歴史に見る被害報道

通州事件とその被害報道から私たちは何を学ぶべきか

福田 昭典

ノーモア南京の会学習会、2004年3月14日



 このテーマで学習会をやろうという問題意識は、2002年の9・7以降、拉致報道が執拗に繰り返されるなかで、かつての日本の朝鮮への植民地支配の歴史が免責されたかのような雰囲気が社会のなかに漂ってきたのはなぜか、そこに、日本の加害の歴史を霧散霧消させようとする何らかの意図があるのだろうか、さらに、歴史的に日本人の被害報道は国際関係の中でどのようになされていたのかを一度勉強してみようというところから始まりました。
 日本と中国との関係史をたどってみると良く見えてきます。1930年代になると中国で日本人が拉致されたり負傷する、あるいは殺害されるという事件が多発し、その度ごとに大々的な被害報道が展開されます。それらの一連の被害報道の中で一番大きなインパクトを日本人に与えたのが「通州事件」です。通州事件がどのような事件であるのかを明らかにしたいのですが、そのためには、1937年7月28日の「通州事件」にいたる歴史的背景をたどっていかなければなりません。

(1)1931・9・18柳条湖事件と万宝山事件

 日本は朝鮮の支配権をめぐり、ロシアと戦争をすることになります。1904年の日露戦争です。その戦争で、偶然にもロシアに打ち勝ち、「満州」におけるロシアの利権が、ふところに転がり込んできました。それ以降、日本は「満州」を帝国の生命線としてとらえ、「満州」の資源を我がものにして、帝国発展の基礎としようという潮流が大きなものとなっていきます。そして遂に、1931年9月18日に関東軍の独立守備隊が自ら、柳条湖の鉄道を爆破し、この爆破を中国人の仕業だとして、一気に「満州」全域に軍を展開して、「満州」の要衝をことごとく支配するという事件を起こします。関東軍の参謀の石原莞爾と板垣征四郎という二人が謀略のシナリオを描いた「9・18柳条湖事件」、世に言う「満州事変」です。
 ところで、柳条湖事件の2ヵ月半前の7月1日に、長春郊外の万宝山というところで「万宝山事件」というのが起こります。朝鮮人移民が、水利をめぐっての現地中国人との争いで殺害されるという事件です。当時朝鮮は日本に併合されていましたから、日本国内では日本人が殺害された事件としてセンセーショナルに報道されました。同じ時期、関東軍参謀本部の中村大尉が内蒙古で情報収集中に殺害されるという「中村大尉事件」が起こり、この事件もセンセーショナルに報道されました。これらの被害報道が関東軍の謀略でなる柳条湖事件への雰囲気作りの役割を果たすと同時に、侵略への思想基盤作りというか、侵略への国民統合の環境を作り出す役割を果たしてしまいます。また、万宝山事件の後、朝鮮でも反中国キャンペーンが激烈に行われ、朝鮮在住の中国人への報復の暴行と虐殺が繰り広げられたという歴史事実のなかに被害報道が扇動する凄まじさを見ることができます。

 柳条湖事件が関東軍の謀略事件だということは、政治家や軍やマスコミ上層部、もちろん天皇も、いち早く知るわけですが、石原や板垣にずるずると引きずられていくことになります。しかし、日本の一般民衆は、それが日本軍の謀略であったことなど、戦後になるまで知らなかった。メディアは、中国人が我が満鉄の鉄道を爆破したとして、中国人に対する民族的憎しみを煽り続け、日本の民衆はそれにまんまと乗せられてしまうわけです。国家犯罪はうまくやれば、そのまま黙認されてしまうんですね。石原莞爾はその責任を追及されることもなく戦後を生きています。

 「満州事変」の後の1931年12月、若槻に代わって政友会内閣を組織した犬養毅首相は、なんとかして軍部を押さえ、この事変を終息させ、中国との関係改善をはかるべく、中国側との外交交渉を重ねていましたが、1932年5月15日、クーデターを画策した海軍の青年将校に射殺されてしまいました。5・15事件です。犬養毅がどれほど軍部の対中国政策に本気で対決していたのかは、議論の分かれるところでありますが・・・。「満州国」の承認に消極的であり、承認の延期をはかっていた犬養首相を軍部は許すことができず殺害してしまったのです。その後、9月15日、「日『満』議定書」が調印され、満州国が承認されます。1933年2月24日に国際連盟でリットン報告書を基調とした決議が採択されると、翌月の3月27日、日本は国際連盟を脱退し、その後の日本の運命を決定づけます。

