わたしの雑記帳




孫たちに囲まれて、幸せなひととき。


2004/3/18 父が亡くなりました。


実家の父・杉山吉男が亡くなりました。81歳でした。
2月5日に、風邪だと思って病院に行ったところ、間質性肺炎(かんしつせいはいえん)と診断されて緊急入院。その後、4回ほども「峠」を越して、3月17日(水)午前11時13分に亡くなりました。
間質性肺炎とは、原因も治療法もまだ確立されていない国指定の難病だそうです。肺が線維状になって、酸素を採り入れられなくなる病です(ただし、死に至るとは限りません。念のため。同室のひとは父と同じ病気で一時はかなり危ない状態にまでいきましたが、その後、奇跡的に回復し、酸素ボンベすらも必要がなくなりました。病院の廊下をボンベなしに行ったりきたりのリハビリに励んでいました)。父は1年ほど前までかなりのヘビースモーカーでしたから、それが原因かもしれません。

最初は少し息苦しいだけでほとんど自覚症状がなく、深刻な病だと言われても本人も家族もピンときませんでした。意識ははっきりしており、酸素マスクや点滴を煩わしがっていました。
医者から言われた最初の峠が2月10日。その日、私の本の見本ができあがる予定になっていましたが、1日遅れました。せっかく楽しみにしていてくれたのに、ぎりぎりで間に合わないかもしれないと思いました。11日に、WAVE出版で本を受け取ってすぐに病院へ。父はまだしっかりしていました。
「この間来たばかりなのにどうしたんだ」と言われて、「本ができたから」と見せると、「ずいぶんよく書いたもんだ」「偉いな」とほめてくれました。ベットから体がずり落ちたのを元に戻してあげると、何年か前にヘルパー2級の講習を受けた私に「さち子も役に立つようになったなぁ」とも言いました。

思い返せば、私は幼い頃から父にとても可愛がられてきました。女の子ということもあって、無条件で愛されました。小さなことでも、よくほめてもらいました。勉強はあまりできなかったけれど。そして今でも、父の膝のぬくもりや背中の広さを感覚的に思い出すことができます。小さい頃にはよく手をつないで散歩もしました。バイクの後ろにも乗せてもらいました。

一時は強い薬が効いたのか、かなり回復し、廊下でリハビリするまでになりました。ただ、在宅になっても酸素ボンベを小さな手押し車に入れて携帯しなければならないということに、「情けないことになった」と落ち込んでいました。少しイライラすることもありました。知っているひとから話をきくと、同じ病のひとが、自分の新たな障がいを受け入れられるようになるまで半年もかかったということでした。父が今の状態を自ら受け入れられるようになるまで、家族は気長に見守ろうと話し合いました。

入院当初、もしもの時に延命治療をどうするかと医者に聞かれて、家族で話し合いました。私は、父はきっと望まないと思うと反対しました。しかし、兄には出張があり、もしもの時に死に目に逢えない。自分がくるまで持たせてほしいということで延命をお願いしたいということになりました。
その後、再び具合が悪くなったときに、再度医者から尋ねられました。その時には、家族の気持ちは変わっていました。同室に器械をつけたひとがいて、とても苦しそうでした。自分で何度も外そうとして、家族がいないときには、やむなく手を縛られていました。そのひとの付けている器械が延命治療かどうかは私たちには分かりませんでしたが、気管を切開しているために声が出ない、その人に対して、一部の看護士さん、若い医師は、「何を言っているかわからない」「外したらだめだって言ったでしょ。縛るよ」ととてもきつく言います。家族がいないときにさらにひどいこともありました。

延命しても回復の見込みがないこと。本人がとても苦しそうだったこと。器械をつけた患者に対して病院関係者の扱いがぞんざいだったこと。途中でやめることはできないと知ったこと(最初の危篤のときには、医師からそのような説明はなく、私たちは中断することは可能だと思っていました)。600万円もの費用がかかること。現在、その病院には3台しか器械がなく、すべて使用中(入院当初は空いていたそうです。うがった見方をすれば、病院経営的に高価な器械を遊ばせておきたくなかったのではないかとも思われました)だと聞き、延命治療をお願いしないことに決めました。また、酸素ボンベや点滴でさえあれほど嫌がって「死んだほうがましだ」と言う父が、管につながれて延命することを望むはずがないという結論にも達しました。

