わたしの雑記帳

2001/9/2 日本の教育年表


サイトのなかに、日本の教育史1(戦前) と 日本の教育史2(戦後)を入れた。 
日本のこの教育の歪みはどこから来ているのだろう。疑問に思ったとき、年表を遡って辿り着いたのは「明治」時代だった。

最初は、「下から積み上げていく教育」を目指した時期もあった。それが、相反する上からの教育、富国強兵のための臣民をつくる教育に呑み込まれてしまった。
やがて戦争がはじまる。人びとは、戦争の道具として使われた。自分で考えることさえ許されず、上から与えられたものを丸暗記させられた。

そして敗戦。ここから新しい教育がはじまるはずだった。しかし、米ソの冷戦の対ソ連の先鋒として、戦前の思想の残映を黙認してでも、排除されなければならなかった共産国の思想。レッドパージ。
国としての戦争責任も、反省もあいまいなまま、進められた教育。朝鮮戦争で潤う産業。右肩あがりの高度成長の波のなかで、植え付けられた学歴信仰。頑張れば、頑張っただけ、物質的な豊かさが実現される。

もののない不自由な時代を経て、モノのないことは不幸、物質的に豊かなことが幸福だと、思いこんだ日本人の価値観、幸福論。企業への忠誠と盲信。教育は、産業のための人材育成と提供の場となった。肝心の子どもたちを忘れ去り、大人たちの欲望、思惑ばかりが優先された。経済界、政界が、ああでもない、こうでもないと、次々と打ち出す教育方針。ゲームのコマのように翻弄されて子どもたちが壊されていった。

今、先行き不透明な不況のなかで、ひとは頑張っただけの褒美が得られなくなっている。楽しいことの全てを犠牲にして必死になって勉強し入った有名大学を卒業しても、ままならない就職。会社のために死ぬほど頑張っても、不況になればあっさりと解雇されてしまう。
褒美も得られないのに、バブロフの犬のように、走り続けることをやめられない人びと。
「愛社精神」を社員に要求した企業は、冷酷に社員を切り捨てた。経営者は社員を愛してはいなかった。自分の身の回りの利益の確保だけにやっきになった。

一方で、何度も表面に顔を出しては、また機会を窺いながらきた戦前教育の復活。何度も揺り戻しを繰り返しながら、成立した国歌国旗法。徐々に義務化がすすめられる奉仕活動。教職などの資格取得と結びつけられてやんわりと強制される。最初は取り組みやすい福祉の現場、ボランティアめいたものから拡大され、決められた年齢、決められた場所、期間の強制力を持つ奉仕活動へ。
「日の丸」「君が代」に象徴される「愛国心」と結びつけられた奉仕活動は、そのうち徴兵制に形を変えるのではないかと危惧する。

強制ではなかったはずの「日の丸」「君が代」が、やがて従わないものには罰則を含む不利益を伴うようになり、誰も何も言えなくなる。学校から始まって社会へ。同じように国家権力の強制力が国民をとりこんでいく。完全に死滅することのなかった、息を潜めていた過去の亡霊が、今の日本に甦ろうとしているかのようだ。自ら闘って権利を獲得したことのない国民は、あっさりと取り込まれてしまう。

これが、日本の教育史の戦前、戦後編の年表をつくりながら、見えてきたものだ。
この年表を展示用に加工し直して、今月6日からはじまる「府中平和まつり」の世界の教科書展に出した。(インフォメーション参照)ほかに、わたしの推薦教科書と以下の文章をつけた。(ただし、採否は不明)
教科書問題、教育問題は子どもたちの問題ではなく、わたしたちの社会の問題であると思う。
そして今、とても恐いものを感じている。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

わたしの推薦教科書

 ドイツでは、過去の過ちを繰り返さないために、自分たちの侵略の歴史を学校できちんと、子どもたちに教えていると聞いたことがある。
比べて、日本はどうだろう。「臭いものには蓋をしろ」とばかり隠し、そのうえ、たっぷりと香料までふりまいて、美化しようとしている。
 
「愛国心」とはなんだろう。「国」とはなんだろう。
政府が今、「国」という言葉をつかうとき、天皇や政治家、大企業を指している。「国民」一人ひとりではなく、利権を握った一部の人たちの思惑を指して「国体」とする。
そんな「国」に従順な国民をつくることは、誰の利益になるのか。それを考えれば、何のために「愛国心」をやたら言い立てるのかわかる。つまり、政治家たちが私利私欲のために好き勝手をやっても、誰も批判しない国民が都合いい。企業をさらに太らせ、政治献金をたくさん懐に入れるためには、国民の税金を使いたい放題使うためには、文句も言わず安い賃金で過労死するまで働く労働力が欲しい。

わたしたちの「今」を理解し、「未来」を予測するには、過去の歴史から学ぶということが欠かせない。過去の歴史の認識が間違ったものであったなら、未来は歪んだものになるだろう。
少年犯罪が多発し、子どもたちが荒れていると言われる。子どもたちを甘やかすからだという批判がある。
しかし、大人たちは子どもたちをどう扱ってきたのか。人として成長に必要な過程を子どもたちからはぎ取り、代わりに自分たちに都合のよいもの、直接役立つものを詰め込んできた。まるでロボットのように、大人たちが勝手にいじくり回しておいて、「できが悪い」と言って捨てては、新しいものを求めてきた。使い捨てはモノや資源だけではない。「ひと」も同じように使い捨ててきた。「ひと」が人として扱われないところに、心の荒れがある。当然の結果ではないだろうか。

この国の未来を決めるのは、子どもたちだ。その子どもたち自身の手で、正しい未来を選びとれるように、私たちはありのままの歴史を、様々な機会に、わかりやすく、学べる教材を、子どもたちに提供する義務があると思う。
(そういう点で、下記の資料を推薦します)
同時に、たとえそれが痛みを伴うことであっても、大人たちもまた、自分たちの国のしてきたことを正面から見据えなければならない。
被害者の心を癒すには、まずは事実を事実としてありのままに認めること。心からの謝罪。そして、二度と同じことを繰り返さないこと。そのための具体的な方策をきちんと立てること。忘れないこと。
個人と個人の関係も、国と国、国と個人の関係も同じことだと思う。


HOME 検 索 BACK わたしの雑記帳・新