(2)日本軍の華北分離工作

 1932年3月「満州」国という日本の傀儡国家が独立します。遼寧・吉林・黒龍江東北3省にわたる人口3000万人を擁する広大な地域に日本が強引に中国から分離させてつくった国家です。しかし、日本軍は「満州」国の独立だけでは満足せず、華北に向かって進軍していきます。当時、遼寧省と河北省の間に熱河省がありました。「満州」国の独立という日本の侵略行為が国際連盟で大きな問題となっていた1933年3月4日、熱河省の省都・承徳を関東軍が占領し、さらに長城を越えて北京のすぐ近くまで軍を進めます。そしてついに、5月31日、関東軍は中国軍との間に「塘沽停戦協定」を締結します。その内容は、長城と、盧台と延慶を結ぶラインの間を非武装地帯とし、中国軍は入ってはまかりならぬというものです。そこは日本軍に手なづけられた傀儡の軍である保安隊が治安を担当することになります。

 ところが、中立地帯というか非武装地帯は全く無法地帯になります。ここを拠点にして密貿易を行って、関東軍は膨大な利益をあげます。阿片・モルヒネ・コカインとかを軍が売り、得たお金を軍の様々な活動資金にします。田中隆吉という関東軍の参謀がここで得た金を蒙古の独立運動につぎ込んだことはよく知られています。一説によると岸信介の資金というのは、この密貿易、麻薬の取引で得たもので、彼の戦後の政治資金も、この時に作られた金だとされています。

 1935年になると、関東軍は華北を中国から分離しようと、華北を第二の満州にしようと動き出します。当時の新聞には、華北の明朗化とか、日本軍による内面指導とか、華北の自治運動とかいう文字が躍っています。なぜ日本軍が華北に目をつけたかというと、満州は資源が予想よりも少なかった。華北、とりわけ山西省の石炭とか鉄鋼石とかは大変なもので、何とか手に入れたい、華北を我が物にしようという衝動にかられ始めたからです。また華北の人口は、「満州」国の人口の比ではない。だから資源の供給地だけではなく市場としても魅力的なもので、華北を絶対自分の物にすべく画策し始めるのです。これは日本資本主義全体の要求でもあった。その当時の新聞や雑誌には、日本と満州との経済ブロックとかいう言葉がいろいろ出てきますけど、1935年位になると「日満支」経済ブロックというように言われ始めます。何とかして華北を分離させたい、華北には様々な軍閥が展開していましたが、その軍閥に働きかけて、国民党政府から分かれて華北は独立すべきだと、軍閥に働きかけるのですが、なかなかうまくいかない。華北から国民党政府の影響力を一掃する機会を陸軍と関東軍は狙い続けていました。

 その一つのきっかけが、1935年の5月に天津の日本租界で、「国権報」と「振報」という親日的な新聞社の社長が殺害されるという事件です。この事件を奇貨として天津軍が張学良と華北における国民党の影響力を一掃しようと企む。天津軍というのは正式に言うと支那駐屯軍と呼びます。1901年の義和団議定書以降、日本は2000名の軍人をずうっと天津に駐屯させています。天津軍は関東軍が中国に駐屯する以前から、北京周辺に張りついていました。時の天津軍の司令官が梅津美治郎ですけど、梅津司令官の天津軍が華北における張学良と国民党の影響力を一掃しようと、親日派の新聞社の社長の殺害を利用したわけです。梅津は国民党の華北における軍事責任者である何応欽を呼び出して恫喝するわけです。とにかく于学忠という河北省の主席、張学良派ですけれど、張廷諤天津市長の罷免、河北省のすべての国民党軍の撤退、第51軍の第2師団と第25師の河北省からの撤退、排日・反日の運動を取り締まれという内容の「梅津−何応欽協定」が結ばれます。それが1935年の5月から6月の動きです。

