わたしの雑記帳

2008/1/24 七生養護学校「こころとからだ学習」裁判

2008年1月24日(木)、東京地裁103号法廷にて、13時30分から七生養護学校「こころとからだ学習」裁判の証人尋問が行われた。
裁判長は矢尾渉氏、裁判官は澤野芳夫氏、長博文氏。
人証調べは、被告の元都教委副参事K氏と・当時の校長M氏。

元都教委副参事K氏の証人尋問中は、M氏は別室で待機。
かつて都教委だったK氏は現在は都立の養護学校の校長をしているという。

平成15年当時の調査のきっかけは、都議会議員の指摘だったという。機関紙に公立学校の教員が性教育の実践事例を書いているが、執筆者は事前に校長に申し出ているのかという内容から始まった。
それ以外に都教委が主に問題としたのは、養護学校の児童生徒に歌わせていた「からだうた」。小学校低学年では不必要で、聞いた内容をそのまま外でも発音してしまう児童もいるということ。そして、学習指導要領では、性器の名称は日本の学術用語を用いるようにと指導しているが、外国の医学用語を使っていること。
また、人形を使って、性交を具体的に教えたこと。指導要領では出産を具体的に取り扱わないように指導しているが、教えていること。外国の性的虐待のビデオを見せて、低学年に家族に対する不信や不安を持たせたなどとして、七生養護学校の「こころとからだの学習」が不適切であると並べ立てた。

それまでは、先進的な取組をしていると評価されていた七生養護の教育が、都議らの介入後、一転して不適切なものとされた。しかし、都教委が作成したマニュアルにも、不適切と指摘された外国の医学用語が使われていた。
また、それぞれの障がいにあわせた指導をするためには、人形などを使って具体的に教えなければ、理解できない。
「教えることに意味がない」という出産のこと、性交のこと。知ることで、弟や妹が生まれたときに適切な対応ができたという評価もある。また、知的障がいのある子どもたちが性的な加害者になったり、被害者になったりするのを防ぐためにも、正しい知識や虐待に対する知識も必要だ。
また、必要な性教育は「家庭教育で十分やること」であって、学校教育は指導要領の範囲でやるものというのを強調。学習指導要領に反することが問題だとした。

しかし、国の指導そのものがコロコロと変えられ、現場はそのたびに混乱している。また、七生の子どもたちは障がいを負っていること、家庭から育児放棄され施設で暮らしている子どもたちもいることなど、家庭に適切な性教育を期待するのは難しい。

尋問から見えてきたことは、結局はこじつけでしかないということ。
その真意はどこにあるのか。
これは、あくまで私が感じたことであるが、その後の元校長の尋問を聞いて思ったのが、「所沢高校」の卒業式、入学式騒動に似ているということ。
学校主導で自治がうまくいっていたことが、許せなかったのではないか。
強権発動する校長をわざわざ赴任させて、学校自治を国の管理下に取り戻した。

国、政治家はずっと教育を自分たちの思い通りにしたくて画策してきた。日の丸、君が代問題もその一環として行われたと私は思っている。政府は長い間、教員組合の反対に阻まれて、自分たちのしたい教育方針ができずにきた。時間をかけて、法律を駆使して、教員組合を骨抜きにすることに成功したが、七生の先生方が子どもたちのための教育を協力しあって、自分たちの手で作り上げていくことに脅威を感じたのではないか。
このままでは、教育への権限が自分たちの手から離れてしまう。その見せしめ的に、七生養護がターゲットにされたのではないか。

教育を子どもたちのためでなく、自分たちのために利用したいと考える政治家たち。
七生の先生方と、新しい校長、都教委、都議たちをはじめとする政治家たち。誰がいちばん、目の前の子どもたちの利益だけを考えて行動したのか。障がいのあるなし、家庭のあるなしにかかわらず、子ども一人ひとりが、人生を幸せにおくれるために努力を惜しまなかったのは誰か、裁判で白黒をつけるまでもなく、明らかだと思う。

上ばかりを見る教育者を国が一生懸命につくっていった結果が、子どもたちの荒れやいじめ問題の未解決につながり、不祥事の隠蔽につながっている。
子どもたちの最善の利益を考えるなら、権限は現場にこそ委譲し、国はサポートに回るべきだと私は思う。
この裁判は負けてはいけない。政治家の横暴が許されてはいけないと思う。



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