カルメン、ふたたび |
ほかの人から見ればべつに特別なことでもないことが、本人にとってはとても大きな問題に思えることがある。メキシコになる、現地子ども支援NGO「カサ・アリアンサ」でのある少女との再会がそうだった。昨年のツアーでカルメンという少女と出会った。なぜかわたしは、彼女がとても気に入ってしまった。勝ち気そうで、でもはにかみ屋の少女だった。日本に帰って来てからも、カルメンのことが気になり、機会あるごとにカサ・アリアンサから路上に戻っていないかどうかを確認していた。カサ・アリアンサを出たがっているようだったが、職員が説得をして留まっているとのことだった。「この子はもうストリートには戻らない」と、わたしは勝手に思い込んでしまっていた。 今年の訪問でも、わたしはまずカルメンの姿を探した。沢山の子どもたちの中にカルメンを探した。ふと、誰かがわたしを見つめている気がした。振り向いて見た。10メートルほど先に一人の少女がいた。彼女は、わたしが見つめると建物の中に走るように入っていった。わたしは少女が消えた場所までいった。建物の中を覗き込んだ。カルメンがいた。「やっぱりそうだったのね。やっぱり去年のおじさんだ」とでもいうように、カルメンはわたしに駆け寄って来た。私はカルメンを抱きしめた。カルメンは自分の頬を指差し、キスをしろという。私はカルメンの頬にキスをした。カルメンを抱きしめ、ぐるぐると回した。それがカルメンとの再会だった。 翌日の土曜日わたしたちは、メキシコシティを離れ、オアハカへいった。日曜日の夕方わたしたちは再びシティに戻って来た。メキシコシティのホテルに戻ると、ツアーの責任者の女性が一人の少年を連れて来た。彼女と連れ合いの男性は、ご夫婦でフリージャーナリストとして活躍している。その彼らの取材ビデオに写っていた路上で生活せざるをえない少年のうちの一人だ。ほかの子どもにも会うために、わたしたちはその子たちのねぐらに向かった。そこはホテルのすぐそばで、露店が立ち並んでいる所だった。子どもたちがわたしたちの回りによって来る。去年、カサ・アリアンサで出会った記憶のある子もいる。わたしは子どもたちをビデオで写していた。彼らは争うようにレンズの前に立つ。その時、わたしと同様、昨年のツアーにも参加した女性がわたしの腕をひいた。「カルメンがいるよ」衝撃的な言葉だった。最初はその言葉の意味を理解することも出来なかった。「カルメンが路上にいる。そんなことはありえない」わたしは信じなかった。 しかしカルメンはいた。カサ・アリアンサで会ったカルメンとは全く違ったカルメンがそこにいた。シンナーを染み込ませたティッシュを口に当て、空ろな目でわたしを見ていた。なぜカルメンはカサ・アリアンサを出てしまったんだ?私には理解出来なかった。わたしと再会したからだろうか?再開した後、2日間わたしがカルメンの所に行かなかったからだろうか?わたしのせいなのか?わたしは自分を責めた。半年以上に渡って、職員に説得されながらであってもカサ・アリアンサにいたカルメンが、わたしたちが来た途端に、路上へと戻ってしまったのだ。なぜ彼女がそうしたのかはわからない。しかし、日本から来たわたしと再会したことで、あるいはわたしたちかもしれないが、彼女の内で何かが変わったのかもしれない。施設にいようが路上だろうが、彼女の生活にとって変わりはないと考えたのかもしれない。 つい何日か前に聞いた話を思い出した。カサ・アリアンサが、スエーデンでNGO関係の賞を受けたことがあるそうだ。その授賞式にいくために、定住施設にいた少女が、所長と一緒にスエーデンに行った。その少女は、もう路上に戻ることはないと思われていた少女だった。だが帰国後、彼女は再び路上に戻ってしまったというのだ。彼女がどんなに頑張った所で、スエーデンのような先進国の生活は望みようもないということを、はっきりと見せつけられてしまった結果だろうか。カルメンもまた同じだったのかもしれない。そんな風に思えてしかたがなかった。 わたしは、カルメンと路上に座り込み話をした。スペイン語を話せないわたしだから、全く言葉はつうじなかった。だが、わたしは日本語で一生懸命カルメンに語りかけた。カルメンにシンナーを止めろと言った。カルメンは口元に付けていたチリ紙を道路に投げ棄てた。その代わり何か食べ物をくれと言う。わたしは飴しか持っていなかったが、それをカルメンに渡した。カルメンはひどく不機嫌そうな顔をしたままだった。「明日、カサ・アリアンサに戻るんだ」わたしはそう言いつづけた。「明日」という単語と、「カサ・アリアンサ」をくり返しいった。