父に告知をするかどうかについても、家族で話し合いました。兄は本人にいろんなことを決めさせたい。自分がその立場だったら、自分の生死を他人に決められたくないと思うからと言いました。母は知らせてくれるなと反対しました。一生、酸素ボンベを使わなければならないかもしれないと思っただけで、あんなにイライラしたのだから、自分が死ぬかもしれないとわかったらショックだろうと言いました。
私は、父は恐らく、ある程度はわかっているだろうと思いました。入院直後、重症患者ばかりの部屋にひとり、意識のはっきりした自分がいて、知らせを聞いた親戚が遠方各地からみな、見舞いに来てくれました。知人も大勢、見舞いに来てくれました。事実、見舞いにきた私のいとこに父は「今回は帰宅できないかもしれない」と言ったそうです。
父は元軍人です。死線を何度もくぐり抜けてきました。それでも、何年も平和ななかにいました。また、一見強いように見えるひとでも、いざとなると動揺したりします。命が危ないかもしれないと思っただけで、生きる気力を失うかもしれない。父だって自分の病状に不安を抱いているはずなのに、あえてそれを確かめようとしないのは、真実を知りたいけれど、死を告知されるのは怖いという思いがあるのではないか。本人が聞けば答える、聞かなければあえて言わないほうがいいのではないかと言いました。
強い薬の影響か、入院によるストレスがプラスされたためか、胃に潰瘍(かいよう)ができて出血していることがわかりました。やはり告知しないことに家族で決めました。それでも、どうしても本人が知りたがったら、医師に相談して告知しようと決めました。

二度目の峠は、兄が10日間の海外出張に行く直前でした。3月3日、4日までもたないだろうと言われました。
私の本の紹介と小森美登里さんの講演などジェントルハートの記事が朝日新聞に載ったのが3月5日。朝刊は間に合わないかもしれないと思っていました。一日のうちでも変化が激しく、何度かこのまま死んでしまうのではないかと思うほど、息が苦しそうなときもありました。一方で、意識はずっとはっきりしていました。
病院に行く前にコンビニで買い求めてきた新聞の記事を私が指し示すと、父はメガネをかけて自分で読み、「さち子はすごいな」とまたほめてくれました。かつて同じ髪型をしていたことがあったからか、小森美登里さんの講演の写真を私だと勘違いしました。「私はそんなにスマートじゃないよ」と笑いました。
その日、兄は父の死に目に逢えないかもしれないと覚悟しつつ、葬式だけは自分が帰るまで待ってほしいと家族に頼んで出かけました。

6日の土曜日はジェントルハートプロジェクトのシンポジウムがあり、私はコーディネータをやることになっていました。いざという時には、ほかのメンバーに代行してもらう手はずにはなっていました。はじまる直前に母から娘(母にとっては孫)のところに電話があり、「おじいちゃんの具合がよくないみたい。パニッくっていてよくわからなかった」「話の途中で一方的に切られた」ということでした。その日は、シンポジウムが終わるまで連絡をつけられないということはすでに母には言ってありました。終わってから病院に向かうことを決めました。

かつて父も、仕事でインド・ニューデリーに家族とともに3年間滞在していた折、日本から「母、危篤」の知らせがありましたが、「日本を出るときに水杯(みずさかずき)を交わしてきた。仕事が終わるまでは帰らないと誓ってきた」と言って、帰国しませんでした。友だちのお父さんは、同様の知らせを受けたときに慌てて帰国しました。でも、私は父の信念を子どもながらに頼もしいと感じていました。
兄が出張に行くのを病室から笑顔で見送った父。私に大切な仕事があるとき、父ならばきっと理解してくれると思いました。

終わってすぐに病院に駆けつけ、それから2晩、病室で付き添いました。昼間は義姉と母が交替してくれました。父は、起きているときよりもむしろ、眠っているときのほうが呼吸が苦しそうでした。森鴎外の「高瀬舟」を思いだしました。私ももし、目の前で苦しんでいるひとに、「殺してくれ」と頼まれたら、殺してしまうかもしれないと、本気で思いました。私は少しでも長く生きてほしいと思うよりも、父の安らかな死ばかりを、病院で付き添いながら、心のなかで願っていました。

