「かわいそうなみっちゃん」

−−伯父のこと−−

父の語った戦争、語らなかった戦争 No.4

福島博子


「みっちゃんは、かわいそうだったよ」
今年77歳の私の母は、自分の兄=私の伯父を思い出すたびに、そう言います。

母は、関東大震災前の東京の文京区に生まれました。文京区というと大学もあり、 「徳川さんのお屋敷」もありましたが、同時に労働者の街でもありました。 「太陽のない街」で有名な印刷労働者の街で母たち兄弟は育ったのです。

母は、幼くして父親を亡くしていました。9人の子どもを残された祖母は、 借金に追われた生活の中で、宗教に縋り、 貧しいが上に更にその宗教にも搾り取られてますます貧しくなっていったようです。 そういう中で長兄がしっかりと下の兄弟を育てていったのです。 書生をしながら夜学に通い、ドイツ語を学び、インドネシア語を学び、 マルクスも学び、ラジオで聴くクラシック音楽を愛していた長兄は、 貧しいながらも労働者の未来と希望を母たち弟妹に語ってくれたそうです。

9人の兄弟姉妹はそれぞれに「赤がかって」成長しました。 もちろん天皇制の教育のもとでのことなので、 ラジオの戦争ニュースを聞きながら、 「日本がんばれ、日本負けるな」と言いながら、 一方でスターリングラードの攻防では「ソビエトがんばれ」と応援し、 スターリングラードでドイツが敗退すると「ソビエトが勝った。 ソ連が勝った」と兄弟でラジオを囲んで喜んだと聞いています。

そんな家庭の三男だったみっちゃんは、母にとっては優しい兄でもありました。 でも、みっちゃんは三男だったから、 「かわいそうに」何回も召集されねばならなかったのです。

昭和14(1939)年1月入営、 3月35師団歩兵第219連隊第7中隊に編入され、4月歩兵一等兵になり、 小樽港から中国塘沽(タンクー)港へ着いたのが28日、 上陸して河南省泳県、東明、満州へと転戦し、 昭和17(1942)年7月ようやく上等兵として除隊になったけれど、 再び、昭和19(1944)年、 野戦銃砲兵として応集され年末に召集解除になっています。 年金局でここまで調べてもらいましたが、それ以降は不明です。
(しかし、あらためてみっちゃんの足跡をたどってみると、 東史郎さんより年代は少し下りますが、 中国での戦闘の激しかったところを転々としていることが分かります。 どなたか35師団のことご存じの方がいたら、教えて下さい)

「かわいそうに、中国でひどいことをさせられたらしいんだよね」 と母は言います。
(そこでどんなことがあったのか、みっちゃんに私は聞いてみたいのです。 少し「赤がかって」しかも優しいみっちゃんが中国で 「貧しい労働者の兄弟である」中国の農民や兵士や、そして時には女性や老人、 子どもに何をしなければならなかったのか、何をしてしまったのか、 どんな気持ちでそうしていたのか・・・。)

上等兵となって除隊したみっちゃん。そして敗戦。
みっちゃんの人生は、その時、終わっていたのでしょうか。 戦争から帰ってきたみっちゃんは、廃人になってしまっていたのです。 もう人間でいたくなかったのかもっしれません。
「俺は、中国で人を殺したんだ」
まともに働くこともできなくなって、酒を浴びては、 そう叫ぶみっちゃんを家族はどう理解すればよかったのでしょう。 それから、軍人恩給だけを頼りに祖母といっしょに実家で暮らしていたのです。

やがてみっちゃんの妹である私の母は父と結婚し、私が生まれました。 いつもどてらを着てちゃぶ台の所に座っていた みっちゃんの記憶が私にもかすかに残っています。 何をしているのかもよく分からなかったけれど、 優しい人だったような覚えもあります。 貧しかった中で私に初節句の雛人形として藤娘を買ってくれたのも みっちゃんだったということを何十年もたってから聞かされました。

