日本人大衆の戦争責任と戦後責任

2000年7月 於北京

津田 道夫


【編集部前註】 以下は、中国社会科学院の呉広義氏の招きで、 2000年7月26日から8月1日まで訪中した津田氏ほか4名をまじえて開かれた 「日本の戦争歴史認識座談会」(『抗日戦争研究』編集部主催) での津田道夫氏のレポートです。

戦後五十年にあたる1995年、栗山尚一駐米大使はワシントンでの記者会見で、 こう語ったといいます。
「日本国民全体の反省があるから戦後の平和憲法にたいする国民の熱心な支持がある。 また、新憲法のもとで政治的自由、 民主主義体制の支持があるのも反省があるからこそ。 日本国民は反省をきちんと続けなければならない」。
私はごく一般的な意味でこの発言を容認することができます。

ところが、同年3月16日に衆議院外務委員会で、戦後生まれの保守系の国会議員、 高市早苗は、上の栗山発言に対して、こう言い放ったのでした。
「(大使は、こんな風に) 日本国民全体の反省があると決めつけられておられるのですけれども、 少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、 反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております。」

国のエリート(選良)ともいえる人間の、これは、驚くべき発言ですが、 しかし私見では、こう考える日本人が案外多いのではないかと思います。 ここには戦争責任をめぐる国民と個人の関係について、 大きな問題がひそめられているのです。 中国の指導者は、よく中国侵略の責任は、日本国家の指導部にあるのであって、 日本人大衆も戦争の犠牲者であったと言ってきました。 それは、国家間関係をめぐっての配慮の問題としては納得できます。 しかし、日本人の側からこの問題をふり返れば、こういう配慮をいいことにして、 責任を国家の側に転嫁してしまって、 一人一人の道義的責任をおろそかにしてきたのは許されないと思うのです。 それは、戦場に出て行って暴虐の限りをつくした元兵士にしても、 銃後にあった人間にしても、戦後生まれの人間にしても同様であろうと思います。 そこに国家としての、日本人としての責任の継続性の問題が問われるからであります。

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1937年に全面化した中国に対する侵略戦争は、 絶対主義天皇制の閥族集団の一分派によって火がつけられ、 やがて天皇制帝国主義全体が侵略の担い手となって行きました。 この天皇制帝国主義の戦争は、 併せて財閥という形をとっていた独占ブルジョアジーによっても支持され、 その利害をも代弁して行きました。 その点、侵略戦争の推進母体は、「二重の帝国主義」ということになります。 この点の分析を私は、今度、 中文版が刊行された『南京大虐殺と日本人の精神構造』で僅かにふれておきました。 したがって侵略戦争の犯罪人が天皇、軍閥、天皇制官僚、 財閥にあったのは申すまでもなく、このことにこれ以上触れる必要はないでしょう。

と同時に、天皇制帝国主義によって動員された国民一人一人も、 支配者とは別の次元での戦争責任を共有しなければなりません。 前線に駆り出された兵士一人一人については、 命令だから中国人を殺したんだという法理は今日通用しなくなっております。 銃後の日本人男女も総力戦体制のもと、支配階級に駆り出されるのと併せて、 あの侵略戦争を翼賛し、 これを積極的に支持した限りにおいて責任を分担しなければならぬでしょう。

中国侵略戦争が全面化した1937年、私は小学二年生になっていましたが、 12月にもなると子供の間にさえ、南京陥落が話題となりました。 つまり、南京陥落への期待は国家的関心をさらったわけです。 その大衆的気分に押されて、政府は、南京陥落の二日前、37年12月11日(土)、 東京をはじめ各地で祝賀行事を全国的に繰り広げました。 私が住んでいた久喜市も例外でなく、当時小学二年生だった私は、その日の午後、 祝賀旗行列に参加したのを、はっきりと覚えています。 そしてこの「祝南京陥落」のお祭り騒ぎは、以後数日つづきました。 このとき南京では、 日本侵略軍によるあらゆる残虐行為の「血祭り」が演じられていた訳で、 いま思い返して、まことに忸怩(じくじ)たるものがあります。

