わたしの雑記帳

2001/4/26 津久井の平野さん控訴審


いじめ事件では、なかなか納得のいく判決が得られない。そんななかで、津久井の一審判決は十分とは言えないまでも、ある程度、評価できる判決だった。そう思ったのも束の間で、判決の翌日にはもう、津久井町と元同級生9人は控訴した。

まったく、学校も、子どもたちも、保護者も何を考えているのだろう。
行政がこんなだから、学校がこんなだから、子どもたちもこんなふうになってしまうのだと腹立たしく思う。
人間誰でも過ちを冒す。しかし、過ちを冒したときにどう対処するのか。事実を明らかにし、自分にできる償いをする、二度と同じ過ちを繰り返さないようにする、その当たり前のことが、学校という子どもたちの教育の現場では行われない。

しでかしてしまったことは、できるだけ隠せ。みんなで一致団結して口裏を合わせれば、隠し通すことは可能だ。あったことも、なかったことにしてしまえる。そうすれば、受けるべき処罰も受けずにすむ。
教育委員会と学校は、身をもって子どもたちにそう、教えている。

あるときには、子どもたちが素直に、「ごめんなさい。いじめた僕たち、私たちが悪かったんです」と認めているのに、大人たちが寄ってたかって、「いや、そうじゃない。君たちは何か思い違いをしている。あれは、いじめじゃない。君たちは被害者のためを思ってやったこと。あるいは、ちょっとふざけすぎただけ。遊びの延長でよくあること。そんなことくらいで死んでしまったヤツが悪い。弱いからいけない。あるいはその家族に根本的な問題があったのだろ」と丸め込む。
「君たちはむしろ被害者なんだ」「君たちにも人権はあるのに、その人権が今、被害者遺族の手で踏みにじられようとしている。可哀想なのは君たちだ」と教え込む。
そして、「先生たちは、君たちの味方だよ」「何としても、守り通してみせる」と言う。

本当は、自分たちが可愛いだけ。学校や教師は、いじめを見過ごしてきた監督責任を問われると困るから、それなら、初めからなかったことにしてしまおうとする。原因は死んだ人間とその家族に全て背負わせれば、遺族以外の誰もが、傷つかずにすむ。死人にくちなし。みんなで黙っていれば、学校のことは外部にはけっしてわからない。なんとでもなると、司法も、世間も、なめてかかっている。
学校が自らの過ちを認めないから、子どもたちも認めない。学校が生徒たちの人権を平気で踏みつけにするから、子どもたちもまた平気で仲間をいじめる。先に手を下したのは大人たちだ。

そして、そのままお咎めなしですんだとして、その後はどうなるだろう。
そんな生き方を学んだ子どもたちはどんな大人になるのか。人を死に追いやってもなんとも思わない大人ばかりが育つ。みんながみんな、いつ他人から危害を加えられるかもしれないとビクつかなければならない殺伐とした世の中になる。
他人を殺してなんも思わない人間は、きっと自分の子どもを殺してもなんとも思わない。ムカツクからやっただけ、自分の子どもに対してもきっとそんなセリフを吐くだろう。
もしも将来、孫が子どもに殺されたら、きちんと生命の重みを教えなかった学校や親の責任だろう。

なかったことにしよう、なかったことにしようと、問題から目を逸らし続けているうちに、問題はどんどん大きくなる。取り返しがつかなくなる。
虐待する親たち、平気で人を傷つけ、殺す大人たち。どこから間違ったの?と遡っていけばきっと、学校教育がある、家庭教育がある。数字や単語を詰め込むことばかりに熱心で、人間として基本的なことを教わって来なかった子どもたちが大人になって、子どもたちの未来に希望が持てない国を作っていく。
子どもたち大切にしない国が、老人たちを大切にするはずがない。老人が不幸せな国の人びとに明日への希望はない。

ひとを不幸にする教育とはなんだろう?子どもたちを傷つけたり、殺したりしてしまう学校とはなんだろう?教育改革とは本来、こういうところからはじめなければならないはずなのに、相変わらず小手先ばかりいじろうとする。

子どもたちのほうがむしろよく知っている。学校に行っても幸せにはなれない。傷つけ、傷つくだけだと。そんな学校ならいらないと拒否をしている。
大人たちばかりがいつまでも、気が付かない。子どものため、子どものためと唱えながら、自分たちが創作したおもちゃの箱をいじり回している。中から子どもたちがこぼれ落ちていることに気が付かない。

インフォメーション・コーナーに次回の公判予定を入れました。傍聴支援を。

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