カルメンはうなずいた。今はそれしかないんだ。わたしはカルメンの頬に軽くキスをして別れた。 二日後、ストリートエデュケータのアナとエレナと共に路上にでた。カルメンはカサ・アリアンサに戻って来てはいない。路上にカルメンの姿を求めて、わたしはアナたちと歩いた。「カルメンを知らないかい」アナとエレナに聞いてみた。「子どもたちはたくさんいるから分からないわ」それが彼女たちの返事だった。彼女たちは避難所には常駐していない。いつも路上にいる。カルメンを知らなくて当然だ。 アナたちはいくつもある子どもたちの隠れ家のうちの一軒に、わたしたちを連れて行った。メキシコ地震で崩壊寸前のビルの最上階に子どもたちはいた。異臭と、ゴミと、壁のないビルの最上階。ラリッた頭でふらつきまわれば、いつ地上に落下してもおかしくはない。シンナーで脳を侵され、いつ襲いかかって来てもおかしくない「殺し屋」と呼ばれている少年がわたしたちのまわりを、にやにや笑いながら歩き回る。そんな中でアナとエレナは、一人の少年にカサ・アリアンサに行くことを同意させた。少年たちのボスに、エレナがその少年を連れて行くことの許可を得ようとする。「殺し屋」がわたしたちの回りを歩き回る。ボスの少年もラリっている。緊張した時間が続く。やっとボスの許可が下りて、わたしたちは廃屋を後にする。「殺し屋」がアナとエレナを階段から落とそうと後ろから押す。アナが「殺し屋」を睨み叱りつける。わたしは同行の日本人女性と、通訳の在メキシコ女性に注意をはらう。 その後も、わたしは一人でカルメンのねぐらを捜しまわった。見つけだしたねぐらは宿泊しているホテルの近くだった。ビルの前の小さな公園だ。十数人の子どもたちと一緒にカルメンはいた。カサ・アリアンサで会ったことがある子どもたちが何人かいる。彼らは、わたしの姿をみつけるとわたしを取り囲み話しかけて来る。だがカルメンだけは、わたしを避けるようにする。わたしから怒られるのが分かっているからだろう。声をかけても、ほかの子どもの陰に隠れるようにする。メキシコにいる間は、様子を見に来るしかない。ずいぶんと雰囲気のかわってしまったカルメンを見ながらそう思った。 ツアーの最終日、カサ・アリアンサでお別れパーティがあった。わたしたちが出かけていくと、門の前にカルメンと何人かの子が座り込んでいる。ツアー責任者が、「お別れパーティがあるからおいでよ」と誘ったらしい。これでカルメンもカサ・アリアンサに戻って来る。わたしはそう思った。「さあ、パーティだよ。一緒においで」そう言うとカルメンは、気怠そうにうなずいた。だが、シンナーの匂が抜けていない子どもたちは、カサ・アリアンサに入れてはもらえなかった。パーティが終わった後、カルメンたちの姿はもう門の前になかった。 ツアーの人たちが帰国した後も、わたしは数日間メキシコに残った。いよいよ日本に帰るという前日、別れを告げにカルメンの所に出かけて行った。その時は、わたし一人ではなかった。メキシコで知り合った、元ストリートチルドレンのマリオという青年が一緒に来てくれた。いま彼は、ほかのNGOの施設で子どもたちの世話をしている。彼にカルメンのことを話し、彼の所属しているNGOに来るようカルメンを説得してくれないかと頼んだ。また、彼女がその施設に行かないと言ったとしても、これからも時々は様子を見に行ってくれとも頼んだ。マリオは快く承知してくれた。 その日、カルメンは公園の噴水の縁に、赤い顔をしてぐったりと横になっていた。風邪をひいているらしく、熱もあるようだ。わたしは持っていた解熱剤を渡して飲ませ、屋台でタコスとジュースを買いあたえた。わたしにできたのはそれだけだった。またも自分の無力さを、いやというほど思い知らされる。傍観者としてそこにいるしかない自分を。養女にしてもいいとまで思っている少女に、わたしは何もしてあげられない。あまりにも非力だ。無力だ。路上と施設を行ったり来たりしている子どもたちはいくらでもいる。カルメンも結局はその一人だ。だがその一人の少女ですら、わたしは路上から連れ戻すことができないのだ。 こうして日本に帰って来てからも、カルメンのことばかり考えてしまう。わたしにとって、カルメンがストリートチルドレンのすべてを体現しているのかもしれない。来年もまた、カルメンに会いに行こう。路上で生活せざるをえないすべての子どもたちを、忘れないためにも。そして、見つめ続けるためにも。
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1997年8月 |