わたしの雑記帳

2002/10/27 ケニア/「サイディア・フラハ」 荒川さんの報告会  (2002/11/1追記)

※2002/11/1 荒川勝巳さんから、私の思い違いなどについて、いくつかのご指摘を頂きましたので、追記訂正します。

2002年10月27日、阿佐ヶ谷の区民センターでケニア「サイディア・フラハ」(スワヒリ語で「幸福の手助け」という意味)を現地のひとと共同経営している荒川勝巳さんの帰国報告会があった。(前回、me011028を参照)

冒頭で、先日、東急文化村で開催されたブラジル生まれの写真家・セバスチャン・サルガドの写真展の話をされた。ほんとうに偶然、荒川さんが訪れた最終日に、私も写真展を観に行っていた。残念ながら時間があまりなく、駆け足で観てまわったせいもあるのか、混み合った会場でお会いすることはなかったが。写真展は第三世界の現実を知る意味でも、そして芸術としての写真としても、とても興味深くかつ感動的だった。
ここのところ何人かから聞いたのと同じ言葉が荒川さんの口からも発せられた。「子どもたちのポートレート」に涙があふれてきたと。
一人ひとりの子どもの凛とした姿。「わたしはここにいる」とはっきりと主張しているその存在感。着ているものはボロボロで身なりは貧しくとも、その姿は「誇り」に満ちている。

みんな難民であったり、貧しい部族の子どもだったり、親を失ったりしている。とても困難で厳しい状況を生き抜いてきた、あるいは現在も生きている子どもたち。じっとカメラを真正面から見つめる目。そのなかに微笑んでいる子どもの写真が何枚かある。
荒川さんは会場を何度も往復しながら、なぜ、この子どもたちは微笑んでいられるのだろうと考えたという。そして気がついた。子どもたちの背景に黒板があることを。
おそらく子どもたち自身が、ここで写真を撮ってほしいと選んだ場所。教室は彼らの希望であるということ。(私も帰宅後、カタログで確認した。なるほど子どもたちの背景に黒板があった)なかには片腕のない少女もいた。彼女もまたやさしく微笑んでいた。
さらに荒川さんは言う。これはあくまで想像でしかないが、カメラの周囲に親やきょうだいがいたのではないか。もしくは彼らを愛してくれる誰かの存在が見守っていたのではないかと。
どれだけ厳しい状況におかれようとも、子どもたちは「愛」があれば、微笑んでいられるのではないか。子どもたちに「愛」を注ぎ続けてきた荒川さんだからこそ、その言葉は納得感をもって心に響いてきた。

報告会の内容は、サイディア・フラハの10年と展望。
1992年にプロジェクトを開始してからの活動の紹介。まる10年の軌跡。
子どもたちへの支援から始まったプロジェクト。しかし、親の状況が悪ければ、どれだけ子どもたちを一生懸命支援してもすぐに子どもたちは引き戻されてしまう。あるいは一息に悪くなってしまう。
子どもたちのためにも、親への、特にケニアで多いシングルマザーへの支援が必要であることに気付いた。そこで、プロジェクトでは、女性の自立や病気(マラリアや結核、エイズ)についての知識の普及をめざしてセミナーを実施した。セミナーは1カ月に1回。最初の頃は10名から20名の参加だったが、今では40名から60名の参加となっている。

最初はプロジェクトの子どもの母親たちを対象に、女性の自立を目指して、無料の裁縫教室を提供した。しかし、その日暮らしが身について将来に対して展望が持てない母親たちは日々の生活の忙しさのなかで、段々来なくなっていった。そこで、地域の人々へ低額有料(日本円で400円から500円。現地の商業的な裁縫教室では4000円から5000円とる)で開放した。若い母親や娘の参加が多かったという。教室は随時、生徒を受け入れている。午後2時からという時間帯は、メイドで働いていたり、小学校を落ちこぼれた若い女性にも通いやすかったのだろうと荒川さんは分析する。また、講師料を押さえ、低額の授業料を実現するために、いわゆる専門の教師ではなく、ふつうの仕立屋さんを先生として雇った。
また、セミナーでは前回、報告のあったエイズセミナーと、その結果、自分がエイズかもしれないという不安にかられ混乱をきたした人たちに、診療所の協力を得て、今年(2002年)からエイズ・カウンセリングも始めたという。ただし、こちらは社会的背景がものをいうのか、女性よりも男性のほうが気軽に相談に来るという。