病室を見舞うひとは誰もが、父に「がんばって!」と言います。看護士さんも言います。私だけはついにその言葉を一度も口にしませんでした。「がんばって」の一言が、ぎりぎりまで頑張っているひとにとって、どれだけきついかを被害者や遺族から聞いて知っていたからです。同じ言葉をどう受け取るかは人によって違うだろうと思いつつも、やはり言えませんでした。
一度だけ、母が父に「がんばって」といつものように声をかけたのに対して父が苦笑いをしつつ、「お前まで、がんばってと言うなよ」と言いました。それを聞いて、やはり父も「がんばって」の言葉はむしろ辛いのだと知りました。
息を吸っても酸素が肺に入らない。苦しい病気です。それでも父は、看護士さんから「苦しい?」と聞かれたときにだけ「少し苦しいな」と答えるだけで、遂に一度も「苦しい」とは言いませんでした。
医者の説明では、血液中の酸素量を表す数値が90を切るとかなり苦しいそうです。80、70、60、50と酸素量はどんどん落ちていきました。40を切ることもありました。最後のほうは遂に20台になりました。それでも父は「苦しい」と言いませんでした。
父には、「がんばってね」ではなく、「よく、がんばってくれているよね。私たちのために。ありがとう」と言いたかった。そのことを母に話すと、納得をしてくれました。

3日目の夜は義姉が付き添ってくれる予定でしたが、その必要がなくなるくらいに回復しました。そして、14日に帰国した兄は、その日は帰宅が夜遅かったために、翌朝、病院に寄りました。父は笑顔で迎え、そして、兄とふたりっきりで話をしたいと言いました。
私は父に可愛がられてきました。でも、こういう時にはやはり長男が頼りなんだと、少し嫉妬を感じました。
父は兄に遺言を託しました。今まで、兄が出張から帰るまではと頑張ってきた。もう、いいだろう。自分は戦争で死ぬはずだった人間だ。未練はない。延命治療はしてくれるな。早く楽にしてくれるよう、医者に相談してほしいと言ったということでした。葬式のやり方、必要な連絡先、わからないことは誰に相談したらいいか、税金などの手続きのこと、残される妻をよろしく頼むということなどをとても冷静に話したようです。
日に日に体力が落ちて、言葉数も少なくなっていた父が、はっきりした口調で長時間、兄と話しているのを少し離れたところから見守りながら、母は「あれだけしゃべれる元気があるのだから、じき退院もできるのではないか」と言いました。最後まで、母だけがどうしても、夫が死に直面していることを受け入れることができずにいました。

翌、17日、11時からの予定で、母と兄夫婦とその娘、私たち夫婦と娘。かつて父が若いときに、事情があって一時3人の姪と甥の面倒をみたことがあります。末っ子は何年も前に若くして亡くなりましたが、長女はその後も、まるで我が家の長女のごとく、何かにつけ私たち家族を支えてきてくれていました。父にとっては姪(私にとっては20歳以上も年上のいとこ)夫婦。病院はこの日、私たちが他の患者に気兼ねすることなくお別れができるよう、特別な計らいをもって、たまたま空いていた二人部屋に父を移してくれました。計9人が、父のベッドを囲みました。
父は、皆に対して、今までの交誼に対する礼を述べ、じきにあの世でまた再会できること、それまで先人たちと一緒に待っていること、残される家族と今までとおり仲良くしてやってほしいというようなことを言いました。ところどころ聞き取りにくい部分はありましたが、言葉はしっかりしていました。

その後、一人ひとりと握手をし、感謝を述べあいました。父は終始、笑顔でした。母は「やさしくしてもらってありがとう」「幸せでした」と言いました。父も母と夫婦になれてよかったと言い、感謝の言葉を述べました。兄は父のように生き、父のように死にたい。尊敬していること、自分たちに生き方、人生の終わり方を示してくれてありがとうと言いました。父は兄に「お前には一番、面倒をかけるな」「税金のこと、様々な手続きのこと、葬式の手配のこと、妻のこと、よろしく頼む」と言いました。
私が「お父さんの子で幸せでした」「ありがとう」と言うと、「ありがとう」と言い、「あんまり泣くなよ」と笑いながら言いました。私は涙をとめることができませんでした。義姉にも「よくしてもらってありがとう」と言いました。義姉は「お義母さんを大切にしますから」と言ってくれました。たった二人しかいない孫も、おじいちゃんの手をしっかりと握りしめて、「寂しくなるよ」「囲碁強くなるからね」「ありがとう」と言いました。