当時、小学二年生の私に、戦争の正否を判断する力は、勿論ありませんでした。 しかし、私もその参加者の一員であった戦後の民主主義的大衆運動のなかで、 まずこの侵略戦争に対する徹底的な反省がなされるべきだったのです。 しかし、戦後、3、40年はそのような思想的反省はなされませんでした。 戦争責任の問題を、たとえば極東国際軍事裁判にゆだねたまま、 日本人一人一人の思想的反省がなされることなく、 戦後をやりすごしてきたことについて、 私は、中国をはじめとする東南アジア諸国民に対する 日本人の戦後責任があると考えるものです。 つまり、戦後責任とは、この「やりすごし」責任のことだと言っていいでしょう。

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では、なぜこういうことになったのか。 ここで私は戦後の日本人大衆の意識の流れに、三つのファクターがあったと考えます。

 (1) 敗戦により、日本は焼土と化し、食料の絶対的不足のうえに、 労働者人民のたたかいも、食料闘争という形をとらざるをえなくなりましたが、 それは庶民エゴイズムのむき出しの形態化といえるものでした。 そして、日本の侵略戦争によって莫大な被害を被った近隣諸国の状況には 思いも至らなかったということがあります。

 (2) 敗戦後、日本を占領したのは、たしかに連合国でありましたが、 実質は米国でした。 そして、それと同時に、アメリカ的生活・文化様式が、 一つの理想型として焼け跡の街街に浸透して来たのですが、 それは中国での残虐行為を忘れさせる、 ないしは、潜在意識下に沈潜させるところとなったといえます。

 (3) 第三に、敗戦直前のアメリカによる都市無差別爆撃、 とくに広島・長崎への原爆投下は、 戦争の被害者意識を多くの日本人の間に共通に成立させましたが、 それが平和運動としてそのまま形態化されると、それは、 「被害者平和運動」「一国平和運動」という形をとる以外になくなりました。

そのような訳で、戦争責任の意識を欠落させたまま暫くやり過ごしてきた訳ですが、 60年代、70年代になると、経済高度成長の結果として、 経済大国意識が日本人大衆をとらえ、 それが妙な形で日本人の「誇り」をくすぐるところとなって来ました。 それは対外的には経済帝国主義の進出ということであり、 依然として東南アジア諸人民に対する差別意識を払拭しきれないまま、 今日に至っているといっていいでしょう。
もっとも、日本には戦後一貫して平和憲法というものがあり、 すくなくともその非武装条項は建前として今日まで護り抜かれてきました。 これは日本人民として誇りにしていいところだと、私は考えています。

とは言え、中国にたいしては、戦争責任の問題に依然決着がついていないのが事実です。 よく、保守系の政治家が、「何回あやまったらいいのか」などと言って、 「謝罪外交」批判をうち出していますが、私見では、真の謝罪は、日本国家によって、 まだ一度もやられていないと考えます。 侵略戦争にたいする謝罪とは、ただ「ご迷惑をかけました」というにとどまらず、 天皇制帝国主義が中国ないし中国人にいったい何をやったのか、 少なくとも南京大虐殺三十万の問題などは、 その具体的事実をあげて謝罪しなければならないと考えるからです。 そうして、はじめて生き残ったかたがた、ないし、 遺族にたいして国家補償ということが、必然化されるところとなると思うのです。

私は、いま民間団体である「ノーモア南京の会」(代表・田中宏) というのに参加していますが、これは、 戦後の平和運動の中でいわれた「ノーモア広島」だけでは、 運動としての国際的責任をとるゆえんとはならぬというところから 発想された運動体です。 いま、歴史改ざん派の運動が非常な勢いで人びとをとらえつつある折から、 このような小さな民間運動が日本各地につくりだされることを期待するものです。 そして、中国の識者との間にも交流を深めて行きたいと願っております。

 

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