荒川さんたちのプロジェクトの支援は、最初に関わった子どもたちの成長にあわせて成長してきた。
最初に手がけたのはシングルマザーのための無料保育園。子どもたちが学齢期になれば、小学校への支援(ケニア政府は公立でも教師の給料のみを負担して、教科書や制服、テストの用紙代なども親が負担しなければならない。その経済的支援)。小学校を卒業する頃になれば、全員は無理でも、成績のよい子どもはせめて高校に行けるよう支援したい。そして、そうでない子どもたちにも、経済的自立ができるよう、職業訓練校で手に職をつけさせてから社会へ送り出したいと考える。
親がわが子の成長にあわせて、次にこの子には何をしてやったらいいのかと考えるのと同じように、考えてきたことがよくわかる。

プロジェクトを立ちあげたころから一緒にやってきたシングルマザーの教師が亡くなったとき(幸い、彼女の子どもたちには面倒を見ることができるおじいさんおばあさんがいた)、彼女の娘と息子の小学校の授業料を出し、卒業後は娘を寄宿舎制裁縫教室へ出した。少女は夏休みにはプロジェクトで生活した。ほかに、両親がいなくて、親戚がいてもスラムに住み、とてもその子の面倒を見切れない場合には、プロジェクトの(児童)養護施設で引き受けた。

その施設で暮らす両親がいない4人の子どもたちが最近、「自分たちの誕生日会をしてほしい」とねだったという。きっかけはスタッフの子どもの誕生日会に呼ばれたことだった。
ケニアではかつて子沢山だったこともあり、生まれた年も知らない子どもが多かった。当然、誕生日など知らない。NGOが生後3カ月、半年の子どもたちに予防注射をはじめたことで、その時に発行される手帳から何十パーセントかはいつ頃生まれたかがわかる程度だという。
しかし、ここ10年、特にケニアの都会では少子化が進んだ(少子化の理由は30年間も続いている経済問題。学費もかかるので一般家庭でも2、3人しか子どもが養えなくなった)。人数が減ったことで、ひとりの子どもに対するケアはできるようになった。誕生日を祝う習慣がここのところ一般に流行ってきたという。

子どもたちのおねだりを、荒川さんはうれしいと感じたという。子どもたちがサイディア・フラハを自分の家庭と捉えている証であると受け取った。
その背景として、かつて先生がいなくなった頃、施設内でトラブルがあって、4人の子どもたちが逃げ出したことがあった。その時に、子どもたちが逃げ出してしまうような施設などやめたほうがいいのではとずいぶんと思い悩んだという。それが今は、子どもたちも成長とともに、自分たちにとってここにいることはプラスになることだと理解できる年齢になって、施設にいることが苦にならなくなった。子どもたちに理解してもらったことがうれしいという。
(同じことはメキシコのストリートチルドレンのためのNGO施設でもいえる。まともな教育を受けることなく成長し、路上の気ままな生活に馴れた子どもたちは、自分の将来を見通すことができず、ちょっとしたことですぐに施設を飛び出して元の路上生活に戻ってしまう)

荒川さんは、最初の頃は日本の子どもたちとケニアの子どもたちの違いばかりが目についていたと言う。貧しく、エイズの恐怖にさらされた、難民となることも多く、親がいないことも多いケニアの子どもたちと、物質的環境に恵まれた日本の子どもたち。
しかし、今はむしろ、日本との共通点が目につくという。

一つは親の問題。確かにケニアには両親がいない子どもたちがたくさんいる。しかしそれは親戚や周りの人間がケアすれば済むことだ。本当の問題ではないと思っているという。
大人がしっかりしないから、子どもたちが混乱する。このことの問題のほうがより深いと感じるようになったという。
ケニアではシングルマザーも多い。もちろんたいへんではあるが、野菜やくだものを路上で売るなどして、1人や2人の子どもを養っていくことは可能だ。しかし、母親は子どものケアよりも自分の生活のしやすさを選ぶ。子どもの面倒をみたくない。子どもへの無関心。子どもたちは路上に出て、ストリートチルドレンとなる。
日本の虐待問題、メキシコのストリートチルドレンの問題とも共通する。

