わたしの雑記帳

2004/1/18 映画「山谷(やま)やられたらやりかえせ」を観ました。
ミニ講演「ブラジルのスラムのコミュニティ運動の現場から」を聞きました。


昨日(1/17)、映画「山谷やられたらやりかえせ」をはじめて観た。
タイトルだけは知っていたけれど、観たのははじめてだった。
いわゆるドキュメント映画なのだけれど、この撮影に関わった監督2人が、この映画ゆえにヤクザに殺害されたということは今回、はじめて知った。最初に1984年12月22日、山谷の日雇い労働者の現実と天皇主義右翼・日本国粋会金町一家西戸組(暴力団)との闘いを映画に撮ろうとした佐藤満夫監督(37)が殺害されて、その遺志を継いで映画を撮り続けた山岡強一監督が映画完成の直後に、佐藤氏を殺害した金町一家から再び殺害された。
2人の監督の文字通り「魂」が込められた作品だった。

この映画は、佐藤監督の一周忌にあわせて、1985年12月22日に完成されたという。約30年前の映画ではあるが、内容はけっして今も古びていない。
日雇い労働者の酷使とそこに巣くう暴力団持たないものが、利権を持つものたちにさらに搾取されていく。貧しいものはより貧しく過酷な条件のもとに流れ、富めるものはそれを食い物にしてさらに肥えふとっていく。
そして、警察は貧しい労働者を守ることはせず、むしろ排除する方向にある。

「宇都宮病院」で精神病棟の患者が看護士から暴行され殺された事件は知っていた。しかし、それを日雇い労働者や野宿労働者の問題と結びつけて考えたことはなかった。健康な時は、劣悪な環境下で過酷な労働を低賃金でやらされて、病気になれば今度は病院に国からの手当を目的に収容される。そこでは病人どころか人間扱いさえしてもらえない。そして死ねば、医大生の解剖実習に使われる。

かつての日本経済をささえてきたのは、低賃金で働かされたこういう人たちだった。それでも仕事がある時はまだよかった。労働力を多く必要とする港の荷揚げ作業が機械化され、危険で過酷な炭鉱もみな閉鎖された。
なぜ、今、町に野宿労働者、野宿者があふれているのか、少し理解できた気がする。そして、今も暴力団に食い物にされている。命までとられている事件が耐えない。低賃金の強制労働。女性なら騙され風俗に売られる。また、稼いだ金はバクチでとられる。保険をかけられ殺される。

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映画のあとに、世界子ども通信「プラッサ」でもおなじみのフリーランスライターの下郷さとみさんが、「ブラジルのスラムのコミュニティ運動の現場から」というタイトルでお話しされた。
ブラジルはもしかしたら、日本の未来かもしれないと言う。

講演を聞いて思ったのは、ブラジルは日本の未来どころか世界の未来の姿かもしれないとさえ思う。
ブラジルのファベーラ(スラム)の話は、ストリートチルドレンを考える会の工藤律子さんが書かれた「仲間と誇りと夢と」(JURA出版)のスラムの話と、とてもよく似ている。

ブラジルはけっして貧しい国ではない。資源も豊かでGNPも世界で10位内に入るほど高い。ただ、南北で差があり、また貧富の差が非常に激しい。
人が住みにくい公共の土地、山の斜面や道路高架下や脇、海の浅瀬などに、貧しい人びとが勝手に家を建てる。最初はベニヤ板だけの簡単なものから、少しずつレンガづくりのりっぱなものへと進化していく。その過程で保育施設ができたり、小さな店ができたりと、コミュニティが生まれる。

都市のファベーラに住む多くの人たちは、地方から流れてきた。最後まで奴隷制度が残った国で、小作人は今だに奴隷扱いされているという。低賃金の過酷な労働。あるいは高額の土地使用料。そして、地主の都合で畑を取り上げられたらそこでは暮らしていけない。凶作になれば、蓄えのない彼らは来年蒔く種まで、その日の命を長らえるために食べてしまう。都心にあこがれてという人びとももちろんいるだろう。しかし多くは、その土地で食べて行けずに都市にやってくる(小さな土地しかもたないもの、あるいは土地を持たない農民は、地方ではもはや暮らしていけない。同じことがメキシコの原住民にもある。日本の農家にもある。それは彼らの問題だけではない。自然破壊、環境破壊、経済のグローバル化にともなう国と国との取り引き、工業化政策など、本人たちの努力だけではどうしようもない問題だ)。条件のよくない小さな土地を売っても、一家移住のための片道分にしかならない。
しかし、都市に行っても、仕事は流入する人口をまかなえるほどにはない。

