しかし、突然亡くなった。お悔やみ申し上げますという。教師の目の前で生徒が亡くなっているのに、管理責任はないと言う。
代理人に再度質問状を出したが、代理人が学校からの説明は全部終わったという。
反応するパワーがなかった。現場に行くしかなかった。
警察は業務上過失致死の容疑で顧問を書類送検した。
私たちは3年後に民事訴訟を起こした。恵は私立大学付属高校の1年生だったので、同級生のことを進級で不利益があったらいけないと思い、すぐには訴訟を起こさなかった。

Q:恵さんについて。
A:恵が生まれたのは38歳のときだった。私は営業をやっていて、家にいる時間が少なかった。出張もあり、有給もほとんどとったことがない。企業戦士だった。仕事に没頭することが私の務めで、妻に任せることで子どもが育つと思っていた。
38歳で生まれたこの子が一人前になるまでは、しっかりと働かなくてはいけないと思っていた。
マンガのサザエさんでは、サザエさんが家庭の中心になっている。恵もあんなふうに育ってくれればいいなあと思っていた。
サザエさんは、父と母と同居している。長女で、妹と弟がいる。メンバーの中心人物。
恵も大きくなって、一緒に生活できるよう、できるだけそばにいてほしいと思っていた。
恵は家族のイベント係りだった。クリスマスや正月、誕生日会など、お父さんもちゃんと参加するのよとしきっていた。

Q:事故の一報を聞いたときのこと。
A:合宿で何かあっらたしいと聞いたが、バレーをやっていたんだろ?バレー部の合宿だろ?と、重大なこととは思わなかった。
けがをしたくらいしか想像がつかなかった。病院に着いたら手術中だったが、命に別状があるとは思わなかった。
医者から救命の可能性がないと聞いて、自分が、親としてできる手立てはないのか、今すぐに東京に連れ帰ったら助かるのか、などの考えが頭の中をめぐっていた。
15歳だった。子どもの命を守れなかった。本当に申し訳ない。

Q:仕事はどうしているのか?
A:今はしていない。2005年1月に退職した。恵が亡くなって1年半。自分で退職した。
一つには、恵が一人前になるまでは働かなくてはという目標がなくなった。働きがいの中心だった。
二つめとして、
2003月7月31日に恵は亡くなった。学校との会話は10月に、3カ月経過したあと会話が途絶えた。
最後はどうだったんだろう。苦しくなかっただろうか。自分で恵に近づくしかなかった。毎月のように新潟の体育館に行った。
三つ目として、妻が家にこもるようになった。一人で買い物に行って、いきなり泣いて帰ってくる。後ろ姿が娘にそっくりで、走っていってみたら違ったと、買い物もせずに泣きながら帰ってきた。そんなことが何度もあった。
側で守っているほうが、仕事をするよりいいと思った。

Q:どれくらいの頻度、現地に行ったのか?
A:ほぼ、毎月のように行った。恵が泊まった旅館にも行った。恵の足取りをたどった。そういうことで恵に近づきたいと思った。
今、ここにいたらな、なんでいないんだ。同じ年恰好の生徒をみると思った。
子どもたちが犠牲にならないようにしたい。
Uの証言では、ネットにぶつかって倒れた音を聞いてからしばらくして動いているのを見て大丈夫と判断したという。大丈夫かと聞いたら、はいと言ったからと言う。論理的にあわない。親だったから、子どもがこけたら、恐くて病院に連れて行く。
本人は医者ではない。頭は打っていないか、痛いところはないか、何で聞いてもくれない。行って、頭を触たら、たんこぶができていたはず。引率責任者がどうしてやってくれなかったのか、くやしくて仕方がない。

ノート事件て、私から言えば、恵は恫喝された。他の生徒から聞いた話では、U顧問は右足で机を蹴飛ばした。
新入部員にとって顧問は、社長と新入社員と同じ。机を蹴飛ばす顧問に、大丈夫かと聞かれたら、大丈夫としか答えようがない。
29日の朝には?の周りのあざがはっきりしていた。それを病院に連れて行くほどのことはないと判断したという。
今も、病院で見た目の周りのあざの印象が強い。女の子だから、生きて帰っていたら、あざだけでも何かあったのか、答えを求めていたと思う。

倒れたあと、恵は更衣室に運ばれた。ほっぺたをたたいたら意識が戻ったという。いきなり頬をたたいて、恵と呼んだという。
どうやって倒れたのか、意識はあったのか、なかったのか、事前情報をどうしてとらなかったのか、考えられない。どうして過呼吸とジャッジできるのか理解できない。

3回も専門医に診せる機会がありながら、適切に対処できなかった。今でもそうであるなら、恐くて子どもを預けられない。
恵は携帯電話も取り上げられていた。もし、手元にあったら電話できたはずなのに。28日、SOSを出したはずだと悔やまれた。
28日、練習で倒れたあと、U顧問に「何しましょう」と尋ねたところ、球拾いなどできることをやっときなさいと指示が出されたという。恵は完全に練習ができる状態で体育館に戻ったわけではなかった。

学校は安全かつ安心な場所と信頼して子どもを預ける。今回のように事故が起きたときに、どこかに問題がないか、ひと一人が亡くなっているのに反省していない。いきなり死んだという。Uは今でも顧問を継続してやっている。立ち止まって自分と向き合って真剣に考えてほしい。でないと、また同じ犠牲者が出る。生徒は先生も顧問も選べない。

