わたしの雑記帳

2004/9/11 ドキュメンタリー映画「スティーヴィ」 児童虐待の影響 


今日(9月11日)、赤坂ツインタワー内にある国際交流基金フォーラムで上映されたドキュメンタリー映画「スティーヴィ」を観てきた。次回の上映は、9月14日(火)13時から(145分)。機会があればぜひ観て欲しい(当日券1300円)。詳細は http://www.k3.dion.ne.jp/~stevie/index.html にて。

内容をパンフレットから引用させていただく。

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「監督スティーブ・ジェイムズが語る映画「スティーヴィ」
スティーヴィの人生は断続的な放棄についての物語です。母親に放棄され、会ったことさえない父親に放棄され、彼が最も愛した里親に放棄され、“お兄さん”であった私に放棄されたのです。だからこれはどちらが、そして誰がより悪いのか、といったような問題でもあります。それでも彼は私と過ごした時間や里親との思い出を胸に秘めて生きて来ました。もし“何かをする”と“何もしない”のどちらかを選ばなければならないのなら、私は“何かをする”を選択するでしょう。たとえ、それが問題を更に悪化させたとしても。これは普通の家族のようになりたかった深刻な問題を抱いた家族についての映画です。そしてこれは世界のどこにでもあるようなことではないでしょうか。
(YIDFF2003インタビューより)

ストーリー
スティーブ・ジェイムズが大学時代に参加した「ビックブラザー」(青少年更正のためのボランティアプログラム)で担当した少年が、スティーヴィだった。スティーヴィは、母親の激しい虐待を受けるという過酷な毎日を送っていた。監督は学校卒業後、大学のある町を離れ、スティーヴィとも疎遠になる。スティーヴィは、虐待を逃れるためにその後、児童養護施設を転々とさせられるが、施設でも虐待を受ける。世間に適応できず様々な軽犯罪に走るスティーヴィ。彼は最終的に自らも重犯罪にまで手を染めていく。カメラは、彼の犯罪と家族や周りの関係者、旧知の友人であるジェイムズ監督に与えた深い影響、葛藤の日々を映し出す。スティーヴィの半生を通して、米国社会のゆがみ、現代の孤独が浮かび上がる。

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再現フィルムなどを一切使わない、ドキュメンタリー映画だった。スティーヴィとその周辺の人びとへのインタビュー。一人ひとりの言葉に、シナリオではない、真実がある。5年の月日を費やしたという作品。監督が彼を撮り始めたとき、このような結末をはたして予想しえただろうか。
作り物ではない現実の持つ、過酷な重み。これがもし、フィクションであれば、もう少し、私たちに希望を与える結末になったのではないかと思う。

映画を観て、私が感じたのは、私自身、何人ものスティーヴィに会っているということ。メキシコで、この日本で。幼児のスティーヴィ、少年少女のスティーヴィ、青年となったスティーヴィ、大人になったスティーヴィ・・・。それはあくまで点にすぎないのだが、線として捉えられた映画の結末が、彼らの人生の一部を暗示していると、残念なことに思わざるをえない。

暴力がもたらす心の傷の深さ。幼ければ幼いほど、人生にもたらす影響力は大きい。人間の核となる部分をつくる成長期において受けた傷は、こんなにも深いところで人格を歪めてしまうものなのか。一方で、子どもの頃、ひどい虐待を体験していても、その後の困難にも打ち勝ち、素晴らしい人生を歩んでいる人たちの存在も知っている。彼らはひと以上に他者に対する思いやりが深く、神々しくさえある。
暴力を受けても、まっとうな道を歩み続けたものと、そうでないものとの違いはどこにあるのだろうと、いつも思う。

映画「スティーヴィ」が教えてくれたのは、まさしく監督のインタビューにもある、愛情の「断続的な放棄」の影響
彼が6年間過ごした里親は、惜しみない愛情を注いでくれた。彼の祖母も、異父妹も、恋人も、そしてスティーブ・ジェイムズも彼のビックブラザーとして、愛情を注いだ。確かに彼は、生みの親から虐待されて、どれだけ望んでもその愛情を得られなかった。しかし、彼にも人並みに、あるいは人並み以上に愛を注いでくれる人たちの存在はあった。それは、母親の愛の代わりにはなり得なかったのだろうか。

