わたしの雑記帳

2001/2/20 被害者の心。笑いながら・・・の裏側にあるもの


2001年3月30日に判決が出た「旭川市立中学校性的いじめ事件」について。
この事件のデータを入力しながら思ったことは、告発した少女の勇気と、二次的被害の心配。

2001年2月14日の雑記帳で紹介したメキシコから来た少女・ガブリエラの場合、国も遠い、そして何より、国中に彼女と同じ性的被害にとあった女性がごろごろしている、彼女のいるNGO施設カサ・ダヤには、実祖父、義父、姉の夫、路上でレイプされた経験のある少女たちがたくさんいる(「勇気ある母親になりたい」メキシコの幼きシングルマザーの闘い/文・工藤律子、写真・篠田有史/JULA出版)ことなどから、かえってそのことで、彼女がマスコミから追い回されたり、周囲から言われなき中傷を受けることはほとんど心配なかった。

しかし、旭川の少女の場合、訴訟を起こし、いろんな情報が表に出ることで被害者が特定されることになったとき、受けるダメージを考えると、このサイトに事例として紹介することがためらわれた。
これは、彼女に限らず、他のいじめ被害者にも言えることではあるが、遺族や当事者がどう思っているのかがわからない。現段階ではこのページを見て下さった方が延べ500名程度だから大して影響があるとは思えないが・・・。
私としては、このページに事例としてあげている中で、連絡のつく遺族に対しては、このような形でホームページに掲載していることを手紙等でお知らせして、記載に間違いがあれば訂正すること、あるいは不快であれば、いつでも掲載を取りやめる旨を送っている。(現段階ではほとんど返事をいただいていないが)

いじめも、性的暴力も、けっして彼ら、彼女らだけの問題ではないから、私たちのすぐ身近にも隠されている問題であると思うから、同じ被害を繰り返さないためにも、「事例」として取りあげさせてもらっている。
このなかから、少しでも問題点を探り出し、具体的な解決策を見いだすことができればと思う。

旭川の事件で気になったことがひとつ。
女生徒が担任に被害を訴えた時に「笑いながら言った」ので、担任にしても、深刻には受け止められなかったというもの。
「被害者が笑っていたから、大したことだとは思わなかった。」同じ様な事例はほかにもある。

中尾隆彦くんもいっしょになってわらってた」と同級生が作文に書いている。また、鹿川裕史くんの場合、「これをどう思う?」と笑いながら父親に、先生までもが署名した「葬式ごっこ」の色紙を見せている。
山形マット殺人事件の児玉有平くんの場合も、兄が「部活でいじめられていないか」と尋ねると、「いじめられてもギャグを言って切り抜けているから大丈夫」と答えていた。

被害者はなぜ、笑っていたのか。
泣き顔を見せれば、いじめはさらにひどくなるとわかってたから。深刻な顔をするとなおさら自分がみじめになる。淡々とまるで他人ごとのように話してなければ、そうでもしなければ負の感情に押しつぶされてしまうから。子どもたちのあいだにも、泣いたりわめいたりするのはみっともないこと、小さい子どもがすること、という価値観や美意識があるから。
そして、おそらく、心の動揺をかくすために無理に頑張って笑ってみせたのではないだろうか。

これは、被害者遺族にも言えることで、今まで、笑顔さえ浮かべながら、淡々と子どものことを話していたお父さん、あるいは、お母さんが、突然、言葉に詰まり、泣き出してしまうことがあった。
そのギャップの激しさに、一瞬、呆然としてしまった。
それまで、耐えに耐えていたもの、押さえに押さえていた感情が、何かのきっかけに一気にあふれ出して、押さえられなくなってしまったのだろう。
しかし、もし、その小さなきっかけがなかったとしたら、その深い悲しみに気づかなかったかもしれないと思う。笑顔が出るくらいだから、心の傷もだいぶ癒えたのだろう。淡々と話すことができるのは、やはり父親だから、自分のお腹を痛めて生んだ子どもではないから?
目に見えるものだけに惑わされていたと思うと自分が恥ずかしい。

わが子が自殺するまで気づかなかった親のように、いじめを相談されても、その深刻さに気づかなかった教師のように。
表情はウソをつく。言葉もウソをつく。けれど、もし、そのウソにごまかされずに心の奥を見通す目があったら、もしくは、感情を揺さぶり吐露させるきっかけとなる一言があったならと思う。

菊池寛だったかの随筆かなにかにもたしか「ハンケチ」というのがあって、戦死した息子のことを笑顔で淡々と語る母親の手に握られたハンケチが今にも千切れんばかりに握りしめられていることに、ふと筆者が気づくというものがあった。

私たちは感情を表に出さない訓練ばかりを小さいころからさせられてきて、自分の思いを相手に伝える術を身につけてこなかった。そのくせ、人間関係の希薄さ、不慣れから、他人の思いを察するということもできなくなってしまった。

みっともないなどと言わずに、もっと感情をありのままに表現できたらみんな、もっと楽になるのに。
怒りも、悲しみも、口に出して、態度に表さなければ通じない。みんな、他人の感情に鈍感になっている。

それでも、一方でわかってくれる人はいる。
娘の小学校5年生の担任は、他校から転任してきてすぐに、娘と隣の席が離れているのを見ただけで、「なんで、そこ、離しているの!」といじめを見抜いた。
あるベテランの教師はいう。いじめられている子どもは、その雰囲気だけでピンとくると。
何も言わなくても、気づいてくれた。そして、それを言動に表してくれた。そのことがいじめられている被害者をどれほど勇気づけることか。子どもたちの閉ざされた心を開いていくか。

学校の先生は忘れないでほしい。子どもはいじめられていることを言いたがらない。いじめがもっとひどくなるのが怖いから。それでも言うということは、ものすごく勇気がいることなのだ。その勇気に応えてほしい。けっして、思いを裏切らないでほしい。

そして親は、子どもの心に敏感でありたい。日々の忙しさに流されず、わが子の危機に気づいてやれる親でありたい。
人の思いというものは複雑で、けっして表面に見えているものばかりではないということ、時には裏腹でさえあるということを、心の目で見ることの大切さを忘れずにいたい。

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