29日の午前中、練習で倒れたあと、U顧問は自分で恵の様子を確認していない。マネージャーたちから聞いている。
先輩から聞くので十分としている。部員と顧問の関係は、先輩を通じて容態を把握している。上下社会が歴然としていた。組織体制の上に顧問がいる。
命を預かる顧問が自分で自ら生徒の様子を要所要所で確認しなければならない。倒れてどのくらいになるのかも全く把握していいない。私が過呼吸と判断したらかそれが正しいとしている。


*********
ここから反対尋問

Q:医師が、学校と草野さんとが、加害者と被害者の関係になるかもしれないといったのは、29日の夜か、30日の昼くらいか?
A:29日からずっと娘のそばにしかいなかったから、昼も夜もわからない。医師と初めて話したときか、2回めくらい。29日に医師から命の可能性がないと付けられた。

Q:進級で不利益があったらいけないというのはどういうことか?
A:一般的に、私立大学付属だったから、3年生に不利益があったらいけないと思った。
半年間、希望的観測で警察の捜査が行われるのを待ったが、捜査の速度がなかなか動かなかった。刑事課長が2年くらいで代わった。申し送りがきちんとされていたのかどうか。また、ほかの大きな事件が起きて刑事の数が少なくなったのもあったのか時間がかかってしまった。
Q:捜査の中身は聞いていたのか?
A:あまり聞いていない。教えてもらえるところと、教えてもらえないところがあった。
Q:刑事事件は不起訴になった?
A:2007年11月に業務上過失致死容疑で書類送検されたが、2008年7月に嫌疑不十分になった。


*********

次回は再び進行協議となる。


裁判のあとの報告会で、お父さんは伝えたかったことを問われて、
保護者は学校を信頼して子どもを預けている。顧問2人の目の前で娘は亡くなった。なぜそうなのか、しっかり教えてほしい。
それをしっかりやらないと、また同じ犠牲者が出てしまう。水も漏らさぬ対策を考えて報告してほしい。それが恵が生きる道だ。
しかし、学校や顧問は今だに正しいと言っている。顧問をやめさせることもしない。
いつ、何をすれば恵は助かったのか、顧問自身が自分で向き合って真剣に考えてほしかった。

母親は、顧問がメグの死から目をそむけて、学校のかべのなかのできごとで終わらせようとした。
学校には真摯に考えてほしい。
3年生の責任にしてしまったことが許せない。
顧問がみんなの健康に気をつけて、間違いがなかったら、メグは生きている。
と話した。

また、弁護団は、今回の両親の証言を通して
1.注意義務に関する法律論を常識に近づけさせること
2.裁判官を事件に直面させて逃げさせない
3.部員生徒の証言を聞く必要性を実感させる
ことを目的として行ったという。そのためには、抽象的な意見ではなく、事実に基づく、具体的な意見を述べてもらいたかった。何をどう話すかについて検討した。と話した。


*******

ご両親の証言の間、法廷のあちこちですすり泣く声が聞こえた。
恵さんに対するご両親のあふれるばかりの愛情が感じられた。
死ぬはずのない場所、学校で、バレーボールという事故の多いラグビーや柔道とは違った安全なはずの競技で、娘のまさかの死。そして、渦巻く「なぜ」の疑問に答えてもらえないことの苛立ち。助けられたはずの命が、みすみす放置されたことへの無念の思い。追い討ちをかけるように、自分たちの行為に間違いはなかったと言い張る学校、顧問。
一次被害、二次被害、三次被害と感じる。そして、これでもし、次の命が奪われたとしたら、四次被害などと言っていれない。

私は恵さんが亡くなった2003年の秋口には、すでにお話をうかがっていた。
ご両親そろって、他の裁判の傍聴や各地のシンポジウムなどにも顔を出されていた。
恵さんが亡くなった新潟の合宿所へ行かれたり、現地の警察や消防署に足を運ばれていたことも聞いて知っていたが、毎月のように行かれていたことは知らなかった。
そして、涙もろいお母さんに比べて、無口で、ほとんど感情を外に出さないお父さんが、恵さんを亡くして働く目標も失い、妻を支えるために仕事をやめたことも今回、はじめて知った。

提訴したのは2006年7月。やはり不法行為3年の時効ぎりぎり。
ほとんどの人たちは学校を訴えたくて裁判をしているわけではない。
あらゆる手立てをつくして、それでも学校からは話し合いに完全にシャッターアウトされてしまう。顧問から直接、話を聞きたくても聞かせてももらえない。会うことさえままならない。
厚くて高い学校の壁の周囲をぐるぐる回ったあげく、もうこれしかないと、裁判という矢文を塀のなかに投げ入れる。

本当は一緒に恵さんの死を悼み、二度と同じ悲劇が起こらないように協力しあいたかった。
とくに部活の生徒たちとは、恵さんとの思い出話や、互いの傷をなぐさめあいたかったはずだ。
それが、顧問の責任、学校の責任逃れのために、しなくてよい争いごとで年月を費やさなければならない。
どれだけ遺族の心を傷つけ、子どもたちの心を傷つけ、そして、天国の恵さんの心を傷つけていることだろう。
保身に走った学校の責任は重い。



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