ましてブラジルは学歴社会だという。8年間は義務教育だが、進級は厳しい。勉強ができなければ、何年でも落とされる。しかも、学校が人口に追いつかない。3部入れ替え制をとっている学校さえあるという。短い時間。質の悪い教師。金持ちはみな私立学校に行くという。貧しい家族は稼げるようになった年齢の子どもたちを学校で遊ばせている余裕はない。結局は、途中で退学せざるをえなくなる。しかし、せめて高校を出ていなければまともな職にありつけない。低賃金の過酷な労働。貧しい家の子どもは貧しく、富める家の子どもは大企業に就職して高賃金を得るようになる。

そして、メキシコ以上にここで深刻な問題になるのは、ブラジルは麻薬の生産地であるということ。
大金が動く。利権をめぐってマフィア同士が抗争を繰り広げる。そこに、運びやとして、売人として、あるいは戦闘員として、子どもたちや青年たちが取り込まれていく。
いつ銃で撃たれて死ぬかわからない危険な仕事。それでも、親世代が1年間汗水たらして稼ぐ金を子どもたちは短期間で稼ぎ出す。

ブラジルでも、貧しい人びとは目の敵にされる。「貧しいのはなまけものだからだ」「自業自得だ」という考えが根強い。日本の野宿者に向ける人びとの視線と同じだ。
しかし、金持ちは金持ちに、貧乏人は貧乏になるような、システムができあがっている。そこから抜け出すことは容易ではない。未来に希望が見えない。ひとは刹那的に生きるようになる。酒や麻薬に溺れて、犯罪に手を染める。まして、すぐ目の前に華やかな物質世界が広がる。カラーテレビも携帯電話も、冷蔵庫も電子レンジも、触ったこともなければ見たこともなかった時代とは違う。目の前には欲望をそそる物質があふれ返っている。ただ、それを買うための金が自分にはない。

貧しいから犯罪に手を染める。そして、偏見を生む。1993年7月にリオ市街地のカンデラリア教会の前で起こったストリ−トチルドレン虐殺事件http://www.jca.apc.org/praca/back_cont/01/01ivone2.html プラッサパックナンバー参照)。警察を含む大人たちがストリートの子どもたちを排除するために虐殺する。
同じようなことが、メキシコでも起きている。商店街から金をもらった警察官たちが、ストリートチルドレンに暴行をはたらく。彼らにとって、貧しい人びとは人間ではない。害虫扱いだ。
日本もまた例外ではない。少年たちによる野宿者虐殺事件は今も後を断たない。暴行を働くのは子どもたちだけではない。大人たちも同じだ。ただ、加減の仕方が子どもたちよりは少しうまい。
そして、治安や美観を理由に、自治体が野宿者たちを排除する。追い立てる。
大人たちが労務者たちを人間扱いしないから、子どもたちが真似をする。

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世界は繋がっている。
社会的弱者は差別され排除される。しかし一方で、それに負けまいとする闘いがある。

そして、これから日本はどこへ向かおうとしているのか。
経済格差があるときには、日本の繁栄は貧しい国の人びとの犠牲のもとになりたっていた(ある面では今でも)。日本は搾取する側だった。しかし、今や日本が売り物とする技術は、その差をかなり縮めつつある。モノ作りは、安い労働力の前では、すでに立ち向かえなくなっている。かといって、日本に資源はない。かつてあった豊かな自然も、後先考えもせず、目先の利益のためだけに食いつぶしてきた。そして、超高齢化がすすむなかで、労働力は資源とはならない。

日が昇る国から、日が沈む国へ。政府が考えたことは、大勢の人間を犠牲にしても、世界に通用する一部のエリートを育てること。そして、持てる国から持てない国になったとき、考えることは他国からの略奪。いろいろ理由づけして、他国に攻め入る(それは日本だけでなく、アメリカもヨーロッパも変わらない)。かつて日本が国際社会に乗り遅れまいとして、侵略していったときのように。
これから必要なのは軍隊。そのための準備が今、着々と進められつつある。

みんなが中流と思っていた(実際にはそうでもなかったけれど)。そのバランスがここへきて崩れようとしている。
メキシコやブラジルのように。みんなが貧しくて、一部の人たちだけが豊かになりつつあるのではないか。
そして、貧しい人たちは豊かさをエサに、過酷な労働に低賃金で駆り立てられる。他人より少しでもいい目にありつこうと、競争に駆り立てられるなかで、人間関係が分断される。

わたしたちが生き残る道はどこにあるのか。「山谷労働者の闘い」が教えてくれる。ファベーラに住む人びとが教えてくれる。律子さんの本にある「スラムは『問題』ではなく『解決』だ」。その言葉の意味を改めて考える。




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