しかし、みっちゃんの記憶はぷっつりと消えてしまいます。 なぜなら、ある日、みっちゃんは出ていって戻って来なかったからです。 それは、私が小学校低学年の頃のことでした。 みっちゃんはいなくなり、家族の中でもみっちゃんの話題は出てきませんでした。 触れてはいけないことだったのかもしれません。

そのみっちゃんがひょっこりと記憶の中から跳び出してきたのは、 それから30年ほどたって昭和も押し迫ったある年、 台東区山谷の福祉事務所から母に連絡が入ったからでした。
「山谷でみっちゃんが行き倒れになって保護された」
「みっちゃんってだれ?」
母の話を聞いて、ようやくあのどてら姿の伯父さんの姿が蘇ってきたのです。 とてもショックでした。 すでに私は結婚して夫婦とも東京都の教員としてそれなりの暮らしもしていました。 昔は貧しかった母も、今では、 精力的な働き者で世話好きの父と安定した年金生活を送っています。 それなのに、何故、母の兄であるみっちゃんが山谷で行き倒れに・・・と。

母が病院を訪ねると、 「家族に迷惑をかけてはいけないと、家をとびだした」こと 「山谷で暮らすうちに軍人恩給の手帳もだれかにだまし取られた」こと 「また迷惑かけるからと病気になっても連絡もとらなかった」こと等・・・ 話してくれたそうです。

私はとうとう生きているみっちゃんには会えませんでした。 親戚でちょっと集まったぐらいで みっちゃんはひっそりと都立霊園に送られていきました。 戦争の中で人生を見失った人は、 ずっと昔に死んだ人のように見送られたのでした。 66歳で死んだ「かわいそうなみっちゃん」は遺骨もボロボロだったそうです。 昭和59年、 みっちゃんが戦地から帰ってきてちょうど40年目の師走のことでした。 そうしてわが家の昭和は終わりました。

私はその後、 三宅島でみっちゃんと同じような目にあって 納屋で首吊り自殺した方の話を耳にしました。 また岡山でもそういう人の話を聞きました。 「かわいそうなみっちゃん」はあちこちにたくさんいるのだ ということが分かってきました。

戦争が終わっても、人間は、何十年もの間、 自分のしたことに苦しみながら生きてきたのです。 だからこそ語ることもならず、表にもだせなかったのです。 表に出るのは威勢のいい話ばかりです。 そうして、苦しんできた人々の死とともに昭和が終わり 一番責任をとらなければならなかった元凶は 責任を一切とることなく死んでいきました。

中国帰還者連絡会の方のお話を聴くにつれ、 みっちゃんも中国で戦犯として捕まっていれば収容所で反省の日々を送り、 きちんと責任をとり、心が救われていたかもしれないと思うのです。 そして、違う戦後を生きられたのかもしれない・・・。 みっちゃんはせめて責任をとりたかっただろうと思います。 許されはしなくとも、きちんと謝罪したかったではないでしょうか。

今となっては日本の国と天皇がアジアの人に謝罪し、償いをしなければ、 死んだみっちゃんたちに何ができるというのでしょう。 そして、やはり私は、 天皇と国家が兵士を召集し送り出したことにも謝罪してほしいのです。 「あなたたちを侵略戦争の先兵に使って申し訳なかった」 と謝ってもらいたいのです。 行きたくはなかったのだから、殺したくはなかったのだから。

まだ間に合うのです。まだ生きて苦しんでいる人はたくさんいるのです。 軍隊慰安婦の方、強制連行・徴用・召集された方、 三光作戦の犠牲になった方・・・お金もそうだけど、 心のケアが必要な方も沢山います。 たとえ取り返しがつかないことでも、まず謝罪をすることが、 その方々の気持ちを救う第一歩になるのではないでしょうか。

そして、絶対に侵略をしてはいけないと思うのです。 侵略とは、ハエや蚊を殺すようにして人間を平気で殺せるようになることです。 「かわいそうなみっちゃん」は平気にはなれなかったのです。 あなたは平気になれますか? 「かわいそうなみっちゃん」をもう生み出さないように、 侵略を許さない日本にしていきたいのです。 (1998.8.22)

 

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