 一方、天津軍に対抗する形で関東軍は35年の6月に、チャハル省の張北というところで、日本の特務機関員4名が第29軍に一時拘留されるという事件を理由として、関東軍が第29軍の副軍長である秦徳純を恫喝して、「土肥原−秦徳純協定」を締結させます。その内容は反日機関の撤退と塘沽停戦協定の中立地帯を西の方にまで広げていくというものです。そして、こんどは蒙古の独立運動というのを関東軍が‘内面指導’とやらで強化していく。その時点で蒙古の独立を画策します。そういう意味では、いわば天津軍も関東軍も恫喝に恫喝を重ねて、華北における日本軍の権益を確保しようとする。まさに軍事行動により、軍事的に確保しようとする。その一方で、自治運動と言って、華北の分離を画策していくわけです。しかし、そんなものがうまくいくはずがない。関東軍が何をしたかというと、日本に協力的である殷汝耕というのを担ぎ出して、「冀東防共自治政府」というのを成立させます。「冀東防共自治委員会」というのが最初の名前ですけど、それは35年の11月で、翌12月には「冀東防共自治政府」になるわけです。冀(き)というのは河北省の古名です。冀東というのは河北省の東部という意味ですね。結局、「冀東防共自治政府」の設立をもって華北における親日的な勢力を一気に拡大していこうと企むのですが、結果として華北における反日気運を高めていくということになってしまいます。1936年になりますと、盧溝橋事件が起こる前の年です、中国における反日運動は非常に拡大・激化していく。日本人に対する襲撃事件が続発していくわけです。

(3)1937・7・7盧溝橋事件への道―被害報道をテコに国民統合

 「日中15年戦争史」(大杉一雄著:中公新書)によれば、1936年1月21日、汕頭事件、7月10日に上海で日本人が射殺されるという萱生事件、8月24日に成都事件、9月3日に北海事件、9月19日に漢口事件というのが起こります。資料は東京朝日新聞の1936年、昭和11年8月26日付の新聞です。ここに成都事件のことが載っていますが、それによると成都で、領事館の再設置問題につき中国政府の最終的な合意が得られないうちに、先行的に乗り込んだ日本人の記者2名と民間人2名が、現地の中国人に集団的に暴行を受け記者2名が殺害され、他の2名が重傷を負ったことが伝えられています。襲撃されたのは大阪毎日の特派員です。成都事件は、日本と日中外交関係に影響する非常な重大事件として連日新聞で報道されます。また昭和11年9月10日付の新聞がありますが、北海事件について掲載されています。北海というのは北の方の海でなくて海南島の近くの南の方の海です。この事件は、現地に長く居留していた日本人の商人が、やはり中国人に殺害されるという事件です。9月10日付の朝日新聞の一面に“北海事件を重大視し”と書かれています。殺された死体と全身8箇所に深い傷がある。こういう形で派手に報じられる。このような日本人に対する襲撃が多発します。これが日本の新聞に連日報道されます。メディアが中国人に対する憎しみを煽り続けるのです。こういうのが日本の民衆に入っていきます。侵略に向けた思想基盤が、しっかりと積み重ねられていきます。その頃はテレビもなくて、ワイドショーもなかったけど、あの時代にワイドショーがあったら、もっと凄かったと思います・・・。

 話を戻しますと、日本は「冀東防共自治政府」を成立させましたが、これをどうするのかというのは大きな問題です。外交上の問題にもなります。国民党政府は「冀東防共自治政府」に対抗して、日本軍の要求をかわすという意図を含めて、「冀察政務委員会」というのを作ります。「冀」(き)というのは河北省、「察」(さつ)というのはチヤハル省です。要するに北京・天津を含む河北省とチヤハル省を管轄区域にして、冀東政府に対抗していきます。その当時はまだ日中間の国交がありましたから、絶えず日本政府と中国政府は交渉しています。盧溝橋事件の後も交渉はありました。「蒋介石を相手にせず、南京政府を相手にせず」と、近衛が声明するまではずーっと国交はありました。日本政府はそのなかで華北にも特殊な権益があると、その権益を中国政府に認めさせようと、そのために交渉します。そのような権益を奪い取るために「冀東防共自治政府」をつくるわけです。中国の国民党政府は、このような日本の動きに対抗するために「冀察政務委員会」というのを作ります。当時の新聞を見ていくと冀察とか冀東とかいう言葉がたくさん出てきますが、そのような経緯と関係を理解していないと新聞を読んでも何のことかさっぱりわからない。その「冀東防共自治政府」の首都が通州です。