みんなで病室で、オニオンスープを飲みました。父は昨年、軽い脳梗塞を煩ってから食事制限があり、塩分もあまり取れませんでした。病院食も「味がしない」「まずい」とこぼしていたので、スープにしたのでしょう。
「最後に食べたいもの、飲みたいものある?」と兄が聞いたときには、何もないということでした。あれほど大好きだったお酒を、もし本人が飲みたいというなら、飲ませてやりたいと思っていましたが、言いませんでした。
代わりに兄が桜の花の枝を買ってきて、「今年は桜が早いそうだよ」「早咲きの桜だよ」と言って病室に飾ると、とても嬉しそうにずっと眺めていました。

点滴に睡眠薬を入れてもらっていましたが、苦痛のほうが勝るのか、なかなか効きませんでした。みんなに囲まれて眠りに入るつもりが、いつまでたっても眠りに落ちず、ウインクするように片目を開けて、「どうしたことじゃろう、眠くならんのじゃ」「困った」と言って、一同を笑わせました。
「人間、死にたいと思ったって、そう簡単には死ねないって」「天が、まだやることが残っていると言っているんじゃないの?」「おじさん、花見にいこうよ。宴会しようよ」「生きろってことじゃないの。せっかくあいさつはしたけれど、それはそれでいいじゃない」「案外、また元気になったりして」。「もう、かんべんしてくれよ」「今になにするでぇ」(父の母、私の祖母の口癖)と父も言いながら、深刻なはずの病室で、何度も笑い声があがりました。最後の最後まで父はユーモアを忘れませんでした。笑顔でした。

結果的に、会話らしい会話を父としたのは、これが最後でした。その夜は私が病室に付き添いました。睡眠薬は相変わらず効いてこずに、父の酸素量ばかりが下がり、苦しそうでした。たんがからむと息が苦しくなるのだけれど、鼻から管を通して吸引するのは痛く苦しいらしく、とても嫌がりました。「吸引してもらう?」と聞くと「いい」と言います。それでも、あまりに酸素量が低下するとやはり放ってはおけずに、看護士さんを呼んで吸引をしてもらいました。息苦しそうな父を見ていると、こちらまで呼吸が苦しくなります。ときどき自分で酸素マスクを外してしまいます。何度かベッドのさくにつかまって起きあがろうとします。目が離せませんでした。
看護士さんは無意識だろうと言うのですが、早く死なせてくれということかもしれないと思いました。父の力は思いのほか強く、酸素マスクを戻そうとすると抵抗しました。私はマスクを掴む父の手のひらに自分の手のひらをすべり込ませました。そうすると不思議とおとなしくなりました。

朝5時頃、いつの間にかうたた寝をしていて、はっと気づくと父はまたマスクを外していました。あわてて付けましたが、酸素量は上がりません。この頃から、看護士さんが呼びかけても反応しなくなりました。私は、せっかく眠りに入った父が再び目覚めて苦しい思いをするのが怖くて、声をかけられませんでした。
朝7時頃だったか、看護士さんに「いつ亡くなってもおかしくない状態です」「少し早めに、ご家族を呼んでおいたほうがいいでしょう」と言われ、電話をしました。「すぐっていうわけでもないから、事故をおこさないよう、あわてずに来て」と言いました。兄たち家族と母とが病院に駆けつけ、連絡したいとこもやがてやってきました。
父の意識はありませんでしたが、まだ呼吸をしていました。深い眠りに入って、酸素量はかなり減っているものの、かえっておだやかな様子でした。まだどれだけかかるかわからないと思いました。今までだって、何度も危篤と言われて、乗り越えてきた。お父さんの生命力は、あの戦争でビルマの激戦地から九死に一生を得て還ってきたひとだけあって、人一倍強いのだから、まだ1日、2日はかかるかもしれない、場合によっては一週間、10日はもつかもしれないと話し合いました。

朝、あわてて出てきて朝食を食べていない母が、「お腹がすいた」というので、私と2人でまず食べにいくことにしました。その後、交替で順次、食べに行くことにしました。病院のロビーは診察時間で混んでいるので、外に行ったほうがいいだろうと言われて病院を出ました。しかし10時半頃で、よく行くレストランはまだ開店していませんでした。駅前のハンバーガーショップなら開いているだろうと、少し遠いのを行きました。
病室に戻ったときに、兄夫婦とその娘が泣いていて、父が亡くなったことを知りました。いとこが私たちを捜しに行ってくれたそうですが、すれ違ったようです。最後はほんとうにあっけなく、まるで坂を転がり落ちるように早く、器械に現れる生命の数値があっという間に落ちていったそうです。
いとこがあとで言いました。エレベータでおじさんの声を聞いた気がした。魂が肉体を離れて、あなたたちを一緒に捜しに行ったのかもしれないと。

