わたしの雑記帳

2001/9/14 同級生の「死」を実感できない子どもたち


「朝日中学生ウイークリー」(http://www.asahi.com/edu/gakusei/weekly1.html)というサイトがある。
中学生向け新聞の記事を紹介している。「ウイークリー」というからには、週ごとにニュースの中身は入れ替わるのだと思うが。そこにこのサイトのいじめ事件の一覧にも取りあげている千葉県市原市の女子生徒のいじめ自殺(001013)に関して、元同級生の男女2名へのインタビュー記事が掲載されていた。

少女は、A子さんの仲の良い友人だった。少年は、いじめていた生徒の一人だった。
少女は『私はお葬式のときから「○○はまだ絶対死んでない」とずっと心で思ってる。(中略)○○がこんなことするはずがないと私はいまもずっと思ってる。卒業してもまだうちらの友達だ、何してもずーっと一緒だって……絶対に死んだとは思わない。』 と話し、少年は、『自殺ってよくわかんねえ。現実的には死んだんだけど、死んだって感じはしねえ。どっかで高校に入ってんじゃねえか。』と話した。
死んだとわかっているけれど、死んだと思いたくない。一方で、きっと本当に実感がないのだろうと思う。

かつて私自身、友だちの母親が病死したお葬式にはじめて出席して、何度も会話したことのある友人の母親が死んだことを実感できなかったし、従って「悲しい」という感情がわき上がってこなかった。そして、そのことで、自分は他人の死を実感できない無感情な、冷たい人間なのだと思い悩んだことがあった。
やがて、いくつもの葬式に出席するうちに、葬儀の席で和やかに談笑する大人たちを見て、それは自分だけではないことを知った。たとえ身内であっても、祖父母や伯父など、一緒に暮らしたことのない人間の死は、「ああ、もう二度と会えないんだ」と寂しくは思うが、悲しくて、悲しくて仕方ないということはなかった。ひとつには、今まで私が経験した知人の死の多くは、天寿を全うしてのものであったこと。私より、かなり年輩のひとたちであったことも、影響しているだろう。

だから、子どもたちが「友人の死」を実感できなかったとしても無理はないと思う。神戸の震災や池田小の事件のように、目の前で人が死んだわけではなく、自宅で亡くなって、いつも通り学校に来てみたら、「死んだ」と聞かされただけなのだろうから。現象面だけ捉えれば、残された子どもたちにとって、友だちの一人が転校したのとさして変わらない。

ただ、本当にこれでいいのだろうかと思う。この「死」は普通の「死」ではない。自分たちがかかわった、あるいは引き起こした「死」である。
いじめ自殺があると、教師や加害者の親は、「これ以上、追いつめると、(加害者の子どもたちも)後追い自殺してしまうのではないか」と心配する。あるいは、それを遺族の追及の盾とする。
事件が発覚したその段階から、加害者の子どもたちの心のケアに走る。見たくないものは見せない。聞きたくない言葉は聞かせない。言いたくないことは言わせない。

しかし、周囲にいた人間の責任として、それが目を背けたくなる事実であっても、きちんと報告すべきことではないかと思う。自分でしでかしたことは、辛くても、しっかりと認識し、罪を認めるべきだと思う。
それが、罰であり、本当の癒しにもなると思う。口に出さなくとも、心は覚えている。口に出すことで思いを少しずつ解放することができる。カウンセリングでも、まずは自分が思っていることを吐き出すことから始めるではないか。それなしに治療などあり得るのだろうか。閉じ込めた思いはどこへ向かうのだろう。自己を傷つける行為に向かうか、他者に向かうか。いずれにしろ、不幸なことに違いない。

アメリカのどこかの州では、少年犯罪者に対して、遺族や被害者の恋人、友人、親戚などが、口々に思いをぶつけるという。そのなかで、少年は、残された人びとの悲しみや怒りを知り、自分が殺した人間の無念さを知り、自らの罪を自覚し反省していくという。その姿を見て、彼を責めていた人びとも癒されていくという。

比べて日本はどうだろう。遺族への謝罪すらまともに行わない。一度も訪問さえしないものも多い。遺族の気持ちはさまざまだろう。「会いたくない」と突っぱねるかもしれない。それでも、会って謝罪するのが筋だろう。加害者と被害者が遮断されたなかに、人づての情報ばかりがお互いを行き来し、憎しみを募らせる。会って罵倒されることは辛いことだろう。それでも、加害者にはそうする義務がある。遺族にその何倍もの辛さを背負わせてしまったのだから。
遺族の声は加害者に届かない。周囲が遺族の口を封じにかかる。黙って悲しみに耐えることを強要する。加害者を責めるなと言う。罪を憎んで人を憎むなと言う。
裁判の冒頭陳述さえ、遺族は裁判官に向かって訥々と訴える。わが子を亡くした悲しみ、怒り。被告席にいるのは、代理人の弁護士たちだけだ。本当は、加害者にこそ、遺族のこの思いを伝えたいのに。

遺族にとっても、「わが子の死」は信じがたい。昨日まで元気でいた、十数年間この手で育ててきた、その子どもがある日突然、自分の前から居なくなってしまう、もう二度と会えないなんて信じられない。「ウソだ」「悪い夢だ」と思い、そして現実を知る。遺族のなかで毎日、子どもたちは生き、そして死んでいく。

戸塚さんの裁判で、お母さんの陳述を聞いたとき、悲しみが突如、私を襲った。遺族の悲しみのほんの一部に過ぎないだろうが、私のなかに入ってきて、心に傷をつけた。今でも、ふいに、その時のことを思い出しては泣きたくなる。こんなにも重たいものを遺族は背負っていたのかと思う。私が触れたのはほんのひとかけらにすぎないというのに。この固まりを受け止めたら、押しつぶされてしまいそうだと思う。

死んでいった子どもたちの「死」を実感できない子どもたち、大人たちに、せめて遺族の思いが伝わるように、遺族にはもっと声をあげてほしい。生の声で、訴えかけてほしい。それは、遺族にとっても、とても辛いことではあると思うが、生きている遺族の思いに触れることで、死んだ子どもたちの悔しい、悲しい、辛い思いにも、少しは触れることができるだろう。この世に生を受けて、ズタズタに傷つけられて、自ら死を選ばざる得なかった少年、少女たち。「たいしたことでもないのに、簡単に死んでしまう子どもたち」と評論する大人たちに、その悔しさを哀しみを伝えたい。「ヤッホー、そっちはどう、元気?」と死んだ同級生に手紙を書く子どもたちに伝えたい。

死んでいった子どもたちの思い、子を亡くした遺族の思い、それを受け止めることができて初めて、ひとを傷つけることの罪、いじめることの罪、ひとを殺すことの罪が自覚できる。いじめはいけないことだと、人殺しはいけないことだと、大人も子どもも、はじめて本気で思えるようになると思う。



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