『ひめゆり』


 試写室である予感を持ちながら観始めた作品は、予想をはるかに越えていた。柴田昌平監督は、極力ドキュメント作家として培ってきた技法も、監督の想いを訴えるための映像表現も抑えている。

 作品は、「ひめゆり学徒隊」で生き残った方々の言葉そのもので構成されている。もっと当時の残された映像や、現代の沖縄南部戦跡を映し出すことで、視覚で訴えることもできたろう。しかし柴田監督は、愚直といえるほど生き残った方々の証言を綴る。

 スクリーンに映し出されている映像を観ていることを自覚しながらも、直接沖縄の地で語りかけられている錯覚にすら陥る。ふと、5年ほど以前にプラッサで取材させていただいた、広島の語り部、沼田鈴子さんからお話をお聞きしているときと同じ空間を感じていた。

 2時間を越える作品でありながら、その長さすら感じることが無い。語ることによりよみがえるあまりにも重く苦しい体験。しかし語り継ぐことで、失った時間と、亡くなられた友を、今一度わたしたちに出会わせてくれる。

 13年間にわたり、22人の方が「ひめゆり学徒隊」の沖縄戦を語りかけてくれる。完成を待たずに3人の方は他界されているという。

 『忘れたいこと』を話してくれてありがとう
 『忘れちゃいけないこと』を話してくれてありがとう

 この歌手「Cocco」の言葉は、作品を観たもの全ての想いでもある。

 米軍の上陸から、本島最南部の荒崎海岸までの時間を、私たちは懸命に想像する。話される言葉から懸命に想像する。ある意味では、この作品によりわたしたちは試されてもいる。「あなたには沖縄南部戦を想像し、自身の中で再構築することができるか」と。

 柴田監督が試写ののち、「わたしの世代より上の方は、また『ひめゆりか』とおっしゃるし、若い方々は、『ひめゆり』のことすら知らずにいます。だからこそこの作品をつくりました」と語られた。

 そう、わたしも同じ思いだった。「またひめゆりか」と一瞬思っていた。そして試写ののち、若い方に作品のことを話した。すると若い方は「ひめゆりって何ですか?」と聞いてきた。

 かつて映画「教えられなかった戦争『沖縄編』」は、阿波根さんの言葉をいつまでも残すために制作された。沖縄の伊江島へ行けばいつでも、すでに数年前に亡くなられた阿波根さんと出逢え、その語りかけを聞くことができる。ドキュメンタリー映画はその想いの中で制作された。

 今回の作品で、『ひめゆり』もまたいつまでの残り続ける。脚色されることの無い『ひめゆり』が始めて明らかにされ、しっかりと語られる言葉の一語一語が残り続ける。だからこそぜひ、劇場で生き残られた方々の言葉を聞いてほしい。その時初めて、わたしたちは『ひめゆり』を知ることができる。


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世界子ども通信「プラッサ」
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