ここに、親ではないがゆえの「別離」、彼にとっては「放棄」の与える影響の大きさがある。親に変わる愛を一旦は手に入れたスティーヴィ。しかし、それは長くは続かなかった。祖母は彼の起こす問題行動が手に負えず児童養護施設に預けた。里親は牧師に転職したために、彼は途中で施設を替わらざるを得なかった。ビックブラザーは、学生ボランティアから、就職をきっかけに離れていった。人びとに悪意はなかった。みな善意の人たちだった。それでも、一旦は愛情を手に入れて、その相手に見捨てられたことで、彼は深い絶望感を味わったことだろう。みんな自分を捨てて去っていく。愛情不信、人間不信。
ケニアでストリートチルドレンを支援する松下照美さんが、支援の継続性をとても重視する意味がわかった気がした。途中で放り出したら、何もしないよりもっとひどいことになる。彼らに人間不信を植え付けてしまうと言った。
せめて、成人するまでの間、継続的な愛が彼に注がれていたとしたら、その後の彼の人生も違ったものになったかもしれない。
それでも、たとえその人生がどんなにひどい結末であったとしても、彼にも注がれる深い愛情があったことを、彼のためにうれしく思う。虐待だけの人生、疎まれるだけの人生では、あまりに辛すぎる。

そして性的虐待の根深さ。子どもの頃のスティーヴィはとても愛らしかった。子どもが集団で生活するなかで、年齢が低いこと、愛らしいことが、ターゲットになったのだろう。支配と被支配の関係。そして、愛情に飢えている子どもは特に、人と人との肌の触れ合い、ぬくもりを求めたがる。
自分が受けた理不尽な暴力。それを埋め合わせるように、抵抗のできない自分より弱いものに性暴力を向けた。
妹に、姪に。その心の傷を誰より知っているはずのスティーヴィが、奪われるものから、奪うものになった。しかも見知らぬ相手ではなく、自分に寄り添う身近な人びとへの暴力。それも愛情確認のひとつなのだろうか。あるいは破壊行為、自傷行為と同じ意味を持つのかもしれない。

確かに彼の歩んできた人生は過酷だった。映像では知り得ない、もっとひどいこともあっただろう。かといって、すべて周囲が悪い、環境のせいだとは私は思わない。彼にも何度もチャンスは訪れた。恋人は最後まで、彼を見捨てなかった。軽い知的障がいのある恋人とは、愛情というよりは「共依存」関係にあるように思えた。互いに、何かが欠けている相手をみて、この人には自分しかいないと安心する。本当の「愛」と呼べるかどうか。ただ、彼にとっては大きな支えだったと思う。彼女にとっても。
母親とは、ある程度の和解ができた。妹夫婦、ビックブラザー、元の里親。彼の悪いところを知りつつ、ありのままの彼を受け入れてくれた。それでも立ち直れなかったのは、彼の弱さだと思う。与えられたものを見ようとはせずに、与えられないものばかりを見てきた。大人になりきれなかった。いつまでも、他者に対して、自分に対して、社会に対して、甘えがあった。

どうすれば、自らの罪を認識して、二度と同じことを繰り返さないようにできるのか。罰を与えるのは易しい。しかし、真の反省を引き出し、それを継続させることは困難だ。
自分を傷つけた外に原因がある。そのことばかりに捕らわれて、自分自身の罪をみようとはしない。
不幸な生い立ち。それで情状酌量になったとして、本当に彼のためになるだろうか。この先の人生も、自分には不幸な生い立ちがあるのだから、他人を不幸に陥れたとしても仕方がないと、言い訳しながら生きることにはつながらないだろうか。どんな理由があろうとも罪は罪。他人を傷つけていい理由にはならないと誰かがはっきり彼に教えるべきではなかったか。表面的な優しさばかりが、その人のためになるとは限らない。
やさしい人びとが、そのやさしさゆえに、彼を甘やかした。そのツケが結果的に無抵抗な幼いものに及んだとしたら、誰がその責任をとるのだろう。

子どもの心に「闇」を与えてはいけない。そして、一度深く傷つけられた子どもには、大人たちが責任をもって、ケアしていく必要がある。それを怠れば、闇はもっと深く、そして広がる。世界中のたくさんのスティーヴィ。私たちの隣にもスティーヴィがいる。私は彼に何ができるだろう。

最後に、スティーヴィがなぜ、このドキュメンタリー映画を撮ることを承諾したのか。かつてビックブラザーとして自分に関わってくれたスティーブ・ジェイムズ(監督)と一緒にいられると思ったから。その理由が切ない。




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