特にケニアでは遊牧民族が人口増とともに都会へ多く出てきている。彼らは教育を受けていない。しかも農耕民族でもないから勤勉に働くことも知らない。技術もなく、都会に出てきても働く場所がない。
せっかくプロジェクトが支援していても、子どもを学校にやるより、メイドに出したり、自分のところで働かせたりするほうを選ぶ親も多い。(そのためにプロジェクトでは毎週土曜日に補習を行って、支援している子どもたちの状況の把握に努めている)

二つ目はコミュニティの崩壊。新しい住民が工場地帯にどんどん入ってくるなかで、コミュニティが機能しづらい。(日本でも地域での人間関係が希薄になっている)
荒川さんのプロジェクトでは、セミナーを始めて6、7年でようやくその効果が出てきて、地域コミュニティをプロジェクトの活動に引っ張り込むことに成功している。

女性の自立を啓発するためのセミナーで、実際に自分で商売をしている女性たちに話をしてもらったところ、地域の母親たちが自分たちも何かやれることをしてみたいと言い出した。
そこで、これからトレーニングセンターを建設するのと同時に、サイディア・フラハの敷地内に共同作業場をつくって、ワークショップを始めることを計画。農作物をつくったり、日本からの寄付で購入したマキや炭で使えるオーブンを使って、パンを焼いたことのある女性に講師になってもらい、パンを焼く勉強を始めた。いずれ、みんなでパンを焼き、地域に売り歩くことで、生活を支える収入源になればと考えている。運営委員会をつくり、会計や書記など分担をして自分たちで運営しているという。

これ以外にも、芸術コンクールや運動会など、プロジェクトは常に地域と交流しながらやってきた。セミナーを通しての教育を柱として、地域の人びとに自分たちの暮らしをよくする方法を考えてもらう。コミュニティと一緒になって、子どもたちを支えていく仕組みをつくろうとしている。
コミュニティの母親たちが仕事を創出し、それをコミュニティで売って地元で生活が回っていく。厳しい経済状況のなかでも、セミナーを通して、よりよい社会経済的なものを築いていければ、子どもたちもコミュニティで生活できるのではないかと荒川さんは考える。

ここに、日本と共通の課題と同時に、ひとつの解決策が示されている。子どもたちを支援するためには、その親や、親を取りまく環境、最も身近な地域のコミュニティから手をつけていかなければ、根本的な解決にはならないのではないかということ。よいコミュニティのなかでこそ、人びとは助け合って生きていける。その事が、子どもたちをも生きやすい環境をつくり出す。コミュニティをつくるための仕掛けづくりをサイディア・フラハは実践した。それも、貧しい人びとにとって一番切実な経済問題、生活と結びつけることで成功した。10年でようやくここまで形にできた。そして次の10年をメドに日本の支援する人びとの経済的援助からの脱却、真の自立に向けて、プロジェクトはすでに動きはじめている(それを実現するために基金としての資金援助はまだ当分、必要です)。

先日、松下照美さんからケニアでのNGOの活動を聞いたなかで、はじめて知ったことがあった。
ケニアという地域の人びとが、私たちが考えているような純朴な人びとというよりも、諸外国の様々な援助に頼ることに慣らされて、その中から少しでも自分の利益を多く得ようとする人びとのいる生き馬の目をくりぬくと表現しても過言ではないほどの場所であること。
荒川さんののほほんとした雰囲気、苦労の「苦」の字も感じられない様子からは想像もできない厳しい現実がそこにある。そんななかで10年間、現地のひとたちとタグを組んでやってきた。資金のほとんどすべてを自身のアルバイトと日本の支える人びとからの支援という形で担い、黙々と自分の道を築いてこられたことは、賞賛を通り越して驚きでさえある。

何度もケニアを訪れ、今年の4月にはついに決意を固めて職を辞め、荒川さんのプロジェクトでボランティアとして働きはじめた女性が言った。「ボランティアで来たいというひとの話をいっぱい聞きますが、生半可な気持ちではかえってジャマになり迷惑をかけるだけです」「たいへんなことばかりです」と。「でも、やりたい」気持ちに今も変わりなく、一時帰国している今も早くケニアに帰って子どもたちに会いたいと。自分のプラスと迷惑をかけることのマイナスを比較して、少しでもプラスが出るように日々、努力しているという。その彼女自身、この6カ月間の活動のなかで、栄養失調で倒れたりもしたという。
そして、荒川さんも2年前に病気をした。そのなかで自分がいなくても、日本からの援助がなくても続けていける現地の人びとによる自立したプロジェクトを目指している。そして、その収入源ともなる本格的なトレーニングセンター(裁縫や建築を教える)の建設も現在、着々と進んでいる。