11時13分。前日のお別れのセレモニーから丁度、24時間後でした。
私は、母がいないほんの数十分の間に逝ったのは、父の思いやりかもしれないと言いました。目の前の夫の死の現実を受け入れられない母に対して、その一瞬の辛さを味あわせたくないという父なりの。
そして私は、この約1ヶ月の間、看病もさせてもらって、最後の夜も付き添うことができたのだから、父の死に目にあえなかったことに未練はありませんでした。むしろ、父の苦しみが長引かなかったことにほっと胸をなで下ろしていました。

病院の廊下で、掃除のおばさんに会いました。父の死を告げると、「いいお父さんだったよね」「とってもやさしかったよね」と涙をこぼしてくれました。彼女は父の病室に掃除に来るたびに明るく声をかけてくれて、父も楽しそうに話していました。病院のヘルパーさんも、朝方、病室に顔を拭くタオルもってきたくれたときに、まだ父の息はあったけれど、死期の近いことを知って、「ほんとうに、いいおじいちゃんだったよね」「私らにも分け隔てなく、偉ぶるところがなくて」「お風呂に入れたときに、すまないねって言うから、いいんだよ、これは私らの仕事だから気にしなくてって言ったんだよ」と言いながら、体温の下がりはじめた父の腕をしばらくさすってくれました。
頭から布をかけられて病室をそっと出るとき、以前、同じ病室になって、父と同じ間質性肺炎だったけれど奇蹟的に回復した男性が、エレベーターの前で、最後の見送りをしてくれました。

若いときの父は、厳しいところがありました。特に兄には。でも、年とともに穏和になりました。そして、一番上のきょうだいとは20歳も違う若いおじさんで、ユーモアにあふれていることもあって、私のいとこたちにはとても人気がありました。仕事を定年退職してからは老人会や町内会の役員も進んでひきうけていたようです。趣味もゴルフに囲碁、水墨画、水彩画、俳句、写真撮影と豊富でした。家族旅行にもよく連れていってくれました。
家族をとても大切にしてくれていました。とくに母を。父が老後を穏やかに過ごすことができたのは、母、そして同居してくれていた兄夫婦、とくに義姉のおかげだと思っています。

父が最初に危篤になったとき、いざというときの連絡先を父の書斎で探しました。年賀状の一覧リストがすぐわかるところにあり、備考欄にはどういう関係なのかが書いてありました。急な入院であったにもかかわらず、いろいろ重要な書類も、すぐにわかるようにまとめて置いてありました。以前に私が、パソコンの練習をするなら、目的があったほうがいいよと言って勧めたことのある「自分史」もワープロでつくってありました。まだ未入力の新しいものは手書きで一緒に綴られていました。すでに自分の死の準備をしてあったようです。

81歳。健康・体力に自信のあった父。脳梗塞も早期発見と早期リハビリのおかげでほとんど後遺症もなくすみました。その父が思いがけず、難病を患いこの世を去ることになりました。母には「なぜ?」という思いが強いようです。でも、私は大往生だと思います。入院中も家族に面倒をかけることを気にしていました。長く患うことなく、しかも自分で決めた死に方を全うできました。そして、年の順番に亡くなるということは幸せなことだと思います。病院のベッドで家族に看取られながら、惜しまれながら死ねるということは幸せなことだと思います。とても恵まれた一生だったと思います。

父は、私たちに生き方だけでなく、いかによく死ぬかという、人生のうえでの最大の課題とも言えるものを、はっきりとひとつの形として表してくれました。
特に2人の孫に対して、命の教育という、どんな財産にも勝るものを遺してくれました。
ひとは誰でも死にます。自分で自分の死に方を選べたら幸せだと思います。(死に追いつめられた形の自殺は別だと思いますが)
私の血と肉にはDNAとしての父がいます。そして、私の生き方のなかにも父が、父の愛があるのだと改めて実感しました。親に愛された子どもは幸せです。私は幸せな子どもです。その思いを自分の子どもにも伝えていくことができればと思います。

ほんとうに寂しくなるのはこれからかもしれません。また少し落ち着いたら、父のことを書くかもしれません。
昨日、父が亡くなったばかりで、ほんの少し父のことを書くつもりが思いのほか長くなりました。
父のことを誇りに思い、父のことを誰かに伝えたい、その思いが今、私のなかにあふれています。父への感謝とともに。




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