父の謝罪

父の語った戦争、語らなかった戦争 No.2

倉橋綾子


墓碑 (40kB)

大澤雄吉氏(憲兵時代) (20kB)

大澤雄吉氏(70歳) (15kB)

私の父は今から12年前の1986年に肝硬変で亡くなりました。 大沢雄吉という名で1915年に群馬の自作農家に生まれました。 祖父が変わり者で馬道楽に走ったため、貧しく屈辱的な生活だったそうで、 中学校に行くことができませんでした。 高等小学校卒で農家の三男とあっては展望が開けず、 悩んだ末に猛勉強して憲兵に合格しました。 小学校の教頭と同じくらいの給料がすぐ手に入ったようです。

それから10年間憲兵生活を送り、 敗戦後は二度逃亡して故郷にもどれたのでした。 苦労して洋品店を営み、経営に成功しました。 三人兄弟の末っ子の私は父にかわいがられ、簡単な中国語を教わったり、 中国人は正直だという話を聞かされました。 また、「私は貝になりたい」 「人間の條件」などの映画を子供達に見に行かせました。 父は権威にまどわされず、また合理的な思考のできる人間でしたが、 自分の主張を押し出しすぎる所があり、家族の内での葛藤が絶えませんでした。

そんな父が亡くなる前に、私に次のように書いてある紙切れを渡しました。
「旧軍隊勤務一二年八ヶ月、其ノ間十年、 在中国陸軍下級幹部(元憲兵准尉)トシテ天津、北京、山西省、臨汾、運城、 旧満州、東寧等ノ憲兵隊ニ勤務。 侵略戦争ニ参加。中国人民ニ対シ為シタル行為ハ申訳ナク、 只管(ヒタスラ)オ詫ビ申シ上ゲマス」
これを墓に刻んでくれと言われたのですが、 残念ながら親戚の反対でいまだ実現できないでおります。

私は父の博学なところやユーモアを解する所が好きで、 父のことはよく知っているつもりでいましたが、 このような苦悩を引きずって、 さらけ出すこともできずに生涯を終えたのが哀れでなりません。 また父の心中を少しも思いやれなかった自分の底の浅さ浅さを恥じております。

十年間の憲兵生活で父はどれだけの事をやったのか、 どれだけの中国の人々を犠牲にしたのだろうか。 それを知ることに意味があるのかどうか分からぬまま、 私は父の上司や部下だった人を訪ね当てて聞いてみましたが、 答えは避けてしまわれました。

今私は東史郎さんの裁判や、従軍慰安婦にされた方の裁判等の支援に、 個人のわずかな力ではありますが参加しています。

また住んでいる所で「手をつなぐ戦後世代の会」というのを始めた所です。 戦後世代の人間もあの戦争の被害者であるアジアの人々に、 きちんと目を向けねばと思います。 それと私たちは、親の世代から受けた影響を語り合うこともなく生きてきたので、 思いを語れる場にしようと思っております。 参加者が少しでも心の内をさらけ出せるような、 そんな会にしたいと願っております。

(「ノーモア南京の会」ニュース第2号)」

『父の謝罪』その後

 前回書きましたように、 父の遺志は兄や伯父たちの反対で実現できないまま11年がたってしまいました。 ですが、その兄が一昨年亡くなり、今は息子が跡を継いでおります。 私のNHKへのTV出演をきっかけに、その甥に懸命に私の願いを伝えたところ、 賛成してくれました。 この春のことで、本当にうれしかったです。 今、どんな石にどう刻もうかと、あれこれ考えているところです。

(「ノーモア南京の会」ニュース第2号)」

父の謝罪の碑と私の課題

(「ノーモア南京の会」ニュース第5号)」

父のいた石門子への旅

(「ノーモア南京の会」ニュース第8号)」

 

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