会場で、もうひとつ印象的なできごとがあった。
国際協力事業団に1年間ケニアに派遣されて、大学で建築を教えていたという坂田泉さん(男性)がいらしていて発言した。技術や知識があっても、押しつけることの弊害があると。自分に何かできると思うと相手を見下す気持ちが生まれる。それよりも素直に相手の中に力を見つけ感じることのほうが大切ではないかと。そのためには、現地に身を置いてみるのもいいと。それが1年間の生活で自分が得てきたものだと。

この言葉を聞いて私は正直、ほっとした。何の技術もない、知識もない人間が、気持ちだけで動くこと。それは国内とはいえ、私自身がやっていることでもある。専門家でもない人間がウロチョロすることの弊害と、逆に専門家ではないからこそ、真っ白な状況から見えてくるもの。ただし、それが自己満足だと言われれば返す言葉がない。「それでもいいんじゃない。やってみれば、見えなかったものが見えてくる。何かしらの意義があるかもしれない」と勇気づけられた気がした。

坂田さんの著書「アフリカ発/描きながら考えた 僕のナイロビ12カ月 ムチョラジ(スワヒリ語で絵描きさんの意)」(求龍堂 2600円+税)は、文章とたくさんのスケッチ(カラー)からなっている。
会場で坂田さんの描かれた絵はがきを観たときに、プロの絵描きさんの作品かと思った。そのやさしい雰囲気に魅せられた。
今日、本を購入したばかりでまだ内容を読んでいないのでなんとも言えないが、パラパラとめくっただけで、最初の頃に比べて絵が格段にうまくなっていっていることがわかる。わずか1年の独学で、ここまで上達するものなのか。坂田さんの話をきいて、少し納得がいった気がした。
絵を描くことが目的ではなく、絵を描くのは相手とのコミュニケーションの手段であるということ。絵を描いているうちに、不思議と相手との関係ができてくるということ。

同じことを今年のメキシコツアーに参加した大学生から聞いた。彼女も、専攻は芸術ではなかったが、行く先々で子どもたちの絵を描いていた。モデルになっているときの子どもたちは、自分だけを真剣に見つめる彼女の視線に、描いてもらうことに、とても誇らしげだった。サルガドの写真展の子どもたちのポートレートを観たときに、私が真っ先に思い浮かべたのは彼女の絵だった。(彼女の場合、できあがった作品をモデルになってくれた相手にプレゼントしてしまうので、ほとんど手元に残らないのが人ごとながら、とても残念!でも、これも彼女にとっては作品を残すことが目的でなく、絵を描くことが彼女なりのコミュニケーションの手段なのだろうから仕方がないと思う)
坂田さんの絵のモデルは子どもたちだけでなく、働く大人たちが多い。どれも表情がみなとてもやさしい。描き手の心が反映される部分と、それが会話から醸し出されている信頼感、安心感みたいなものなのだろう。

見つめるひとと、見つめられるひと。写真を撮るひとと、撮られるひと。双方の関係で成り立っているものなのだと改めて気付かされる。
形こそ違え、荒川さんのケニアの子どもたちに注ぐ視線と、返ってくる視線にも同じものを感じる。
荒川さんの写真にうつる子どもたちの顔はいつだって活き活きと輝いている。誰が孤児で、誰が親のいる子どもなのか、その差を全く感じさせない。純粋無垢な瞳。やさしい笑顔。子どもたちは「愛」があれば、微笑んでいられる。それはそっくりそのまま、荒川さんのプロジェクトの子どもたちにも当てはまる。建物だとか仕組みづくり以上に、それこそが10年をかけて荒川さんが築いてきたものなのだと知る。
この荒川さんの活動をひとりでも多くのひとに知ってもらいたいと思う。もっと詳しく知りたい方は、「サイディア・フラハを支える会」のサイト(http://home7.highway.ne.jp/hiroki/ngo/index.html)をご参照ください。

 
HOME 検 索 BACK わたしの雑記帳・新