(4)「通州事件」とは・・

 1937年7月7日、盧溝橋事件が起きます。当初、近衛内閣は不拡大方針をとるのですが、この通州事件が、その方針に大きな影響を及ぼします。盧溝橋事件が起きて約3週間後に「冀東防共自治政府」の首都通州において、保安隊による日本人襲撃事件が起こります。その際、日本人が200名以上殺される。うち100名が朝鮮人だと言われています。200名以上が殺されたこの事件は日本の新聞に大変大きく報道されることになります。日本人社会の反中国の感情がさらに一層高まっていきます。この被害報道は、日本の中国侵略の大きなバックボーンになっていきます。事件は7月28日に起きるのですが、8月になってから新聞報道されます。この保安隊というのは日本の傀儡軍です。

 “保安隊變じて鬼畜、罪なき同胞を虐殺” “恨み深し! 通州暴虐の全貌”、という新聞記事になります。“世紀の残虐、あゝ呪ひの通州” “鬼畜! 臨月の腹を蹴る”、という題字が躍っています。襲撃された日本人女性のお腹に子供がいて臨月だった、死んだふりをして2時間じぃっとしていて殺されずにすんだという、相当生々しいルポです。こういうものが連日、新聞やラジオで放送されます。これは更なる日本軍の進撃のバックボーンの役割を果たします。侵略戦争を全面化していくために、ものすごい憎しみを報道が煽っていたのです。

 7・7以降、「冀東防共自治政府」の保安隊と、29軍という「冀察政務委員会」の宋哲元の軍隊とが戦闘状態になっていく。「冀察政務委員会」は国民党の影響が強い、日本人の顧問もいるわけですが、「冀察政務委員会」と「冀東防共自治政府」が7.7以降戦闘状態になっていきます。その戦闘の時に日本軍が誤って保安隊を爆撃し、保安隊に相当の死者が出ました。保安隊が日本軍に爆撃されたから、それで報復の襲撃を行ったというのが事件の概要とされています。また、7月28日には日本軍が総攻撃をかけて北京周辺を占領します。どんどん華北に進入してくる日本軍に対し、やはり保安隊といえども、怒りがこみ上げてきたということもあったのだろうと予想できます。さらに「冀察政務委員会」の第29軍が、「冀東防共自治政府」の保安隊に対して様々な働きかけをしていたのも事実のようです。共に立ち上がろうと、日本軍に対して決起しようと、そういう働きかけをずうっとしていたのも事実です。しかし直接的な契機はやはり日本軍の誤爆です。ものすごい数の保安隊の人間が死んでいます。右翼がよく通州事件を例にあげて、中国人も日本人に酷いことをしたと主張しますが、日本人200人が殺された通州事件が、どういう経緯のなかで起きたのか、そもそも日本人がどうして通州にいるのかという根本的な問題を彼らは語れません。侵略と侵略に対するレジスタンスをごっちゃにして物事を見ると誤りを犯すことになります。

 総括的に言えば、被害報道というのは侵略への国民統合の要なんです。日本人が殺された事件と、そういう報道をテコに国民統合が進んでいくということは、歴史がはっきりと指し示しています。では、我々がそれに対してどう立ち向かうのかということです。戦争反対の立場からすれば、被害報道に惑わされないというか、被害報道の本質をしっかり踏まえていく、踊らされないというか、本質をしっかり掴み、考え行動しないといかんということです。それをどの位の人間ができるのかというところが一番、逆の意味での要かな、というふうに思います。言ってしまえば、拉致報道というのは昔からこういうふうにやったんだと。これに流されていたら、それに統合されてしまったら悲惨な結末がありますよ、ということを歴史は教えているのだと思います。
      



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